第二部プルガトリオ #61

 ずるり、と、世界の輪郭がずれたような音がした。そして、邪悪そのものであるかのような穴、天空にぽっかりと開いた虚無から、「それ」が姿を現した。最初は、五人のテロリスト、それがなんであるのかということが分からなかった。だが、その次の瞬間には気が付いていた。そう、実際のところ……それは別に、見たことがないようなものではなかったのだ。それどころか、よくよく見慣れたものだった。どこにでもあるようなもの、世界のどこでも見ることが出来るもの。それは要するに、鳥の下肢だった。

 それも、ただの鳥ではなく猛禽類のものだろう。跗骨と蹠骨とが一体化した跗蹠骨の先に、いわゆる足(foot)の部分が接続している。足の部分においては、第一趾が後ろ側についていて、第二趾・第三趾・第四趾が前方を向いている。第五趾は退化してしまっていて見えないが、その代わりに第一趾が異様に発達しており、まるで美しい殺戮の道具であるかのようになめらかな曲線を描いている。そして、その全体、城塞を守護する盾のような形状をした鱗で覆い尽くされている。

 ただし……それは、あまりにも巨大だった。五人のテロリスト、その誰もが、今まで一度たりとも見たこともない、それどころか想像したこともないほどの大きさ。だからそれが鳥の下肢だとは分からなかったのである。恐らくは、そのあしゆび、一本一本のあしゆびだけで十ダブルキュビトを軽く超えている。

 ずるり、ずるり、ずるずるずるずる。そして、その下肢の持ち主であるところの一羽の鳥が、少しずつ、少しずつ、穴の中から姿を現わしてくる。どうやら、その鳥は、決して足だけが大きいというわけではないようだ。未だ全身は見えていないのだが、少なくとも嘴から尾の先までの長さが百ダブルキュビトをくだるということはあるまい。それどころか、両の羽を伸ばしたならば、それは三百ダブルキュビトの巨体に達するだろう。

 しかも、それだけではない。その鳥に関して特筆するべきことはそれだけではなかった。サテライトは、ただただ、それが姿を現わす様を見上げながら……全身の毛が、ぞうっと逆立つのを感じた。尾骶骨から駆け上がっていくかのようにして、脊髄に激痛が走る。その激痛は脳髄にまで達し、そして、あたかも脳幹の全体が絶叫しているかのようだ。

 逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げろ! けれども、それでも、サテライトは身動きをすることさえ出来なかった。それどころか、本来であれば、あの穴の下にいる衛星達を、あそこから逃がさなければいけないのに。それも出来なかった。そういえば、衛星達さえも……その口を噤んでいる。あの「ハハハハッ」という耳障りな嘲笑をすることをやめて。その、鳥の、姿を、見上げていることしか出来ない。

 人間が、このような反応を示す時には、大抵の場合は、あの原初的な恐怖が関わっている。つまり、神々への恐怖である。そして、そういった恐怖を引き起こすのは……そう、セミフォルテアだ。その鳥の全身からは、信じられないほどのセミフォルテアが放射されていたのだ。

 ちくちくと肌に痛みを感じて、レジスタンスは自分の手のひらを見下ろしてみた。その手のひらは、抵抗力によって包み込まれているにも拘わらずどんどんと変化していっていた。じりじりと煙を出しながら……随分と長いこと夏の太陽に当たり続けていたかのように、その肌は浅黒く焼けていっているのだ。その鳥が放っている、セミフォルテアの影響で。

 「レジスタンス」「分かってるよ、エレファント」。幸いなことにレジスタンスは、エレファントが言わんとしていることをすぐさま理解することが出来た。そして、自分のするべきことをする。自分の抵抗力を付近の全体に展開して、自分も含めた五人のテロリストの姿を保護する。これは実際、本当に危ないところであって。もう少し、レジスタンスがこうするのが遅かったら、サテライト以外のテロリストは肉体に取り返しがつかないほどの損傷を負っていただろう。

 それにしても……レジスタンスは、奇妙な感覚を覚えていた。確かに自分は、頭蓋骨の中にある恐怖の回路を切断しているはずだった。そして、そのおかげで、感情的な側面では恐怖というものを感じていない。それでもレジスタンスは、自分の全身が小刻みに震えるのを止めることが出来なかった。これは、つまり生命のレベルでの恐怖だ。自分の生命がその鳥のことを恐れているのである。それは、まるで、神を畏れるかのように。

 その神の、その鳥の、下肢が、完全に現われてくる。下腹が姿を現し、尾羽が姿を現し、そうして下半身の全体が穴の外側に吐き出される。その頃になると、少しおかしいことがあるということに気が付く。どうも、その鳥は、普通の鳥ではないようなのだ。いや、まあ、全長百ダブルキュビト以上ある鳥が普通の鳥であるはずがないのだが、その話ではない。下半身の形状についてである。

 なんというか、跗蹠骨が長過ぎる気がするのだ。跗蹠骨というのは、要するに人間でいうところの足の甲の部分が、鳥の体においてはまるで脛のような役割を果たしているという骨なのであるが。普通の鳥ならば、さほどの長さもなく脛腓骨へと繋がっている。それに、鳥の姿を思い出してくれれれば分かると思うのだが、鳥の下肢というのはまるで跳ねる前の発条仕掛けのように、関節の部分でくの字に折れ曲がっているものなのだ。

 しかし、その鳥の足は……比較的長い跗蹠骨と、比較的長い脛腓骨とが、あたかも人間のものであるかのように真っ直ぐに接続している。いや、正確にいうと、人間のものよりはくの字気味になっているのだが、それでも随分と曲がり方が浅い。また、それだけではなく、その下半身の全体が、なんとなく直線に沿って形作られているように見える。つまり、人間やヴェケボサンや、そういった生き物、高度な把持性を持つ生き物のように、直立姿勢をとることが出来るようなのだ。普通の鳥のように、常に前傾姿勢をしているタイプの生き物ではないらしい。

 これはどういうことなのだろうか? ただ、そのことについて考えている間もなく、ちょっとした事件が起こった。それは、その鳥が穴から吐き出されてくる速度が唐突に早まったことである。ちょうど、下半身の全体が見えたころから……早まったというか、そこから、一気に、鳥の肉体、その全てが吐き出された。

 その鳥の肉体に充満している重力に、穴の中にいた何かが耐えられなくなってしまったとでもいうみたいだった。鳥の体を支え、宙吊りにしていた何かが、ぱっと手を離したみたいに。ぐずずずずぅっと、その鳥の全身が穴の外側に姿を現わして。そのまま……大地の上に墜落した。

 その鳥は、羽一枚・指一本動かすことのないままに。落ちてきて、落ちてきて、落ちてきて、それから、生理的嫌悪感を感じさせるぐどじゃぐっみたいな激突音を立てて、無残にも岩肌の上に激突したのである。ちなみに、その鳥が落ちていった時に、サテライトの衛星達が、随分な数巻き込まれてしまって。その鳥の肉体に押し潰されてしまった。

 本当に……その体の、どの部分も動かすことがなかった。落ちている最中も、落ちてからも。それどころか、筋肉の一本一本、その全てに力が入っていないようだった。体の各部分を内側で繋ぎ留めていた糸が緩んでしまった抱き人形みたいだ、全身が、液体で膨らんだゴムの袋のように無力で。

