第二部プルガトリオ #60

 それを合図として……玉座から、一斉に、触手が突き出した。ずるり、ずるり、ずるり、さっきまでとは比べ物にならないくらいの本数だ。玉座の全体が、ほとんど触手に埋まってしまって。それらの触手が、それぞれの標的を明確に定めて伸びていく。もちろん、その標的とは、テロリスト達のことである。

 そして、いうまでもなく、その瞬間に動いたのは触手達だけではなかった。標的にされたテロリスト達も動いていたのだ。具体的には……まずは、エレファントから見ていこう。エレファントは、その巨体にそんなことが可能なのかと驚いてしまうほどの素早い動き。跳ねた。今までいた場所から、カレントが立っている場所に向かって。

 左手のガントレット、カレントのことを握り潰さないように掴んで。それから、勢いよく放り投げた。どこに向かって? もちろん、ブリッツクリーク三兄弟の他の二人がいる方向に向かって。投げ飛ばされたカレントはといえば、プレッシャーによって操作された空間の圧力によって受け止められて。怪我一つすることなく、二人のすぐそばに着地することが出来た。

 触手はするすると伸びていく、エレファントがいる方向だけではなく、ブリッツクリーク三兄弟がいる方向にも。けれども、そのようにして襲い掛かろうとする触手のことを、次々とエレファントのガントレットが妨害していく。ある物は大地に叩きつけて、ある物は引きちぎり、ある物は攫うかのように引っ掴んで。もちろん、エレファントだけで全ての触手を妨害出来るわけがない。だから、エレファントは奈落の底のように冷静に口を開く。

「サテライト。」

「んだよっ!」

「三人を守れ。」

「言われなくても……ぐっ……今……!」

 狂犬病にかかった野良犬のように叫びながら、サテライトはぎりぎりと歯を噛み締める。なんのために? もっともっと兵力を増強するために。サテライトの体から、あるいは、周囲のそこら中に浮かんでいる衛星そのものから。ぼこり、ぼこり、薄汚いあぶくのようにして、更なる衛星が産み落とされる。

 そして、それらの衛星達が、ブリッツクリーク三兄弟がいる方に向かって一気に雪崩七月雨ていく。「ハハハハハハハハッ」と馬鹿みたいに嘲笑いながら、その口とその口とが噛みつきあって。そして、それらの衛星達は、しっかりと組み立てられた一枚の壁となって立ちはだかる。

 壁が出来上がると、壁の後ろ側にいたプレッシャーが、すぐにそのそばに駆け寄った。それから、壁に向かってばばっと両手を伸ばして。かなり勢いよく、全身の力を込めるような感じで「ギーッシュ!」と叫ぶ。すると……その言葉に従うみたいにして、何かが、集まってきた。それは決して目に見えるものではなかった。もっともっと根源的な感覚で感じ取るもの。

 敢えて人間の感覚によって表現するならば、アウラとでもいえばいいだろうか。氷よりも冷たく感覚を凍えさせ、炎よりも熱く感覚を燃やす。透明という単語が示す感覚よりも、遥かに純粋なエネルギー。それでいて、悪夢のように禍々しく……そう、これは魔学的なエネルギーだった。プレッシャーが、自らの能力によって、壁に魔学的エネルギーを集中させたのだ。

 これで壁はある程度の耐魔性能を備えることになった。今まで触れてこなかったが、デニーの魔法によって形作られた触手は、当然のことながら魔学的エネルギーを帯びているのであって。ただの壁ならば、その力によって簡単に貫くことが出来るのである。それを防ぐためにはこのような仕掛けが必要だったということだ。

 それは。

 それと。

 do it。

 もう少しだけ後ろの方に視点を移してみよう。壁の後ろにいるプレッシャーの更に後ろ、つまり、レジスタンスとカレントとがいるところ。二人は……何かを話し合っているようだった。というか、ぶつぶつと独り言を呟いているレジスタンスに、カレントが声を掛け続けているという感じ。

 レジスタンスは、こう呟いている。「怖い、怖いよ……でも、僕がやらなきゃ……僕がみんなを助けなきゃ……あんな目に合ってるみんなを助けなきゃ……怖いなんて言ってる場合じゃないんだ……僕が、僕が、僕がやらなきゃいけないんだ……」。一方で、カレントは、「レジスタンス、あなたなら出来ます。あなたは、誰よりも勇気がある。あなたは、誰よりも強い。それに、それだけじゃなく、プレッシャーもついています」。

 それに対して、プレッシャーも「おー、おー、頼もしい弟に任せとけってね! レジ、お前には指一本触れさせねーよ! あいつらのきったねー指なんかな!」と応じる。どうも、プレッシャーとカレントとはレジスタンスのことを励ましているらしかった。そして、レジスタンスは、その励ましの言葉を受けて決心しようとしているらしい。戦いへと赴くことを。

 だが、そうはいっても……役に立つのだろうか? これほどまでに怯えている人間が。レジスタンスの脚は震え、立っているのもやっとというほどであるし。それに、ぼろぼろと涙を流している目は、まともにものを見られるような状態ではなさそうだ。このような人間は、戦闘において、足手纏いになるだけではないか?

 と、そんなことを(読者の皆さんが)思っている時に。レジスタンスがちょっとした動きを見せた。とはいっても、大した動きではない。右の腕を軽く上げたというだけの話だ。その腕の先、右手は……先ほどデニーがしていた形と同じ形にしているようだ。要するに、人差し指を伸ばして、親指を立てて。拳銃のような形ということである。

 それから、その銃口、というのは人差し指ということだが、その銃口を自分のこめかみに向けた。一体レジスタンスは何をしているのだろうか? 何かの儀式なのだろうか? そう(読者の皆さんが)思っていると……右手の甲に開いていた穴から、ごぼりと音を立てて錆びた光が溢れ出た。

 それほど多い量ではなかった。せいぜい二ログか三ログといった程度だろう。ただ、その光は、こぼれて下に落ちていったわけではなく。そのまま、レジスタンスの右手に纏わりついた。もよもよとしたエネルギーの塊になって、その手を包み込んで。だんだんと、一つの形状を形成していく。

 ひどく抽象的な拳銃の形。子供が画用紙の上にクレヨンで殴り書きしたビームガンみたいな形。もちろん、いうまでもなく、そのビームガンの銃口はレジスタンスの人差指であって。そして、その銃口は、未だにレジスタンスのこめかみを向いている。

 「僕が、僕が、僕が……」。レジスタンスが、がちがちと音を立てる歯、震える上顎と下顎と、抑え付けようとしているかのように言う。ぎゅうーっと両目をつぶる。ふーっふーっと荒い息、飲み込むようにして止める。「やらなきゃ、いけないんだ」。

 ぱしゅん。

 音を立てて。

 ビームガンが。

 エネルギーを。

 発射する。

 レジスタンスの。

 頭蓋骨に。

 向かって。

 弾丸は。弾丸の形をした抵抗力の塊は。そのままレジスタンスの頭部に撃ち込まれた。こめかみを撃ち抜いて、脳髄の中に撃ち込まれたということだ。

 ただし、それはエネルギーであって物質ではない。レジスタンスのこめかみからは一滴の血液も流れ落ちていない、それどころか傷一つ付いていない。

 レジスタンスは、ただ、自分の頭の中にエネルギーを送り込んだというだけの話である……そう、妨害のエネルギーを。それでは、レジスタンスは何を妨害しようと思ったのか? 自分の頭の中にある何に対して抵抗しようとしたのか?

