第二部プルガトリオ #41

 マコトが同行していた部隊が、吹雪のあまりの激しさのせいで、他の部隊からはぐれてしまったのだ。普通であれば、そんなことはあり得なかっただろう。例えば、兵士達にまともな思考能力が残っていれば。そもそも、はぐれるということがあり得なかったはずだ。けれども、吹雪のせいで一時的に兵站が途切れてしまったことによって、彼ら/彼女らは、数日前からろくに物を食べていなかった。ほとんど靄がかかったような思考の中で、自分達が何をしているのかということさえ曖昧だったのだ。

 また、まともな通信機器があれば。そして、そこが目印一つない荒野ではなかったならば。すぐさま、他の部隊と連絡を取って、合流することが出来ていただろう。けれども、彼ら/彼女らは、吹雪によって視界を閉ざされてしまって、自分達がどこにいるのかということさえ分からなかった。他の部隊と連絡を取ったのはいいが、どうやって合流すればいいのかということが分からず。しかも、そうこうしているうちに、まともに手入れもされていなかった無線機は、最悪のタイミングで故障した。

 ちなみに、念のために書いておくが……この間、ずっと、マコトは完全に明晰なままであった。全身が麻痺してしまうほどの寒さの中を、ほとんど何も食べることなく、数か月の間、ただただ歩き続けていたという程度では。マコトは欠片の痛痒さえ感じることがない。全くの冷静さによって、いい換えれば、全くの他人事を見るような視線によって。自分が同行している部隊に降りかかった絶望的状況を眺めていただけであった。

 マコトは、部隊がはぐれたその時も、「あらららら?」「これ、ひょっとしてはぐれちゃうんじゃないですかね?」と思っていたし。その部隊が他の部隊との通信を行っている時も「おやおや、そのまま通信を続けていたら通信機が壊れてしまいますよ」「暫く経って、状況を把握出来てから無線を繋ぎ直した方がいいんじゃないでしょうか」と思っていた。ただ、それでも、何も言わなかった。なぜなら、そっちの方が面白そうだと思ったからだ。このまま、何も起こらないまま、雪の中を進軍し続けるよりも。こうして何か動きがあった方が愉快なものが見られると思ったからだ。

 さて、そういったマコトの内心については置いておいて……その部隊は。とにかく、どこかに避難することにした。辺りで荒れ狂っている吹雪は、どんどんと、その凄まじさを増していっていて。このままでは、吹き飛ばされまではしないとしても、雪に埋もれてしまうかもしれないような状況であったからだ。

 部隊には、物質を操作出来るタイプのスペキエースがいた。そのスペキエースが、周囲に降り積もる雪を再構成して。そうして、部隊の全員を収容出来る程度の大きさの、氷で出来たシェルターを作り出した。ついでに、余談として書いておくが……普通であれば、通信機の故障に備えて、部隊ごとに一人のテレパシストが配属されているものなのだが。残念なことに、その部隊に配属されていたテレパシストは、つい三日前に、凍傷が悪化したために死んでしまっていた。

 その部隊のメンバーはシェルターの中に入って、そして、取り敢えずは、吹雪が去ってしまうのを待つことにしたのだが。ここでその部隊を更なる不幸が襲った。サヴィエトの冬は、その時、まさに、最も深い真冬に向かって突き進んでいたのであって……その吹雪は、それから先、数か月の間、収まることがなかったのだ。ひどくなる一方の吹雪、外に出ることさえ出来ずに、その部隊のメンバーはシェルターの中に閉じ込められることとなった。

 当然ながら、食料はほとんど残っていなかった。ただ、部隊のメンバーにとって大変幸運なことに、付近に存在している生命体の生命力を感じ取ることが出来るスペキエースが生き残っていた。このスペキエースは、普段の戦闘では、隠れている狙撃手などを発見したりするために使われていたのであるが。シェルターの近くをごく稀に通りかかる野生動物を発見することが出来たのだ。ちなみに、このスペキエースは、限られた範囲の生命体しか感知出来ないため、この部隊がはぐれた後、他の部隊を発見することは出来なかったのだが……とはいえ、それでも、食べる物を見つけるのには役に立った。

 それで、最初の数週間はなんとかなったのだが。ただ、その後に、部隊を次の悲劇が襲った。生命力を感じ取ることが出来る、そのスペキエースが死んでしまったのだ。それどころか、マコトを除く部隊のメンバーの全員が、謎の病にかかって次々に死んでいった。ひどい高熱を発し、ぐるぐると眩暈を起こし、内臓の全てが悲鳴を上げているような気がする。そして、それだけでなく、唇や舌やなど、口の周りの皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちていく。皮膚の剥離は、次第に次第に広がっていき、彼ら/彼女らが死に至る直前には全身の皮膚が剥がれてしまっていた。