 いや、というか、もっと簡単にいってしまえば。その鳥は死んでいるように見えたのだ。そう、死んでいたのだ。よく見れば、体のそこここに、明らかに致命傷としか思えない傷口が開いている。落雷のように燦然と輝く槍によく似た物で背の辺りを貫かれていて。それに、そこら中、赤く光る金属で出来た矢のような物が突き刺さっている。そして、首筋には、この鳥と同じくらいの大きさの生き物に噛まれたような跡。深々と抉られて、その傷口のところは、あたかも破滅そのものであるかのように、悍ましい暗黒で塗り潰されている。

 そして。

 その鳥の、死体を。

 魅入られたように。

 見つめながら。

 サテライトが。

 こう、呟く。

「おいおい……今度はなんだよ……」

「スパルナだ。」

「は?」

「スパルナ。共通語では鵬。」

「鵬ってーと、鵬妓級とかで使うあの鵬か?」

「そうだ。」

 サテライトにしては随分と冴えた返しをしたものだが。

 まあ、それはそれとして、エレファントが言った通り。

 それは、確かに、スパルナだった。

 全身は、まるで燃え盛る黄金のような色をした羽根で覆われている。その羽根の一枚一枚は、神卵を粉々に砕いた破片を紡いで作り出されたかのように、絶対の権能を象徴しているように、光り輝いている。そして、全身の色、首筋から尾の先に至るまで、次第次第に赤い色が混じっていく。その赤い色を一体何に例えたらいいのだろうか。それは、例えば、宇宙が見る夢が、一匹の怪物であったとして。その怪物を引き裂いて、そこから流れ出す禍々しい血液のように透き通っている。

 そして、首から上の部分は、一つの陶酔であった。それを見ているだけで、あまりの幸福感に酩酊してしまいそうになる白色。精製された恍惚、冷酷なほどの快楽。あまりの真聖さゆえに、見ているこちら側が、完全に浄化されてしまいそうになるのだ。それを見ている時には、頭蓋骨の中のあらゆるものが押し流されてしまって。後に残されるのはただただ完全な空白である。

 鳥と人間との中間のような姿をしている。最も、このような書き方は、第二次神人間大戦後の人間至上主義的な表現であるが。とにもかくにも、下半身には鳥らしい部分が残っていて。先ほども書いたように、跗蹠骨と脛腓骨との間がくの字に曲がっている。しかも、その曲がっている方向は、人間のように膝が前に突き出る形ではなく、その膝的部分が後ろに向かっているのだ。

 下半身だけがほんの少し前傾姿勢になっていて、その上に上半身がのっかっている感じ。そして、その上半身に、スパルナの最も大きな特徴がある。それは……二本の腕の存在だ。ちょうど、羽が生えているところの、すぐ下の辺り。明らかに高度な把持性を有する腕が生えている。人間や、あるいはヴェケボサンのような生き物となんの変わることもない、肘が曲がる角度も同じであるところの腕。ただ、そういう生き物の腕よりも、その長さは多少長いように思われる。

 それに、一本一本の指も長い。指の本数は、足と同じように四本であって。そして、三本が前向きについていて、残りの一本が後ろ向きについているというところもさほど変わらない。ただ、手の方は、第一趾が、ほんの少しばかり他の三本に近い位置についているのだが。指先には爪がついていて……いや、ついているはずなのだが……よく見えない。そこに何かがあることは確かなのだが、それがあまりにも黒々としていて、本当の暗黒なのだ。そのせいで、そこに何があるのか理解出来ないのである。

 そして、その嘴も、やはりそのような暗黒で出来ていた。そう、その生き物には嘴がある。鳥そのもののような頭部であって、しかも、猛禽類のようなあられもない残酷さである。優美な曲線を描き、生命そのものを否定するかのような絶望で満たされたその表情は、それを見る者に対して、ただただ死を予感させる形をしている。とはいえ……その顔で最も重要な部分、つまり、目は。やはり、死んだもののそれとして閉ざされたままであったが。

 このような姿、読者の皆さんどこか見覚えがありませんか? そう、そうです! カリ・ユガとの会見の前夜、開かれた饗宴、デニーと真昼とが座ったあの玉座。その背凭れの部分に飾られていた鳥の骸骨である。羽の端から端までが十ダブルキュビト以上あったあの鳥は、それほどの大きさであっても何かの幼鳥であるように見えたものだったが。つまり、この鳥と同じ種類の鳥、その幼鳥であったのである。

 ということは……もうお分かりですね? そう、その通り! デニーが、さんざんっぱら「あれ」という表現でぼやかしてきたもの。いや、ぼやかしてきたというか「アビサル・ガルーダの原材料としてのスパルナの死体」というのを毎回毎回言うのが面倒だったので「あれ」という一単語で済ませていただけの話なのだが。とにかく、真昼から発せられた荒霊の力と引き換えに、龍王から手に入れたものは。まさに、この、死骸だったのだ。

 しかし、デニーは、なぜこのようなものを手に入れようとしたのか? どう見ても死骸にしか見えない。変ないい方になってしまうが、完全に死に切っている。デニーは、確かカリ・ユガから兵器を手に入れると言っていたはずだ。対神兵器にも劣らぬ威力を持った兵器を。この、単なる死骸が、それほど危険な可能性を秘めているとでもいうのだろうか。

 まあ。

 それは、それと、して。

 それが何であるにせよ。

 そのような姿をした。

 生き物の、死骸、が。

 そこにあったのだが。

「あの……エレファントの姐さん?」

「なんだ、プレッシャー。」

「あれって、その……どんな生き物なんすか? それってーのは、その……あれから、すげー嫌な感じがするんすよ。こう、こっちに向かって、今まで感じたことがないような圧力を感じるんす。それに、さっきカレントが言ってた……神っての。エレファントの姐さん、あれって、つまり、神なんすか?」

「いや、神ではない。ただ神に非常に近い生き物だ。高等知的生命体であり、ゼティウス形而上体でもある。洪龍や煉虎や、あるいは強力なデウス・ダイモニカスのようにマホウ界における支配者の地位にある生き物で、その君主称号は最低でも公。あの個体について言うならば、あそこまで成長していることと、それに、感じ取れるセミフォルテアの強さ。そのようなことを考え合わせると、恐らく王レベルに達しているだろう。」

「はっ!? 何言ってんすか、ちょっと待って下さいよ! 王レベルって、つまり……」

「お前達でも対処出来ないということだ。」

 あくまでも。

 冷静に。

 エレファントは。

 そう、言い放つ。

 それに対して、プレッシャーは明らかに動揺していた。確かに、ブリッツクリーク三兄弟は、三人が力を合わせればレベル6に匹敵する能力を発揮出来る。とはいえ、あくまでも、ぎりぎりでレベル6といった程度であって。せいぜいが公レベルの生き物と戦うので精一杯なのだ。王レベル以上の相手と戦おうとすれば、レベル6の中でもかなり強力なスペキエース、つまり、正確な用語ではないが、レベル7の能力を持つスペキエースでなければならないのである。もしも、目の前にいるこのような生き物を相手にしなければならないのなら……とてもではないが、五人のテロリストには勝ち目がないだろう。