 それを理解しようと思うならば、レジスタンスの眼を見ればいい。まさに、今、蝶々の羽搏きのようにそっと開かれたレジスタンスの両眼を。レジスタンスは、もう泣いていなかった。それどころか、その両眼は、まるで血も涙もない生き物のものであるかのように冷え切って乾いていて。

 明らかに先ほどまでのレジスタンスのものではなかった。レジスタンスは、もっともっと弱々しく、それに繊細そうな眼をしていた。例えるならば柔らかい絹糸で出来たパジャマのような眼だ。一方で、今のそれは溶けた金属である。冷たく、冷たく、液化した金属……それは誰かの眼に似ていて……そう、その眼はエレファントの眼によく似ている。

 つまり、感情が欠落しているのだ。いや、正確にいえば全ての感情がなくなってしまっているというわけではなかった。ある一つの感情だけが、そもそもそんなものはなかったとでもいうみたいにして、完全に消え去ってしまっている。

 その感情とは。

 つまり、恐怖。

 レジスタンスの脚は、もう震えていなかった。自分の感情の冷度によって凍り付いてしまったとでもいうかのように、冷酷に大地を踏みつけている。それどころか、全身が、神経の一本一本に至るまで、筋肉の一筋一筋に至るまで、冷静そのものであった。

 レジスタンスは、拳銃の形にしていた右手をぱっと開いた。その拍子に、纏わりついていた抵抗力がぽんっと音を立てて弾ける。飛び散った抵抗力は、きらきらと鈍い色をして、世界のどこかに消えていってしまって……それから、レジスタンスは。自分の顔の前に、両方の手のひらを持ってきた。

 しげしげと不思議そうに眺めている。それが震えていないことが、なんとなく信じられないようだ。自分の感情に、というか自分の感覚に、違和感を感じているらしい。ただ、まあ、今の状況下ではいつまでもそうしているわけにもいかないのであって。レジスタンスは、やがて、ふっと両手を下ろした。

 それから。

 口を開く。

「プレッシャー、行くよ。」

「りょーかい!」

 直後。

 二人の姿は。

 消えていた。

 今までに、こういう描写をした時は。それは大体が比喩だった。「あまりにも早く動いたために人間の目では感覚出来なかった」だとか「意外な方向に動いたためにその行動を予測出来なかった」だとか、そういった状況を隠喩的に表現しただけのことである。ただ、今回は、比喩ではなかった。文字通り、二人の姿は消えてなくなったのだ。

 実際に、その瞬間に何が起こったのかといえば……まずプレッシャーが「バラッパッ!」と叫んだ。すると、二人の姿を二人の姿として保っていた圧力が急速に弱まって。二人は、空間の中に溶け込んで消えてしまったということだ。

 ただし、実は、プレッシャーが消えた後に、何も残らなかったというわけではなく。その姿が消えた後には、十数匹の甲虫時計が残された。つまり、プレッシャーの能力を制御しているというあの制御装置である。そうして、その後で、それらの甲虫時計は、四方八方に向かって飛散していった。

 ちなみに……書いておいた方がいいかもしれないから一応書いておくが、先ほどからプレッシャーが叫んでいる「ギーッシュ!」だの「バラッパッ!」だの、なんの意味もない。この言葉をトリガーにして能力を発動させているわけでもなければ、コンディションを上昇させる何かの呪文というわけでもない。プレッシャーはもともとノリがいいタイプなので、圧力を極限まで高めたり、反対に極限まで低めたりする時、なんか叫んだ方がテンションが上がるということで叫んでいるだけなのだ。圧力を上げる時は「ギーシュ」であり、圧力を下げる時は「バラッパ」。どちらも何も考えないままめちゃめちゃ適当に決めたため、本人は全く気が付いていないのだが、「ギーシュ」の方は「凝縮」という単語がもとになっているし、「バラッパ」は「バラバラになってぱっと消える」というイメージがもとになっている。無意識のうちに。

 とにかく。

 ともかく。

 存在の圧力を下げて他のあらゆるものの中に紛れ込んでしまったレジスタンスとプレッシャー。けれども、当然のこと、この戦場から逃げ出してしまったわけではない。それどころか二人は、まさにその反対のことをしようとしている。つまり、エレファントとサテライトとの二人に加勢しようとしているのだ。

 戦場に、よくよく目を凝らしてみよう。まずはエレファントがいるところ。エレファントは、何本も何本もの触手をガントレットで捌きながら。まるでエレファントのことを地獄に引き摺り込もうとしているかのような――まあ、ここは既に地獄なのだが――リビングデッドのことを、大鎚のような形に変化させた足で踏み潰している。

 そう、このタイミングでこの事実を明らかにするのもちょっとどうかと思うが、エレファントは両手だけではなく両足も変化させることが出来るのだ。そもそもエレファントの両手と両足とは切断されていて、その代わりとして制御された生起金属を利用しているのだから、当然といえば当然の話なのだが。とにかく、エレファントは、文字通り全身を使って攻撃を防いでいる。

 とはいえ、敵があまりにも多過ぎる。というか、このようになる前の段階、玉座があんな風にずんどこ触手のてんてこ祭りになる前の段階から、エレファントには手が負えないような状態であったのであって。今のこの状態をなんとか出来るわけがない。

 もうどう足掻いても不利な戦いなのであって。そして、そのような不利な戦いに向かって……今、一匹の甲虫時計が飛んでいく。プレッシャーが消えた後に残されていた甲虫時計のうちの一匹だ。まさに甲虫そのものといった具合に、ガラス片のように薄く透明な羽を動かして。そして、エレファントに襲い掛かる触手の群れをかいくぐって……エレファントよりも少し前のところ、触手の群れの中心に辿り着く。

 中心といっても、玉座まで到達したわけではなく、あくまでもエレファントを攻撃している触手の中心ということであるが。とにかく、そこまで辿り着くと、その甲虫時計はかちっという音を立てた。それは、時計の針がちょうどその位置に達した時にするはずの音。来るべき時が来たという音。

 次にしたのは、じりりりりりりりりんっという、明らかに目覚まし時計そのものの音だ。と、その音が合図であったかのようにして……何かが始まった。甲虫時計が飛んでいる、すぐ前の空間。何もなかったはずの空間に、物質が凝縮し始めたのだ。

 ほんの一瞬にして、触手の中心に一つの肉体が再構成される。その様は、まるで、周囲から色の印象のようなものが集まってきて。赤・白・黄、そういった色合いが、ぽんっという音を立てて、突如として現実の物質として結実したかのような。そんな、非現実的ともいえるようなものだった。そして、その肉体は……もちろん、レジスタンスのものだ。

 再びその姿を手に入れたレジスタンスは。すとりという感じ、一本の触手の上に両足を乗せた。この状態になる前のレジスタンスであったらそんなことをするのは不可能だったろう。あれほどがくがくと揺れる足が、このように不安定な物の上に足場を見つけられるはずがない。

 しかし、今のレジスタンスは。まるでそれが確固とした足場の上であるかのように平然とそこに立っていて。そして、ひどく酷薄な印象さえ感じさせるような目、ちらりと、触手が襲い来る方向に視線を向けて。両方の腕を、体の横、羽を広げるみたいなやり方で広げてみせた。

 と、その両腕の色々な場所に開いていた穴が一斉にシャッターを開いた。ごぽごぽっという音を立てて、抵抗力が一気に流れ出してきて。それから、レジスタンスの両腕に纏わりつく。それは、今まで溢れ出していた量とは比べ物にならないくらいの多さであって……レジスタンスの両腕は、まさに、鈍い光を放つ羽が生えたような状態になる。

 レジスタンスは。

 軽く。

 触手を。

 蹴って。

 跳ぶ。

 驚くほど柔軟な肉体が、触手と触手との合間を縫って飛び跳ねていく。その様は、あたかも夜の海、星々の光の間を縫って泳いでいく一匹の海獣のようだ。そして、その海獣の二本の鰭は……海の中に差し込む光の筋を、柔らかく切断していく。

