第二部プルガトリオ #62

 これこそ。

 デニーが。

 真昼の人間性を。

 その対価として。

 贖った。

 兵器。

「クソが……」

 サテライトが、不運にも捕食者に出会ってしまった野獣、淘汰の摂理を呪うかのような声で吐き捨てた。とはいえ、五人のテロリストにとって幸いだったことは……この五人のテロリストのうち、まともな恐怖の感情を持っている者など一人もいないということだ。レジスタンスは恐怖を遮断してしまっているし、プレッシャーはなんだかんだいって修羅場慣れしている。カレントは完全なサイコパス(ソシオパス?)で、エレファントは感情を抑圧するすべを学んでいる。そして、サテライトはサテライトだ。

 確かに、サテライトとプレッシャーとは、若干ではあるが追い詰められた獣のような感情を示した。だが、エレファントには、そのような脆弱さは一切なかった。あくまでも、冷酷なまでの冷静さによって状況を分析し続けていて。そして、スパルナの咆哮が終わるとともに、すぐさま口を開く。「カレント」「はい」「見えるか?」「はい」「状況の報告を」「良くないですね、しかし悪いというわけでもない」「つまり、プランCであれば、まだ任務の遂行は可能だということか」「ええ、まあ」。

 そこに、プレッシャーが口を挟む。「ちょ……姐さん!?」「なんだ、プレッシャー」「なんだも何も、まだ作戦続けるつもりなんすか?」「可能性がある限りは続ける」「可能性って……カレント、その可能性ってやつはどんくらいなんだよ!」「百のパターンをサンプリングして検討しましたが、そのうち成功するパターンは二でした」「ほら、二パーセントっすよ!」「十分だ」。

 エレファント&サテライトとは何度か作戦をともにしていて、エレファントという人間についてはそれなりに経験しているので。プレッシャーは、その「十分だ」の口調で十分に理解した。これ以上は何を言っても無駄だということを。そして、今のような状況下では、もちろん無駄な口論をしている時間などないのだ。「レジスタンスとカレントに何かあったら、遠慮なく作戦から抜けさせて頂くっすからね」とかなんとか言いながらも、それ以上の抗議をすることはなかった。

 エレファントとカレントとは、更に続ける。「ダウンロードはどれくらい進んでる」「なかなか具体的な数字を挙げるのは難しいんですが、五十パーセントくらいですかね」「半分ということか」「それくらいです」「残り時間も半分程度ということか」「いえ、そう単純な話ではないですね」「それでは、あとどれくらいかかる」「まあ……大体、十分もあれば終わります」「それまで時間を稼げということだな」「そういうことになりますね」「分かった」。これで終わりだ。話すべきことは全て話し終えた。

 そして。

 それを。

 計った。

 ように。

「お話は。」

 それまでの。

 会話の方向。

 とは。

 全く違う方向から。

 声が聞こえてきた。

「終わったかなあ?」

「ああ、終わった。」

 てれてれと、甘い唾液を滴らせるようにして反生命の原理を滴らせているデニーに向かって、エレファントはそう答えた。デニーは、左手を胸の辺りに置いて、右手を上の方に掲げるという、あのポーズをしたままであったが――アーガミパータでは支配者の姿勢であるとされるポーズだ――ただ、右の手のひらだけ、その形を少しばかり変化させ始めていた。

 形というか、動きというか。デニーの右の手のひらは、まるで己の手先を弄んでいるかのようにして、くるくるとくるめき、ひらひらとひらめいたのだ。指と指と柔らかく結び合わせたり、折り曲げた指を重ねたり。これは、要するに、ムドラーと呼ばれる印相であった。このムドラーによって、サプタラトナに対しての入力を操作しているのである。

 それから、手のひらの動きに合わせて、まるでキーボードにコードを入力されたコンピューターみたいにして、出力側の四つの宝石が動作する。血管のように空間に張り巡らされた網の中、どくどくと脈動が伝わっていって。網目と網目と、その内側に、なんらかの種類の情報が映し出される。それらの情報は、図形でも数字でもなく、魔学的な周波数を平面的に表現したところの一種の動的不均衡性記号であった。

 ちなみに動的不均衡性記号は魔学のベーシック中のベーシックなので、よほどのフーリッシュでもない限りは知らないということもあるまいから、いちいち詳説するようなことはしないが。まあ、世の中にはどれほど愚かな生き物(例、サテライト)がいるともしれないので、念のために簡単に書いておくとすると、潜在的関係者の恣意的な介入によって随時に意味に変更が加えられる言語のことである。これ以上のことを知りたい方がいらっしゃったら、サンダル・ブックスの『詩学基礎』でも読んで下さい。

 なんにせよ、ムドラーによって入力がなされた。そして、その入力の目的とは、要するにスパルナを思い通りに動かすことである。従って、それが起こったのだ……デニーが手を動かすとともに、スパルナもまた動き出し始めた。長い長い腕が、ふるりと揺らいで。まるで獲物を飲み込もうとする大蛇のように、上に向かって、厳々と、豪々と、差し上げられる。

 その奇妙に長い腕は、一つの真聖な儀式のような荘重さによってスパルナ自身の背中に回されて。それから……そこに突き刺さっていた、例の槍のような物、四趾の手のひらがぐっと掴んだ。自らの背に深々と突き刺さったその武器を、スパルナは、顔色一つ変えることなく、痛み一つ・苦しみ一つ覚えた様子もなく、ただただ機械的な手つきで引き抜いていく。

 その武器。

 引き抜かれていくごとに。

 傷口からは、腐り切った音を立てながら。

 反生命の原理が勢いよく溢れ出していき。

 そして。

 やがて。

 その武器は。

 完全に引き抜かれた。

「もう、やり残したことはなあい?」

「ああ。」

「大切な人にさよならした?」

「大切な人は、皆ここにいる。」

「まだ出会っていない、素敵なものはない?」

「この世界に素敵なものはない。」

「しなきゃいけないお祈りはした?」

「私達は何も信じていない。」

「生きることの喜び、じゅーぶんに味わった?」

「生きることは苦しみだ。」

「何か、どーしてもやりたかったこと、ない?」

「ない。」

「なんにもないの?」

「ない。」

「大丈夫?」

「ああ。」

「本当に?」

「ああ。」

「本当の本当に?」

「ああ。」

 それは、実は槍ではなかった。剣でもなく鉾でもなく、もちろん矢のような物でもない。それは、ヴァジュラと呼ばれる神々の武器であった。

 ぱっと見たところ、この世界における神羅万象の全てを閉じ込めているかのような、小型の宇宙のような球体が中心になっていて。その上からはセミフォルテアの力が、その下からはオルフォルテアの力が、それぞれ、あたかも天上より地下を貫く雷霆のごとく突き出している。そして、その力の部分が、光り輝く槍のように見えている。

 この中心にある球体が、実際に、世界に満ち満ちているあらゆるエネルギーのオリジン・ポイントと結び付いているのであって。そこから、魔学的な力と科学的な力と、それぞれを無理やり引き出しているのである。つまり、このヴァジュラから突き出しているところの二つの力は、ほとんど無限に湧き出てくるエネルギーの奔流なのだ。

 スパルナは……いや、もう、こういった範囲の広い言葉を使うのはやめよう。というか、「これ」はもうスパルナではない。スパルナと呼ばれる、正生命ではなくなってしまったのだ。反生命によって操作される生き物、そう、「これ」は、要するに、アビサル・ガルーダ。

 アビサル・ガルーダは。

 そのヴァジュラを。

 右手に掴んだまま。

 ゆっくりと。

 ゆっくりと。

 あらゆるものを破滅のうちに押し流した。

 サンダルキアの洪水、の、ように、して。

 体の向きを。

 変えていく。

 反生命。

 の。

 眼球。

 その眼球に、映し出された。

 あらゆるものが死を迎える。

 眼球。

 が。

 ただ。

 ただ。

 機械じみた。

 数式じみた。

 無感情に。

 よって。

 ああ。

 そう。

 一つ。

 二つ。

 の。

 黒い。

 球体。

 が。

 遂に。

 遂に。

 今。

 五人のテロリストを。

 見た。

「じゃ、殺すね!」

 プレッシャーからしてみれば、まだ全然やり残したこといっぱいあるし、こんなクソみたいな毎日から抜け出して何かおいしいもの食べたり楽しいことしたりで毎日ハッピーラッキーきらきらシャインに暮らしていきたい(具体的には兄弟三人で南の島に移住して海の底に眠っている海賊のお宝を探しながら過ごすのだ)とかもう常々のづねに思っていたりするので。エレファントの意見には本当に全く同意出来なかったし、極言すると「お願いだから殺さないでくれ~」という感じなのだが。とはいえ、そういうことを言ってこの場の雰囲気を壊してしまうのもあれだし、それに何よりパロットシングのことがある。あの人のことだけは、絶対に、許すことが出来ない。ということで、プレッシャーも特に口を挟んだりすることなく。ここからとうとう対アビサル・ガルーダ戦が始まるというわけなのだが……その前に、そのアビサル・ガルーダについて少しばかり話しておいた方がいいかもしれない。