 そう。

 もしも。

 相手にしなければ。

 ならないのならば。

「そんな、姐さん……」

「落ち着け、馬鹿!」

 プレッシャーとエレファントとの会話に、サテライトが割って入る。もちろん、この言葉はプレッシャーに向けられたものだ。プレッシャーは、パニックを起こしかけているというほどではないが(プレッシャーはこう見えても何度も何度も修羅場をかいくぐっている)。それでも明らかに焦り始めていたからだ。サテライトは、スパルナの方を指差して更に続ける。

「よく見ろ!」

「え?」

「あれ、を、よく見てみろっつってんだよ! スパルナだかスペルマだか知らねぇがな、どう見たって死んでんだろ! ぴくりとも動きゃしねぇ、神と同じ力を持ってたってな、死んでたらなんの意味もねぇんだよ! あんなもんはな、せいぜいが、死んだ後も出し続けてるなんだかよく分かんねぇ力で、あたし達を日焼けさせることしか出来ねぇんだよ! だから落ち着け!」

 ちなみにスペルマという単語について少しばかり説明を加えておいた方がいいかもしれない。これはパンピュリア語におけるspermaという単語のグータガルド語読みであって、基本的な意味は種子なのだが、現在では、どちらかといえば精子を指す時に使用される場合の方が多いだろう。

 それでは、なぜパンピュリア語の単語をわざわざグータガルド語の読み方にした言葉を、サテライトが使用したのか? これには非常に複雑な理由がある。そもそも、第二次神人間大戦の際に。人間陣営は、軍隊の統一性を図るために、当時のリンガ・ホビッティカであったところの汎用トラヴィール語を人間間の共通の言語として利用していた。人間間ってなんかおかしいですね。それはそれとして……とはいえ、軍隊内で、それぞれの人間の母語を駆逐することまでは出来なかった。

 とりわけグータガルドの兵士達は、その残忍・その蛮勇のために、人間陣営において非常に重要な役割を果たしたのであったが。それゆえ軍隊内で使用されていた言葉にグータガルドの言葉が幾つか混じってしまったのである。特に、俗語というか、ちょっとばかり、こう、性的な文脈で使用される言葉。兵隊内での親交を深める目的で交わされるような、いわゆる下世話な会話においては、そういった傾向がかなり大きかった。

 そして、そんな共通の言語がそのまま現在の共通語に置き換わったわけである。無論、当時の汎用トラヴィール語が現在の月光語ベースの言語になったという違いはあるのだが。それでも基本的な体系としては何も変わっていない。ということで……共通語においてもそのようなグータガルド語が数多く残ってしまったのである。兵士と兵士とが、命懸けの戦闘の小休止で使用するような、ちょっとしたジョークのための言葉。

 サテライトは……今まで生きてきたほとんどの時間をそのような環境で過ごしてきたのであって。それゆえに、自然と、そういう単語が身についてしまったのだ。そして、今のように、ふとした拍子に使ってしまうようになったのである。つまり、何がいいたいのかといえば、サテライトは別にグータガルド語に通じているわけでもなんでもなく、骨の髄まで低俗文化圏に浸り切っている生き物であるということだ。

 閑話。

 休題。

 今回の閑話はマジで現状となんの関係もなかったな。まあね、たまにはですよ、ちょっとした寄り道も必要なんじゃないですか? とにもかくにも、えーっと、なんの話をしてたんでしたっけ……そうそう、あの鳥死んでるよねって話でしたね。

 そう、あのスパルナは死んでいる。つい先ほど書いたように、全身に傷を負って死んでいるのだ。ちなみに、致命傷となった傷はあの首に付けられた傷であって、それはクリタ・ユガの虚偽牙によって噛み裂かれた痕なのだが。なんにせよ、虚偽牙によってあのような傷を負わされてしまったら、恐らく神々でさえ生命を保ち続けることは出来ないだろう。

 それに、先ほどから……五人のテロリストが立っている場所まで、ある臭いが漂ってきていた。どうとも表現しにくいのだが、明らかに歪んでいて、根底から捻じ曲がっている臭い。それは……そう、死臭だった。とはいえ今までこの戦場に満ちていた死臭とは性質が違うものだった。

 今までのそれは、ただ単に肉体が腐敗した臭いだった。所詮は物理的な次元に限った崩壊の過程だったのである。だが、今の、これは……生命体を構成している根源的な情報そのものが、喘ぎながら、喘ぎながら、無限の混沌に引き摺り込まれていく時にするであろう臭いなのである。

 つまり。

 ゼティウス形而上体が。

 死んだ時に発する臭い。

 その臭いを嗅いだだけで、五人のテロリストは理解することが出来た。このスパルナが、完全に死んでいるということを。これは論理的な思考の結果として導き出された答えではないが、とはいえ、絶対的な真実だった。生命体としての根底が、真実を真実として理解したということだ。この臭いがする以上、この生き物は死んでいる。絶対に、間違いない。

 「はは……ははは……そうっすよね」。サテライトの言葉に、それでもスパルナの死骸から目を逸らすことが出来ないままでプレッシャーが言った。「死んでる……死んでるんなら、俺達には、手ぇ出せない」「そうだよ、だから落ち着け!」。だが、そうやって励まし合っている二人の会話に、カレントが割って入ってくる。いや、割って入ってくるという表現は正しくないかもしれない。カレントは、ぽつりと、独り言のように言葉を漏らす。

「そうですね、あれは死んでいる。」

 ひどく。

 冷たく。

 凍り付いたような。

 青く透き通った声。

「そして、デナム・フーツは死霊学者だ。」

 ふっと、その言葉に、エレファントが振り返った。カレントの言葉に含まれていた、溶けた鉛を混ぜた猛毒にも似ている冷度に気が付いたのだろう。相変わらずモニター画面にノイズを映し出しているカレント。そのモニター画面に向かって言う。

「何かが見えているのか、カレント。」

「ええ。とはいっても……これをなんと表現すればいいのか、私には分かりませんが。今は、彼は、何も隠していません。全てのことを曝け出している。ありうべき未来の全てを私は読み取れます。しかし、これは……見えているからといって分かるわけではない。これは、少なくとも私が理解出来ることではない。」

「一つ質問をする。」

「はい。」

「答えられるか。」

「努力します。」

「普通の死霊学者は自分の魔力及び精神力の範囲内でしか死者を生き返らせることが出来ないはずだ。もしもそれ以上の力を持つ対象を生き返らせようとしても、生き返らせることを完全に失敗するか、あるいは不完全なリビングデッドを作り出すことしか出来ない。そうであるならば、あのように強力な生き物をデナム・フーツが生き返らせることが出来るとは思えない。生き返らせたとしても、さほどの脅威とはならないはずだ。それでも、お前が見ている未来において、あのスパルナは危険となりうるのか。危険なリビングデッドとなりうるのか。」

「リビングデッドではありません。それは、リビングデッドではない。」

「どういう意味だ。」

「私は魔学者ではありません。それに、あなたのように、魔学についての浩瀚な資料を記憶しているというわけではない。だからあくまでも彼の思考の流れから読み取れる曖昧な印象をお話しすることしか出来ません。けれども、それでも、これだけは分かる。それはリビングデッドと呼ばれるべきものではない。なぜなら、それは生でも死でもないから。あらゆる意味において、通常の生命の原理とは全く異なっているもの。livingでもdeadでもない。要するに、それは、lifeによって定義出来るものではないんです。生命とは完全に対極にあるもの。それは、つまり、敢えて言葉にするならば……反生命。」