 つまり、レジスタンスは、光によって形作られた羽で、次々と触手を薙ぎ払っていったということだ。錆びついた光に切断された触手は……別に、切り裂かれるとか、引き裂かれるとか、そういうわけではない。抵抗力は抵抗力であって、あくまでもエネルギーだ。物質的な危害を及ぼせるわけではない。

 しかし、その光が触れたところは……妨害されるのだ。何を? 魔法を。デニーの魔法を。つまり、その光が触れたところは、触手であることをやめて、リビングデッドであることさえやめて、ただの死体に戻ってしまうということだ。

 羽に薙ぎ払われた触手は、そこから、悪性の伝染病にでもかかったかのように、ばらばらに砕けていってしまう。ただの死体と死体と死体とになって、地上へと落下していってしまう。もちろん、その全部がただの死体になるわけではない。一部は、抵抗力に感染することなく、未だにリビングデッドとして機能したままで地上に落ちていくのだが。ただ、地上にはエレファントがいる。

 レジスタンスは、とんっと上に向かって跳ねたと思えば、触手を蹴ってその向きを変え、横ざまに滑り落ちていく。襲い掛かる触手を、高跳びか何かのように背中で越えていく。優しく羽で撫でるかのように、数本の触手を一気に切断する。そうして、ばらばらになって落下していくリビングデッドを、下で待ち受けているエレファントが、ガントレットで叩き潰していく。

 レジスタンスの羽は自由自在に伸びたり縮んだりしていた。長くなる時、それは数ダブルキュビトにもなるのだ。そのたびに、ごぽごぽっと音を立てて、それぞれの穴から抵抗力が吐き出される。それから、レジスタンスは、そういう時だけではなく……触手を切断したタイミングでも大量の抵抗力を吐き出していた。どうもデニーの魔法を妨害するにはよほどの抵抗力を消費しなければならないらしい。

 そう思って見てみると、レジスタンスが使っているこの羽は、降り注ぐ雨としてvanity fireを掻き消した時よりも、ずっとずっと強い光を放っているように思われた。つまり、ずっとずっと強い圧力をかけられて、エネルギーが集中した状態にあるということである。

 レジスタンスを再構成したあの時計甲虫が、触手と戯れるように踊っているレジスタンスの周囲に、常に付き添うようにして飛んでいる。プレッシャーは、その時計甲虫を通じて抵抗力に圧力をかけ続けているのだ。レジスタンスの羽は、そのようにして極限まで研ぎ澄まされた刃なのである。

 ちなみに、実はエレファントのガントレットの中にもこのような時計甲虫が埋め込まれている。エレファントが生起金属を一時的に液化して、そうして内部に潜り込ませたのである。その時計甲虫を通じてエレファントのガントレットに魔学的エネルギーを集中させているのだ。

 そういえば。

 そのプレッシャーは。

 一体、どうしたのか。

 視線を戦場のもう一つの戦闘に向けてみよう。クソ馬鹿が戦ってる方に……あっ、ごめんごめん、間違えちゃった。クソ馬鹿じゃなくてサテライトねサテライト。確かにどっちも似たような単語だけど、サテライトといえば必ずクソ馬鹿である一方で、クソ馬鹿といっても必ずしもサテライトを指すとは限らないですからね。そこら辺は正確を期す必要があります。ということで、物語の焦点をサテライトが戦ってる方に向けてみます。

 サテライトはいかにもクソ馬鹿らしく、知性の欠片も感じさせないやり方で触手の群れと戦い続けていた。その戦闘シーンは、健全な精神にとってちょっとばかり有害なものであるため、詳細な情景をここに描写することは出来ないのだが。とにもかくにもサテライトはあんなにたくさん腐ったものを食い散らかしてよくもまあお腹を壊さないものだ。

 ただ、サテライトがどんなに三口六胃の大活躍をしようとも。あるいは、どんなに大量の衛星達が、サテライトと同じように遅めのランチを楽しもうとも。サテライトが圧倒的に不利な状況下に置かれているということには変わりがない。サテライトにとって、最も問題なのは……サテライトには、魔法に関する知識が一切ないということだ。

 魔力を持っていないというわけではない。人間は、兎戮の民などの特殊な例外を除けば、その多寡はあれどもいくらかの魔力を有しているものだからだ。サテライトは、純粋に、魔法が、分からないのだ。今まで勉強したこともないし将来的に勉強する気もないので「なんも分からん」の状態なのである。

 それに、エレファントのように肉体と一体化した赤イヴェール合金を自由自在に操れるというわけでもないので。結果的に物理的な力と妖理的な力とを合わせた戦闘をすることが出来ない。物理的な力一本でやっていかざるを得ず、そのようなやり方は、デニーちゃんのようなとーっても強くてとーっても賢い死霊学者と戦う時には、明らかに自殺行為でしかない。

 死体は殺しても殺しても蘇る。それどころか、食い散らかした死体が腹の中で暴れている。時折、そういった死体が胃袋を突き破って外側に出てくることもあるくらいだ。サテライトはヒーリングファクター持ちなのでその程度のことはどうってことはないのだが、そうやって外側に出て行った死体の断片が、それぞれ結び付きあって新しいリビングデッドになったりもする。そして、そういったリビングデッドが寄ってたかって衛星を食い尽くす。

 リビングデッドはほとんど減らないのにも拘わらず、衛星達は減っていく一方だ。このままでは、いつか衛星達が食い尽くされてジ・エンドである。要するに、サテライトは追い詰められているということだ。

 と。

 そんな。

 ところ。

 に。

 すいーっとでもいう感じ、いかにも呑気な風に、時計甲虫の一匹が飛んできた。文字通りの意味で触手に噛みついて、どんなに振り回されようとも死んでも引き剥がされまいとしているサテライトのすぐ近くに。

 サテライトは、最初は気が付かなかったようなのだが。じりりりりりりりりんっという音がして嫌でも気が付かされる。視線だけで、そちらを見ると……今度は時計甲虫だけが目の前に現われたのではなく、時計甲虫そのものを中心としてその物質が出現する。ぽんっという感じの音を立てて再構成されたのは、もちろんプレッシャーであった。

「お待たせ、姐さん!」

「おへーよ、ふほあ!」

 もちろんサテライトは「おせーよ、クソが!」と言ったのだが、そう言ったすぐ後に、べっと吐き出すようにして触手から口を離して。「いつまでもいつまでもくっちゃべってやがって!」だの「こいつらのこと抑えんのにこっちがどんだけ苦労してやがると思ってんだ!」だの、憤懣やるかたない様子で喚き散らす。本当に、普通だったらうんざりしてしまうようなサテライトのサテライト的行動であるが……どうも、プレッシャーは、春風にそよぐ柳ほども気にしていないようだった。

 それどころか、そんなサテライトに向かってばちこーんとウインクをかまして。「おいおい、姐さん! そんなに怒ってばっかいると綺麗な顔が台無しになっちまうぜ?」「姐さんみたいないい女には笑顔が一番だって!」なんていうことをのたまうのである。ここでもう一度はっきりさせておくのも悪くないかもしれないが、サテライトは、なんというか、一般的な意味合いでいうところの美人というわけではない。というか、そういった基準からかけ離れたところにある容姿の持ち主である。サテライトに向かって「綺麗な顔」だの「いい女」だのといった表現を使う知的生命体は、恐らくこの世界で一人しかいない。そう、プレッシャーだ。

