第二部プルガトリオ #63

 たった一つのセミフォルテア爆弾で、例えば、ニュースタンリー州の主要地域を破壊し尽くすことが出来る。ビルディングは吹き飛ばされ、人間は消し炭になり、後に残されるものは荒れ果てた観念の残骸だけになる。それほどの破壊の力を、その上、たった一点に集中させるのだ。これがどんな威力を持つものなのか想像することさえ難しい。

 そんな攻撃を、そんな砲弾を、エレファントは、鮮烈なる勢いで連撃し始めた。絢爛、驕奢、壮麗、玲瓏。どのような言葉でも、その凄まじい光の乱打を描き出すことは出来ないだろう。アビサル・ガルーダの背後、全体に、一つの絶華が描き出される。怒涛のような閃光があらあらとものがれて、時間が、空間が、それらのものの根底的な基礎である情報が。遠い遠い残響のようにして、惨たらしまでに簒奪されるのだ。

 アビサル・ガルーダを爆発に次ぐ爆発が襲う。これほどの衝撃を爆発などというありきたりな名前で呼んでいいのかということは置いておいて頂くとして(ごめんなさいね)(これ以外の表現が思い付かないんです)(爆発は爆発だろ!)、エレファントは、一瞬たりとも途切れることなく砲撃を続ける。

 一つの衛星がエレファントの腕から発射されるたびに。胸が張り裂けそうなほどの華々しさによって「ハハハハッ!」という笑い声を上げながら、その射出口に新しい衛星が収まっていく。砲弾は切れることがない、サテライトとプレッシャーとが目まぐるしい速さで数限りなく作り出しているのだから。

 コップの中に。

 ストローを突っ込む。

 軽く咥えた口元。

 息を吹き込んで。

 ぶくぶくと。

 水面に。

 泡を、立てて。

 いるみたいな。

 それほどまでに。

 敢然としている。

 攻撃。

 攻撃。

 の。

 連続。

 一瞬たりとも体勢を立て直す機会を与えないつもりらしい。例え、この攻撃によって、大したダメージを与えることが出来なくても。要するに、アビサル・ガルーダをここに釘付けにしておければいいのだ。そう、エレファント達四人の目的は、決してアビサル・ガルーダを倒すことではない。作戦を成功させるために時間を稼ぐこと。勝利のために必要な、十分という時間を、作り出すこと。それこそが目的なのである。

 それでは、その十分という時間で……残りの一人、つまりカレントは、一体何をしているのか? ただ、それを見ていく前に、どうやらエレファント達四人にまた問題が起こってしまったようである。しかも、かなり差し迫った問題が。ということで、もう少しばかり物語の視点を動かさないでおこう。

 さて、その問題とは、いうまでもなくアビサル・ガルーダについてだ。アビサル・ガルーダは、次から次へと襲い掛かる砲撃について特に目立った反応は示していなかった。されるがまま、砲弾を叩きつけられるがまま。全身を前方へと傾けた姿勢、大地に突き刺したヴァジュラで体を支えているというだけだった。

 ただ、今、この時。何かが起こり始めていた。確かに、何か良くないことが起こり始めていた。もちろん、この「良くないこと」というのは五人のテロリストにとってnot goodなthingという意味であるが。それがなんであるか、具体的に知るためには……アビサル・ガルーダの背中に、視線を向ける必要がある。

 まあ、もともと視線はそこに向いてましたね。とにもかくにも、そこでは、どっかんばっかん忙しくセミフォルテア爆弾が爆発していたのであるが。あたかも、その絶華の花束を切り裂くみたいにして……ゆっくり、ゆっくり、と、何かが姿を現した。

 セミフォルテア爆弾の爆発さえも霞んでしまうような、燦々とした輝きを放つ何か。太陽、あの空に浮かんでいる神の卵にも比すべき、黄金の光を帯びたそれは……ああ、そうだ。それは、アビサル・ガルーダの羽だ。アビサル・ガルーダの背中に生えた二枚の羽が、今、羽搏きの前の準備をするかのように、広げられ始めたということだ。

 羽と羽とは、爆発の衝撃の中、甘美なまでの懶惰によってelectしていく。まずは、真っ直ぐに。太陽のみを指し示すために錬成されたところの、高貴なる、高潔なる、羅針がごとく、上の方に向かって突き立てられて。その後に、二枚の扇にも似た態度で広げられていく。

 それは。

 間違いなく。

 王の扇。

 寸分のずれもなく。

 そこに並べられた。

 一枚一枚の羽根が。

 絶対的な権力という。

 完全性の象徴であり。

 また。

 人間などには。

 触れることも。

 能わぬ。

 真聖にして不可侵なる。

 さんざめく黄金。

 燃え盛る、光輝。

 神にも。

 等しき。

 生き物。

 の。

 その翼。

 そして、翼は……とうとう、その全てが広げられた。三百ダブルキュビトを超える長さの、気高い、気高い、刃のような形をした器官。もしもその刃が剣であるのならば、洪龍の首さえ切り落とすことが出来るだろう。もしもその刃が槍であるのならば、土蜘蛛の外殻さえ貫けるに違いない。

 それほどの翼を広げて、アビサル・ガルーダは一体何をしようとしているのか? もちろん、反撃である。まるで、不愉快な寄生虫のように煩わしく、背中に纏わりついてくる連中。人間という下等な生命体を、払い飛ばそうとしているのだ。

 髪の中に紛れ込んだ小さな小さな虫を払うために、人間が腕を上げるということ。あたかもそれと同じようなことをしたという、ただそれだけの話なのだ。そのためには、アビサル・ガルーダは……たった一回、羽をはためかせるだけでいい。

 そう。

 たった一回だけ。

 その二枚の翼が。

 はため。

 い。

 た。

 今。

 この。

 瞬間。

 人間が。

 これが世界だと思っていた。

 全ての存在が。

 全ての概念が。

 レギナ。

 ハデス。

 スケア。

 あれあ。

 あれあ。

 あれああられる。

 言葉さえ。

 意味を。

 なさぬ。

 まま。

 全部の、形而が。

 吹っ飛んでいく。

 この表現で、きっと分かる方はすぐにぴんと来るであろうが……つまり、たった今起こったことは。アビサル・ガルーダが二枚の羽を羽搏かせることによって引き起こしたことは、戦慄型啓示振盪現象だった。

 戦慄とは、無論、観念の次元における理解不可能性・把握不可能性の一種である。教科書などにはよく「畏怖されるべき絶対性」などという分かったような分からないような書き方をされるが、要するに、それは「本質的な他者性」によって成り立つ危険な直観のことだ。ここでいう危険というのは、いうまでもなく、それを直感した者の観念的な構造が、その直感によってなんらかの毀損を受ける可能性があるということであるが。一方で、それは、非合理的であるという方法でのみ合理的でありうるところの一つの理解でもある。簡単にいえば、つまり、それはsignだ。

 戦慄型啓示振盪現象とは、そのようなsignによって、組み立てられた情報の根底にある法則が一時的に非臨在化するという現象だ。そもそもsignというものは宗教的な思惟・論理的な思考によって捉えられるものではなく、そういった「考え事」そのものの原型である。そういった「考え事」というのはsignを元にして映し出された断片的な鏡像に過ぎない。そして、そのsignそのものを振盪させることによって、それを映し出されていたところの鏡像全てを同時に不安定にすることが出来るということだ。このようにして現実の全体が一時的に曖昧・朦朧になる。

 そしてアビサル・ガルーダは、そこに、一気に、聖なる観念を叩き込んだのだ。もともと脆弱になっていた情報の構成が、これによって、途端に吹き飛ばされてしまって。結果としてどうなったかといえば……アビサルガルーダの周囲、半径にして約一エレフキュビト程度の範囲が完全に浄化されてしまった。文字通り、あらゆるものが情報の屑となって、観念の混沌の中に飲み込まれて消えていってしまったのである。

 アビサル・ガルーダは。

 たった一匹。

 巨大なクレーターの中に。

 何食わぬ様子で。

 ただ立っていて。

 その周囲に。

 先ほどまで攻撃していた。

 エレファント達の、姿は。

 もう、どこにもない。

 これで、寄生虫は。

 追い払えたという。

 ことである。

 それでは、その寄生虫はどこに行ったのか。というか、この戦場にいるアビサル・ガルーダ以外の生き物はどうなったのか。その一人一人について確認していってみよう。まずは……ぜーんぜん全く、なんの心配もないけれど、一応はデニーちゃんについて見てみようね。デニーちゃんは、それと真昼ちゃんは。傷一つなかったし、それどころか、一ハーフディギトたりとて吹き飛ばされてはいなかった。相変わらず、真昼ちゃんは幼児の死体で出来た椅子の上に座っていたし、デニーちゃんはパシュパティのタパスをその姿勢として、玉座の上に浮かんでいた。