 カレントが。

 そこまでを。

 話し終えた。

 その、時に。

 ぱっと、カレントのモニター画面が何かを映し出した。あらゆるノイズが消え去り、まるで現実のものであるかのようにして、ある一つの光景が映し出されたのだ。まるで……まるで? いや、違う。それは、まさに現実に起こっていることだった。五人のテロリストが向かっている先、つまり、あの、玉座において。カレントのモニター画面は、その玉座で起こっている出来事をリアルタイムで映し出し始めたのだ。

 それでは、その玉座では何が起こり始めていたのか? 玉座へと至る階段の半ばに立って。デニーが、デニーが、デニーが……歌っていた。そこにいる、デニー以外の誰一人として理解出来ない言葉によって。それはホビット語ではなかった。それはパンピュリア語ではなかった。それは、聖職者用トラヴィール語でも汎用トラヴィール語でもない。ヴェケボサン支配領域における標準言語でもなければ、ユニコーン支配領域における標準言語でもなければ、偽龍通商言語でもない。今まで人間が使ってきたあらゆる旧語でもない。もちろん共通語でもない。

 それは。

 そういった。

 あらゆる。

 不完全な。

 言語とは。

 異なった。

 この世界で。

 最も。

 完全な。

 言語。

 つまり。

 ケレイズィ語。

 ケレイズィ語は……そもそも言葉ではない。確かに、デニーは、その口を動かして歌っているように見えるのだが。実際には、それは音声による言語ではないのだ。というか、言語でさえない。ケレイズィ語は、概念そのものなのだ。

 言語というものは、例えるならば、ある種の星占いのようなものである。つまり、占秘学における占星術とは全く異なった、人間至上主義社会における低俗な星占いということだ。マクロコスモス的な星々の動きとミクロコスモス的な自分自身の運命とが、なんらかの形で対応していると「仮定」して。その粗雑な「仮定」に従って、現実に起きる出来事を秩序化していく。すると、次第に次第に世界というものの形が見えてくるような気がしてくる。

 言語もそれと同じなのだ。恣意的に決めつけられた「仮定」の集合体に過ぎない。星々の動きと自分自身の運命とがなんの関係もないように、言語と概念との間には、本来的かつ根本的になんの関係もない。もしも、言語によって、概念を把握出来ていると考えるならば。それは思い込みである。星占いによって自分の運命の全てを予言しうると考えるのと同じくらい馬鹿げた思い込みだ。言語によって見えてくる概念の形というものは、星占いによって見えてくる世界の形に等しい。つまり、全くのでたらめである。

 一方で、ケレイズィ語は。ベルカレンレインから外挿された概念そのものだ。それは個体における精神から形成されるものではなく。精神さえもその一部であるところの、純粋概念の完全な構造体から、いわば無媒介に引き出されたものなのだ。つまり、ケレイズィ語を使用する者は、ベルカレンレインと現実とを結ぶ一種の導管になるのである。今のデニーは、歌っていながら歌っているわけではない。その歌は、デニーのconducoのもとで、世界そのものが歌っている歌なのだ。

 それでは、その歌はなんと歌っているのか? もちろん、それは言語によって翻訳することが出来ない歌だ。人間が使うあらゆる言語、それどころか高等知的生命体が使用する記号にさえ置き換えることが不可能な歌だ。とはいえ、それを一つのホロスコープとして提示することは出来る。五人のテロリストが、これからどんな運命に突き落とされるのか。そのことについて、嘲笑と同じような予言を行うことは出来る。デニーは、つまり……はは……はははっ……次のように歌っている。

 否定。

 プラス。

 排除。

 プラス。

 疎外。

 プラス。

 切断。

 プラス。

 隔絶。

 プラス。

 境界。

 プラス。

 個別。

 プラス。

 孤独。

 プラス。

 差異。

 プラス。

 閉塞。

 プラス。

 固定。

 マイナス。

 結束。

 マイナス。

 連帯。

 マイナス。

 融和。

 マイナス。

 理解。

 マイナス。

 共感。

 マイナス。

 慈悲。

 マイナス。

 愛情。

 マイナス。

 尊敬。

 マイナス。

 信仰。

 マイナス。

 甘美。

 マイナス。

 好意。

 イコール。

 生命。

 一つ一つの単語、一つ一つの概念が、まるでカトゥルンが書き記した書物の上で踊っている破滅の真実であるかのようにして、カレントのモニター画面の上に映し出されていく。それは、数字というあまりにも不完全な記号に閉じ込められる前。無限にして絶対の権能を有する概念そのものが形作る方程式だ。

 それでは、これは、一体何を意味する方程式なのか? デニーはこの方程式によって何をしようとしているのか? いやいや、そんなことは問い掛けるまでもない問いであった。なぜなら、この方程式そのものが、その問いに対する答えを提示しているからだ。これは、生命を概念的に証明するための方程式。

 要するに。

 これは。

 まさに。

 生命。

 そのもの。

 生命とは何か? それを知りたいのならば、まずは台所の前に立ってみるといい。食器棚の中にしまってある鍋を取り出して、内側に一杯に水を満たして。その中に、一滴だけサラダ油を垂らしてみたまえ。油は、水に混ざり合うことなく、小さな油の粒となって、ゆらゆらとそこに浮かんでいるだろう? つまり、これが生命の最も基本的な形態である。油の膜は、油の外側の水と油の内側の水とを分ける。皮膚によって外的世界と内的世界の区別が生まれる。世界から分かたれたところの世界、これこそが生命の最も本質的な定義だ。つまり、生命とは、見捨てられたものなのだ。自分以外のあらゆるもの、あらゆる世界の構成要素から見捨てられたもの。それこそが生命なのである。

 そして、いつか……油の膜が破れる。内側に水を含んでいた小さな小さな袋が破れて、そこに入っていた水がこぼれ出す。油の中に入っていた全ての水が、また鍋の中の水に解き放たれて混じり合う。これが死だ。死とは他者を受け入れることだ。あらゆる方法で、ある生命が他の生命を受け入れる時。そこには必ず死が発生する。ある一匹の生き物がある一匹の生き物とつがいになって、交尾の末に別の生き物を出産する。この過程のあらゆる時点で生命は毀損されていく。確かに、見た目の上では、生命が一つ増えたように見えるかもしれない。だが、それはまやかしだ。生命の完全性は生命の個数によって決定するわけではない。外界の完全な拒否こそがそういった完全性を保証する。

 誰よりも見捨てられた生き物こそが、何よりも純粋な生命なのだ。誰かを愛すること、誰かを信じること、誰かを美しいと思うこと、誰かを正しいと思うこと。これらの全ての行為は生命に対する裏切りであって、自らの手で自らを殺しているに過ぎない。これらの全ての行為は、まさに生命を破壊する行為なのだ。何も受け入れることなく、ただただ自分の内的世界にのみ閉じ籠もっている生き物。それが不死の生命体となるための条件である。