 サテライトは、そんな巫山戯た態度のプレッシャーに、更に怒りをぶつけ散らすのかと思いきや。「ちっ」と一つ舌打ちをすると、「さっさとバラせ!」と吐き捨てるように言っただけだった。サテライトは、こういう性格なので苦手なものというのはほとんどないのだが。この世界にたった二つだけ苦手なものがあって、一つ目がたまに見る悪夢に出てくる「グッドマン」という謎の男。そして、もう一つがプレッシャーなのだ。

 なんとなく、理由をはっきりといい表すことが出来ないのだが、とにかく苦手なのだ。そもそもの話として、ブリッツクリーク三兄弟自体、サテライトが得意とするところではない。この三人との共同任務では、サテライトの好き勝手にすることが出来ないからだ。好きに拷問したり好きに殺害したり、あるいは好きに人間の尊厳を踏み躙ったり出来ない、そういうことをすると、この三人に(というかレジスタンスとプレッシャーとに)REV.Mのことがバレてしまうからである。

 そして、その中でもプレッシャーのことは特に得意ではない。サテライトは、ハリモグラだのハリネズミだの、そういった生き物と同じなのである。いつも敵意を周りに撒き散らして、縄張りに他人が足を踏み入れないようにしている。縄張りの中に、自分から導きいれたことがあるのは、今のところエレファントだけだ。

 それなのに、このプレッシャーという男はこちらが投げつける敵意というものを感じない。それどころかそういった攻撃的なコミュニケーションであっても構って貰えるならばそれでいいのである。サテライトが悪罵を投げつければ投げつけるほどに、プレッシャーは、かえってじゃれついてくる。大喜びで、ぶんぶんと尻尾を振りながら。

 サテライトにもサテライトの都合というものがあるのであって、づかづかと心のパーソナルスペースに踏み込んできて欲しくないのだ。それなのに、プレッシャーは、なんもかんもお構いなしにサテライトに突っ込んでくる。簡単にいえば、サテライトにとってのプレッシャーは、そこまで親しいわけでもないのになんか知らんがよく泊まりに来る後輩のようなやつなのである。

 しかも、電話もかけないで突然転がり込んでくるのだ。誰かを泊めるならば掃除の一つもしなければいけないのだから、せめて連絡の一つもよこせと、何度も何度もいい聞かせても全然効果がない。それどころか「ちょっとくらい散らかってても全然気にしませんって」とか言いやがる。だーかーらー、お前が気にしなくてもこっちが気にするんだよ!

 何が一番たちが悪いって、本人には全く悪気がないところだ。それどころかプレッシャーはほとんど善意の塊のような男なのである。もしも相手がクソ野郎ならば、ぶっ殺して「はいお終い」なのだが。さすがのサテライトであっても、ここまでのあけすけさで懐いてくる後輩のことを無碍に扱うというわけにはいかない。ということで、このように歯切れの悪い対応になる。

 勘違いして欲しくないのだが、こう、サテライトからプレッシャーへの好意のようなものは一切ない。プレッシャーからいくら好意を向けられたところで、サテライトの凍り付いた憎悪や焼き尽くす瞋恚やといった感情が、優しく優しく解きほぐされるというようなことは、絶対にあり得ない。自分の縄張りに入り込んでくる厚かましいやつの存在はサテライトにとっては鬱陶しいだけだ。とはいえ、邪険にする気にもなれない。

 ほら、誰にでもいるでしょ? こいつ別に悪いやつじゃないんだけど、なんか知らんが苦手だなって感じのやつ。バイブレーションが根本的に合わない相手。そういう相手にはどんな人間でも「ははは、そうですね……」みたいな対応になってしまうものだが、サテライトにとってのプレッシャーはまさにそんなやつなのだ。

 いや。

 まあ。

 それはどうでも。

 いいんだけどさ。

 なんにせよせよ瀬をはやみ、サテライトの指示を受けたプレッシャーは「りょーかいっす!」と調子よく答えると。両腕、頭の上に向かってびーんと伸ばした。それから、両方の手の親指と中指と、ぱちんと弾いて音を鳴らしながら。勢いよくそれらの両腕を下ろして……目の前でわっさりもさもさと蠢いている触手の大群を、人差指と人差指とによって指差した。

 「レッツゴー、かわい子ちゃん達!」。すると、どこからともなく……本当にどこから現れたのか、周囲の空間から大量の時計甲虫が集まってきた。先ほどプレッシャーが消えた際に、その体の中にいた時計甲虫の数よりも遥かに多い。恐らく数十匹はいるだろう時計甲虫達が、一斉に、触手の大群にたかり始めたのだ。

 その様は、あたかも、蔦だの蔓だのが蔓延る荒れ果てた庭園に大量発生したカメムシのごとく。庭園というよりもボディ・ファームといった方がいいかもしれないが、とにかく、時計甲虫達は、あの触手この触手、見渡す限りの触手の表面に、寄生虫のようにして取り付いた。

 そういえばカメムシって甲虫目じゃなくて半翅目なんですよね。それはそれとして、そのタイミングを見計らって、プレッシャーが大変威勢よく「バラッパッ!」と叫ぶ。すると、プレッシャーの視線の先にいる全ての時計甲虫が、一斉に目覚まし時計の音を鳴らし始める。じりりりりりりりりんっという音が底抜けの青空の下に鳴り響いて……そして、触手が、崩れ始めた。

 何が起こったのか、魔学的エネルギーをはっきりと感覚することが出来ない生き物には分からないだろうが、要するにこういうことだった。一匹一匹の時計甲虫を中心として、空間を球形に刳り抜くように、魔学的エネルギーの圧力を減圧するフィールドを発生させたのである。

 もちろん、そのフィールドはカレントによって読み取られたところのデニーの魔力の流れに調整してあるもので。その結果として、フィールドに捉えられた部分の触手は、急激に魔法の効果が薄れてしまったのだ。そして形態を保てなくなったのである。

 それでも、残念ながら、完全に魔法を消滅させることが出来たというわけではない。なーんてったって、強くて賢いデニーちゃんの魔法なんですからね! レベル5だのレベル6だののスペキエースがなんとか出来るようなものではないのだ。とはいえ……その魔法が弱められたということは事実である。目的を達するには十分なほどに。

 目的とは?

 そう。

 激怒と暴食とによって。

 全てを食い尽くすこと。

 死体と死体とを繋いでいた結合は失われ、それぞれのリビングデッドはばらばらになって地上に落下していく。腐り果てた肉も、乾き切った骨も、嫌な音を立てて地上に激突して。そのまま、ぐらぐらと傾ぐ体、ゆっくりとべったりと起き上がり始める。そして、空の方向を見上げて……初めてそれに気が付く。

 空を埋め尽くす、口、口、口。無限に捻じ曲がり、どこまでもどこまでも嘲笑う、数え切れないほどの口。「ハハハハハハハハッ」という、悍ましい絶望そのものを音楽にしたような歌声が、それらの全ての口から滴り落ちて。つまり、その全てがサテライトの衛星だったということだ。

 先ほどまで触手との戦闘を繰り広げていた衛星達は、それで全部ではなかったということだ。実は、サテライトは、更に、更に、更に大量の衛星を予め用意しておいたのであって。そして、今、レジスタンスの感覚妨害迷彩を脱ぎ捨てて、それらの衛星達が姿を現したということである。

 もちろん、この用意周到な準備はサテライトのようなクソ馬鹿によって考え出されたものではない。この戦闘は、全てが、エレファントとカレントとが立てた計画に従って行われている。そして、今に至るまでの状況は、ほぼ完全にその計画の通りに進行している。ということで、このように、大量の衛星が必要になるということは分かっていたのであって。その時のために、これだけの量の衛星を取っておいたというわけだ。