 確かにここから、この物語の中ではまあまあそこそこ盛り上がらないわけではないところのバトルシーンが始まるのであって。その前に、このような解説パートを挟んでしまうというのは、テンションダダ下がりというか、ちょっと構成上よろしくないのではないかと思われるかもしれないが。とはいえ、ちょうどきりがいい感じのとこってここにしかなかったんですよね。

 まあ、別に、全く解説しなくてもいいっつったらいいんですけど、とはいえ、アビサル・マジックって、ほら、共同管理法則じゃないですか。死霊学部の生徒でもこれについてきちんと知ってる人ってあんまりいないくらいのアレだから。やっぱさ、なんも書かないっていうのはちょっと不親切だと思うのよね。だから、こう、ぱぱって済ませるから。ほんと必要なことだけ。

 それに、仮にですよ、ここまで読んで下さった読者の皆さんがいたとして。そういう読者の皆さんってさ、もう慣れてるでしょ。クソ長い解説パート。だから、そんな気にしないと思うんですよね。まあ、そんなわけで、アビサル・ガルーダについて解説していきます。すぐ終わるから、すぐ終わるから。大丈夫。まあ、最悪の最悪、読み飛ばして下さっても、そこまで重要な解説じゃないんでね。はい、じゃあ始めます。

 アビサル・ガルーダの、ガルーダの部分については説明する必要はないだろう。これには特別な意味はない。ごくごく普通に、このスパルナが、スパルナの中でもガルーダ一族に所属しているということを示すだけである。問題なのはアビサルの部分だ。

 このアビサルという単語は、ご想像の通り汎用トラヴィール語の単語であって、イージー・パンピュリアン・ゲバルではabyssalと書く。abyssという名詞を形容詞化した単語であり、もともとのabyssはパンピュリア語のabussosを語源としている。

 そして、abussosが意味するのは「底なしの深淵」だ。つまり、アビサル・ガルーダとは「底なしの深淵より蘇ったガルーダ」を意味する言葉なのだ。いや、あるいは……もっと単純に、「アビサル・マジックによってこの世界に呼び戻されたガルーダ」。

 アビサル・マジック。第二次神人間大戦後の人間至上主義諸国においてこの魔学的法則の名前を知る者は少ないだろう。なぜならこの魔学的法則は、ハテグ=クラ全階層契約の中に、「締約集団が共同して管理すべき法則」、つまり共同管理法則として記載されているものだからだ。リリヒアント第九階層からリリヒアント第一階層までのあらゆる神学者・巫学者・魔学者・科学者が集まって行われたハテグ=クラ全階層法則学会。その会議の中で、この世界で二番目に危険な法則のうちの一つとされた法則。

 いや、そもそも、このような決定がなされる前から。この法則についての知識を持っている者は少なかった。死霊学者の中でも一握りの者にしか教えられることはなく、これを使ったことがある者となれば更にその数は少なくなる。死霊学者に限ればその数は僅かに二人。リュケイオンの創立時から死霊学部学部長であるゾシマ・ザ・エルダーと、それにご存じデニーちゃんだけである。死霊学者という限定を取り払ったとしても、それどころか、この世界のあらゆる知的生命体を含めたとしても、この法則を使ったことがある者の数はわずか八に過ぎない。

 この法則は、分類上は死霊学の魔学的法則とされているが、実際は魔学的法則でさえなく巫学的法則なのである。なぜなら、これは、魔学的エネルギーに関する法則ではなくジュノスに関する法則だからだ。この世の三大原理のうちの一つ、生命の原理たるジュノス。これに関する学問を巫学という。ただし、このアビサル・マジックが発見された当時は、未だニコライ・サフチェンコが巫学を体系化しておらず、それゆえ便宜的に死霊学に分類された。

 アビサル・マジックに関する歴史は混乱しており、よく分かっていない。そもそも、これは兎魔学者が発見したものではないという説さえあるくらいだ。これはリュケイオンではなく、月光国における混合法則学の研究所である謎野研究所、その前身たる藍蟇神社において発見された法則であるというのだ。そして、その発見が、第二次神人間大戦前の一時期、謎野研究所で客員研究員として身を寄せていたニコライ・サフチェンコへと伝わり、巫学の体系化に繋がったというのである。俄かには信じられない話だが、とはいえ絶対にあり得ないというわけでもない。

 何がいいたいのかといえば、アビサル・マジックは、別に西洋魔学的なやり方でなくても使うことが出来るということだ。例えば、今回、ガルーダを蘇らせるにあたって。デニーは、いかにもアーガミパータ的なやり方でそれをした。一部分にアーガミパータにおける象徴体系を利用し、一部分にアーガミパータにおける記号形式を利用し、ニルグランタ的な方法でアビサル・マジックの「支配」の部分を発動した。

 別にこのやり方ではなくても、西洋魔学的なやり方でも東洋魔学的なやり方でも出来たのである。ただ……ここがアーガミパータであって。こういった体系・形式を利用した方が、アーガミパータという土地全体のhiketesが共有している共同幻想により適合した魔法になり、スムーズに法則を適用することが出来るようになるため、あくまでも便宜的にアーガミパータ魔法的なやり方をしたというだけの話である。つまり、このようなアーガミパータ的なやり方はアビサル・マジックのエッセンシャルな要素ではないのだ。それでは、アビサル・マジックの本質とは何か。

 それは、基本的には二つの部分に分かれている。「死者のabyss-form化」の部分と「支配」の部分とである。このうち、より重要なのは、いうまでもなく「死者のabyss-form化」の方である。「支配」は、あくまでもアビサル・マジックを実用化するにあたっての付属的要素に過ぎない。

 abyss-formとは、生命体を意味するlife-formの対義語であり、共通語に直すとするのであれば反生命体ということになるだろう。少し前にも書いたことであるが、いわゆるジュノスと呼びならわされている原理は、正生命の原理と反生命の原理と、この二つに分けることが出来る。簡単にいうのであれば、正生命の原理によってジュノサイズされたものがlife-formであり、反生命の原理によってジュノサイズされたものがabyss-formだということだ。

 ちなみに、いかにも生命という単語の同義語のように使用されているスナイシャクであるが、これは実際には生命それ自体ではなく、生命を生命として有らしめるエネルギーに過ぎない。そのため、ノスフェラトゥによってスナイシャクを飲み干された生き物であっても、そのまま死ぬことなく「雑種」に変化することがあるというわけだ。

 それはそれとして……当然のことであるが、この世界に生きている全ての生き物は正生命の原理によってジュノサイズされた存在・概念混成体である。というか、反生命の原理は、この世界において存在・概念混成体を作り出し得ないのだ。この世界が位置している世界線が拘束されているところの、いわゆる「摂理化された契約」のもとでは、反生命の原理は、その名前の通り、正生命の原理とは反対の効果をもたらす。つまり存在と概念とを分離させるのだ。もちろんこの分離は反生命の原理の絶対的な性質などではなく、特定の条件下でしか発生しない結果なのだが。とにもかくにも、この性質から反生命は反生命と名付けられた。

 ということで、反生命の原理は、基本的にはこの世界に存在していないのである。いや、「生命」に対して「存在」といういい方をするのは正確ではないのであって、この世界において生命化していないといった方がいいだろう。反生命の原理は、反生命の原理が生命化出来る世界線においてしか生命化し得ない。当たり前といえば当たり前なのだが、それゆえに、エドマンド・カーターのカバラーにおいては、反生命の原理は地下に覆い隠された根として描かれているのである。

 さて、ところで。唐突に話が変わってしまうが、死霊学におけるリビングデッドは生命体ではない。このことについては、もう少し後、サテライトに殺害された真昼がデニーによってリビングデッドとして蘇らされるシーンでもう少し踏み込んだ話をしようと思っているのだが。リビングデッドとは、あくまでも、被術者の死体内部に残された魄を魔学的な方法でプカプカトン錯乱状態にすることによって、死体に生命体らしい振る舞いをさせているだけのものなのだ。せいぜいが半分生きているといった程度のものに過ぎないのである。