 まあ。

 こんなことは。

 いうまでもない。

 当たり前のこと。

 なのだが。

 と、いうことで。デニーが歌っている歌、カレントのモニター画面に映し出されたその歌詞。それは、生命の定義であった。そう、生命の定義であり……また、反生命の定義でもある。これは勘違いしている者が多いことであるが、反生命とは死ではない。死とは、生命が生命ではなくなる現象を指し示す言葉であって、それ以上でも以下でもない。一方で、反生命とは、生命の絶対的な対極にある一つの原理である。

 これはエドマンド・カーターによるカバラーにおいて次のように図示される。一本の大樹、生命の樹として表わされるジュノス。その中で、地上に出ている枝の部分、光り輝く枝の部分が生命である。そして、地下に埋もれている部分、闇に浸された根の部分が反生命である。要するに生命も反生命も定義上は同じ概念で表わされるものなのだ。ただ……それが白い文字で書かれるか黒い文字で書かれるかが違っている。

 そして。

 カレントの、モニター画面。

 そこに映し出された文字は。

 完全な。

 漆黒で。

 塗り潰されている。

 そして……ああ……今。その文字が、どろどろと溶け出した。カレントのモニター画面の上、禍々しくも虚ろな静寂であったところの「生命」の二文字が、まるで腐り切って滴り落ちる死肉のようにして溶解し始めたのである。一体、何が起こったのか? それを知るためには、また玉座の方に目を戻す必要がある。

 デニーに……フードの奥で可愛らしく首を傾げて、まるで天使の子供のように美しい顔をして笑っているデニーに。何かが起こっていた。ただ、何が起こっているのかが全く分からない。人間のような卑小で卑賤な生き物には、この現象がなんなのかということが、全然理解出来ないのだ。

 とにかく、今のデニーについて描写していってみよう。先ほども書いたように少し首を傾げている。ただ、これはなんらかの疑問を表わすジェスチュアというよりも、五人のテロリストに向かって「どう?」「デニーちゃん、すごいでしょー!」という感じ、ちょっとした楽しい気持ちを表わしているに過ぎないだろう。そして、両方の腕を、体の横に大きく大きく広げて。今にも飛び立ちそうな……あるいは、今にも十字架に磔になりそうな、そんな姿勢をとっている。

 ここまではいい、ここまではなんの問題もない。理解不能なのはここからだ。デニーの口は、未だ、生命の定義を歌い続けていたのだが。その口から、だらだらと、どろどろと、何かが吐き出されていた。喉の奥から、歌声とともに、永遠にこぼれ落ちて滴り落ちていくかのような液体。それは……液体ではなかった。というか、そもそも存在のようなものでも、概念のようなものでも、そのどちらでもなかった。例えるならば終末の海に似ているだろう。これまで生き物であった全ての材料、世界のあらゆる部分を分断していたはずの内的世界が、死に絶えて、再び一つの原理に戻った姿。虹色に沈み込むような暗黒、曖昧に消え去りそうな輪郭。けれども、それには色も形もない。

 もしも真昼がこれを見ていたら、間違いなくこれを見たことがあると思っただろう。そして、こんなものは見たことがないと思ったに違いない。真昼が思ったであろうそれらの思いはどちらも正しいものだ。つまり、真昼はこれを見たことがあるし、これを見たことがない。

 ASKのアヴマンダラ製錬所、ティンガー・ルームにて。捕えられ、研究材料として搾乳されていた、一頭の、母なる、牛。カーマデーヌ。その乳房から絞り出されていた、あの液体。液体ではない液体、スナイシャクによく似たもの……つまり、ライフ・エクエイション。

 デニーがなんでもない顔をして嘔吐していたのは、まさにそれであった。というか、それとは完全に異なっている何かだ。それであり、それではないもの。要するに、カーマデーヌが生み出していた液体は生命だった。生命の原理だった。一方で、デニーの口から流れ落ちている液体は、それを鏡に映し出したもの。それを逆さまにしたもの。

 それは。

 それは。

 反生命の原理。

 アンチ・ライフ・エクエイション。

 デニーの中で、その原理は、次第に次第に膨張しているようだった。悍ましい反生命について、ケレイズィ語によって、それが完全な形で証明されていくにつれて。デニーの口からは、ますます大量の嘔吐が、ごぽりごぽりと音を立てて流れ落ちていって。それどころか……それは、口だけでは足りなくなったようだった。

 デニーの左目から、すーっと一筋の涙が流れ落ちた。血も涙もないはずのデニーが涙を流した? いや、違う、よく見れば、それはあの液体だった。つまり、世界が終わる日の暗黒と同じ色をした反生命の原理。それが眼窩からも溢れ出したのだ。左目の下だけではなく右目の下にも流れ落ち始めて。最初は、些細な流れに過ぎなかったものが。やがて滂沱のような落涙となる。

 口からも目からも、とめどなく氾濫し、この世界を汚していく反生命の原理。それでは、デニーは、今、これによって何をしようとしているのか? またもや新しい問い。そして、その問いに対する答えを得るためには、更に目を移す必要があるだろう。玉座から別の場所へ……スパルナの死骸が落ちている場所へと。

 傷だらけになり、腐り果てて、月の見えない夜のような静寂のうちに横たわっている死骸。反生命の原理は……まさにその死骸の上に滴り落ちていた。したしたと、忌まわしい汚穢の象徴。あらゆるものの上に落ちて、あがらかしくそれを濁らせる過ちの雨のようにして。その死骸を濡らしていたのだ。

 デニーの口から、デニーの目から、流れ出していたはずなのに。それはいつの間にかスパルナの死骸の上に垂れ垂れていた。反生命の原理は、玉座の階段の上を流れ落ちていったわけではなく、ところどころで草原が斑になっている岩盤の上を流れていったわけでもなく。デニーがそれを嘔吐・落涙する、それと同時にスパルナの死骸に降り注いでいたのだ。あたかも、デニーの肉体のすぐ下にスパルナの死骸が落ちているかのように。

 時空間上はなんの接触もない二点間を、当たり前のようにして結び付けている。反生命にはそういった拘束は関係ないのである。なぜなら、反生命は存在でも概念でもない、何か、全く、別のものだから。反生命には、自分自身であるところの原理以外に傅く相手はいない。

 反生命の原理は、そのようにしてスパルナの死骸を濡らしていて。それどころか、その死骸の周囲に、まるで湖のような液体溜まりを作り出していた。これは明らかにあり得ないことであって、少し前に書いたように、この死骸は体長百ダブルキュビトを超える生き物の死骸なのである。その全体を沈めてしまいそうな液体溜まりを作り出すなんて、いくらデニーが反生命の原理を大量に吐き出していようとも出来るはずがない。

 ただ、やはり、反生命は、そのような物理学的な常識にも拘束されていないのだ。質量保存の法則という条件はあくまでも物質を制限するものに過ぎない。反生命には、そもそも「量」という条件自体が通用しないのだ。

 とにかく、スパルナの死骸は反生命の原理が作り出した液体溜まりの中に沈み込んでいた。もちろん、全体が沈んでいたというわけではない。せいぜいが全身の三分の一程度に過ぎない。とはいえ、露出している部分については、やはり反生命の原理が降り注いでいたのである。

 反生命の原理は……踊っていた、踊っていた、踊っていた。まるでデニーの歌声に合わせているみたいにして。可塑性が、可撓性が、可変性がある物質のように。スリムニーのように、アモイベーのように、なんらかの不定形の踊り子であるかのように。滴り落ちては跳ね上がり、降り注いでは波打ち。渦を巻いて、歪みを作り、粉々の飛沫となって。どっと吹き上がっては柱を作り出し、ごぼごぼと泡立っては球を作り出し。しなやかな曲線を何本も何本も生やしては、ぐるぐると螺旋状に沈んでいく。