 ちなみに、サテライトは、この計画の詳細については一切知らない。自分が何をすればいいのかということだけしか知らないのである。何を聞いたところで自分に関係ないことは全部忘れてしまうような低能なのだし、それに、下手に計画を覚えてしまったとして、エレファントだのカレントだののようにティアー・トータを保てるというわけでもない。サテライトの表情や行動や、そういったものから計画を読み取られてしまう可能性が非常に高いのだ。

 そもそもサテライトは、今実際に何が起こっているのかということには全然興味がない。真実だのなんだの、そういったものはクソどうでもいい。自分が好き放題暴れまくることが出来て、もし可能であるならば人間どもをぶっ殺せれば、それで大抵は満足なのである。ということで、エレファントはサテライトに計画を教えることはないし、サテライトはエレファントから計画を聞き出そうというつもりにならない。

 なんにせよ。

 リビングデッドの、見上げた先。

 鋭い諸刃の剣を吐き出すような。

 無数の、無数の、口が。

 笑っていたのであって。

「はっ! しみったれた口汚しだな。」

 そして。

 口。

 口。

 口。

 の。

 群れ。

 は。

「腹の足しにもなりゃしねぇぜ。」

 リビングデッドに。

 一斉に襲い掛かる。

 あのですね、サテライトさん。口汚しっていうのは自分が用意した料理のことをへりくだっていう時に使うんであって、相手の用意した料理に対してその言葉を使うのは非常に失礼なことなんですよ。まあ、あなたはろくな教育も受けてない野蛮人なので仕方がないかもしれませんがね、少しくらいは礼儀というものを弁えてはいかがですか。

 それはそれといたしまして……あたかもレピュトスと共に地の上に投げ落とされた、天の星々のように。satelliteはmeteoriteとなって、生命の宿っていない眼球で見上げていたリビングデッドに向かって墜落していく。「ハハハハッ!」といういつもの笑い声を上げながら、それぞれの衛星が、それぞれのリビングデッドに飛び込んでいき。そして、人間の腕によく似た器官、奇妙に欠損した不快な器官によって、リビングデッドの肉体をがっしりと掴む。そのように逃げられないようにしてから、そこら中にぽっかりと開いた口で食い散らかす。

 確かに、デニーの魔法によって甦らされたリビングデッドは、この程度で死ぬわけではない。粉々に噛み砕かれたところで、その一つ一つの断片は可動状態であり続けるだろう。けれども、これほど魔力が弱められた状態では、とてもではないが、衛星達の腹の皮を破って飛び出るわけにもいかず。ただただ、蠢きながら消化されることしか出来ないのである。

 こうして。

 戦況は。

 完全に。

 逆転。

 した。

 レジスタンスは、大量のリビングデッドで構成された触手を、次々と腐り果てた死体の塊へと戻していって。生き残った(?)リビングデッドは、エレファントによって、大地を汚すどす黒い染みへと変えてられていく。プレッシャーは、どんどんと作り出される触手の群れ、析出された詩の言葉と言葉との間の圧力を弱めていって。そして、そのようにして消化された魔法の残滓をサテライトの衛星が食い尽くしていく。

 これ以上は……どれほど、玉座が、触手を産み出そうとも。何も変わるまい、それどころか触手を増やせば増やすほど玉座の置かれているシチュエーションは悪化していく。なぜなら、そのようにして生み出された触手は、何一つ行動を起こすことも出来ないうちに破壊されてしまって。その分だけ、玉座からは、死体が、死体が、死体が、失われてしまうからである。

 このままでは。

 玉座の主。

 デニーに。

 勝ち目はない。

 そう……はははっ!

 そう、その通り。

 この。

 まま。

 では。

 ね。

 これ以上は触手を作っても無意味だ。そして、デニーは、無意味なことはしない。自分の「そうしたい気持ち」のままに、一見するとなんの意味もないようなことをすることはあっても、必然的にそれがそうであるべき行動以外の行動をすることは決してないのだ。弱く愚かな人間とは違う。だから、すぐに、デニーは触手を作ることをやめた。

 そして、戦場に新しい触手が供給されなくなると。触手の数は減少していく一方となる。レジスタンスに、エレファントに、サテライトに、プレッシャーに、次々と破壊されていって……その破片であるリビングデッドも始末されていく。そして、今。まさに、この瞬間に、リビングデッドの最後の一体が、エレファントによって叩き潰されて。

 遂に……玉座から生えていた全ての触手が、戦場にいた全てのリビングデッドが、排除された。残されたのは、そこら中に散らばっている人間の体だったものの一部と、それに、一般的な感性の持ち主であればとてもではないが耐え切れないような腐敗臭だけである。

 本当に、この臭いは、どろどろに溶けた青魚の内臓、細菌によって汚染されて変色し切った鶏の卵、更に更にひどくしたような。舌先で少し舐めただけで胃袋の中のものを何もかも吐き戻してしまいそうな臭いであったが、とはいえ、幸いなことに……ここにいる生き物は、その誰一人として、いわゆる「一般的な感性」などというものを持ち合わせてはいない。ここにいるのはテロリストにギャングの幹部、世界的軍需企業のご令嬢だけなのだ。

 さて。

 そのうちのテロリスト五人が。

 玉座の前へと、集まってくる。

 とはいっても、それほど近い場所までやってきたというわけではない。今のところは、脅威が排除されているとはいえ。あの構造物は、玉座は、デニーちゃんの素敵な魔法によって作り出された物なのであって。人間のような生き物にとって致命的な危険を秘めているということは間違いないのだ。そんな物に、軽々に近付くというわけにはいかない。

 大体、十数ダブルキュビトの距離を置いて。一番先頭にいるのはエレファントだ、その両腕を巨大なガントレットの形に保ったままで、臨戦態勢を崩すことなくそこに立っている。その斜め上にふわふわと浮かんでいるのは、いつもの通りサテライトで。指先、瞼、口の端、ピクリとでも動かせば、そこら中で笑い声をあげている衛星達が標的に向かって一斉に襲い掛かるだろう。

 一方で、そのサテライトのすぐ近くに立っているのはプレッシャーである。ここで「すぐ近く」というのはそのままの意味であって、つまりプレッシャーは空中に立っていた。これは、プレッシャーが、極限まで自分という物質の濃度を希薄にして。足元の空気を圧縮して足場としているために可能となっている芸当である。

 レジスタンスはエレファントの右斜め後ろに、カレントはエレファントの左斜め後ろに、それぞれ立っている。レジスタンスは、ごぽごぽと音を立てて、体中の穴から抵抗力を吐き出していて。その抵抗力は、両腕を大袖のように包み込んでいる。カレントは……カレントは……今、まさに計画の最終段階に入っていた。

 とはいえ、計画について、ここでそれを明かしてしまうわけにはいかないだろう。早めに明かしてしまえばこれから何が起こるのだろうかというワクワクドキドキの感覚をこの物語から奪ってしまうことになるからだ。まあ、それほど意外性に溢れた計画というわけではないので、読者の皆さんは何が起こってるのかとうに気が付いているだろうし。少なくともデニーちゃんは、何が起こっているのかということ、そのほとんどを知っていたのだが。とにかく、ここではこれだけを書いておくことにしよう。つまり、カレントのモニター画面には何かが映し出されていた。ただし、その画面は、それを見るべき者しか見ることが出来ないものだった。

 そして。

 それを。

 見るべき。

 者の。

 目は。

 と……そんな風に、今の状況を描写しているうちに。どうやら事態に進展があったようである、といってもさして重大な事態が起こったわけではない。エレファントが、恐らくは象徴的行為であろうが、玉座に向かって一歩踏み出したのだ。遥かなる高みにいるデニーのことを見上げるその様は、あたかも、玉座の上にいるsovereigntyに対して僭越なる訴状を差し出そうとしている賤民であるかのように。それから、ドミナス・マスカの下に開いている口、こう言う。