 本当に死者を生き返らせようとするのならば、その死者の魂と魄とを結び付ける必要がある。だが死者の魂というものはジュノスの門の向こう側にある。「パンピュリアの三天使」のような特殊な例外がないわけではないのだが、とはいえ、ほとんどの場合において魂はジュノスへと還ってしまっているのだ。もちろん、死後にリリヒアント上層に観念上昇したりリリヒアント下層に観念下降したりするのも、魂魄の全体ではなく魄のみである。

 そして、もしもジュノスの門の向こう側にあるものをこの世界に戻そうとするのならば。その方法は二つしかない、ジュノスの門を通って取りに行くか、あるいは、スナイシャク特異点から引き出すかである。これは、なんというか、二つとも、まあ無理だ。前者の方法をとろうとすれば、ジュノスの門の門番であるヘルム・バーズをなんとかしなければいけない。そして、この世界には死神を欺くことが出来る者などいない。

 一方で、後者の方法をとろうとするならば。まずはスナイシャク特異点を探さなければいけない。しかもカーマ・デーヌのようなタイプのものでは目的を遂げることは不可能だ。真性特異点、いわゆる「生命の樹」と呼ばれるタイプのものでなければジュノスに到達することが出来ないからである。そして……まずは、この「生命の樹」を発見することが極めて難しい。更に、仮に発見出来たとしても、そこにはミヒルル・メルフィスがいるのである。ミヒルル・メルフィスは、なんか知らんけど(色々と理由はあるらしいが)「生命の樹」をそれぞれのswarmとして守り続けているのであって。要するに、高等知的生命体のswarmを全滅させない限りはそれを使うことは出来ないということなのである。そんなことが出来るのは、よほど強くよほど賢い者だけである。

 ということで、死者を生き返らせる、再生命化するなんていうことは、まずまずもって無理なのである。ただ……もしも。もしも、生命ではなく、反生命が使用出来るのならば。これは、少しばかり事情が変わってくる。

 反生命は、確かにこの世界が位置している世界線においては生命化していない。とはいえ、それは「反生命がこの世界の生き物に所属していない」ということを意味しているわけではない。ここから先はちょっとばかり複雑になってくるので理解しにくいかもしれないが……つまり、分かりやすいが正確ではない例えを使うとすれば、この世界の生き物は、それぞれがそれぞれの所有物であるところの、一枚の鏡の上に立っているのである。

 鏡の上にある実体が正生命であり、鏡の外の世界がこの世界だとするならば、足元の鏡像が反生命だということだ。鏡の中の世界は、この世界ではない別の世界なのであって。従って、そこでは反生命が生命化することが出来る。つまり、何がいいたいのかといえば、この世界で生命化したあらゆる生命には、その反作用としてポケットバースとなった反生命が付属しているということだ。そもそも正生命の原理と反生命の原理とは、それぞれの原理だけでは疑似虚偽性欠如態に過ぎないのであって。正生命があるところには、必ず、その対原理たる反生命があるものなのだ。

 正生命と反生命とがバランスを保つことによって、初めて存在と概念とが正常に混成するのである。そして、ここからが重要なことなのであるが……その反生命は、所属する生き物が死んだとしてもジュノスに還るということがない。このへんの仕組みはかなり複雑なのだが、全部ばばっと取っ払ってシンプルに説明するとすれば、反生命はそれ自体が自体化したところのポケットバースに閉じ込められてしまっているので、そこから外側に出られなくなってしまっているからだ、とでもいえばいいだろうか。ということで、もしもこの反生命を利用出来るのならば、わざわざジュノスの門の向こう側に行く必要がないのだ。

 ただ、一度書いたように、この世界線の「摂理化された契約」においては、反生命は生命化しえない。それどころか、この世界においてそれがそれとなった瞬間に、それはあらゆる何者かにとっての猛毒となるだろう。なぜなら、それは存在と概念とを分離させる一つのdoomsdayとして機能することになるからである。このようなものは、使えるか使えないか以前の問題として、そもそもこの世界にあることさえも危険なのだ。

 こんな超超超超スーパーハイパー危険なものを使うよりは、リビングデッドで我慢しておいた方がぜーんぜんマシなのである。ただ、とはいえ……リビングデッドにも限界がないというわけではない。リビングデッドは、先ほども書いたように、魔学的な「力」によって、死者の魂の代わりとするものである。ということは、甦らされたリビングデッドはその魔学的な「力」の範囲でしか能力を発揮することが出来ないということになる。

 となると、例えば、人間が神をリビングデッドとして蘇らせたところで、所詮は人間レベルのあれそれしか出来ないのだ。あるいは一人の人間が数千人・数万人の人間をリビングデッドとして蘇らせたとして、それぞれのリビングデッドは、その一人の人間の数千分の一・数万分の一のなにかれしかすることが出来ない。

 無論、これは能力の絶対値だけに関わることであって、魔学者には使えないような特殊な技能を持つ被術者を生き返らせた場合、その技能に必要な「力」が、魔学者の有する魔学的な「力」の範囲内であるのであれば、それを使うことは出来るのであるが。とにかく、このような条件に縛られているようであっては、純粋な力と力との戦闘になった時、リビングデッドというものはほとんど役に立たないのである。

 ということで、そういう時には反生命の原理に頼らざるを得なくなる。そういう時というのは自分よりも遥かに力強いものを蘇らせようという時であるが、反生命の原理ならば能力の絶対値を気にする必要はない。それはそうだ、その反生命の原理はまさに被術者そのものの鏡像なのであって、それによって蘇るのであれば、被術者は完全な形で生命を取り戻すのだから……ただ、それは正生命ではなく反生命であるが。

 どのようにすれば反生命の原理をこの世界でも危険なく使うことが出来るのか? 答えは非常に簡単であって、要するに、この世界線を拘束する「摂理化した契約」を書き換えてしまえばいいのである。そうして、反生命こそが生命化しうる世界にしてしまえばいいのだ。

 もちろん、これを実行するのは、ただただ机上の空論として提示するよりもずっとずっと難しいことだ。大前提として、まず「摂理化した契約」の修正が出来なければいけない。そして、それが出来たとして、どこをどう修正すれば反生命を生命化出来るようになるのかということを完全に理解していなければいけない。そうでなければ……「摂理化した契約」を弄ぶのだ、もしも下手な条項をいじくってしまえば、世界そのものを根底から不安定化させるようなことが起こりかねない。

 更に、更に、完全に正しい条項だけを、完全に正しい形に修正出来たとして。そのような修正を、被術者のみを対象としたものに限定しなければいけない。なぜなら、世界の全体に修正を適用してしまえば(そんなことが出来ればの話であるが)、この世界の全ての正生命が原理として反転し、存在と概念とを分離させるdoomsdayになってしまうからである。

 どうだろう、アビサル・マジックを使ったことがある者がこの世界に八人(人ではない者の方が多いが)しかいないという理由がお分かり頂けたのではないだろうか? んー、まあ、デニーちゃんくらい賢いと、それくらいはかーんたん!って感じなんだけどね! とにかく、要するに、何がいいたいのかといえば。アビサル・マジックとは、基本的には「摂理化した契約」の書き換えなのである。だからデニーはわざわざケレイズィ語を利用したのだ。ケレイズィ語レベルの正確さで概念を表象することが出来なければ、こういった精密極まる修正作業を行うことは出来ない。

 具体的に、デニーが何をしたのかといえば。まずケレイズィ語がもたらす純粋概念によって、自らの生命境界内に「摂理化した契約」の修正案を析出した。すると……もちろん、その修正案はスパルナの反生命の原理に限定した修正案だったのであって。その部分には、特有の「適用者の真空」が発生する。その「適用者の真空」に向かって、ポケットバースに閉じ込められていたはずの反生命の原理がどっと流れ込んでくる。

 そのようにして、デニーの生命境界内にはスパルナのものであったはずの反生命の原理が一時的に充満することになって。そして、デニーが、その修正案をスパルナに対して独裁的に制定するとともに、デニーの生命境界内から修正案の流れに従う形で漏出・流出したのだ。そこから先は当たり前のことが起こっただけである。反生命の原理、反魂とでもいうものが、スパルナ内部に残存していたところの魄と依尸結合することによって、スパルナはabyss-formとして蘇ったということだ。