 そして、そのようにしながら、だんだんと、だんだんと、スパルナの死骸を侵食していたのだ。ずるずると、スパルナの全身、羽の内部へと浸透していって。がばりと開いたままになっている口から、閉ざされている瞼と瞼との間から、矢による傷口から、槍に似た物による傷口から、虚偽牙による傷口から、スパルナの肉体の内側へと沈み込んでいく。

 あ。

 あ。

 反。

 生。

 命。

 が。

 そ。

 の。

 肉。

 体。

 へ。

 と。

 沈。

 み。

 込。

 ん。

 で。

 い。

 く。

 五人のテロリストは理解していた。存在を経由した方法でもなく、概念を経由した方法でもなく、生命そのものによって、完全に理解していたのだ。感覚があった。それは予告という感覚である。世界の全体が反転色の色彩へと変化し、時空間そのものが静止したかのような静寂が轟音として鳴り響く。あらゆるものが、燃え尽きた灰みたいに、腐り爛れた甘い匂いを撒き散らしていて。全身を這い回っている神経、その一本一本が、吐き気を催しそうな悍ましい恍惚に浸されているみたいだ。平衡感覚は、歪み、乱れ、その肉体は落ちていきながらくるくると回転し、やがては、底の底、天の天、何もない空白の空間にぽかんと浮かんでいる。それから、細胞が、細胞が、細胞が、ばらばらになって、自分という集合体さえも保てなくなってしまう。もちろんそういった感覚の全てはただの感覚に過ぎない。どれもこれも現実に起こっていることではないのだ。そして、それが、予告なのである。

 一体、なんの。

 予告、なのか。

 その……瞬間に……世界、が、震えた。世界そのものが、まるで怯えているかのように震えた。五人のテロリストは何が起こったのか理解出来なかったが、とはいえ、その口を開いてなんらかの疑問を呈するようなことはしなかった。声を出すことが出来なかったのだ。そうして、その後で、それが起こった。

 指先がほんの僅かに動いた。あたかも現実に起こった全てのことが気のせいだったとでもいうみたいにして。ゆらり、はらり、さはり。水面の上に砕かれたナリメシアの残骸、あわやかな夢のように揺れた。

 それはスパルナの指先だった。スパルナの左手、第四趾。洪龍の虚偽牙によって屠られて、その生命を喪失したはずのスパルナ。死に絶えて、決して生き返るはずがないスパルナ。その指先が、今、動いた。

 痙攣した。びくん、びくん、と脈打つように跳ねて。第二趾から第四趾までの全ての指先が大きく大きく反り返った。その後で、ゆっくりと、何かを掴み取ろうとしているみたいに、三本の指は大地の上へと下がっていって。そして岩肌の上に爪を立てた。ぎりぎりと、がりがりと、それらの爪は岩肌を突き刺して。消えかけた雲を刻むかのように、いとも容易く引き裂いていく。

 スパルナの全身を沈めていた反生命の原理は、大半が死骸の中に取り込まれていたが。とはいえ、一部は、未だにスパルナの全身に纏わりついていた。特にその顔の周辺。あたかも自らが口の端から滴らせた唾液の中に溺れているかのようにして、そこには、反生命の原理が液体溜まりを作っていた。

 ねぱり、ずつり。その液体溜まりの中でスパルナの顔が動いた。スパルナの顔は、右を下にして、左を上にして、横向きになっていて。右側が、ほんの少しだけ液体溜まりに浸かっているという感じだったが。まるで、たった今覚醒したばかりで、未だに瞼の開け方さえも分からないとでもいうみたいに。両方の目を閉ざしたままで、嘴の先を動かし始めた。

 喘ぎ、喘ぎ、必死に空気を吸い込もうとしているみたいに、嘴ががぱっと開く。すると、その喉の奥からどぱぁっと音を立てて反生命の原理が吐き出される。開きっぱなしになった口からは、ずくずくと反生命の原理が流れ出してくるが。ただし、そうやって排出された反生命の原理は、またスパルナの全身に群がって、傷口という傷口に入り込んでいく。

 暫くは、そのようにして、小刻みに震えていた。肉体の末端を動かすことしか出来ないでいた。けれども、やがて……ふうっという感じ。大きく、大きく、その全身で、外界の空気を吸い込んだ。胸が、腹が、大きく膨れ上がって。それから、スパルナは、とうとう……目を開いた。

 鵬と呼ばれる生き物、その眼球は一個の宝石である。この世界で最も純度が高く、この世界で最も明度が高く、この世界で最も完全な基本子配列を有する宝石。その中でも、とりわけ、アーガミパータ種であるスパルナの眼球は透き通るような冷酷さで名を馳せている。それは、全体が、凍り付いた黄金のように絢爛に光り輝いていて。そして、その中心は、どれほどの重力特異点であってもこれほど光を飲み干すことなど出来ないだろうというほどの黒。その眼球によって見定められたものは、きっと初めて知ることになるだろう。絶対的な美とは、要するに絶対的な恐怖と同じ現象なのだということを。

 もちろん、そのスパルナの眼球も、やはりそのようなものであったのだが。とはいえ、どこかおかしいところがあった。いや、そうではない。それは「死」が原因の異様さではない。開き切って輪郭が曖昧になった瞳孔や、あるいはでいでいとした濁りが混じってしまっているところ。なんとなく焦点が合っていない、どんよりとした感じ。それに生命が感じられない虚ろさといった異様さは関係ないことだ。

 その異様さは、目の中心部分、その黒に由来していた。それは、普通のスパルナの瞳とはなんとなく違っていた。確かに、それは何よりも黒であるところの黒だったのだが……しかし、同時に、それは黒ではなかった。それは色ではなかった。色という存在ではなかった、色という概念ではなかった。

 それは。

 つまり。

 反生命の暗黒。

 ああ。

 ああ。

 スパルナ、は。

 蘇生したのだ。

 ただし。

 生命によってではなく。

 反生命によって。

 下瞼が開いて、眼球が外の世界に露出するとともに。暗黒が、周囲に満たされている黄金を蝕み始めた。どす黒く沈み込んだ瞳が光り輝く結膜に向かって漏出し始めたのだ。まずは、触手じみた細い流れが、罅割れにも似たやり方で眼球の全体に張り巡らされて。そして、その流れは即座に決壊する。どうどうと溢れ出た暗黒は眼球の内側にどんどんどんどんと充満していって。二つの眼球は、まさに反生命そのものになる。

 いや、それどころではなかった。眼窩に溜まった反生命は、その中にとどまることさえ出来ずに溢れ出したのだ。スパルナは、あたかも涙を流しているかのように、その両眼から反生命の原理を滴り落としていて。それだけでなく、先ほども書いたように、その口からも反生命の原理が流れ出している。そう、その様は、玉座の階段にいるデニーとほとんど同じであった。