「状況は、理解出来ているな。」

「んっんー、まあね。」

 デニーは、可愛らしく、くるくると目を回しながらそう言うと。顔の向きと体の向きと、五人のテロリストに向けたままで……その場から、少しだけ後ろに下がった。いかにもデニーらしい巫山戯たやり方だ、つんと上げた爪先、とんとつけた踵。両方の腕をぴっぴっという感じで大袈裟に振りながら、すてんすてんと、後ろに向かって転んでしまいそうな素振りで、一歩、二歩、後ろ向きに歩いて見せたということである。

 別に、五人のテロリストの迫力に負けただとか、このあまりにも不利な状況によろめいたとか、そういうわけではない。ただ単に後ろに下がっただけであって……そして、真昼が体を預けている、あの幼児で出来た椅子の横のところまで下がったというだけの話である。

 きぃいい、きぃいい、という死にかけた動物の鳴き声のような喘ぎを上げながら、ぱくぱくと口を開け閉めしている幼児。そんな椅子、左側の肘掛けに、体をこすりつける子猫みたいに腰掛けて。そして、どろどろと甘ったるい格好、べっとりと甘え子ぶるみたいに真昼の体に寄り掛かる。そして、耳元を舐めようとしているかのように、そっと口を寄せる。「ふふふっ!」「真昼ちゃんは、ご理解出来てるかなあ?」「今の、じょーきょー」。

 このような態度に、もちろん我慢出来るサテライトではない。「クソ野郎……よっぽど死にてぇらしいな」とかなんとか言いながら、ぐぎりぐぎりと歯を食いしばって。今にも、全ての衛星をメテオストライクさせてしまいそうだ。

 そんなサテライトのことを、隣にいたプレッシャーが「姐さん、姐さん! 落ち着いて!」と宥めているが。その言葉のちょっと巫山戯たような口調の中にも、どこか、触れたら燃え上がってしまいそうな温度が見え隠れしている。プレッシャーも……同じなのだ。基本的には、サテライトと同じく、この男のことを殺したいと思っている。パロットシングのことを殺したこの男を。

 一方、そんな二人の。

 目の前に立っている。

 エレファントは。

「デナム・フーツ。あなたの魔法は私達には通用しない。レジスタンスとプレッシャーとは、あなたの魔法を完全に無効化することまでは出来ないが、それでも対処可能なレベルにまで弱体化することは出来る。あなたが死霊学者であって、ここにどれほどの死体があろうと、それによって私達を退けることは出来ない。

「あなたが使う武器も、やはり私達には通用しない。カレントが読んだ流れによれば、あなたが使っている弾丸は主に二種類だ。詩弾とセミフォルテア弾。前者が役に立たないということは、既にあなたに実演して見せた。一方で、後者だが、これもやはり役に立たない。私の体の中を流れている生起金属に、プレッシャーが最大限まで魔力を圧縮すれば、それはセミフォルテアの強度にまで達するからだ。その弾丸は私のことを貫くことは出来ない。

「あるいは、あなたには逃げるという選択肢も残されていない。見上げれば分かる通り、この空間はレジスタンスの抵抗力によって完全に塞がれている。先ほどカレントが言っていた通り、ここを塞いでいる抵抗力は、予め最大限に圧縮したものだ。この抵抗力によって作られた障壁を破壊することは、神々でもない限りは不可能だ。あなたは、完全に、この空間に閉じ込められている。

「つまり、あなたは、もう戦うことも逃げることも出来ない。あなたに残されている道は、たった一つだけだ。それは、私達に無条件かつ全面的に降伏するということだ。デナム・フーツ、砂流原真昼を引き渡せ。全ての武器を捨てて投降しろ。REV.Mの捕虜となれ、そうすれば、少なくとも殺しはしない。」

 さて。

 この。

 提案に。

 デニーは、「ほえほえ?」と言いながら首を傾げた。ぐでーっとして真昼に寄り掛かっていた体を、ほんの少しだけ起こして。それから、とてもとても不思議そうな視線をエレファントに向ける。「エレちゃん、今、「殺しはしない」って言ったの?」「そう言った」「それって、デニーちゃんのことを殺さないってこと?」「そういうことだ」「真昼ちゃんだけじゃなくて? デニーちゃんのことも殺さないの?」「砂流原真昼だけではなく、お前のことも殺さない」「ええー! なんでなんで? デニーちゃんのこと、殺しといた方がいいと思うよ! デニーちゃんだってエレちゃんの立場だったらデニーちゃんのこと殺すもん!」。

 まあ、全くその通りであって、デナム・フーツのような悪魔は殺せる時に殺しておいた方がいい。とはいえ、ブリッツクリーク三兄弟がここにいる以上、エレファントとサテライトとはそう簡単にデニーのことを殺すわけにはいかないのである。

 なんにせよ、そんな風にごたごたと言い合っていて。更に、そこからエレファントが答えを返そうとした時に……とうとうサテライトがぶち切れた。「なああああああああああああああああっ!」の「な」に濁点をつけたような声で叫んでから、デニーに向かってずびしっと人差指を突きつけて。「くっだらねぇこといつまでもぐだぐだぐだぐだくっちゃべってんじゃねぇよ!」と怒鳴りつける。それから、この場所にいる全ての衛星達が、あたかも威嚇するようにして、玉座の周囲に集まってきて。サテライトは「エルマの提案を受け入れるか! それともここでぶっ殺されるか!」「さっさと決めやがれ!」と絶叫する。

 今回に関しては、珍しくサテライトは悪くないだろう。こんな緊迫したシーンであんな気の抜けた会話をされてしまっては物語のテンションががた落ちしてしまうのであって。デニーは、提案を受けるにせよ断るにせよ、早く物語を進めるべきなのである。とはいえ、デニーちゃんはとーっても可愛いため、ちょっとくらい物語を止めても「仕方ないね」ってなるのだが……ところで、そのデニーは、サテライトの絶叫にどう反応したのか?

 デニーは、また真昼の体に寄り掛かった。真昼の左肩に頬を寄せて、右の腕を首の周りに回して。左の手のひらで、真昼の腹の辺りをゆっくりゆっくりと撫でさする。それから……くすくすと、いつものように人(特にサテライト)の神経を逆撫でする笑い方で笑いながら、「わー、こわーい!」と言った。真昼の耳元に唇を寄せて、うっとりと艶やかな声で囁く。「どーしよう、真昼ちゃん」「このままじゃ、デニーちゃんも真昼ちゃんも怖い怖いテロリストさんに捕まっちゃう」「でも、テロリストさん達は、とーっても強いから」「デニーちゃんの魔法も、デニーちゃんの武器も、ぜーんぜん役に立たないよ」「どーしよう、真昼ちゃん」「真昼ちゃんは、どーすればいいと思う?」。

 それから、真昼の首筋に、噛みつきでもするみたいにして顔をうずめた。されるがまま、ただただ虚ろな視線で玉座の前にあるものを見つめている真昼。デニーは、自分の顔を、五人のテロリストに見られないようにして。暫くの間、そうしていたのだけれど……やがて、その体が、小さく小さく震え始めた。

 まさか、恐れているのか? あのデナム・フーツが、この状況に恐れを抱き、それゆえに身震いしているとでもいうのか? まさか! そんなわけがない。デナム・フーツが恐れるなんてあり得ないことだ、なぜなら、絶対的強者の思考というものは恐れを感じるようには出来ていないから。

 それでは、なぜデニーは震えているのか? 真昼の体に触れている口から、小さく小さく音が漏れる。最初は、あまりにも小さい音だったので、五人のテロリストには聞こえなかったのだが。次第に、次第に、それが……デニーが喉の奥で鳴らしている、「くっくっくっ」という音だということが分かる。