 この謎の病は……実のところ、謎の病でもなんでもなかった。エスカリアのように比較的開拓されている地方ではない、サヴィエトの奥地では、ヴァータモン・アルファ過剰摂取症候群と呼ばれているものだ。この病気がいかなるものなのかということをごくごく簡単に書くとすれば、ヴァータモン・アルファを過剰に摂取することによって起こる病気である。いや、まあ、当たり前ですね。もうちょっとだけ詳しく書きます。

 ヴァータモン・アルファは、読者の皆さんもご存じの通り、生命にとって必須の栄養素の一つである。この物質は形相子の中の特殊な部分、他の形相子に対して肉体の作り方を指示する部分に作用して、肉体のあらゆる部分を作る働きがあるのだ。ということで、これを摂取しないと肉体が正常な形で作られなくなってしまうのだが……ただし、これを過剰摂取しても、やはり肉体が正常な形で作られなくなってしまう。今度は、全身の細胞が暴走し、制御出来なくなるのだ。

 特に、その暴走は、皮膚で顕著に見られることになる。ヴァータモン・アルファを過剰摂取すると、未だに肉体の一部分として成熟していない分化前の未熟な細胞に対して、凄まじい速度でその成長を促すことになるのだが。皮膚の場合、皮膚としての成熟というのは、すなわち皮膚表面で死んだ細胞となって肉体の外層となることである。ということで、ヴァータモン・アルファによって成長を促進された皮膚細胞は、細胞の生成が追いつかないほどのスピードでプログラム細胞死することによって、結局のところ、この部隊のメンバーがそうであったように、ぼろぼろと剥がれ落ちていくことになるのである。

 ところで、このヴァータモン・アルファであるが……寒冷地に生息する生き物、例えばトナカイの体内には、非常に大量に存在している。なぜかというと、寒冷地に生息する生命体は、その寒さゆえに、肉体を、皮膚と脂肪とで出来た分厚い層で覆わなくてはいけないために。それだけの細胞を成長させる量のヴァータモン・アルファが必要になってくるからである。

 そして、そのようにしてヴァータモン・アルファを大量に含んだトナカイを食べるのが狼である。ヴァータモン・アルファは、他の栄養素とは違い水に溶けることがないので、尿として排出することが出来ない。そのため、普通であれば、狼も、ヴァータモン・アルファの過剰摂取状態になっておかしくないのだが。ただ、サヴィエトに住む狼はこの点で進化を遂げている。それは肝臓の機能によるものである。

 過剰に摂取してしまったヴァータモン・アルファを肝臓が濾過し、それを隔離するのだ。こうすることによって、狼は、ヴァータモン・アルファ過剰摂取症候群に陥ることなく、思う存分にトナカイを捕食することが出来るのであるが……ただし、そうして摂取されたヴァータモン・アルファはなくなってしまうわけではない。相変わらず、その肝臓部分に残っている。しかも、生物濃縮された状態で、恐ろしいほどの量が蓄積しているのである。

 さて、部隊のメンバーが食べたのが、トナカイであったならば。まだ、なんとか生き残っていたかもしれない。その程度のヴァータモン・アルファならば人間の肉体にも対処可能だからだ。しかしながら、部隊のメンバーは、狼を食べてしまった。狼の群れをワイルド・ハントして、何匹も何匹も、その肝臓を食べてしまったのだ。これは、人間の肉体には、到底処理出来ない量のヴァータモン・アルファを摂取するということであって。もっと分かりやすくいえば、それは致死量であった。

 そんなわけで、部隊のメンバーはばたばたと死んでいったのだが……マコトだけは別であった。いうまでもなく、マコトは、知っていたのだ。ヴァータモン・アルファ過剰摂取症候群について、狼の肝臓を食べてはいけないということについて。マコトは、食事の時間、自分の皿に盛られた動物の内臓のうち、肝臓だけはほとんど手を付けないようにしていた。もちろん、なんの症状も出ないと怪しまれる可能性があるということで、ほんの少しだけ食べはしたが。決して致死量を摂取しないように注意を払っていた。

 それでは、なぜ、なぜ、マコトは、部隊のメンバーに忠告しなかったのか? 狼の肝臓を食べてはいけないと。それを食べれば命さえ失いかねない病が襲うと。もちろん、そちらの方が面白そうだったからだ。何も言わないままでいた方が面白そうだったからである。マコトは、ヴァータモン・アルファ過剰摂取症候群について、知識としては知っていた。けれども、実際に見たことはなかった。興味があったのだ。全身の皮膚が剥がれ落ちながら惨たらしく死んでいく人間が、一体どのようなものであるか。