 それから、スパルナは、がああああぁっという感じ。大きく、大きく、一際大きく嘴を開いた。そして、その嘴から……この世界に生きる健全な生き物が、今まで一度も聞いたことがない、それどころか想像さえしたことがないような、凄惨な咆哮が吐き出された。ごぽごぽと、喉の奥で泡立つ反生命の音とともに。その咆哮は、完全な「邪悪」を見たことがある生き物しか叫び得ないような、そんな絶望的な悲鳴であった。

 叫びはいつまでもいつまでも終わることがなかった。どれほどの苦しみが、どれほどの痛みが、あるいはどれほどの畏れが。このようにして、声帯を震えさせることが出来るのか? スパルナはのたうち回っていた、何かに縋ろうとして大地をめちゃくちゃに刻み、両脚は何度も何度も空を蹴り飛ばし。巨大な羽が、まるで一つの暴力そのものであるかのように世界に向かって叩きつけられる。スパルナが羽搏くたびに、まるで爆発する恒星のフレアみたいにして、そこら中にセミフォルテアの波動が散乱する。

 絶叫、絶叫、絶叫、まさしく絶叫。そして、そんな絶叫に……そういえば……何かの音が混じっていた。その音は、声だった。しかも、ただの声ではない。笑い声だ。どれほど清い生き物であっても、この世界に生まれ落ちたばかりの生き物であっても、これほど透明な笑い声は出せないだろうというような。限りなく無垢で、限りなく清浄な、銀イヴェール合金で出来た鈴の音色のような笑い声。一点の穢れさえ存在しない、美しい美しい笑い声。とても、とても、可愛らしい笑い声。

 要するに。

 デニーの。

 笑う、声。

 「あははははははははははははっ!」。デニーが笑っていた。あっけらかんと清々しい声で、底抜けの無限みたいに楽しそうに。悶え苦しみ、痛みで全身を歪めているスパルナを眺めながら、デニーは笑っていたのだ。まるで……そう、生まれてから一度も罪を犯したことがない子供が、可愛らしい小鳥が躍っているのを見て笑っているかのように。

 とはいえ、デニーはアンチ・ライフ・エクエイションを歌うことをやめたというわけではなかった。一度説明した通り、その歌は言語ではない。純粋な概念を、ケレイズィ語という導管を通して現実世界に引き摺り出したものだ。ということで、その歌は、口・喉・声帯によって歌われているわけではないのであって……従って、デニーは、笑いながら歌っていた。

 デニーの歌声は、未だ、反生命の原理を定義し続けていて。デニーの、口からは、目からは、反生命の原理が吐き出され続けている。ただ、とはいえ……少しばかり、先ほどまでの状態とは違っているところがあった。

 それは、反生命の原理が、ただただ重力に従って落下していくというだけではなく。ゆらりとして浮かび上がり、デニーの肉体に纏わりつき始めていたということだ。とはいえ、侵食しようとしているわけではない。

 あたかも、デニーに対して非常に懐いている無定形の原生生物であるかのように。全身を愛撫するみたいなやり方で、柔らかく柔らかく、その肉体と重なり合うところの時空間を泳いでいるのだ。そして、そのようにして他愛もなく些喚いていながらも……それは、徐々に、徐々に、何かの形になろうとしていた。

 デニー、の、周囲、に、何か、が、形、を、表わし、始めて、いた。それは図形であったが、とはいえ、人間の知っているあらゆる法則から、完全に解放されたところの法則であった。例えば、この世界においては一足す一は二であり、一引く一はゼロであり、一掛ける一は一であり、一割る一は一であるが。そういった基本的な数学の法則さえも、その図形の中では破棄されているのだ。そして、更に、そういった科学的法則だけではなく、魔学的法則をも超越している図形。

 ある意味で、それは魔学式に似ていたかもしれない。それも当然の話であって、魔学式とは、この図形をこの世界の法則にまで落とし込んだ図形だからだ。つまり、これはケレイズィ語の文字なのである。デニーの歌声に合わせて、反生命の原理が、いかにも楽しげなダンスを踊っているということだ。

 と……たった今、気が付いたことがある。デニーの歌声が、先ほどまでのそれとは、つまり、このようにして反生命の原理が図形を描き出す前のそれとは少しばかり異なっているということだ。それは、確かに反生命の原理であるのだが。ただし、それが捻じ曲げられたものなのだ。

 つまり、デニーは、自分の思い通りに反生命の原理を作り替えようとしているということだ。その結果としてアンチ・ライフ・エクエイションは踊り始めたのである。デニーが歌う歌に合わせて喜びとともに作り替えられている。

 この世界よりも遥かに高きところにある原理。生命と反生命という原理。そのようなものさえも、自らの前に露呈させて、そして、自らのものとして書き換えようとする。それは決して許されるはずがないほどの冒涜的な傲慢だ。

 傲慢。

 科学は冷酷の方法であり。

 魔学は傲慢の方法である。

 そう。

 つまり。

 これは。

 魔学。

 死霊学の方法。

 それでは、デニーは、どうしようとしているのか? デニーは反生命の原理を使って何をしようとしているのか? それは……でも……分からない……そんな……とにかく……今……何が起こっているのか……措定されていく……現実……この世界に……見よ……見よ……その力強き御業を……デニーの身体は、あたかも、心優しい母親に抱き上げられる無邪気な子供であるかのようにして。体中にれいれいと纏わりついてる反生命の原理によって、ゆっくりと、ゆっくりと、浮かび上がっていく。

 そもそもデニーは、階段の上、地上から五ダブルキュビト強の高さの位置に立っていたのだが。そこから更にいと高きところへと……聖なる聖なる支配者を、崇拝と畏敬とを込めて、世界に向かって掲げるかのようにして。反生命の原理は、高く高く差し上げていく。その高さが地上から数十ダブルキュビトの高さになった時、ようやくrisingは停止する。

 それから、反生命の原理は。ふわりと、重力が規定する全ての法則から離脱した。デニーの身体を支えていたところの、反生命の原理が作り出した梯子のようなもの。それが、玉座の階段から柔らかく浮かび上がって、何一つ支えるものもなく、空間を自由に動き出したということだ。そして、デニーに向かって、糸が糸球に巻き付くようにして集中していく。

 デニーが階段の上にいた時から構成されかけていた図形。それが、ここに至って、加速度的にその全体を表わし始める。反生命の原理は、魔学式よりも遥かに正確であり、魔学式よりも遥かに精密であり、それゆえに魔学式よりも遥かに強力な図形を、デニーの周囲に、一つの理程式として描き出している。

 それは、果たして、人間の目から見ればどのような姿になっているのか? まずは、デニーの身体、その一回りを、幾つも幾つも回転している転輪である。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。合計して六つの転輪が、様々な大きさ、様々な角度で、ところどころで重なり合いながらも、今にもデニーの身体を輪切りにしようとしているかのように回転している。

 転輪の一つ一つには、記号ではない記号、純粋概念によって、それぞれの真実が書き記されている。その真実とは、上から順番に「因果関係の否定」「宿命」「快楽」「永遠と無限」「絶対的拘束」「不可知」。これらの真実は、無論、あらゆるものを超えたところにある完全な原理であるというわけではなく、アーガミパータにおいてアージーヴィカという名前で呼ばれている六つの法理論である。これらの一つ一つを体得することがニルグランタにおける目的であるとされているのだ。