 ただし、ここまででは死霊学におけるアビサル・マジックは半分しか成立していない。スパルナは確かに蘇りはしたが、ただ蘇っただけだからである。このままでは、全身の傷夷や腐敗やといったものから与えられる苦痛によって、死ぬことも出来ないままにのたうち回る哀れな生き物であるに過ぎない。これを役立つものに仕立て上げなければならず、それが「支配」の部分なのだ。

 この「支配」の部分に関しては多言を費やす必要はないだろう。西洋魔学であれば、ごくごく普通に、契約学の応用でなんとかなるし。デニーがそうしたように、アーガミパータ魔学におけるパシュパティのタパスを利用しても構わない。ただ、ここで一つだけ注意すべきことがある。「摂理化した契約」を修正する際に、なるべく、蘇らせる者の反抗的な力を削ぎ落とす形で修正するということである。

 例えば、思考能力を完全に奪い去っておくだとか。例えば、観念重力が持つ慣性を限りなくゼロに近い数値まで下げておくだとか。まあ、あんまりやりすぎると、他の魔学者に支配権を奪われてしまう可能性があるが、それに対しては、析出者の支配権が影響を与えなくなった時点で修正案が破棄されるような仕掛けを予め仕込んでおくとか、そういった対応も必要になってくるだろう。とにかく、細かいことはこれくらいにしておいて、このようにしてデニーは、スパルナに対する支配権を確立したということだ。

 こうして。

 アビサル・マジックの。

 二つの部分が成立して。

 ようやく。

 スパルナは。

 アビサル・ガルーダとして。

 蘇った、ということである。

 いやー、割と長くなっちゃいましたね。これでも、かなり省略した方なんですけど。魂とか魄とか、そういう説明も、後でするつもりとはいえ全部ぶっ飛ばしちゃいましたし。なんにせよ、アビサル・マジックって、魔学的法則の中でもかなり特異なやつなので、どうしても複雑になっちゃうんですよね、話が。まあ、それはそれとして、物語の視点を戦場に戻そう。

 戦場にはデニーの笑い声が響き渡っていた。あどけなく、いとけなく、穢れという観念からはかけ離れたところの、澄み渡って可愛らしい笑い声。「あははははははははははははっ!」という、その底抜けに楽しげな笑い声に合わせるかのようにして、アビサル・ガルーダが、ゆっくりゆっくりと体の向きを変えていく。五人のテロリストがいる方へと。

 ちょっと……なんだか……こう……馬鹿みたいだった。あまりに大き過ぎて、くだらない冗談みたいに見える。百ダブルキュビトって、そんな、サテライトが五十人集まってもそんな大きさにはならないのである。プレッシャーは、なんだかおかしくなってきて、口の端が変な風に曲がってしまう。にやにやと笑っているのかそれとも怯えているのか分からない。

 「笑ってんのか」「え? あ、すみません」「いいんだよ、気持ちは分かんなくもねぇからな」「姐さん、ちょっと聞きたいんすけど、いいっすかね」「んだよ」「ああいうのと戦ったこと、あります?」「……ねぇな」「勝てると思います?」「ったりめぇだろ」。サテライトは、そこまで言うと、まるでエイペックス・プレデターのような凄まじい笑顔を浮かべて、プレッシャーの方を見る。「ミレニアミウスはな、神なんかよりもつえーんだよ」。

 それだけ言い残すと、浮遊能力を限界まで使ったかのようなスピードで、上空に向かって一気に駆け上がっていった。プレッシャーは、「んな、無茶な……」とかなんとか呟きながらも、自分が果たすべき役割を果たし始める。

 そう、五人のテロリスト、それぞれの役割は既に決定していた。といっても、このような状況が計画に含まれていたというわけではない。カレント自身が言っていたように、計画の基礎となった、カレントが見た未来の中には、こんな光景は欠片もなかったからである。

 そうではなく、REV.Mのテロリスト、その中でもアーガミパータで活動しているメンバーに対しては、特別に、対巨大生物に対する訓練が施されるのである。もうここまでで飽き飽きするほど繰り返してきたことだが、アーガミパータは、マホウ界とナシマホウ界とが入り混じった場所なのであって。ナシマホウ界では想像も出来ないような巨大生物がうようよいる場所なのである。ということで、そのような生き物に期せずして出会ってしまった場合に備えて、その対処方法を体に叩き込んでいるのだ。

 五人は、というか、正確にはカレントを除いた四人は。その訓練の通りに動き出した。まずはサテライトであるが、先ほどの飛翔もそのままに、地上から百ダブルキュビト以上離れたところまで数秒もかからずに到達する。それは、ちょうどアビサル・ガルーダの視線の位置と同じ高さだった。

 それから、独り言のようにして呟く。「いいかぁ、スペルマ野郎……よく聞きやがれ」「この世界で一番高等なのは、てめぇらじゃねぇ、ミレニアミウスなんだよ」「てめぇらは、所詮は、時代遅れの神々なんだよ」「下等生物が……最適者に逆らうんじゃねぇ」「下等生物」「下等生物」「下等」「下等」「下等」「下等」「下等下等下等下等下等下等下等下等ぉああああああああああああ!」。呟きの声は、次第次第に大きくなっていって。最終的には、精神病院の特別病棟にでも響いていそうな叫び声になっていく。

 そして、それとともにサテライトの体が膨れ上がっていって。今までで最も早い出産のスピード、全身が沸騰しているかのようにして衛星を生み出していく。いうまでもなく、それらの衛星は、やはりサテライトと同じようなスピードで分裂を繰り返していって。スパルナの死骸によって押し潰されなかった残りの衛星もそれに加わって。あたかもアロンの蝗の光景のようにして、戦場の全体がサテライトの衛星で埋め尽くされてしまう。

 ただし、これは、どうやら攻撃用の衛星ではないようだった。その証拠に、衛星達は、「ハハハハハハハハッ!」という嘲笑こそ戦場の全体に撒き散らしてはいたが。アビサル・ガルーダに向かって突っ込んでいくようなことは一切なく、ただただ様子を見るかのようにしてふわふわ浮かんでいただけだった。

 それでは、これらの衛星達は一体なんのために生み出されたものなのか? それを知るためにはここでエレファントに目を移す必要があるだろう。エレファントは、衛星達が増殖していく様をじっと眺めていた。そして、一定の量まで増殖し、必要な場所に配置されると。一瞬の無駄な時間さえなく、機械のような正確さでタイミングを見計らって動き始めた。

 「レジスタンス」「うん」「行くぞ」「分かったよ」。レジスタンスは、エレファントの呼びかけにそう答えると、すぐにエレファントの巨体に飛び乗った。首に腕を回してしっかりと体を固定して、おぶさるみたいにして背中にしがみ付く。それを確認すると、エレファントは、どうっと跳ねた。

 蹴り飛ばした岩肌が抉れるほどの勢いで跳び上がったエレファントは、そのままの勢いで一番近くにいた衛星を踏みつける。衛星は「ハハハハッ?」という間抜けな声を上げながら、ぐぴゃりと歪み潰れるが。その時には、エレファントは、さらに高い位置にまで駆け上がっていた。そう、これらの衛星達はエレファントの移動手段だったのだ。アビサル・ガルーダのような巨大な相手と戦うためには、当然ながら地上だけの二次元的な移動でどうにかなるわけがない。三次元的な移動がどうしても必要になってくる。

 もちろん衛星達の役割はこれだけではないが、取り敢えず、今はエレファントの行動を見ていくことにしよう。次々と衛星を踏み潰していき、三次元の方向に駆け上がっていき。そして、とうとうアビサル・ガルーダの胸の辺りの高さまでやってきた。すると、そこに、衛星達が集合して作られた足場のようなものが展開されていて。エレファントは、どずしっという音を立てながらそこに着地(着星?)した。

 これで、エレファントは、アビサル・ガルーダとほとんど同じ高さで向き合う形になる。そんなエレファントと相対したアビサル・ガルーダは……特に、何かの行動をとったわけではなかった。体の向きを、そちらに向けた後は。ただただ不気味なほどの静けさで、五人のテロリストのことを見ているだけだった。

 これは、いわゆる「隙」というようなものではなく。もっともっと危険で、もっともっと致命的な、一種の前兆のようなものなのだろうが。とはいえ、こちら側が攻撃を仕掛けるための絶好のチャンスであるということには違いがない。エレファントは口を開いて言う。「プレッシャー」「はいはい、ここにいますよ」「砲弾を作れ」「りょーかいっす」。