 「ふふっ、ふふふっ」「ははっ」「ははははっ」「あははははははははっ!」。デニーは、とうとう耐え切れなくなったとでもいうみたいにして、大きな声を上げて笑い出した。それは、あたかも、ちょっとした悪戯に成功した小さな小さな子供が、嬉しそうに楽しそうに笑っているかのような。あっけらかんとして無邪気な哄笑であった。

 ころん、とでもいう感じ。とてもとても可愛らしいやり方で、真昼の膝の上へと自分の上半身を投げ出して。じたばたと、両腕両脚をばたつかせながら笑い転げる。フードの奥の顔、涙を流しているほどに大笑いして……そうして、ようやく、痙攣の発作みたいなその笑いは収まった。

 人差し指の先。

 ぴっと。

 瞼に残っている涙を。

 跳ね飛ばし、ながら。

「んもー、エレちゃんもサテちゃんも!」

 デニーは。

 明るい声。

 こう。

 言う。

「この程度でデニーちゃんをなんとか出来ると思ってたの?」

 それから、デニーは、よいしょっとという感じで体を起こした。真昼の膝の上から起き上がって。幼児で出来た椅子の横に、自分のものであるところの二本の脚でしっかりと立ってみせる。両方の腕を背中の方に回すと、腰の辺りで、右の手と左の手と、柔らかく指先を組み合わせて。そして、「ふんふんふーん」「ふんふんふーん」というような、ご機嫌な鼻歌を歌いながら、歩き出した。

 ローファーで、足元の死体を踏み躙りながら。華奢な指先で、胸元のネクタイを弄びながら。真昼が座っている椅子の目の前までやってくる。その様は……五人のテロリストには、まるで立ちはだかっているかのように見えた。倒すことの出来ない相手、自分達とは生命体としてのレベルが違う相手。絶対的な強者が、自分達の目の前に聳え立っているような感覚。

 その瞬間には、サテライトさえ口を開くことが出来なかった。サテライトが、あのサテライトが。開き切った口のままで、一言も喋ることなく、けだものの剥製のようにデニーのことを見つめていることしか出来なかった。本能の根底の部分でサテライトは理解していたのだ。動物的な感覚で理解していた。動いたら、死ぬ。捕食者に捕まって食い殺される。

 もちろんエレファントはサテライトのような感覚を感じたわけではなかった。エレファントは感情の全てを完全に抑圧しているのだから。だが、とはいえ、何かがおかしいということに気が付いていた。何かが、計画から、ずれ始めている。取り返しがつかないほど危険なことが起こりかけている。そういう時には……ただ、黙って、何が起こるのかを注意深く見守るしかない。

 それから、デニーは。

 それから、デニーは。

 一段。

 一段。

 目の前の。

 階段を。

 降り始める。

 「あのね、うーんと」「デニーちゃん、がっかりしちゃった」「だってさーあ」「もっともっと、すっごくつよーい子が来てくれると思ってたから」「つまりね、レベル7のスペキエース」「対神兵器級のスペキエース」「ムバクちゃんは、デニーちゃんのことをよおーく知ってるから」「そーゆー子をね、送り込んでくると思ってたの」「それなのにさーあ」「三人の子が集まって、よーやくレベル6の力を出せる?」「あははっ!」「じょーだん!」「そんな程度で、デニーちゃんをどーにか出来るわけないよーだ」「ほーんと」「デニーちゃん」「がーっかり」。

 そんなことを言いながら、デニーは玉座の階段のちょうど真ん中辺りまでやってきていた。そこで、なんとはなしに、とでもいう感じ。ふと足を止める。視線の先には五人のテロリストの姿。先ほども書いたが、玉座から直線を引いた十数ダブルキュビト先のところ。デニーは……なんだかとっても不思議そうな顔をして、フードの奥、軽く首を傾げた。

 そして。

 それから。

 五人のテロリストに。

 向かって、こう言う。

「そこにいると危ないよ?」

 一番最初に動いたのはプレッシャーだった。それはあくまでも位置的な条件によるものだ。プレッシャーは、他の四人よりも少しだけ高い場所にいた。そして、一番最初に気が付いたのだ。空から……というよりも、上の方から降り注いでくるものに。

 ふと、何かが髪の上に落ちてきたという感覚を感じた。手をやって、それに触れてみる。指先で摘まみ上げて、顔の前に持ってくる。灰だった。しかも、ただの灰ではない。砕かれた骨、焼かれた肉、生命そのものが焼き尽くされた後に残る、虚無の抜け殻のような、そんな色をした灰。

 こんな……忌まわしく不吉なものが、一体どこから? プレッシャーは見上げた。そして、それに気が付いた。自分達の上の方に広がっている巨大な呪いに。錆びた光によって構成されたドームの天井、ぽっかりと開いた真っ黒な穴に。脊髄が冷たく腐りそうなほど、邪悪な、邪悪な、邪悪な、暗黒。

 つまり。

 デニーの。

 オルタナティヴ・ファクト。

 開いて、いたと、いうこと。

 しかも、このアーガミパータで真昼が見てきたような、そんな小さなサイズのものではなかった。そういったものは、せいぜいが、直径にして数ダブルキュビトといった大きさに過ぎなかったが。そのオルタナティヴ・ファクトは、本当に、天を覆わんばかりの大きさだった。直径ではなく半径で百ダブルキュビトはあっただろう。そして、そのような穴が、玉座の前に広がっている空間に、一つの蓋のようにして覆いかぶさっていたのだ。

 プレッシャーは、それを見た瞬間に何かを感じた。自分が何を感じたのかということは分からなかったのだが、確かに何かを感じたのだ。それは、最も根源的な感情、つまり死に対する恐怖のようなもの。プレッシャーは、見たのだ。死を、死そのもののように禍々しいものを。

 「まずっ……!」と、口をついて言葉が出ていた。それから、ほとんど絶望的な焦燥感によって「ギーッシュ!」と叫んでいた。プレッシャーがこの叫び声によって圧力をかけたものは自分そのものであった。つまり、巨大な圧力をハンマーのように使って、自分の体を跳ね飛ばしたのだ。しかも、実は、そうやってプレッシャーが跳ね飛ばしたのは自分だけではなかった。エレファント、サテライト、レジスタンス、カレント、そこにいた五人とも、勢いよくその場所から吹っ飛んだ。

 凄まじい圧力が五人の体をぶん殴って、とんでもない距離を吹き飛ばされていた。具体的にいえば、その場所から数百メートル。つまりオルタナティブ・ファクトが覆っている範囲から十分に離れたところまで。

 もちろん、これは脊髄的に反応した緊急避難だったのであって、それゆえに、その方法について贅沢をいっているような余裕はなかった。つまり何がいいたいのかといえば、プレッシャー以外の四人にとって、マジでいきなり見えない力によって叩きつけられたという認識なのである。

 幸いなことに、これがデニーからの攻撃だと考えた者はいなかった。それが起こる前にプレッシャーが叫んだ言葉を聞いていたからである。ぶん殴られた直後こそ、何が起こったのか全く理解出来ないままに、「は?」という感じの顔をしてぶっ飛ばされた者もいたが。もちろんサテライトのことですよ。ぶっ飛ばされ終わって、地面に叩きつけられて。二度か三度かバウンドした挙句に、そのままずざざーっと地面の上を滑ってから、ようやく停止して。そこで、がばと起き上がった時には、誰がこんなことをしたのかということに完全に気が付いていた。

 「プレッシャー!」「てめぇ、なぁにしやがんだ!」とかなんとか叫びながら、その場に起き上がって。岩肌を滑った時にずる剥けになった顔からだらだらと血を流しながら、当のプレッシャーがどこにいるのかと、ヒクイジシさえ射殺せそうな右目で辺りを見回した時に……ようやく、それに気が付いた。今まで自分が立っていた場所の上空に開いていた、あのぽっかりとした穴に。