 つまり、これらの転輪は、いわゆる法輪なのである。一つ一つの転輪が完全な原理へと至るための論理的な真空なのだ。これらの転輪が一度回転するたびに、無明が引き裂かれていく。一つの生命が完全な原理へと至ることを阻んでいるところの、根源的な誤解の状態、何も知らないのではなく間違っていることを知っているという状態が解除されるのである。

 そして、それらの法輪が、デニーが利用しようとしているその魔学的法則のエンジンとなっているのであれば。当然のように、その魔学的法則が外世界に適用されるためのインターフェースも必要になってくるだろう。それこそが……デニーの近く、ふわふわと浮かんでいる、七つの宝石だ。

 反生命の原理によって作り出された、球体であるとも多面体であるともよく分からない、それどころかどのような次元に属しているのかも曖昧な、それらの宝石は。いわゆるサプタラトナとして作られていたのであった。サプタラトナ、バーンジャヴァ語で「七つの宝石」を意味するそれらの宝石は、その持ち主の支配力を表わす一つの象徴形式である。

 もちろん、一般的には、反生命の原理で作られているわけでもなく、このように純粋概念によって表わされるわけでもない。一般的なサプタラトナは、ごくごく普通の宝石によって作られるありきたりなマジック・アイテムに過ぎない。まあ、ありきたりとはいっても、それを所有する者はある程度の支配的地位にある者に限られるのだが……それにしても、今、デニーが作り出したようなサプタラトナは、あり得ないほどに例外的なものだ。

 とにかく、なんにせよ、サプタラトナが作られる目的は一つである。つまり、支配だ。その一つ一つが、支配そのものの情報的構成要素を完全な形で律法結晶化させたもの。「征服」「正統」「暴力」「欲望」「富裕」「威光」「従属」の七つの宝石によって、それを持つ者に対して支配の権能を与えるのである。

 要するに、何がいいたいのかといえば……この魔学的法則は、支配を目的とした魔学的法則だということだ。それでは、デニーは、何を支配するためにこのような魔学的法則を組み立てたのだろうか。そんなこと決まっている。ついさっき、生き返らせたそれ。つまり、目の前で、まるで一つの災害か何かのように暴れ狂っているスパルナを支配するために描かれた理程式なのだ。

 そして、今……デニーは、すうっと、その姿勢を変える。まずは、左の手。まるで、自分の心臓の音を確かめようとしているかのように、軽く握り締めた手のひらを胸に押し当てて。それから、右の手。ちょっとした冗談を言おうとしているかのように、右斜め上の方向へと、柔らかく差し伸ばす。

 「征服」と「暴力」と「従属」とが、左の手のひらの近くで、その形状を展開させる。それらの宝石の一つ一つが、ぱあっと開いて、なんらかの形の入力インターフェースになって。その後で、「正統」「欲望」「富裕」「威光」の四つは、右の手の近く、なんらかの形の出力インターフェースとして、幾つかの中心的な中枢器官を有する網状組織を形成していく。

 魔学的法則は。

 これで完成だ。

 そうして。

 そうして。

 デニーは。

 デニーは。

 その口。

 他愛もなく。

 動かして。

 最後の言葉。

 発動の言葉。

 を。

 口ずさむ。

「あびさる、がるーだ。」

 と……その瞬間に。あれほどまでに、暴れ、叫び、のたうって、辺りにあるあらゆるものを破壊していたスパルナが。結晶化した次元の断層に閉じ込められてしまったかのようにして、完全に静止した。この戦場の全体が、急に、底が抜けたような無音の中に墜落して。ただただ奇形じみた静けさだけが残される。

 それから、どれだけ時間が経ったのかよく分からないが。ほんの一瞬だったかもしれないし、かなり長い間その状態が続いていたのかもしれない。そのような、時間という低次の概念が意味をなさなくなるような静寂が……不意に破られた。

 ずず、ずずず、ずどぐぐん、という音を立てて。スパルナが、体を動かし始めたのだ。とはいっても、先ほどまでの狂騒的な動かし方ではない。ひどく冷静で、ひどく当たり前な動かし方。今まで横向きになって倒れていた体を俯せにした。

 右の手のひらを大地の上につく。右腕に力を入れて、上半身を少しだけ持ち上げる。その後で、左の手のひらも大地の上について、両腕、大地を押しのけるみたいにして、ぐうっと上半身を起こす。この時の姿勢は、両方の手のひらを、両方の腿を、大地の上について。まるで何者かに向かって――もちろんこの何者かとはデニーのことだが――跪いているかのごとき姿勢なのであったが。そこから、スパルナは、ざざばり、ざざばり、という感じ。太陽が墜落した海が、そのあまりの熱量によって、静かに静かに引き潮になっていくかのようにして、下に向かって垂れ落ちていた二枚の羽を引き上げ始めた。

 べちゃり、べちゃり、その羽の先から反生命の原理が滴っていく。それだけではない、スパルナの全身、そこここから、未だに反生命の原理が漏出していて。滴り落ちては、また、スパルナの肉体に沈み込んでいく。羽は、静かに、静かに、持ち上げられていって。やがて、いかなる黄金よりも輝かしかったはずの黄金の羽は、今となっては生命そのものを汚すような暗黒によって汚された羽は、完全に開き切った。その全体が、再び、ヒラニヤ・アンダの栄光によって照らし出された。

 スパルナの、両方の手のひらが、がりがりがりという音を立てて露出した岩肌に爪を立てる。岩肌は、まるでアイスクリンでアイスクリームを刳り抜くみたいな容易さで抉り取られて。そのまま、スパルナは、またもや起き上がることを始めた。とはいっても、今度は上半身だけではなく、その全身を起こすことにしたらしかったのだが。

 人間とは反対の方向についている膝を、柔らかく屈曲した空間に圧力をかけていくかのように、折り曲げていって。その結果として、全身の体重が下肢の上にスライドしていく。その過程を後押しするみたいに、右の手のひらで、左の手のひらで、抉り取った岩肌を、更に、更に、押しのけていって。やがて……体の全体が下肢の上に乗る。

 そこからは、もう、さして難しいことはない。折り曲げられていた膝を少しずつ伸ばしていって。rising rising、up rising、その体を立ち上がらせるだけだ。そういえば、ビルディング、一つの階層を積み増していくごとに、その高さは約三ダブルキュビト上昇していくらしい。ということは、四十階建てのビルディングにも近い巨体が……五人のテロリストの目の前で、次第に、次第に、立ち上がっていくということだ。

 既に、見上げるという表現さえ烏滸がましく思えてしまうような。人間とは比べ物にならないほどの偉大なる体躯。全身から、生命の対極に位置する暗黒を、だらりだらりと滴り落としながら……とうとう完全に立ち上がった。五人のテロリストには、太陽さえ食い尽くしてしまうのではないかと思えるほどのスパルナの影がさしかけられていて。だが、そのスパルナは、五人のテロリストのことなど気が付きもしないといったように、天上の方向へと向かってくうっと頭を擡げた。

 右の鉤爪を。

 左の鉤爪を。

 天を摩するかのように。

 大きく大きく、広げて。

 その。

 嘴。

 が。

 咆哮。

 する。

 それは、先ほどまでの絶叫とは明らかに違う。

 絶対的な殲滅者の、破滅の鼓動のようなもの。

 これより後、この暗黒の瞳に留まる者は。

 全て、全て、生き残ることはないと思え。

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