 本当にいつの間にか、プレッシャーが、その足場があるところまでやってきていた。エレファントの右後ろ、少しだけ上のところ。自分の圧力を限界まで下げているのだろうが、まるで霧か霞か何かのような曖昧な姿で浮かんでいたのだ。そのプレッシャーが、右手と左手と、ぴんと人差指を立てて。まるで巫山戯て指揮者の真似をするようにして、その両手を、一度だけ、大きく振って見せた。すると、足場の周りでじりりりりりりりりんっという音が鳴る。そう、時計甲虫が鳴らすあの音だ。

 足場の周囲には、これまたいつの間にか、時計甲虫の大群が集まっていた。玉座から生えた触手に取り付いて、リビング・デッドの魔法を離散させていた時計甲虫達。それらの全てが、つまり、数十匹の時計甲虫達が、あたかも星座を描くようにして足場の前後左右上下に飛んでいたということだ。それは……どうも、なんらかの立体図形を描いているようだった。空間図表の上に配置されていて、それぞれがそれぞれの時計甲虫と、目には見えない境界線のようなもので結び付き合っていて。そして、その境界線の内部にフィールドを作り出しているのである。

 そのフィールドは、要するに、触手にかけられていた魔法を弱体化していった時と同じ種類のフィールドであった。だが、たった一匹の時計甲虫が作り出すものよりも遥かに遥かに強力なものだった。結び付き合った時計甲虫達がお互いのフィールドを重ね合うことによって、さざ波とさざ波とが重なり合って竜波になるかのように、強大な力を持つフィールドになっていたのだ。

 それに、違いはそれだけではなかった。あの時のフィールドは魔学的エネルギーの圧力を減圧するものだった。確かに、今回のフィールドも、魔学的エネルギーの圧力に関するフィールドである。だが、それがもたらす効果は全く反対のものなのだ。つまり、何がいいたいのかといえば……プレッシャーが、独り言のように呟く「行っくぜー、かわい子ちゃん達!」「見せてやろうぜ、最高に危険なプレッシャーってやつを!」「なーんちゃって」。

 それから。

 こう。

 叫ぶ。

「ギイイイイイイイイイイイイッシュ!」

 その瞬間に、時計甲虫達が作り出したフィールド内、凄まじい圧力がかかった。魔学的エネルギーが、あたかも事象の地平面に引き摺り込まれていく光のようにして、めちゃくちゃな勢いで、幾つかの点に集中し始めたのである。そう、このフィールドの目的は減圧ではなく加圧だった。それでは、その幾つかの点とは何か? プレッシャーは、一体、何に魔学的エネルギーを集めているのか? それは、「砲弾」だ。

 足場の周囲で「ハハハハッ!」という耳障りな笑い声を上げていた衛星達。魔学的エネルギーは、その一つ一つに集まっていた。そして、それは、普通の生き物、特にナシマホウ界の生き物には耐えることが出来ないレベルの濃度であった。確かに、ある生き物の固有の観念領域に、このようにしてエネルギーを蓄積していくことは出来ないことではない。だが、これほどの濃度になってしまうと、そのように蓄積されたエネルギーによって、その生き物の観念を規定している形相構造が崩壊してしまうのである。ただし……サテライトは、フィーリング・ファクターを有している。しかも、そのフィーリング・ファクターは物理学的な欠損だけではなく妖理学的な欠損にも適用可能なのだ。

 いや、正確にいうと、本来はそんなことは不可能なはずであった。サテライトのフィーリング・ファクターは肉体的な傷しか治すことが出来ないはずであった。だが――これはちょっと信じられないことなのだが――サテライトは、あまりにも愚かであるがゆえに、逆説的に自分自身の能力を、限界を超えて強化出来るのだ。スペキエースの能力というものは、ベルカレンレインに由来しているものであって、ベルカレンレインとは、要するに概念そのものである。概念は、こちらの世界に対して適用される場合には、基本的には観念の構造に依存する。そのため、スペキエースの能力は、その所有者が「そう思い込む」ことによってその通りに変化することがあるのである。

 サテライトは、んなわけないのに、自分の能力が妖理学的な欠損にも適用可能だと思い込んだ。だから適用可能になったのだ。なんにせよ、ここでいいたいことは……サテライトの衛星達にも、そのフィーリング・ファクターは働いているのであって。あまりにも強力な魔学的エネルギーが形相構造を毀損する先から、それを修復することが出来るのである。

 しかし、どれだけフィーリング・ファクターが働いたとしても、ここまでの濃度にいつまでもいつまでも耐え続けることは出来ない。サテライトがどんなに馬鹿でどのように思い込もうとも、何事にも限界というものがあるのだ。それに形相構造は完全に崩壊していないとはいえ不安定化してしまっている。

 これをどう表現すればいいのか難しいところであるが……普通の人間を形作っている形相構造をある種の基本子であるとすれば、このような形相構造は、核が重くなり過ぎて崩壊する寸前の不安定な同位体のようなものである。まあ、実際のところは、基本子の崩壊のしやすさというものは質量数よりも粒子均衡に依存するものではあるが。雰囲気だけでも感じ取って頂くための不正確な比喩だ。とにかく衛星は崩壊寸前だ。

 とはいえ、数分は持つ。

 そして。

 数分で。

 十分だ。

 エレファントが……左の腕を、高々と上に向かって掲げた。もともと巨大なガントレットであったが、それが、更に更に大きさを増していって。しかもその形を変化させていく。まず、五本の指が、手のひらサイズのボール状のものを掴んでいるかのような形になっていく。つまり、そこに正五角形があるとして、その正五角形の頂点となる位置に、一本一本の位置を動かして。その一本一本の指が、弧を描くようにして捻じ曲げられたということだ。それぞれの指が指し示す先は、手のひらの少し前方の空間。その一点に収束していく。

 これは、つまり……あたかも、ある種のエネルギー兵器であるかのような形状に変成したということだ。腕、その肘から先の部分が、砲弾を射出するためのエネルギーをチャージする砲身の部分であって。そして、親指・人差指・中指・薬指・小指の五本の指が、砲弾そのものにエネルギーを集積するための装置だということだ。ちょうど、クランディ・クラウディ方式を使った直線運動砲によく似ている。

 そう、これは、まさに一つの大砲だった。砲弾を撃ち出すための前装砲なのだ。それではその砲弾はどこにあるのか? ああ、なんて馬鹿げた質問だろう! つい今しがた、プレッシャーが作り出したばかりではないか! ということで……プレッシャーによって、生物としての限界を超えた量の魔学的エネルギーを蓄積された衛星の一匹が、ふわりと浮かび上がって。「ハハハハッ!」と笑いながら、その大砲に近付いていく。

 そのまま、くるんと一度回転して。それから、エレファントの左手、五指が指し示す先にすっぽりと収まる。するとエレファントの左腕を形作っている赤イヴェール合金が光を放ち始めた。決して明るい光ではない。どちらかといえば、どこまでもどこまでも底のない暗黒の中に落ちていく、終わりのない悪夢のように重々しい光。この現象が意味するのは、赤イヴェール合金に負荷がかかっているということだ。しかも、赤イヴェール合金の耐魔性能ぎりぎりの、かなり強力な負荷が。

 その負荷が、腕から手のひらへと注ぎ込まれていき。そして、五本の指の、それぞれの指先へと到達する。と、五指が指差している先、その一点に何かが起こる。それは……それは……鏡が……歪んだ鏡が……何か、聖なる力によって無理やり捻じ曲げられた鏡が。きらきらと輝きながら、そのまま時空間に開いた穴になったかのような現象。

 それぞれの指先から放射された魔学的エネルギーがたった一つの焦点に集中した。これほどの力がただ一つの点に無理やり閉じ込められたことによって、観念歪曲を起こしたのである。ひしゃげた観念が、視覚その他によって捉えられるはずの認識原型を破綻させて。その結果として、このように、その一点を中心としてあらゆるものが歪んでいくように見えているのである。

 もちろん……その一点とは衛星が収まっていたところの一点だったのであって。観念歪曲の中に、衛星を衛星として成立させていた観念の全体が引き摺り込まれていく。これは、いわゆる弾込めだ。砲弾を口腔の中に詰め込んでいるのだ。あたかも発条螺子を巻いていくかのようにして、衛星が、十分に、観念歪曲の中に引き摺り込まれると。

 エレファントは、その砲口を。

 アビサル・ガルーダに向けて。

 次の。

 瞬間。

 には。

 赤イヴェール合金に。

 チャージされていた。

 全てのエネルギーを。

 一気に。

 解放する。

 科学的エネルギーがworkとなりうる可能性の総称だとするのならば、魔学的エネルギーはcraftとなりうる可能性の総称である。観念歪曲によってしっかりと固定されていた衛星が、その瞬間に、魔学的エネルギーが換算されたところの純粋なcraftによって、災害そのものの勢いで発射される。