 「んだよ……ありゃ……」と言いながら、呆然として空を見上げる。「恐らくデナム・フーツのオルタナティヴ・ファクトだ」「は?」「オルタナティヴ・ファクト、魔学者が内的に作り出す観念世界のことだ。その世界では、その世界を作り出した魔学者が想像した通りにファクトが改変される。また、現実世界の存在を持ち込むことが出来るために、持ち運びが出来る武器庫のように使用する魔学者もいる」「ああ、あれか。思い出したぜ」。

 いつの間にか、サテライトの横にはエレファントが立っていた。それに、もう少し遠いところにはブリッツクリーク三兄弟の姿もあった。うまく受け身をとったらしく傷一つないレジスタンス、そのレジスタンスの抵抗力がクッションになったらしく、やはりダメージを受けた様子がないカレント。そして、そのそばには、やはり呆然とした表情で空を見上げているプレッシャー。

 「だがよ、神国主義ゲリラの連中が使ってたのは……なんつーか、もっと……」「その魔学者がどれだけの精神力を有しているかによって、作り出すことが出来るオルタナティヴ・ファクトの規模は変わる。普通の人間であれば自分の体積と同じ程度の大きさを作り出すのが精一杯だ。もしも、あれがデナム・フーツが作り出したオルタナティヴ・ファクトだという仮説が正しいなら、デナム・フーツの精神力は……」「はっ! 化け物だな」。

 「邪悪」そのものが具現化したような光景を見上げながら、そんな風に、大したことのない世間話でもするようにして話している二人。ちなみにサテライトは、エレファントと二人だけで会話している時は大体こんな感じである。もちろん酒だのなんだのをがぶ飲みしている時は別だが、通常の状態であれば、結構落ち着いた精神状態で話すことも出来るのだ。恐らく、太陽が借星を飲み干してしまう直前、世界が終ってしまうその瞬間であっても、エレファントと二人きりであるならば、サテライトはまあまあ平静な状態で死を受け入れることが出来るだろう。

 とはいえ……実際のところは、ここにいるのはサテライトとエレファントと、この二人だけではないのであって。恐らくそのことを思い出したのだろう、サテライトは、はっとした顔をして。それから、今さっきまでの表情が嘘のような、恐ろしくサテライティックな形相をして、プレッシャーがいる方向、ぐるっと全身で振り向いた。

 「プレッシャー!」「え? あ……はいっ! なんすか、姐さん!」「「なんすか」じゃねぇんだよ「なんすか」じゃ! 人のこといきなりぶん殴っといてだぜ、んな態度が許されるとでも思ってんのかよ!?」「すんません、姐さん!」「「すんません」でもねぇんだよ! あたしが聞きてぇのはなぁ、てめぇがなんでこんな真似しやがったんだっつーことなんだよ!」。

 サテライトの問い掛けに対して、プレッシャーは少し困ったような顔をした。自分でも、自分がなぜこんなことをしたのかということがよく分かっていないらしいのだ。ほとんど、何か、生命に対するcrisisのようなもの。それを感じて、本能的な反応として行動しただけだからである。暫くの間、どう説明すればいいのかということを必死で考えていたようだったが。やがて、空に浮かんでいる「邪悪」の方を指差して。おずおずと「あれっす……あれが……」と呟いた。

 「はあ?」「あの……穴から、少しでも離れないといけないって思ったんす」「あれがどーしたっつーんだよ! なんだ、あれにあたし達が吸い込まれちまうとでもいうのかよ!」「いや、違うんすよ、なんつーか、そうじゃなくて……」「んだよ、はっきり言えよ!」「あそこから、圧力を感じるんす」「は? 圧力?」「こっちに向かって、押し潰すみたいな圧力が来てるっつーか……何か、何かが、あそこから……」と、サテライトとプレッシャーとの会話がそこまで続いた時に。カレントが、ぴくりと身動きをした。

 カレントは、今の今まで、レジスタンスが作り出した抵抗力に包み込まれたままで全く動いていなかった。というか、どちらかといえば、動くことが出来なかったという感じだった。何か、とても恐ろしい「流動」を感じて。そのせいで凍り付いているとでもいった感じ。けれども、その瞬間に、その口が動いた。プレッシャーが口にした言葉、それに続けてこう言ったのだ、「……出てくる」。

 「出てくる?」その言葉に今度はエレファントが反応した。「カレント、それはどういうことだ。そもそもお前が感じた可能性の「流動」の中にはこんな光景はなかったはずだ。デナム・フーツがオルタナティヴ・ファクトを展開しただけで、私達にとっては完全に想定外の出来事だ」。

 カレントは、右の手のひらで頭の後ろ側を押さえるようにしてさすりながら立ち上がる。頭、といっても、それは要するにモニター画面のことなのだが。とにかく、そのモニター画面、どこかの回路に重大な損傷を受けてしまったとでもいうように。「そうですね……その通りです」。

 「彼は、どうやら可能性の流れを塞いでいたらしいですね」「どういうことだ」「簡単なことですよ。つまり、可能性の流れに干渉してこの出来事が起こり得ないように見せかけていたということです。流れがそちらに向かわなければ、私にはその光景は見えない。しかし、実際は、その可能性は常に彼の手の中にあった」「そんなことが出来るのか」「理論的には不可能ですよ。でも、実際に起こっていますからね。出来るというしかありません」。

 いかにもこともなげといった口調でそう言うカレントだったが。けれども、「邪悪」を見上げている、そのモニター画面には……一面のノイズが映し出されていた。えーっと、最近の人って知らないかもしれないですけどね、陰極線管で作られたテレヴィジョンが使われていたころは、番組の放送ってアナログ放送で行われてたんですよ。携帯電話が普及し始めてから周波数帯がいっぱいいっぱいになっちゃってデータ圧縮が出来るデジタル放送に変わっちゃったんですけどね。それで、アナログ放送のテレヴィジョンって、番組を受信していない時、画面にノイズを映し出してたんです。サンドノイズとかスノーノイズとかいうんですけど、ざーざーっていう音を出しながら、真っ黒な画面に、大量の白いドットが映し出されては消えて消えては映し出されるっていうノイズ。

 カレントのモニター画面に映し出されていたのはそれだった。ざーざーという音を立てることこそしていなかったが、まるで対神兵器を落とされた後の地上の光景のように、一面を白いドットで覆われていたのだ。そのような画像から……カレントが、本当は、何か、とても、ominousなものを感じているということが分かる。言葉通りの意味の、あまりにも不吉な前兆。

 「それで、何が出てくるんだ」、エレファントが、あくまでも冷静に問い掛ける。カレントは、一度口を開いて、それからその口を閉じた。また口を開けて、それでも、時が止まってしまったかのように何も言わないでいたが……やがて、ようやく言葉する。「分かりません」「分からないとは、どういうことだ」。

 「見えていないわけではありません。それは、確かに、見えている。ただ、これは人間が理解出来るものではない。人間という生き物は、これを理解出来るほど高度なつくりをしていない。これは、何か、とても……私が今まで見たこともないようなものだ。とても真聖で、とても崇高で。これは……いや、そうだ、分かりました。たった今、理解しました。これを表わす言葉を私は知っています。それは、つまり……」と、そこで、カレントは一度言葉を止めた。見つめていた先、デニーのオルタナティヴ・ファクトが、ゆらりと揺れたからだ。

 何かが。

 何かが。

 今。

 そこから。

 出てこようと、している。

 それは一体何か?

 カレントは。

 知っている。

 それを表す言葉を知っている。

 ああ、そう、要するにそれは。

「神。」

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