 玉座の周り、何もない空間からどろりとしたものが滴り落ちている。それは、あらゆる感覚を吸い込んで、丸ごと飲み込んでしまうような、そんな真っ黒な光であって。とはいっても反生命の原理ではない。それとは全く異なるもの、アサイラム・フィールドと呼ばれるものだ。例えば標の杖を震わせた時などに発生する境界性を持った場であって、これが様々な種類の周波数に触れることで状態変化し、(あくまでも疑似的に)液体になったり気体になったり固体になったりすることによって結界となるのである。

 つまりデニーは玉座の周りに予め結界を張っていたということだ。結界というか、その結界のもととなるフィールドを張っておいて、玉座に対して敵対的な干渉がなされた時に、その干渉に反応して瞬時にフィールドが結界化するようにしておいたのである。このようなシステムをいつの間に構築したのかは不明であるが、恐らくはアビサル・マジックを使った時に、それに付随する防衛システムとして自動的に起動したものだろう。これほど強力な防衛システムは、五人のテロリストに対してはあまりに過剰だ。

 そう、その結界は、なんといってもアビサル・ガルーダの起こした突風さえも防ぐことが出来たのだから。もともとアサイラム・フィールドには様々な種類のものがあって、デニーが使っているこれは、恐らく、デニー自身のオルタナティヴ・ファクトを現実共振の状態にして、それを心身延長結界的に展開したものだと思われるが。なんにせよ、これほど強力な結界が張り巡らされている以上は、五人のテロリストが玉座に近付くことなんて無理無理財閥お家騒動だろう。ということは、五人のテロリストから真昼に近付くのはまず不可能ということである。もしも真昼を手に入れたいというのならば……何か、他の方法でなければいけない。

 さて、それはそれとして、次はカレントだ。カレントは他の四人とは違ってアビサル・ガルーダ足止め隊に加わることなく地上に残っていたが、とはいえ、やはり、アビサル・ガルーダから半径一エレフキュビトの範囲内にいた。具体的には大体四百ダブルキュビト強離れたところにいて、一エレフキュビトは五百ダブルキュビトだから、その距離は確かにぎりぎりではあったが。

 それではカレントは形而の断片となって風に吹かれてどこへともなく消えてしまったのか? ちなみに、先ほどから出ているこの「形而」という単語だが、「形而上」「形而下」という時の「形而」の部分を抜き出した言葉で、実際の意味としては「形の」といった程度の、名詞と接続詞とを一セットにした大して意味のない言葉なのだが。なぜか知らないが共通語においてはphusisの代わりの言葉として使われることが多い。なんでなんだろうね? 形だけだと意味が広過ぎるからかな?

 いや、まあ、それはいいんだけど。とにかくカレントは……消えてしまったというわけではなかった。それどころか、あの突風をやはり無傷でやり過ごすことが出来ていた。なんでそんなことが出来たのかといえば、それはサテライトがめちゃくちゃ頑張ったからである。

 カレントに視線を移してみよう。といっても、今はまだ見ることが出来ない。なぜというに、カレントは、全身がサテライトの衛星によって覆われていたからだ。カレントを押し潰してしまいそうなくらい、カレントの周囲には、サテライトの衛星が山盛りになっている。

 周囲に浮かんでいた衛星のほとんど全てがカレントのことを包み込むために集積していて、その数は百を軽く超えている。といううか、超えていた。今となっては……残っているのは、十を数える程度だ。その他の衛星は、皆が皆、突風によって掻き消されてしまった。

 それでも。いくら百を超える数の、というか数百という数の衛星が重なり合ってシェルターを作っていたのだとしても。あれほどの突風を耐えるのは普通であったら不可能であったはずだ。何万何億という数の衛星であっても、それがただ単に人間の肉体の紛い物であったのならば、あの突風は容易く消滅させていただろう。ただ……それらの衛星は単なる肉の塊ではなかった。つまり、プレッシャーによって、内側に魔学的エネルギーを凝縮されていたのだ。そのおかげで、観念の振盪を、一定程度ではあるが中和することが出来たのである。

 今……衛星が、ぼろぼろと、剥がれ落ちていく。当然のことではあるが、その十かそこらの衛星も、放射された戦慄に耐えることが出来ず死んでしまっていたのだ。そして、その内側から二つの人影が出てくる。一つはもちろんカレントで、そのカレントのことを庇うように抱き締めているのはサテライトだった。

 カレントは、先ほどまでと全く同じような姿勢で突っ立っている。つまり、モニター画面を玉座に向けたままでということだ。一方で、そのカレントにしがみ付いているサテライトは……欠けていた。具体的にいえば、頭部の一部、右目から鼻にかけて、そこから後頭部へと至る三分の一程度が吹き飛んで。そこから焼け焦げたような脳髄が露出してしまっていた。

 また、それだけではなく右腕も、肘から先がごっそりとなくなっていた。たぶんであるが、顔が焼けるのを防ごうとして咄嗟に庇ったせいだろう。なんにせよ……つまり、サテライトは、カレントを守るということを優先したあまり、自分が逃げるのがほんの少し遅れてしまったのである。カレントを守っていた衛星の山に突っ込むのがほんの少し遅れたせいで、完全に突風から逃げ切ることが出来なかったのだ。

 とはいえ、この程度の傷はサテライトにとってはどうってことはない。ここまで一兆回は書いてきたことであるが、そんな書いてねぇよ、とにかくサテライトはフィーリング・ファクター持ちなのだ。脳の一部が欠損したくらいの傷はすぐに治る。それよりも……カレントだ。カレントはどうなのか。

 カレントに抱き着いて。

 力が全然入らない首。

 肩の上に顎を載せて。

 傾いた頭蓋骨の中から。

 したしたと。

 脳脊髄液を。

 滴らせながら。

 サテライトが。

 口を開く。

「ごぎ、がぎぎょぶぶが。」

 喉の奥に詰まった脳味噌のせいで気持ち悪いぼこぼことした音しか出せていないが、これは要するに「おい、大丈夫か」と言っているのだった。そして、そう言った直後に、脳味噌が気管の入っちゃいけないところに入ったのだろう。それはもう烈々たる勢いで咳をし始めた。その咳のせいで、サテライトの口からはサテライトの脳味噌がそこら中に撒き散らされて。その一部がカレントの服にもかかってしまう。

 先ほども書いたように、カレントには傷一つなかった。完全に、守られたのだ。そして、そのカレントは……モニター画面だけは玉座の方に向けたままで。既に死んだようにして自分の体に凭れ掛かっているサテライトに向かって。「お前……仮にも命懸けでお前のことを助けた相手だぞ?」「もう少し心配するとかなんとかしろよ!」「それでも人か!?」と問い掛けたくなるような口調、全くの社交辞令とでもいったような口調で、こう言う。

「はい大丈夫ですよ、あなたのおかげです。」

「ぞでゃ、よがっだ。」

 喉に詰まった脳味噌が吐き出されたせいでちょっとばかり聞き取れるようになってきましたね。とにかく、サテライトはそう言うと、ぐらぐらとして全然定まらない首、頭をゆらゆらとして揺らつかせながら。ずるりん、とでもいう感じにカレントから離れた。既に肉体の再生は始まっているようで、右手の辺り、それに頭部の辺り、衛星を生み出す時と全く同じような感じでぼこぼこと泡立っていた。

 カレントが、そんなサテライトに向かって、やっぱりなんの感情も込められていない声、明らかにコミュニケーションの円滑化以外の何ものも目的としていない声で「あなたは大丈夫ですか?」と問い掛ける。サテライトはそれに対して「うるぜえよ」と答えながら、ふわりと宙に浮かび上がった。

 未だに頭蓋骨は塞がっていないが、それでも、なんとか新しく出来上がった右目。その右目によって、まるで睨み付けているかのように見下ろしながら(といっても別に敵意があるとかムカついているとかいうわけではなくこれがサテライトのデフォルトなのだ)、カレントに向かって、続ける。

「ぎどのじんばいなんがじでねぇで。」

 恐らく。

 サテライト、なりの。

 照れ隠しなのだろう。

「でめぇわでめぇのじごどをじでりゃいいんだ。」

 それから。

 ふいっという感じで。

 振り返りもしないで。

 飛び去ってしまう。

 サテライトほど褒められ慣れていないと、カレントが今したような誠実さの欠片もない感謝の言葉でも嬉しさのあまり照れ照れしてしまうのだろう。それはそれとして、サテライトがどこに向かって飛んで行ったのかといえば、アビサル・ガルーダとの戦いの場、エレファント達がいるところだ。