 また、そうして、部隊のメンバーの全員が死んだ後で。取り残される自分の精神状態にも興味があった。絶望だけが残された人間。これほど閉ざされた空間で、会話をする相手もいないまま生きていかなければいけない人間。生き残れるかどうか、この凍り付いた世界から生きて帰れるのかということさえ分からない人間。そういった人間がどのような思考に陥るのかということについても興味があったのだ。

 もちろん、このままでは絶対に生き残れないという状況ならば、マコトとてそんなことはしなかっただろう。別に、マコトには破滅願望のようなものはないのだから。だが、確実に生き残れるとはいえないにしても、確実に死ぬとまでいい切れるわけでもなかった。例えば食料であるが、可能性としてではあるが、かなりの量が残されていた。可能性というのは……狼は食べ尽くされていたが、部隊のメンバーが死ねばその死体を食べることが出来るということだ。一人一人はやせ細り、過食部分もあまりなかったが、それでも、マコトと、それからもう一人とを除いて三人が残っていたので、彼ら/彼女らが皆死ねば暫くの間はもつだろう。二十日程度で一人を食べるとして、恐らくは二か月もつ。

 また、火であるが、幸いなことに、この部隊には人体発火系のスペキエースがいた。そのスペキエースは、先ほど食用の人間から除いた一人なのであるが、それがなぜかといえば、その肉体が燃え続けていたからである。これがいつ燃え尽きるのかということは分からないが、今まで見てきた限りでは、その体積は三日で一ヘビーミナ程度減少しているように見える。となれば、骨格以外の部分の体積を三十ヘビーミナとして、九十日程度はもつということだ。一か月が三十二日であるが、これを三十日と考えれば、三か月はもつという計算になる。まあ、あまりに小さくなってしまっては使い物にならなくなるだろうが、やはり二か月は火に困ることがないということだ。

 サヴィエトの冬は半年にわたって続く。ということで、二か月後も、この場所は相変わらず冬のままであるわけなのだが。とはいえ二か月もあれば吹雪が途切れる期間もあるだろう。もちろん、吹雪が途切れたところで、ここがどこかということが全然分からず、それどころか見渡す限り目印になるようなものが何もない氷の荒野の真ん真ん中にいる以上、マコト自身の力でここから脱出することなど不可能であるが。マコトの部隊が消息を絶ったことを知ったエスカリアの軍幹部が捜索隊を派遣してくることは間違いないはずだ。

 いや、正確にいうのであれば、サヴィエトとエスカリアとの間の戦況が今のように膠着し切ったままであれば、たぶん捜索隊などというものを派遣してくる余裕はないだろう。確かに、マコトはエスカリアにとって重要な人物ではあったが。とはいえ、いってしまえば、所詮はジャーナリストでしかない。兵站線さえまともに確保出来ないような現在の状態で、一人のジャーナリストを救出するために、それほど多くの人員を割けるはずがない。吹雪の中で行方不明になり、そのまま死亡したという扱いを受けるであろうことは確実だ。

 ただ、マコトは……サヴィエトとエスカリアとの間で、一か月以内に和平交渉が始まるだろうと読んでいた。エスカリアの軍幹部も、そろそろ冷静になる頃だろう。現在のような状態でエスカリアが戦線を保てるはずがないということ。仮に戦争に勝利したとしても、これほど巨大な領域を手に入れたところで人的資源がないのだから国境管理もままならないであろうということ。それに、事態の打開策として頼りにしていたレベル7のスペキエースも、このように何もない荒野においては、倒すべき相手も破壊すべき施設もないのだから、なんの役にも立たないということ。そういったことに気が付くであろう。

 和平交渉は、始まったとしても、それほど早く決着することはないはずだ。なぜなら、サヴィエト側は、間違いなくこの戦争が始まる前の国境線を要求してくるはずだからである。つまり、この荒野の外側、エスカリアが占領している例の開拓地帯を返還するように要求するということだ。エスカリアにとって、それは屈辱的な敗戦を意味することであるが。とはいえ、サヴィエト側としても、エスカリアとの間に存在している貴重な防衛ラインを手放そうとはしないはずだ。サヴィエトとエスカリアとの間には、確かに極寒の地獄が横たわっているのだが。そこには軍事施設を作ることが出来ない以上、開拓地帯がどうしても必要なのである。