 災いだ。

 災いだ。

 凶兆を告げるために現れた彗星は、「ハハハハッ!」という嘲笑だけを、星の尾のように、荒々しい痕跡として残しながら。一つの屈曲さえ見当たらない直線運動としてアビサル・ガルーダに向かって天翔けていく。

 観念が、観念が、観念が。あまりにも強力な純粋観念が、根源情報式に対する「認識可能性の限界」現象を引き起こして。そして、彗星が通過した時空間において、時間は時間ではなくなり空間は空間ではなくなる。

 あくまでも世界的な認識原型の範囲内での話ではあるが、彗星が彗星としてそこにあるべきであるとエレファントが論理的に構成した領域において、彗星が彗星としてそこにあったのだ。それは移動ではなく、瞬間的に転移したわけでさえなく、根源情報式の書き換えのレベルでの現実操作に近い。要するに何がいいたいのかといえば、エレファントがその大砲を発射した時には、既に砲弾はアビサル・ガルーダに着弾していたということだ。もちろん、彗星は、真っ直ぐにアビサル・ガルーダに向かって飛んで行ったのであったが……その現実は、この時点において、完全に存在していないことになっているのだ。

 ああ。

 そう。

 砲弾は着弾した。

 アビサル・ガルーダ。

 その、胸の、辺りに。

 そうして。

 その砲弾は。

 一個の。

 セミフォルテア爆弾になる。

 セミフォルテア爆弾、別名は魔子型不定子爆弾。不安定になった形相構造に、信仰のレベルにまで高められた観念の非想非非想力を衝突させることによって、当該形相構造から外の世界へと向かう連鎖的アディナトン反応を引き起こす。これがいわゆる形而上臨界と呼ばれる状態であるが、その際に放出される膨大なセミフォルテアを、破壊の荒れ狂うテンペストとして利用する爆弾こそがセミフォルテア爆弾だ。

 形相構造を形而上臨界点に到達させるにあたっては様々な方式があるのだが、今回のエレファントが利用したのはいわゆる「砲身型」と呼ばれるものだ。非常に単純化して書いてしまうと、こういうことになる。

 まず、サテライトの衛星に魔学的エネルギーを集中させることによって、形相構造をカタイロー・パローディーア状態になるまで不安定化させる。一方で、自分の腕の中に蓄積した魔学的エネルギーを、腕の周りに浮かび上がらせた魔法円によって、非相非非想力に禅定変質させる。

 いうまでもなく、禅定変質を行う場合には、それを行う本人の精神状態がアーラーラ・ウッダカ状態に移行し、純粋概念非定義非非定義可能化していなければいけないのであるが。エレファントは、自分の感情を抑圧するための方法を探している時に、ニルグランタにおいて瞑想を学んでいたので、そういうのは結構簡単に出来てしまうのだ。その気になれば一秒とかからずに煩悩を滅尽してしまうことが出来る。

 そのようにして「砲身」と「砲弾」とを整えてから、「砲弾」を「砲身」にセットする。そして、「砲身」の非想非非想力を「砲弾」の形相構造に向かって叩きつけるのだ。すると、その衝突地点から連鎖的アディナトン反応が引き起こされ、最終的には形而上臨界点へと至るというわけだ。

 そういえば、ちなみに、セミフォルテア爆弾は、いかに鵬妓級とはいえ対神兵器にも数えられる兵器なのであって。そんな物を作ることが出来るほどの魔学的エネルギーを、なぜプレッシャーのようなスペキエースが集めることが出来たのかという疑問が出てくるかもしれない。だってプレッシャーは、本人だけの力では、せいぜいがレベル5のスペキエースなのだから。その問いに対する答えは……簡単なことだ。というか、カレントが既に口にしていることだ。つまり、これはプレッシャー一人の力によってなされたことではない。

 プレッシャーが行った魔力集中は二段階に分かれている。まずは、アーガミパータを流れる巨大な魔力の流れに対して圧力をかける。そうすると、その巨大な流れが、細い細い一つの流れへと収束していく。その流れを任意の点(それぞれの衛星)へと向かって流し込んで、そして、その点に更に圧力をかけることによって、大量の魔学的エネルギーを凝縮するのだ。確かに、ここまでのエネルギーをずっと凝縮し続けるのは難しいことだが。衛星の形相構造が数分持てばよかったように、プレッシャーの圧力も数分持てばいいのである。

 何がいいたいのかといえば、プレッシャー一人の力で魔学的エネルギーを集めたわけではなく、カレントの力を借りて、というか、アーガミパータそのものが有している巨大な流動の力を利用して、それを成し遂げたということだ。

 なんにせよ。

 衛星は。

 セミハ。

 ウ。

 オ。

 ルテア。

 この世界に神々を成し。

 やがては神々を滅する。

 ゼティウスの。

 絶対的な規定。

 その。

 聖なる喝采。

 聖なる喝采。

 触れてはならない禁忌の力。

 洪水のように、破裂させる。

 その直前に……レジスタンスが動いていた。エレファントの背に負われたままで、首にしがみ付いていた腕のうち右腕だけをそこから離す。そこには、もともと、かなりの量の抵抗力が纏わりついていたが。右腕の穴、全てのシャッターが開いて、ごぽごぽっという音、一層大量の抵抗力が吐き出される。

 総量にして百ログ近くになっただろう。その抵抗力を絡み付けたままで、レジスタンスは、その右腕、前方に向かって勢い良く振り抜いた。前方にというのは、砲弾が発射された方向にということであって。抵抗力は、そのまま、真っ直ぐ真っ直ぐ飛んで行って。アビサル・ガルーダに着弾した砲弾、覆いかぶさるみたいにしてべちゃりとくっついた。

 そして……目覚まし時計の音はしなかったが、恐らくはプレッシャーが圧力をかけたのだろう。百ログ近くあったその体積が、急速に圧縮されていって。錆びついた光はますます強力になっていって。抵抗力は、砲弾に、しっかりと固定される。あたかも、砲弾の上に、抵抗力によって一つの外殻を形成したような形になったということだ。

 それは。

 きっと。

 牢獄の。

 ような。

 もの。

 氾濫しないように。

 閉じ込めてしまう。

 ただし。

 一つの方向だけが。

 開かれ、て、いる。

 んなクソ抽象的ないい方されても分かんねぇよ! ポエポエほざいてねぇではっきりと説明しろ、はっきりと! ということで、はっきりと説明するならば。レジスタンスがしたことは、セミフォルテア爆弾が爆発した場合に発生する衝撃の方向を一方向に固定したということだ。

 セミフォルテア爆弾は、科子型不定子爆弾と同じように、爆発すれば全ての方向に衝撃をぶちまける。ということは、当然ながらそれはエレファント達がいる方向にも向かってくるのであって。一般的な人間がセミフォルテア爆弾の衝撃をまともに受けた場合、何か特別な奇跡でも起こらない限りは、その人間は極子レベルで分解され、魔子と不定子とで出来た雲になってしまうものだ。まあ、サテライトは突然変異を起こして不死身になったゴキブリみたいにしぶといから生き残るかもしれないが、他のテロリストは普通に死ぬよねって話なのだ。

 それに、それだけではなく。衝撃が無意味な方向に拡散してしまえば、目標に向かう衝撃がそれだけ減少してしまう。ということで、セミフォルテア爆弾の衝撃が向かう先を、目標の方向だけに限定する必要があったということである。その方向とは、いうまでもなくアビサル・ガルーダの方向だ。そのようなわけで……レジスタンスは、アビサル・ガルーダに向かってだけ開かれた抵抗力のシェルを形成したのだ。

 とにもかくにも、その直後に、聖なる聖なる洪水は到来した。サテライトの一部だったはずの衛星は、その観念のレベルで崩壊する。内側に閉じ込めていたはずの無限の花束、ストイケイオン。それは可能であるか不可能であるか? 転化する、転化し得ないものとして転化することさえ転化する。あらゆる現実であったはずのものが、それは初めから夢か幻か、うたかたに消えていく透き通るような儚さとなっていって。何もかも洗い流す洪水は、奔流となって、怒涛となって、破裂した衛星から吐き出される。