 それでは、とうとう、そのエレファント達がどうなったかということを見ていこう。エレファントとレジスタンスとプレッシャーと。結論からいえば、もちろんのこと無事だったのだが。とはいえ、どのように無事だったのかということ、その具体的なところを見ていくつもりである。

 といっても、予想を超えるようなことは何も起きていない。レジスタンスが大量の抵抗力を放出して、それをプレッシャーが圧縮して繭のような形にした。三人とも、その中で無事だったというだけのことだ。ただ、時計甲虫のうちの何匹かが、緊急避難が間に合わず吹っ飛ばされてしまったが。それでも、戦闘に十分なくらいの数は残っている。

 今、その繭は……突風が吹き荒んだ範囲の外に吹っ飛んでしまっていた。アビサル・ガルーダから随分と離れたところ、数エレフキュビトのところに吹っ飛んで。岩肌の上に、隕石でも落ちてきたような跡、深々と抉り取りながら、ごろんと転がっていた。繭を形作っていた抵抗力は、そのほとんどが消耗してしまっていて。中が透けて見えるくらいになっている。ところどころには穴が開いているところさえあるくらいだ。

 サテライト。

 凄まじいスピードで飛んできて。

 その、すぐ上のところに来ると。

 叫び声、こう問い掛ける。

「おい! おい! てめぇら、大丈夫かよ!」

 そもそもお前が大丈夫なのかよって感じだが、サテライトはもうすっかり大丈夫だった。つまり頭も腕も治っていたということだ。まあ、元通りになったとしても、元々のサテライトの頭が「大丈夫」なのかどうかというのはちょっと微妙な問題だが……少なくとも、怪我は治っていた。

 一方で、エレファント達はどうなのかというと。サテライトの言葉がちょうど終わったくらいのタイミングで、とうとう、ぎりぎりのところで保たれていた繭がぱんっと割れた。それから内部にいた三人の姿が現われ……なかった。

 なぜというに、繭の中に入っていたのは金属で出来た卵型の球体だったからだ。いわれなくても分かると思うが、これはエレファントが体内の生起金属を展開した防壁であって。三人の体を保護するように包み込んでいたのだった。

 もしも、エレファントがこのように赤イヴェール合金を展開していなかったら。抵抗力が破れたところから突風が入り込んで、中にいた三人は致命的なダメージを受けていたところだ。まあ、なんにせよ……繭が弾けるとともに、生起金属も溶け出し始めた。ぐずぐずと溶解した赤い泥濘の中から、まずは二人の姿が排出される。レジスタンスとプレッシャーとだ。

 プレッシャーは、もう少しで溺れてしまうところだったとでもいうかのように、じたばたと足掻くみたいにして金属から這い出してきた。それから、ぜーはーぜーはーと勢い良く肺の中に空気を掻き集め始める。一方で、転がり出るようにして金属から脱出したレジスタンスは。それよりはもう少し余裕がありはしたが。とはいえ、荒々しい呼吸、肩で息をしていた。当たり前のことではあるが、エレファントは、この球体を作り出す時に、中に空気を取り込んでいる暇などなかったらしい。

 そんな風にして二人が抜け出た後の金属のティンガロー結晶体は、ずるりずるりと引き摺るようにして一か所に集まってくる。引き潮のように引いていくその中から、胎盤から羽化してくる胎児のごとく現れてきたのは、もちろんエレファントだ。手も足も溶けてしまい、服も剥ぎ取られたままの姿。肩から先が壊れてしまったマネキンが、泥土の中に投げ捨てられたかのような有様のままで、その姿を現すと。べたべたになった金属がべったりとくっつき、次第次第に「エレファント」のドミナス・マスカを形作り始めているその顔、すーっと大きく息を吸い込んだ。その後で、ふーっと大きく息を吐き出す。

 それから、マスクの奥の目を。

 ちらりとサテライトに向けて。

 こう言葉する。

「ああ、まだ死んではいない。」

 それを聞いて、サテライトは、ほんの一瞬だけ、はふーっという感じ、胸を撫で下ろしたような顔をしたが。その次の瞬間にはいつものあの顔に戻って、それから、いかにもわざとらしく、ちっと舌打ちをした。エレファントに向かって「てめぇってやつは、本当に癇に障る言い方しか出来ねぇんだな」と言う。本人としては、自分が安心したような雰囲気を出してしまったことを誤魔化しているつもりなのだろう。

 エレファントの肉体の周りで泥溜まりのような物を作っていた生起金属が、徐々に足の形を作っていって、徐々に腕の形を作っていって。全身を覆うことによって、衣服の姿を取り始める。出来上がった手のひらをついて起き上がり、出来上がった足の裏で大地を踏み締めて。そして、しっかりとした赤イヴェール合金の鎧に、赤イヴェール合金のドミナス・マスカも出来上がる……エレファントは、ようやく完全な状態に戻る。

 その頃には、レジスタンスとプレッシャーとも落ち着いてきて。これで戦場にいる生き物、その全員の安全が確かめられたというわけだ。これは朗報であるが、とはいえ……さして意味がある朗報というわけではない。特に、五人のテロリスト達にとっては、今の状況はほとんど絶望的状況であるのだから。アビサル・ガルーダが、たった一回羽搏いただけでこれほどのダメージを受けたのである。体から払い落とされた蟻、手のひらで弾き飛ばされた蠅。今の、五人のテロリストは、それと似たようなものなのだ。

 いや。

 それよりも。

 もっと。

 もっと。

 暗澹たる。

 シチュエーション。

 「それで」サテライトが、口の端を捻じ曲げて歯を剥き出しにした、憎々しげな表情を浮かべながら言った。その後で、背後の方、遠く遠く離れた場所に見えているアビサル・ガルーダの姿を。背中越し、肩越し、ぎっと突き立てるような親指で指し示しながら「どうすんだよ」と問い掛けた。問い掛けた先はいうまでもなくエレファントだ。そして、そのエレファントはというと……考え込む様子もなく、思い悩んだ顔も見せず。あくまでも無感情に首を動かして、近くにいたプレッシャーに顔を向ける。

「プレッシャー。」

「痛ててて……あっ、すんません! なんすか姐さん?」

「今の戦慄型啓示振盪現象だが、どの程度減圧出来る。」

「へ? せんりつがた?」

「お前の力で、今の攻撃をどの程度弱めることが出来る。」

「ああ、そういうことっすね!」

 プレッシャーはそう言うと、視線をちらりと動かした。その方向は、遥か彼方、まるで何かの見間違いか何かのようにして小さい小さいカレントの姿が見えている方向だった。それからエレファントに「えーと、ちょっと待って下さい」と言うと、その胡麻粒だかなんだかのようなカレントの姿に集中し始めた。

 独り言のように呟く。「カル、カル! お前さ、今の話聞いてた? は? そうそう、そのせんりつがたなんとかってやつ。え? ああ、よし、読み取れたんだな。それで……イッエース、送ってちょーだい。あーっと、ちょっと待てよ。これがこうなって……あー、はいはい。分かった分かった」。

 もちろん、プレッシャーは、ブリッツクリーク三兄弟の間のリンクを使ってカレントと会話をしていたわけなのだが。本来的には、このリンクにおいては、このように言葉によって考えを伝える必要はない。ブリッツクリーク三兄弟の間で思考と思考とが直接的に繋がるという形なので、わざわざそれを言語化する必要はないのである。

 とはいえ、プレッシャーは、何かと……なんというか……粗雑というか、がさつというか、そういう性格なので。こういう風に言葉にして伝えてしまうことが多い。言語に頼った思考の方が慣れているので、こっちの方が自分の中で考えをまとめやすいということだ。更に、そういう言葉を声に出して喋ってしまうということも多いのだ。

 なんにせよ。

 カレントとの会話を終えたプレッシャーは。

 またエレファントの方を向いて、こう言う。

「なんとかいけそうっす。」

「人体に影響がない程度に弱めることが出来るということか。」

「やー、やー。そこまでは無理っすよ。ちょっとした火傷みたいなんは諦めて下さい。ただ、少なくとも死にはしません。それに、やばい感じの後遺症も残んないと思います。」

「分かった。」

 それからエレファントはアビサル・ガルーダに視線を移した。攻撃を仕掛けてくる様子もなく、それどころかこちらに向かって移動してくる気配もない。ただただ巨大な彫像、空っぽに作られた金の偶像か何かのようにして突っ立っているだけだ。

 どうも今のところ、アビサル・ガルーダには、というかデニーには、自分からアクションを起こそうというつもりはないらしかった。なぜなのかは分からないが、たぶん、この「お遊び」を出来るだけ長いこと楽しもうということなのだろう。もしもアビサル・ガルーダに全力を出させてしまったら。間違いなく、五人のテロリストは、一秒もしないうちに、跡形もなく消え去ってしまう。それでは、ぜーんぜん面白くないのだ。

 随分とまあ舐められたものだ。とはいえ、五人のテロリストにとっては……デニーのその油断こそが、計画を成功させるための、最も重要なファクターなのである。とにもかくにも、アビサル・ガルーダに視線を向けて。それから、その周囲の状況をざっと見回したエレファントは、プレッシャーに更に問い掛ける。

「フィールドは、どの程度広げられる。」

「ええー? どの程度って……減圧レベルをどんくらいにするかにもよるから……」

「フィールドを二重にする。まず、内側のフィールドは、レジスタンス、プレッシャー、カレント、それにハッピー・サテライトと私とを合わせた五人のそれぞれを包み込むための、個別的なバブル・フィールドだ。こちらのフィールドは最大限の保護を必要とする。一方で、外側のフィールドは、戦場の全体を覆う形にしたい。こちら側は、ハッピー・サテライトのアヴァターを保護するためのものだ。従って、そこまでの減圧は必要ない。せいぜい、ハッピーサテライトのアヴァターが破壊されない程度で構わない。この条件下において、外側のフィールドをどの程度広げることが出来る。」

「んー、まあ、二エレフか三エレフってとこですかね。」

「半径か、直径か。」

「半径っす。」

「分かった。」

 それから、エレファントは。

 その視線を、サテライトに。

 向けて。

 ただ。

 淡々と。

 こう。

 言う。

「理解したか。」

「はっ! さっさと始めようぜ。」

 サテライトは……また、自らの浮遊能力、それによって出すことが出来る最大限のスピードによって、アビサル・ガルーダが立っている方向に取って返した。それを見たプレッシャーは「あっ、姐さん! ちょっと待って!」「まだフィールド張ってねーっすから!」とかなんとか言いながら、ぱしゅっと空気の中に溶けて消えてしまう。自らの圧力をぎりぎりまで下げて、極力早く移動出来る状態になったということだ。

 そして、またもやその後に残されることとなった時計甲虫達であったが……そう、そこら中に飛び散っていた時計甲虫達は、例の突風を避けるために一時的にプレッシャーの体内に避難していたのだ……それらの時計甲虫達も、サテライトとプレッシャーとを追うようにその場から飛び立った。

 しかし、全ての時計甲虫が同じ方向に飛び立ったというわけではない。全体として一つの方向に飛んでいったというのは確かであったが。それぞれの時計甲虫が、それぞれの定められた、別々の座標上の点に向かっていたのだ。一つの方向とは、もちろん、アビサル・ガルーダがいる場所であったのだが。その場所を中心として、半径二エレフキュビトくらいの円を描いて、その円上のところどころに時計甲虫が配置されていく。

 そして、その図形が完成し、境界線が閉じるとともに……どこからともなくプレッシャーの声が聞こえてくる。大気に紛れてしまうほどに薄れた肉体で、プレッシャーは、それでもこう叫んだのだ。「ギーッシュ、アンド、バラッパ!」。最初の「ギーッシュ」はサテライトの衛星達に魔学的エネルギーを集中させるもので。次の「バラッパ」はアビサル・ガルーダが突風を巻き起こした時に威力を削ぎ落とすためのものだ。

 じりりりりりりりりんっという目覚ましの音。一匹の時計甲虫が、入力されたプレッシャーの能力を何倍にも増幅して。そして、二匹目の時計甲虫が、それを更に何倍にも増幅する。三匹目、四匹目、五匹目。そのようにして、円上にいる時計甲虫達が、プレッシャーの能力を何倍の何倍の何倍の……気が遠くなるほどの絶大に倍増させていく。こうして膨れ上がった能力が境界線の内側にフィールドとして展開するのである。

 サテライトの肉体は、まるで気が狂った肉の弾丸みたいに、そのフィールドに突っ込んでいく。その弾丸は、ぼこぼこと泡立っていて……大量の衛星を、誰も喜ばないプレゼントのようにして、次々と吐き出している。

 吐き出された衛星達は、カトゥルンの夜に常緑の針葉樹に飾り付けられる電飾みたいにして。ぱっぱっぱっと、次々に、どこか禍々しい悪夢みたいな光によって光り輝き始める。いうまでもないことであるが、内側に魔学的エネルギーが凝縮されたことによる光だ。「らああああああああああああっ!」の「ら」に濁点をつけたような叫び声を上げながら、アビサル・ガルーダの周りを飛び回るサテライト。あたかも一枚のカンバスの上、絵筆でめちゃくちゃに塗りたくっていくみたいにして……「オドラデク!」という暇もなく、そこら中がサテライトの衛星で一杯になる。

 ところで、エレファントと、その背中に乗せられたレジスタンスとは……走っていた。正確にいえば、レジスタンスはエレファントにしがみ付いていただけなので、実際に走っていたのはエレファントだけだったが。とにもかくにも、プレッシャーが自らの肉体を減圧するのと同じくらいのタイミングで、やはり、サテライトのことを追うように走り出していたのだ。

 エレファントは、その巨体からは想像出来ないほどの速度で駆けている。というか、その走り方は、駆けるというよりも、一歩一歩を踏み出すたびに、なんらかのバリスティック・デヴァイスによって射出されているかのようだった。

 典麗にして荘厳なる教会建築のごとき脚部の筋肉、赤イヴェール合金の金属線を束ねて作り出された打抜機のようなそれは、よく見ると一面に魔法円が刻まれていて。その魔法円によってエレファントの脚には魔法がかけられている。

 エレファントが大地を蹴るたびに、その魔法が、地面と足底との間に魔学的エネルギーの爆発を起こす。小規模なものではあるが、その爆発によって、エレファントの全身、一つの徹甲弾であるかのように跳ね飛ばされるということ。

 これくらいの魔法は大したものではない。「爆発」のコーモスのみで発動出来るタイプで、もしも敵に対する攻撃として使うならば、人間のような下等生物に怪我を負わせるくらいが八咫の神輿だろう。ただ、このように使用すれば、それはかなり有用なものとなる。たったの一歩が、爆発によって数ダブルキュビトの距離となって。大地を点々と抉り取りながら――どうでもいいけどここの大地抉り取られてばっかだな――エレファントは、発条仕掛けの玩具か何かのように跳ね跳ねていく。

 僅か数十秒でプレッシャーが作り出したフィールドの縁に到着して……ということは、その数十秒よりも前にプレッシャーはフィールドを作り出していたことになり、それはそれでめちゃくちゃな速さだな。なんにせよ、そのフィールドの中に突っ込む。それから、これまためちゃくちゃな速さによって既に用意されていたサテライトの衛星を踏み飛ばして。衛星から衛星を踏み継いでいって、またもや、アビサル・ガルーダと向き合うことが出来る高さ、そこに形作られていた衛星の足場までやってきた。

 さて。

 その。

 アビサル・ガルーダ。

 ですが。

 まるで自分に向かって噛みつこうとしている鼠達のこと、その一匹一匹が揃うまで待ち構えていた猫のようにして。いっちばーんたのしーいやり方で鼠達のことをいたぶろうとしているかのようにして、エレファントがその位置につくまで待っていた。

 あたかも「主砲」がエレファントであり、他のメンバーはその補佐に過ぎないということが分かっているかのように。というか実際に分かっているのだろうが、ただただエレファントだけに注意を向けていて……そして、エレファントがその位置につくまでの間に、その体の向きは、そちらの方向に向けられていた。そして、反生命に塗り潰された眼球が、象のドミナス・マスカと向き合うと……即座に、行動を起こした。

 まるで、ちょっとした刃先調べだとでもいうようにして羽を広げると。先ほどと同じように、それを一気に羽搏かせる。当然ながら、またもやアビサル・ガルーダを中心とした突風が吹き荒ぶが……今度は、エレファントの側にも対策がある。