 初めて……初めて、セミフォルテア爆弾が爆発するところを見た人間は。それを林檎に例えたという。熟しきった林檎が、自らの重みに耐えられなくなって木から落ちていく。根元に墜落したその林檎は、腐りきった果実をぱぁんと音を立てて弾けさせる。爆発は、そういった光景によく似ているのだ。銀の林檎が、抵抗力によって作り出された薬莢の中で爆発を起こして。そして、その爆発は、薬莢によって定義された方向に、あられもない暴力として押し寄せていく。

 視覚ではなく。

 聴覚ではなく。

 自分自身を形作っている。

 もっとも根源的な枠組み。

 それが、弾け飛んだような。

 そんな感覚によって。

 五人のテロリストは。

 その。

 爆発を。

 感じる。

 抵抗力の器から、アビサル・ガルーダに向かって、世界そのものさえ掻き消すような光が放たれた。その光は、放たれた瞬間においては完全に一つの指向性として準備されていたのだが。器からこぼれ落ちるとともに、まさに爆発的な勢いで散乱していく。風船が破裂したかのようだ。あるいは捕食性のスリムニーが獲物を見つけたかのようだ。広がって、広がって、広がって、そして、その光は、アビサル・ガルーダの上半身を、戴冠にも似た栄光によって包み込んでしまう。

「わあ、すっごーい!」

 光の中。

 影絵のように。

 アビサル・ガルーダの。

 姿形が浮かび上がって。

 存在を。

 概念を。

 吹き飛ばすような。

 絶対的な力の暴走。

「さぴえんすにしてはけっこー頑張るね!」

 ああ。

 ああ。

 計り知れぬほどに。

 強力にして。

 偉大にして。

 崇高にして。

 何者にも支配されることのない。

 鳥の王。

 その肉体が。

 ぐらり、と。

 よろめいて。

 そして。

 そして。

「ふふふっ、でも……」

 それ以上のことは。

 何も、起こらない。

「ざんねんでした。」

 それ。

 だけ。

 だった。

 セミフォルテア爆弾の爆発、その衝撃を収束させたエネルギーをまともに食らったのだ。それにも拘わらず、アビサル・ガルーダはちょっとふらっとしただけだった。「倒れることはなかった」どころかほとんどダメージを受けてさえいないようだ。

 セミフォルテアの爆発が、その光が、永遠とも瞬間ともつかぬ時間の後に、薄れて消えていった後。アビサル・ガルーダは、相も変わらぬ死者の静けさによってテロリスト達の方を見ているだけであった。その肉体は火傷一つ負っていないようだった。ただ、僅かに、何枚かの羽根に焦げたような跡が見られたが。それでも、その程度のことであった。

 プレッシャーが、思わず「……っそだろ」と言葉を漏らす。これはもちろん「嘘だろ」という言葉が喉の奥で掠れて消えてしまったためにそう聞こえた音だが。プレッシャーにとっては、それほどまでに信じられないことだったのだ。今の攻撃は、ティターンやノスフェラトゥや、魔的ゼティウス形而上体のような生き物であれば、一瞬で消し飛ばすことが出来るようなものだったのであって。それを受けてあそこまで平然としているというのは……もう、あの化け物は、プレッシャーの理解を超えたところにいる。

 ただ、一方で、エレファントの反応はそれとは全く異なっていた。そんなの例の「感情を抑圧している」云々のせいだろと思われるかもしれないが……どうも、それとは関係がないようである。エレファントは、アビサル・ガルーダに向けていた左腕、少しでもクールダウンしようとしているかのようにして、軽く左に向かって降り抜くと。全てが完全に予想の範囲内だったとでもいうようにして「なるほど」と軽く呟いた。

 そして。

 続ける。

「思ったよりも効果があるようだ。」

 さて、これでテロリスト側は攻撃を終えたわけだ。アビサル・ガルーダは……というか、そのアビサル・ガルーダを支配しているところのデニーは。アビサル・ガルーダの体を五人のテロリストの方に向けてから、ずっとずっと、羽の先一つ動かさないでいたのだが。セミフォルテア爆弾が引き起こした衝撃によって歪んでしまった時空間が、次第に次第に元の形状を取り戻し始めて。そして、その爆弾を包み込んでいた抵抗力も、蒸発してしまったかのように消え去ってしまうと。

 デニーは。

 こう。

 囁く。

「あれー、もうお終いなの?」

 まるで。

 幼い子供が。

 お気に入りのおもちゃに。

 向けるようにして。

 にっこりと。

 笑いながら。

「じゃあ、今度はデニーちゃんのばんだね!」

 と、アビサル・ガルーダが、唐突に電源を入れられた電動のぬいぐるみであるかのようにして動き始めた。その様は、あたかも「このおもちゃを壊すためのチャンスはもう十分にあげたよね?」とでもいうみたいで……そう、デニーにとっては、五人のテロリストもアビサル・ガルーダも等しくおもちゃに過ぎないのだ。

 動き出したのは右の腕だ。ヴァジュラを掴んでいた右腕が、そのヴァジュラを天空に向かって掲げるようにして差し上げられたのだ。もちろん、この戦場は、抵抗力のドームによって隠されていたのであって。ここからは天空は見えないのだが……それでも、その仕草は、もしもアビサル・ガルーダが太陽に向かって飛翔しようとすれば、何ものもそれを遮ることが出来ないということを、これ以上ないというくらい明白に、五人のテロリストに向かって教えているかのようだった。

 それから。

 それから。

 反生命によって。

 無限。

 永遠。

 絶対の。

 暗黒に。

 沈んだ眼球が。

 エレファント。

 を。

 ふっと。

 視界に。

 捉え、て。

「危ないですよ、エレファント。」

 どこかでカレントの声がした。その声に促されるようにして、エレファントが顔を上げると……気が付いた時には、その頭上に、「死」が訪れていた。凄まじい雷撃にも似たセミフォルテアの槍。それを、アビサル・ガルーダが、エレファントに向かって振り下ろしていたのだ。

 カレントの警告がなければ、間違いなくヴァジュラはエレファントのことを貫いていただろう。貫いていたというか、エレファントを構成していた全ての物質は曖昧な風のようなものになるまで蒸発してしまい、そのまま吹っ飛ばされていただろう。人間には絶対に感覚出来ないほどの速度。

 アビサル・ガルーダは、そのものが機能として持つ世界干渉直観によって、根源情報式における速度という観念を捻じ曲げて。自分の速度について「速さ」を超越した「速さ」まで高め、自分以外のあらゆるものの速度について「遅さ」を沈降した「遅さ」にまで低めることが出来るのである。

 もちろん、そんなわけだから、カレントとてアビサル・ガルーダの速度に対応出来るはずがないのだが。ただし、カレントは可能性の流れを読むことが出来る。アビサル・ガルーダがどのタイミングでどのような攻撃を繰り出してくるのかということを予測することが出来るのだ。その流れ、カレントから遠隔するごとに、カレントによる変更可能性(あるいはカレントの変更可能性への対抗可能性)が増加していくせいで確実性は低下していくのであるが。とはいえ、数秒後の未来であれば、ほぼ確実な精度で予測することが出来る。

 ということで、エレファントは、自分の危機的状況について知ることが出来たのだが。とはいえ、それが一体なんの役に立つというのだろうか? 今、まさに、エレファントに向かって振り下ろされようとしているのは。要するに神の雷霆なのである。エレファントの両腕は、確かに凄まじい魔学的エネルギーが込められた赤イヴェール合金であるが。その程度の代物で、このような神の力の行使を止めることが出来るはずもない。恐らくは、スキミター・オブ・バーザイでもなければ不可能だろう。

 それでは、エレファントはどうすればいいのか? 黙って、その「死」を受け入れることしか出来ないのか? そんなわけがない。いうまでもなく、エレファントは、こういう時のための防御機構を用意している。

 カレントの声がした直後。いや、それどころか、その声と同時に。レジスタンスがエレファントの背の上で体を起こしていた。エレファントの首に回していた腕、両方とも、そこから離して。上半身を起こして、上の方を見ていた。その視線は……その眼球は、あたかも二つの凍り付いた冷酷のようであった。

 レジスタンスの冷たさはエレファントのそれとは全く性質の異なったものだ。エレファントの冷たさは、要するに温度の不在である。全ての感情を小さな小さな箱の中に閉じ込めて、心臓の中にそっと隠している者の温度。一方で、レジスタンスのそれは、闇の底に開いた陥穽のような冷たさだ。その陥穽から吐き出される、生命を奪う冷気だ。