 まずはプレッシャーが作り出したフィールドが突風の威力を弱める。更にそれだけではなかった。レジスタンスが、アビサル・ガルーダが羽を広げた瞬間に動いていたのだ。

 レジスタンスは、右手の甲に開いた穴から抵抗力を吐き出すと。それを手のひらの方に移動させてから、ぱしゅんっという感じ、勢いよく握り潰した。それからその手を開く。

 握り潰された瞬間に。あるいは、ぱっと勢いよく、四本の指が弾かれるみたいにして手のひらが開かれた瞬間に。液体にも似た性質を持つ錆びついた光は、粉々に砕かれて霧状になった。そして、その霧は周囲に散乱して、エレファントとレジスタンスとのこと、包み込んだのだ。

 ただでさえ弱まっていた突風は、その霧に阻まれることによって、ほぼ無力化されてしまう。とはいえ、仮にも鵬の羽搏きなのであって、さすがに完全に消え去ったというわけではなかった。レジスタンスは、全身が、焼け付くような痛みに襲われたのを感じる。体中を日焼けした翌日に熱水のシャワーを浴びたようなそんな感覚だ。とはいえ……その程度であった。エレファントが吹っ飛ばされるようなこともなく、防御は成功したということだ。

 これで。

 羽搏きは。

 もう。

 怖く。

 ない。

 ただ、そうはいっても……エレファントの側も、先ほどまでよりも不利になっているということは事実である。先ほどまでは、アビサル・ガルーダはヴァジュラを大地に突き刺してしまっていたし。それに、姿勢も素晴らしいとはいいがたいものだった。今のアビサル・ガルーダは完全な状態だ。

 一発一発のセミフォルテア爆弾ではほとんど効果がないだろうし、それを連発しても与えられるダメージはたかが知れている。それでは、どうすればいいのか?

 とんっと。

 レジスタンスが。

 エレファントの。

 背から。

 降りる。

 今から行われることの。

 邪魔を、しないように。

 そよ風程度にまで貶められた突風に吹かれながら、エレファントは、両方の腕を空の方向に向かって掲げた。手のひらをいっぱいに開いて、手首を内側に向けて。そして、ちょうど自分の頭上で右の手首と左の手首とを合わせる。すると手のひらは、あたかも頭上で花開くかのような形になる。

 そうしてからエレファントは再び両腕を変形させ始めた。無論、それは、エネルギー兵器のような形にするための変形であったが。ただし、今回のそれは先ほどまでの物とは少し違っていた。どこが違っていたのかといえば……今回のそれは、一つの大砲が二本の腕によって作られているのだ。

 一の腕と一の腕とがぴったりとくっつきあって、そのまま継ぎ目だけを残して一つの砲身となって。そして、その先にある手のひらは、右手と左手と、合計して十本の指先が、正十角形のそれぞれの頂点に配置されるみたいにして砲弾にエネルギーを集積するための装置になっていく。そうして、先ほどの、ちょうど二倍の大きさの大砲が出来上がる。

 そして、その方向に衛星が集まってくる。ただし、今度は、たった一つの衛星ではなく、幾つも幾つもの衛星が。一つ、二つ、三つ……合計して十を超える数の衛星が集まってきて、それぞれの肉体に噛みつきあって、一つの巨大な球体になる。

 エレファントは、あたかも捕食しようとしている食虫植物がごとき有様で指を開く。つまりエネルギーの焦点を拡大したということだ。ふわふわと浮かんでいる複合型砲弾は、砲口よりも少し上のところ、その焦点へと、ふわりと軽やかに飛び込んでいく。

 こうして大砲が……いや、巨砲が出来上がった。そして、いつの間にかエレファントの足も形を変えていた。両足の全ての指が、まるで鉤爪のように、あるいは手鉤の穂先のように、先端を鋭く尖らせた引っ掛けになっていたのだ。

 エレファントは、足場になっている衛星のこと、どずん、どずん、と踏み締めて。その引っ掛けを肉の内側に勢いよく突き刺した。突き刺した傷は、それが出来た瞬間から治癒し始めて。盛り上がった肉が引っ掛けを包み込んでいく。

 こうしてエレファントは。

 自分を、足場に固定した。

 ちょっとやそっとでは。

 動くことはないだろう。

 これで。

 準備は。

 終わりだ。

 アビサル・ガルーダが起こした風が、徐々に静まっていって。これほど弱められているにも拘わらず、なおも感覚を歪めてしまうほどの力、戦慄による世界の振盪が失われていく。すると、アビサル・ガルーダの視線の先には……歪みがなくなってはっきりと見通せるようになった空間の向こう側……今の攻撃によってほとんどダメージを受けていない、エレファントとレジスタンスとの姿が現れる。

 二人はほぼ無傷であるというだけではなかった。先ほどよりもずっとずっと巨大な砲弾が、まるで小型の太陽のようにして頭上に輝いていて。それから、エレファント、いつものように感情の一欠片さえ籠もっていない声で言う……「extolle。」

 巨大な神槌を振り下ろすかのような態度、エレファントは、巨砲の砲口の向きを叩き下ろした。いうまでもなくアビサル・ガルーダがいる方に向かってだ。砲弾は、その勢いによって吐き出されたかのようにして。とはいえ実際は、エレファントがエネルギーを解放したことによって、発射される。

 既に、衛星達は笑い声を上げることさえしていなかった。その肉とその骨と、内側、あまりにも凝縮されて、今にも弾けそうなくらいの魔学的エネルギーのせいだ。互いに互いのことを噛みついていない口は、がちがちと音を立てて噛み合わされていて。砲弾は、あたかも墜落しゆくレピュトスのような破滅によって、時間を、空間を、粉々に砕きながら切り裂いていく。

 ところで、エレファントは何も格好をつけるために「extolle」という言葉を口にしたわけではない。それをしたのには二つの理由がある。

 一つ目、これが呪文だということだ。ここまで巨大な魔学的エネルギーを使うとなると、どうしても砲身に刻まれた魔法円だけでは不足になってしまう。それを補うために、神々に対する讃美称讃、転じて「星を打ち上げる」という意味で使われるようになったホビット語「extollo」の命令形である「extolle」を、発射の呪文として使ったというわけである。

 そして、もう一つの理由は、隣にいるレジスタンスに砲弾を発射するタイミングを教えるということだ。ということで、レジスタンスは、この時まで溜めに溜めていた抵抗力、液体で出来た大蛇みたいにして全身に纏わりつかせていた錆びついた色の光を。エレファントの「extolle」という呪文に合わせて、砲弾が発射された方向に向かって一気に放出した。

 アビサル・ガルーダは……そういった、全てのことを、ただただじっと眺めていた。エレファントが砲弾を発射するのを止めようとしなかったばかりか、その砲弾に対するなんらかの防御の姿勢を取ろうとすることさえなかった。理由は、当然、その方が面白そうだからだ。デニーにとって、そっちの方が愉快なことになりそうだから。どうせアビサル・ガルーダはデニー自身ではない。アビサル・ガルーダがいかに傷付こうとも、デニーは痛くも痒くもない。それならば、弱くて愚かなホモ・サピエンスがガルーダのような生命体に対してどれほど無駄な抵抗をすることが出来るのか。それを見せて貰うのも、娯楽としてまあまあ悪くはない。

 虫けらが。

 無意味にのたうち回って。

 足掻く。

 足掻く。

 それはそれとして、砲弾は、先ほどと同じように、発射された次の瞬間には着弾していた。実際に移動したはずの空間的な距離も、時間的な距離も、なかったものにされて。あまりにも凄まじい力によって捻じ曲げられた現実、予め、その終着点に存在していたことになった。

 着弾した場所は、アビサル・ガルーダのまさに正面。胸部の真ん真ん中であった。スパルナの解剖学上の形態がどのようになっているのかということはよく知らないが、もしも外見と同じように、その内側も鳥類と似通ったものであるのならば。その心臓は、胸部の中心に位置しているはずであって……つまり、砲弾は、その真上にぶつけられたということだ。

 ちなみに、スパルナのような最高レベルの生命体には自分と同じ種の生き物の身体構造を解剖して記録しておこうという発想がない。それに、人間ごときが生物学的な解剖のためにスパルナを捕獲し殺害するということも、ほとんど起こり得ないことだ。ということで、恐らくではあるが、現在の世界においてスパルナの解剖記録というものはリュケイオンの死霊学部にしか存在しないだろう。無論、過去においては儒家も所有していたはずだが、そちらは間違いなく焚書にされている。

 まあ、それはそれとして。着弾した砲弾は、即座に抵抗力のシェルによって包み込まれて。そうして限定された方向に向かって炸裂する。はち切れそうになるくらいまで無理やり流し込まれていた魔学的エネルギー、連鎖的に世界それ自体をアディナトンにしていって。構造は、それが、所有、していた、はずの、可能的な、原理を、欠如していく。「それ」は「それ」であることが出来なくなり、自動的に消滅していく。それはあたかも燃えるものがなくなった火が消えていくかのような当然性。

 口のない者が。

 喝采出来るか?

 片手の者が。

 どうすれば。

 手を打ち鳴らすことが出来る?

 いや、世の中にはどんな変わり者がいないとも限らないので、片手でも全然拍手出来る人がいるかもしれないですけどね。でも、そういう場合ってどんな音が鳴るんですかね? それはきっと可能性ではなく創造と構築との問題になってくるのだろう。それは明らかに脱創造・脱構築ではあり得ない、なぜならば、あらゆる法則及び無法則は真実による真実化の結果として現われてくるからである。混沌には無作為な意味しかなく、そのようなものに音は生まれ得ない。混沌の中で片手を打ち鳴らしたとしても、結局のところ、そこには恣意的な方向性しか発生し得ないのだ。とにもかくにも、一般的には、アディナミア状態になった何かしらは「それ」であるにも拘わらず「それ」ではない何かになってしまう。

 エネルギーではないエネルギー。

 ただただ崩れていくという現象。

 それが。

 全て。

 アビサル・ガルーダの。

 心臓に向かって。

 叩きつけられる。

 だーかーらー、そこに心臓があるかどうか分かんねぇっつってんだろ! まあ、仮にそこに心臓があると仮定して。セミフォルテア爆弾の衝撃は、その胸の上に撃ち込まれた。人間至上主義的な考え方しか出来なくなってしまった人々には分かりにくいことかもしれないが、心臓というのは、生命体の「動き」の中心的象徴としての意味を果たしている。心臓の鼓動とは最も原初的な形の記号の一つであり、それは、呪文や聖句や、そういったものと同じような効果を持っているのだ。だから心臓に対してダメージを受けると、生命体は、時に、「動き」に重大なダメージを負うことになる。

 その爆発は……先ほどのセミフォルテア爆弾とは比べ物にならないくらいの威力であった。さすがに、セミフォルテア爆弾に対するアルケー爆弾ほどというわけにはいかなかったが。それでも、ただただ砲弾の大きさが大きくなったその分だけ威力が増したという、そういう程度のものではなかった。

 なぜなら今回のそれは、今までのそれとは、全く異なった性質を持ったものだからである。今までのそれは、ただ単に、不可能的であった欠除をエネルゲイア化しただけの話であるが。今回のそれは、エンテレケイアに関することだからである。

 先ほどまでのアディナトン反応は、所詮は転化の途中における現実でしかなかった。だが、今起こったこのアディナトン反応は、まさに終極においての、テロスとしての不可能だということだ。要するに、これは小規模な「世界の終わり」だ。

 これは非常に専門的な話になってきてしまうし、基本的な詩学さえも学んでいないと理解するのが難しいかもしれないが。ハチャメチャに簡単にいえば、衛星一個分の観念では、破滅を生み出すための「過程」の全てを終わらせることが出来なかったということだ。今回の砲弾に詰め込まれた大量の観念を、いわば燃料として燃焼させることによって、初めてその「過程」を終わらせて、完全な破滅を生み出すことが出来たということである。

 なんにせよ、それだけの力の氾濫・怒涛を、一点に集中して浴びせ掛けられたアビサル・ガルーダは。さすがにnothing important happened todayとはいかなかったようだ……起こる、起こる……それが起こる……どくん、という巨大な動揺が外部から襲い掛かる。心臓が刻み続けていた記号が破綻して、その破綻が全身の「動き」の中を駆け巡る。ゆらりと肉体の軸が傾いた、倒れそうになる肉体を、右手に持っていたヴァジュラによってなんとか支える。アビサル・ガルーダの嘴が開き、喉の奥、胃の腑の底から、咆哮が溢れ出る。その咆哮は、一匹の生命体の鳴き声であるとは思えないほどの絶対的な音であった。いや、音でさえない。一つの宇宙が破裂する時、音さえも音でなくなった虚無の中に響き渡るような、純粋な「力」の暴走。アビサル・ガルーダは、そんな声で叫んだのだ。口の端から反生命が溢れ出て、そこら中に雨のように降り注ぐ。ごぽごぽと音を立てて、全身の傷口から反生命がこぼれる。

 そして。

 アビサル・ガルーダの。

 黄金に輝く翼。

 そこから。

 一枚の。

 羽根が。

 あまりの衝撃のゆえに。

 ひらり、と抜け落ちる。

 天空と大地との間。

 まるで。

 甚大な。

 損傷の。

 証明の。

 ように。

 揺らめき。

 漂う。

「わーお!」

 思わずといった感じ、デニーが声を上げた。まさか、たかがホモ・サピエンスが、対神兵器さえ使うことなくスパルナの羽根を落とすことが出来るなんて。いかにスペキエースとはいえなかなか起こりがたいことである。もちろん、デニーちゃんはとーっても賢いので、そういうことがあるということは予想の範囲内ではあったが、それでも意外なことは意外なのだ。

 ただ、それでも……羽一枚、落ちただけである。そのダメージは生命に、というか反生命に別状があるものではない。揺らいだ体の軸は、ヴァジュラの支えによってすぐさま整えられて。ヴァジュラを持っていない方の手で胸の辺りを押さえて、心臓の鼓動、「動き」の記号をなんとか通常の状態に戻そうとしつつも、アビサル・ガルーダは未だ立っているままだ。

 存在が揺らぎ概念が震える激痛に叫び声を上げはしたが、それでも膝を屈することさえなかった。アビサル・ガルーダの膝的部分は人間とは逆の方向についているので膝を屈する時の姿勢はちょっとへんてこりんなものになってしまうのだが、とにかく、倒れそうになるほどのダメージではなかった。人間であれば、腹を思いっきりぶん殴られたという程度のダメージ、腹を抱えて叫びはするが、その場に蹲ってしまうほどではないダメージ。つまり、この一発だけならば、アビサル・ガルーダに対する致命傷にはなり得ないということだ……そう、この一発だけならば。

 デニーが。

 フードの奥で。

 軽く。

 首を。

 傾げる。

「ふふふっ! みんな、思ってたよりもぜーんぜん強いね! んー、デニーちゃん的にはもーちょっと遊んでたかったんだけど……今の、どかーんっていうの、あんまりたくさんどかーんどかーんってされちゃうと、さすがのスパルナでも、ちょーっとだけ大変ってなっちゃうかも。ほえほえーって感じ! どうしようかなー、どうしようかなー。」

 それから。

 右の手のひら。

 入力側の。

 インターフェースに。

 繋がっている器官を。

 さらりと動かして。

 こう言う。

「ちょーっとだけ、本気出しちゃおっかなっ!」

 その刹那。

 アビサル・ガルーダの動き。

 明確に。

 変わる。

 たった今、この瞬間までの「立てば捨て駒座ればくぐつ動く姿はテラコッタ」といった感じの挙措は消えて失せて。まさに生きている生き物、フレッシュミートのしなやかさ・なめらかさ。そして、あたかも自らの意思で動いているかのような自然によって動作をし始めた。

 今までの木偶人形じみた行動というのは、何もかも、様子見でしかなかったということだ。ろくに動かなかったのも、一つ一つの攻撃が連続しない断片的なものでしかなかったのも。そういった行動によって、相手の攻撃能力・防御能力の大体のところを測っていたのである。

 そして、様子見は、もうお終いだ。

 これからは、本格的な攻撃になる。

 ヴァジュラによる斬撃、エレファントに向かって横薙ぎに叩きつけられる雷霆。天地がひっくり返って、雲の上に乗っかっていた雷が全部おっこってきたかのような凄まじい雷撃。もちろん、カレントはその斬撃がきたる未来へと至る流れを読んでいたのだが……とはいえ、この世界には、それが起こるということを完全に理解していながらも、それでも、対応出来ないことがある。

 どういうことかといえば、斬撃は一度だけではなかったということだ。まずは一度目の斬撃、セミフォルテアの槍先がエレファントのことを襲う。その直前に、レジスタンスはエレファントの背に飛び乗って、エレファントの目の前に抵抗力のシールドを展開していたのだが。一度目の斬撃がそのシールドを叩き破った瞬間、既に二度目の斬撃がエレファントに襲い掛かっていたのだ。

 しかも、思い出して欲しい。ヴァジュラの槍先はセミフォルテアのそれだけではなく、オルフォルテアのそれもあったということを。アビサル・ガルーダは、セミフォルテアの槍先がシールドによって防がれるとともに。その勢いによって全身を反転させて、背中越しに、今度はオルフォルテアの方の槍先を叩き込んだ。