 今のレジスタンスは、実は恐怖だけではなく、戦闘に不必要な他のあらゆる感情も消し去ってしまっているのである。人間らしい優しさや、温かい感受性、他人の痛みを感じるための共感。そういった、いわゆる人の心を完全に殺してしまっているのだ。今のレジスタンスは、ある意味で、カレントよりも非人間的な生き物になってしまっている。

 ただただ計画の完遂と、それに……自分達兄弟を傷付けた「人間」という生き物への憎悪。それだけが、頭蓋骨の中で、星のない夜の吹雪となって荒れ狂っている。

 それはともかくとして、レジスタンスは、振り下ろされる雷霆の瞬間を見定めると。エレファントから離した両腕、その瞬間を穿つようにして自分の視線の方向へと振り抜いた。もちろん、それは、エレファントの頭上。アビサル・ガルーダのヴァジュラに向かってということだ。

 このタイミングまで、レジスタンスは、全身に開いた穴から吐き出され続ける抵抗力のほとんどを、自分の体に纏わりつかせたままにしていた。例外としては、衛星の周りにシェルを作り出した百ログ程度の体積だけであって。その他の体積は、全て、蒸発させることなく保存していた。

 それらの抵抗力を一気に展開する。形など気にすることもなく、流動体で出来た一枚の盾のごとく、両腕が向かった先に大きく大きく広げる。そして、その盾は、プレッシャーの圧力によってより一層強化される。

 閉ざされた天蓋。

 錆びついた光は。

 鳥の王によってくだされた。

 聖なる。

 聖なる。

 裁定。

 錫杖による。

 その宣告を。

 あららかなほどの。

 抵抗の力によって。

 阻害して。

 抵抗力によって作り出された盾に激突したヴァジュラは、その刹那だけ、完全に防ぎとどめられた。そして、そして……ただし、それは、本当に、その刹那だけだった。

 結局のところ、人間ごときが作り出した出来損ないの光によって、神の栄光の光輝を受け止めることなど出来るわけがないのだ。ヴァジュラの先端が突き立てられた直後に、その硬化したsolid energyには無残にも罅が入ってしまって。それから、一秒ともつことなく粉々に砕かれてしまった。

 無敵のヴァジュラはあまりにも非力な抵抗を貫いて。王による裁きが、その先にいるはずのエレファントに対する執行を行おうとする……だが、裁かれの座は、被告人席は、死刑台は。要するに衛星で作られた足場は、既に空虚であった。

 いうまでもなく、エレファントは、この程度の防御によってヴァジュラを防ぐことが出来るなどとは欠片も考えていなかった。盾は、攻撃を無効化するためのものではなかった。逃走までの時間を稼ぐため、そのためだけに掲げられたのだ。

 それはこのようなシークエンスだった。実は、ブリッツクリーク三兄弟の精神は、カレントの能力によって、ある程度のリンクで結び付けられている。そのため、カレントが読み取った可能性の流れは、そのまま直接的にレジスタンスの思考にも流れ込んでいるのである。ということで、カレントが予測した危険に従って、ほとんどロスタイムなくレジスタンスが抵抗力の盾を展開することが出来る。そして、その盾が、エレファントが反応するために必要な僅かな時間を作り出して。そして、その僅かな時間でエレファントは攻撃を回避する。

 ということで……エレファントは、盾がヴァジュラを食い止めていた一秒未満の時間、足場を蹴って跳んでいた。幾つも幾つも衛星を踏み潰し継いでいって。ヴァジュラが足場を粉々に打ち砕いた頃には、もう、エレファントの肉体はアビサル・ガルーダの上方まで移動してしまっていたのだ。

 アビサル・ガルーダは、目の前にいたはずのエレファントへの攻撃に集中してしまっていたので。その上方は、ほとんどがら空き状態だった。というか、その足場は自分よりも少し下の位置にあったため。少しばかり前のめりになるような姿勢にさえになっていたのである。

 エレファントはそのようなチャンスを逃すような女ではなかった。そもそも人間がなんらかのチャンスを逃すというのは、そのほとんどが人間的な意識の不具合によるものである。それは本能的な部分で起こっている肉体の反応を表層における意識の部分が一時的に阻害してしまうことによって起こる。一方で、エレファントは、自分の意識をコントロールするすべを心得ている。あらゆる肉体の反応を、完全に意識的な状態で行動に移すことが出来る。

 コンピューターが単純な計算を解くみたいに、エレファントは、機械的な正確さによって次のシークエンスに移っていた。防御のシークエンスから攻撃のシークエンスに。エレファントは、アビサル・ガルーダに向かって、巨大なエネルギー兵器となっていた右手を差し出していて……また、それだけでなく左手も差し出していた。いつの間にか左の腕も右の腕と全く同じようなエネルギー兵器と化していたのだ。

 アビサル・ガルーダに向けられた二つのcannon。canna、kanna、それは、アビサル・ガルーダに対しては、まさに葦の茎ほどの脅威でしかないだろう。とはいえ、非力は無力ではない。その攻撃は、思いのほか、アビサル・ガルーダにダメージを与えた。その羽根を焦がし、ほんの僅かによろめかせさえしたのだ。それは確かに「力」として有効なのだ。

 構えた二つの大砲に、「ハハハハッ!」という嘲笑が……いや、今となっては頼もしくさえ聞こえる哄笑が近付いてくる。このような状況でさえ響き渡る哄笑は、スペキエースという種の勝利を微塵も疑うことのない、絶対的な確信・絶対的な信念の象徴なのであって。そして、一つの衛星は左の大砲に、一つの衛星は右の大砲に、それぞれすぽんと収まる。

 勝利。

 勝利。

 そう、重要なのは。

 ただ勝利だけ。

 そうであるとすれば、問題なのは、今回の作戦における勝利とは何かということだ。アビサル・ガルーダを倒すこと? 否、そうではない。今回の作戦は、それとは全然異なった目的を持っているのだ。だから、その目的の達成のために、エレファントは、今度は二つの大砲を同時に発射する。

 砲弾と砲弾とは、時間を切断するほどの鋭さによって直線を描いて。それから、それから、アビサル・ガルーダの後頭部に着弾する。その直後に、やはりレジスタンスが抵抗力を付着させて。プレッシャーによって固められたシェルが、セミフォルテアのスタンピードを、あたかもグッド・シェパードのように導く。標的の方向へ、アビサル・ガルーダの方向へ。

 二つのエクスプロージョン、セミフォルテアの炸裂がアビサル・ガルーダの背後を襲う。もともと少しばかり前屈みになっていた姿勢、勢い良く後ろから突き飛ばされたような形になったということだ。当然のことながら、アビサル・ガルーダの肉体は、よろめいて、よろめいて。そして大地の上にヴァジュラをついてしまう。

 岩肌の上にセミフォルテアの雷霆が突き立てられて、そのせいで、確固とした岩石を構成していたはずの極子構造が根底から弾き飛ばされてしまう。爆発みたいな、じゅずぉおおおおっという音がして、凄まじい勢いで大地が蒸発していく。ただ……それは、今はどうでもいいことだ。

 注目すべきなのは、一時的にアビサル・ガルーダの持つ武器が無力化されたということである。無力化されたといっても、ただ単に地面に突き刺さっただけの話であるが。とにかく、そのような状況、エレファントは畳みかけるように攻撃を続ける。

 エレファントが、右足をある一つの衛星に、左足をもう一つの衛星に、乗せたままで。立ち止まった空間の一地点、瞬く間に大量の衛星が集まってきた。「ハハハハッ!」という笑い声を上げながら、衛星と衛星とが互いに噛みつき合って、堅固とはいわないまでもなんとかエレファントを支えることが出来る程度の足場がまたもや形作られる。

 エレファントは、その足場の上にしっかりと重心を据えると。両腕を振り上げて、再び、二つの照準をアビサル・ガルーダに向けた。一方で、背の上のレジスタンスは……さっきまで、振り落とされないようにしがみ付いていた両腕。すっと離して、それから、今度は、エレファントの肩の上に立ち上がった。右足で右肩を、左足で左肩を、それぞれ踏み締めて。それから、全身の穴、シャッターを開く。ごぼごぼ……ごばあっ!という音を立てて、今までとは比べ物にならないくらい大量の抵抗力が吐き出される。

「準備はいいか、レジスタンス。」

「うん。」

 エレファントの両腕が。

 夢の心臓のような。

 赤い、赤い、色に。

 光り輝き始める。

 レジスタンスの肉体が。

 聖なる卵のような。

 朽ちた輝きの光に。

 包み込まれる。

 それから。

 レジスタンスが。

 エレファントに。

 こう、答える。

「始めて。」

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