 もちろん、レジスタンスは、その二撃目についても抵抗力によってシールドするが。とはいえ……そのシールドは、先ほどのシールドよりも、全然簡単に破られてしまう。先ほどのシールドが煉瓦塀くらいの防御力があったとすれば、今回のそれはせいぜいがベニヤ板程度だろう。

 ヴァジュラの一撃、それは、この宇宙全体を流れているエネルギーの奔流を無理やりに引き出して、その上スパルナの膂力によって振り下ろすというものである。それほどの攻撃を……ジェネラル・タイプの抵抗力によって防御出来るはずがない。ということで、レジスタンスは、このような攻撃を防ぐ際にはそれ専用に抵抗力をアレンジメントしているのだ。つまり、カレントが読み取った攻撃の流れ、エネルギーの周波数に従って。その周波数に一点特化した抵抗力を作り出しているのである。

 一方で、ヴァジュラの中心、オリジン・ポイントから漏出している槍先には二種類ある。セミフォルテアとオルフォルテアとだ。このことはサテライトさえも知っていることなので、この世界にはそれを知らないという生命体は一匹もいないということは、明らかに明らかであるが。セミフォルテアとは神力のことであり、オルフォルテアとは統一力のことである。サテライトにも分かるようにいうとすれば、前者は魔学的エネルギーの親玉であり、後者は科学的エネルギーの親玉だということだ。

 つまり、んなこたいうまでもねぇことであるが、種類が違うのだ。この二つのエネルギーは、その周波数について、かすっけらほども重なる部分がないのである。ちなみにここでいう周波数とは比喩的な表現であって、本来は必然関係数と呼んだ方がいいのであるが、こっちの方が分かりやすいかなーと思って周波数を使っています。親切だね! とにかく、それぞれの槍先を防ぐためにはそれぞれ別の種類の抵抗力を作らなければいけないのである。

 基本的に抵抗力の性質は体内で生産する時に決定される。今までは、一撃一撃の攻撃が、全て魔学的エネルギーによる攻撃だったし。それにセミフォルテア爆弾のシェルについても、まあいってしまえば魔学的エネルギーのすごいやつだ。似たような性質の抵抗力を生産して、それぞれを微調整するだけで済んだ。予め、カレントの未来予測に従って、大量の抵抗力を作っておくことが出来たのだ。だが、今回のように、セミフォルテアによる攻撃の直後にオルフォルテアの攻撃が加えられてしまうと……セミフォルテアのシールドを作った直後に、切り替えてオルフォルテアのシールドを作らなくてはいけなくなる。当然ながら、生産出来る抵抗力の量が圧倒的に少なくなってしまうのだ。その結果として、シールドは脆くなってしまう。

 しかも。

 しかも。

 アビサル・ガルーダの攻撃は。

 それで終わらない。

 なんとか二撃目を防いだエレファントに、更に三撃目が放たれる。しかも、今度は、またセミフォルテアによるものだ。背中越しの攻撃が弾かれるとともに、弾かれるといってもシールド自体は完全に破壊されたのだが、とにもかくにも、アビサル・ガルーダはヴァジュラを手放した。その時に、シールドの反射による衝撃と、手首のスナップによって、ヴァジュラは跳ね飛ばされて。頭上まで飛んだところで、アビサル・ガルーダは、今度は左手によってそれを捕まえた。そして、体の向きを更にもう半回転させて、エレファントがいる方向に完全に向き合うようになってから、その回転の遠心力を使って、ヴァジュラの槍先を突っ込ませる。

 こりゃ、もう、たまったもんじゃありませんて。アビサル・ガルーダの動きは、一種の舞踏であった。一筋一筋の筋肉が、あたかも完全に調和した合唱のようにして荒々しく閃いて。骨が無数のアクシスとして機能する、全てが、全てが、一つの目的に対する絶対的な忠誠に満ち溢れた歓喜。全然違う、もう一度いうが、先ほどまでのアビサル・ガルーダとは全然違うのだ。

 三撃目を防いだところで、四撃目、五撃目、六撃目が襲う。上から、下から、左から、右から、あらゆる方向から槍先が叩き込まれ、薙ぎ払い、突き抜く。そして、それらの全ての攻撃が、セミフォルテアとオルフォルテアと、交互に放たれるのである。

 このままでは。

 どうしようも。

 ない。

 確かに、シールドによって、その攻撃がエレファントにまで届くということはなかった。とはいえ、シールドは、攻撃をほんの一瞬防ぐので精一杯であったのだ。せめて一秒でも持ってくれるのであれば、移動する前に、一匹の衛星によって作られた一発の砲弾を放つことが出来ただろう。一発でどうにかなるものではないかもしれないが、そういう一発を積み重ねていくことで、徐々に徐々にアビサル・ガルーダの体の軸を崩していって。最後の最後にはちょっとした隙を作ることが出来るかもしれない。

 しかし、その一秒さえエレファントには与えられないのだ。シールドは、攻撃を避けるその刹那を作り出すことしか出来ない。今のエレファントは、衛星から衛星を飛び継いで、攻撃から逃げていくことしか出来ない。

 上から来た攻撃を避けるために地上へと落下していき、下から来た攻撃を躱すためにどこまでもどこまでも衛星を蹴っていく。右から来た攻撃を飛び越えて、左から来た攻撃をくぐり抜ける。プレッシャーがフィールドを展開している範囲内ではあるが、その隅から隅まで、逃げる、逃げる、逃げる。逃げる以上のことをする余裕などない。このままでは……いずれは、消耗して、攻撃から逃げ切れなくなるのが落ちだ。

 この状況、どうにか。

 しなくてはいけない。

 エレファント。

 策はあるのか。

 もちろん。

 ある。

「エレファント。」

「終わったか。」

「うん。」

「展開しろ。」

 と。

 エレファントの指示を受けるとともに。

 レジスタンスが、その言葉を口ずさむ。

「muta。」

 そういえば、ここで誤解がないようにいっておいた方がいいかもしれないが。アーガミパータにおいてまあまあ長いこと生き延びることが出来ている「戦力」であれば、ほぼ確実になんらかの魔法を使うことが出来る。もちろん、どこかの魔大で教わるような本格的なものではないが。今までエレファントが使っていたような、いわゆる傭兵魔法のたぐいを使えるようになるものなのだ。

 エレファントとサテライトとが破壊と殺戮との限りを繰り広げたあの国内避難民キャンプ、そこにグローバル・ジスルルーが派遣した傭兵達は使えなかったかもしれないが。それはアーガミパータという土地に来て間もなかったからである。暫くの間、この土地で生きていけば。その「生きる」ということをなんとか続けていくために、自然と、魔法の一つ二つは覚えるのだ。

 サテライトは例外中の例外であり、普通の「戦力」は、サテライトほどの馬鹿ではない。それを使っているシーンがこの物語に出てこなかったというだけで、ダコイティ達もちょっとした魔法なら使えたし。なんなら、ジュットゥなんかは、そこら辺の魔学者よりも実践面においては優れていたくらいである。そして、ブリッツクリーク三兄弟も……レジスタンスも。エレファントほどの知識があるというわけではないが、とにかく魔法を使えるのだ。

 そして、まさに今、その魔法を使ったというわけである。「muta」は「mutare」というホビット語の命令形であり、その意味は「変化せよ」。ちなみに普通の人間であれば呪文だけで魔法を使うなんてほぼほぼ不可能に近いことであるが。ただ、今回は……実は、レジスタンスがしがみ付いていたエレファントの背中に、ある仕掛けがしてあった。

 レジスタンスの体に隠れて見えなかったが、そこには魔力強化の魔法円が浮かび上がっていたのだ。その魔法円が、エレファントの赤イヴェール合金に注ぎ込まれた魔学的エネルギーを使って、レジスタンスの魔力を強化していたのである。また、発動時に必要な精神力に関しても、頭の中に撃ち込まれている抵抗力によって集中力の統御に邪魔になる雑念を排除出来るため、ある程度のレベルは確保することが出来ていた。

 その結果として、レジスタンスは、呪文だけであってもかなり大規模な魔法を使うことが出来たのである。さて、それでは……その魔法とは、一体どういうものであったのか? 「変化せよ」という命令。その命令は、一体何者に宛てられたものだったのか?

 それは。

 これから。

 起こること。

 見ていれば。

 分かる。

 レジスタンスの言葉が、消え残る残響のようにして戦場に響き渡って。震えるような魔法の力が、ある種の影響として拡散・散乱していく。そして、その次の瞬間に、エレファントとレジスタンスと、二人の姿が、すうっと薄れていった。

 薄れただけではない。そのまま薄れていって、最後の最後には完全に消えてしまった。完全にというのは文字通りの意味であり、視覚的に消えただけではなく、科学的な感覚であるか魔学的な感覚であるかを問わず一切の感覚によって捉えられなくなってしまったのだ。また、二人が消えた後には。その周囲に浮かんで「ハハハハッ!」という相変わらずの笑い声を上げていた衛星達も、その笑い声ごと消え始めた。

 二人がいた場所を中心として。

 日が落ちた後の世界に。

 夜の闇が広がっていくかのように。

 戦場を満たしていた。

 全ての衛星達の姿が。

 消えていく。

 消えていく。

 消えていく。

 思い出して欲しい、ブリッツクリーク三兄弟が初めて登場した時のことを。ブリッツクリーク三兄弟は、別にどこかからやってきたわけではなく最初からそこにいた。ただ単に、あらゆる感覚によって捉えることが出来なかっただけだ。レジスタンスの抵抗力が、迷彩として、あらゆる感覚を遮っていた。つまり、たった今起こったこともそれと同じことだったのだ。レジスタンスの抵抗力によって。アビサル・ガルーダの感覚が、エレファントやレジスタンスや、衛星達に到達することを遮ってしまったのである。

 レジスタンスがしたことを最初から順を追って書くとすれば、以下のようになる。まず、ヴァジュラによる攻撃を防ぐためにシールドとして使った抵抗力、それがヴァジュラによって粉々に砕かれたものをそこら中に撒き散らす。そして、霧状になった抵抗力が戦場の全体にいき渡ったところで、魔法によって、その抵抗の性質を変化させる。そう、先ほど抵抗力の性質がレジスタンスの体内で決定されるということを書いた時にわざわざ「基本的に」と書いたのは、こういう例外があるからだったのだ。抵抗力の性質は、攻撃を妨害するものから感覚を妨害するものへと変わって。抵抗力が付着していたあらゆるものが消えていったということだ。

 つまるところ。

 レジスタンスの命令は。

 自らが産み出した。

 抵抗力に。

 宛てられた。

 ものだった。

 感覚への抵抗は攻撃全般に対する抵抗よりも遥かに容易である。なぜなら攻撃とは異なり感覚というものはその対象を破壊しようとはしないからである。純粋な感覚によって抵抗力が取り除かれてしまうことはまずあり得ないことだ。ということは、なんの感覚を遮断すればいいのかということさえ理解していれば、どれほど高等な生き物を相手にしていたとしても、迷彩を作るのはさほど難しいことではない。

 それこそデニーがブリッツクリーク三兄弟のことを見つけることが出来なかったように……そう、例え、王レベルの生き物が相手であったとしても。カレントが読み取った感覚の流れさえ封じてしまえば、その前から何かを完全に隠してしまうということ、不可能ではないのである。

 そんなわけで、アビサル・ガルーダの前からは敵対していた相手の姿が消え去ってしまった。そしてその姿は、人間という生き物のあまりにも不完全な感覚だけではなく、スパルナの感覚、ほとんどあらゆる種類の外部刺激を感じ取れるはずのそれでも見つけることは出来なかった。

 見えなければ。

 探せなければ。

 一体。

 何に対して。

 攻撃すれば。

 いいのか?

「わあ、みんな消えちゃった!」

 もう全然他人事みたいな口調でデニーが言った。びっくりした様子も困った様子もさらさらなかったが、とはいえそこにいるテロリスト達の存在を感覚によって捉えられないということは間違いないようだ。

 先ほどまで究極プロミネンスもかくやという勢いで斬撃と突撃とを繰り出していたアビサル・ガルーダ、エレファントが消える直前に繰り出した一発を最後に、またしてもぴたりと動かなくなってしまった。

 究極プロミネンスって何? 究極のプロミネンスのことだ! そして、アビサル・ガルーダは、自らのあらゆる神経を集中して周囲の状況を走査し始めたらしい。身体の動きは完全に停止していたが、それでも感覚器官は、凄まじい勢いで、消えてしまったものの姿を探しているようだ。

 だが、それでも見つからないものは見つからない。徒に、ただただ時間だけが過ぎ去っていく。何も、何も、見えない。何も、何も、聞こえない。不安と緊張と、それに首の周りに巻き付いた毒蛇のような不気味さが、戦場のあらゆるところに停滞していて……それから、そのことが起こる。

 本当に、なんの前触れもなく。唐突に、突然に、アビサル・ガルーダの背中で爆発が起こった。いうまでもなく、それはただの爆発ではなかった。先ほどアビサル・ガルーダに絶叫の声を起こさせたものと同じ種類の爆発。たくさんの衛星達をまとめて一つの砲弾として撃ち込んだ、完全なセミフォルテア爆弾の爆発だ。

 アビサル・ガルーダは、空間と空間とが引き裂かれ断層を起こしたような、壮絶な悲鳴を上げながらも。それでも、手に持っていたヴァジュラ、その砲弾が発射されたと思しき辺りを薙ぎ払った。だが……手ごたえのようなものは全くない。

 一度だけではなく、二度、三度。何度も何度もヴァジュラによって切り裂いていく。何もない空間、とはいえ、そちらにエレファントがいるかもしれない空間。手当たり次第にヴァジュラを叩きつけていく。それでも何事も起こらなかった。

 当然といえば当然のことだ、向こうだってなんの策もなくアビサル・ガルーダの攻撃を避けているというわけではない。カレントが未来の流れを読むことによって、攻撃のほとんどの軌跡は分かっているのだ。これが、アビサル・ガルーダの感覚が働いているというのならば。未来を読んで避けられた攻撃、そうして変わった未来の間隙を突くことによって、なんとか相手の裏をかくことも出来たのだが。こちらが何も見えなければどうともしようがない。

 それでも、闇を切ろうとしているかのように、雲を裂こうとしているかのように、アビサル・ガルーダは攻撃を続けていくが……やがて、その脇腹で、二発目の砲弾が爆発する。どうも、エレファントはよほど用心をしているらしい。もしも、砲弾が、毎回毎回同じ場所に当たるのならば。そのパターンを読むことによって、次の攻撃がどこから来るのかということを予測することも出来るだろう。だが、このように変えられてしまってはそれも不可能だ。

 とにもかくにも、またもやアビサル・ガルーダは苦痛に叫び悶えながらも。エレファントがいるかもしれない方に向かって無意味な攻撃を続ける。その間に、エレファントは、三発目、四発目、五発目。砲弾を、正確に、精確に、その上、無慈悲に。アビサル・ガルーダに着弾させ続けていく。

 このままでは……まだまだ、この程度では死にはしないだろうが。それに、死んだとしても、壊れてしまった肉体と精神との構造をまた使えるくらいに直して、そこに反生命を注ぎ込んで生き返らせればいいだけの話なのだが。それでも、やはり、このままではよろしくない。アビサル・ガルーダの重要な部品が駄目になってしまわないとも限らないし。そうなったら、せっかくの愉快なおもちゃが台無しになってしまう。

「うーん、どーしよー……」

 デニー。

 デニー。

 子猫が喉を鳴らすように。

 くすくすと、笑いながら。

 こう言う。

「デニーちゃん、とーっても困ったぞ!」

 それから……暫くの間、我慢していたようだったけれど。やがて、柘榴の実がぽんっと弾けるみたいにして、大きな口を開けて笑い始めた。「ははっ、ははははっ!」「たーのしーっ!」とかなんとか、いかにも面白そうに笑う。そうそう、こうでなくっちゃ。すぐに死んでしまっては面白くない。そんな簡単に終わってしまってはつまらない。遊びというのは、こちら側の思い通りにならないようなことが起こって初めて、予測不可能なことに対する生理的反応としての興奮・快感を得ることが出来るのである。

 まあ、なんにしたところで。要は、デニーは、この状況に対して一切の危機感を抱いていなかったということだ。それはそうだろう。なんといっても、デニーは、アビサル・ガルーダの能力の全てを使っているわけではないのだから。確かに様子見はもうお終いにしたのだが、とはいえ全力を使っているというわけではない。たかがレベル6のスペキエースにスパルナの全力を使う必要はないし、それに、もしも全力を出してしまったら、そもそもこの星系そのものが完全に消滅してしまうだろう。

 最低限の能力しか、使っていないのだ。

 まだまだ出来ることはいくらでもある。

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