 エスカリアがサヴィエトの要求を飲むしかないということに気が付くまでにはやはり一か月程度かかるだろう。つまり、その一か月で、世界的な世論に変化が起こるだろうということだ。サヴィエト側に傾くとまではいかないだろうが、和平交渉におけるエスカリア側の傲慢さ、占領地域を手放そうとしない強欲さを見ることになった人々が、この戦争がエスカリアによる侵略戦争としての意味合いがあるのではないかということに気が付き始める。そうすればエスカリアは後援者を失う。

 エスカリア側が手に入れるものは……結局のところ、開拓地帯に潜伏していたクルトゥーラのメンバーの、その引き渡しくらいのところで落ち着くだろう。もちろん、クルトゥーラを創設・訓練したのはサヴィエトの諜報組織であるからして、そちらをどうにかしなければ第二第三のクルトゥーラが現れることは間違いがないのだが(そして実際に将来において現れることになるわけだが)。とはいえ、少なくともエスカリアの面子は保たれるわけだ。

 と、こうして、和平交渉が終わると。もちろん、サヴィエトの荒野で散っていった兵士達の死体について、その回収事業が始まるはずである。そうなれば、その事業の中でそれを発見することに対して最高の優先順位をつけられるのは、マコトの死体であるはずだ。それは、まあ、兵士達の死体は、エスカリアにとって重要なものであることは確かだが。そうはいっても、それらの兵士達のほとんどは無名なのである。そういった兵士達がいくら死んだところで、世界的な世論は大して気にも留めない。だが、マコトが、マコト・ジュリアス・ローンガンマンが死んだとなれば。世界的な世論は、間違いなく大きな騒ぎを起こす。

 世界的な世論を作るのはジャーナリストなのである。そして、ジャーナリストは、数千・数万・数億の無名の兵士達が死ぬことよりも、自分達のお仲間が死ぬことに対して大きな騒ぎを起こすものだ。しかもマコトは、そういったお仲間の中でも、ほとんど最高位のお仲間なのである。人権派ジャーナリストという宗教団体における枢機卿的な存在であるといっても過言ではないだろう。二十歳という若さでアイズナー賞を受賞した神童。その後も、あらゆる人権問題について、果敢に権力に立ち向かい続けた闘士。そんなマコトが、もしかしたら侵略戦争なのかもしれない戦争の中で命を落としたとなれば。これは、エスカリアという国家に対して、ジャーナリスト達がどのような攻撃を仕掛けてくるか分からない。

 もちろん、マコトが生きているとは思えないが……とはいえ、死体さえ回収すれば。そして、マコトが死ぬ間際まで書き続けた取材ノートさえ手に入れることが出来れば。やがて来たるべき大火を、ちょっとした小火騒ぎくらいで収めることが出来るはずだ。つまり……まず、死体さえ発見出来れば、一つのピリオドを打つことが出来る。人間というのは、火に群がる虫のようにして謎に群がるものだ。マコトの死体が見つからないうちは、その死について様々な憶測が流れるだろう。それだけでなくエスカリアは、謎を解明しようとするジャーナリスト達によって、痛くない腹だけではなく痛い腹をも探られることになりかねない。けれども、死体さえ発見出来れば、葬儀を行うことが出来る。その葬儀を、エスカリア政府が、国葬レベルの荘厳さで行えば。きっと、ジャーナリスト達も、少しは気が収まるに違いない。

 そして更に、マコトの取材ノートを発見することが出来れば。その内容の中の都合のいい部分だけを抜き出して発表することが出来る。何も、それを改竄までする必要はないのだ。もちろん、エスカリア政府とて、マコトの取材ノートが、自国にとって都合のいいことばかり書かれているわけではないだろうということは分かっていた。それどころか、恐らく、その大半は政府に対する批判的な言説によって埋め尽くされているだろう。それでも、一部には、エスカリアにとって都合のいいことも書かれているはずだ。取材ノートのうち、そこだけが読み取れたとして発表すれば、マコトがエスカリアを支持していたとして世界的な世論を操作することも不可能ではないだろう。

 そういった目算から……エスカリアは、一刻も早くマコトを見つけ出そうとするはずだ。そう、一刻も早く。火消しは早い方がいい、もうどうしようもないような大火事になる前に、あらゆる対策を講じなければいけないのだ。ということで、二か月程度の後に和平交渉が終了すれば、エスカリア政府は、軍幹部は、すぐさまマコトの死体の発見に動くだろう。

 まあ、その時点では、この地域はサヴィエトの支配領域になっているはずであるが。それでも、サヴィエトが、マコトの捜索を妨害するような真似に出るはずがない。行方不明になってから二か月の時が経過しており、生存の可能性はほとんどないだろうが。それでも、ゼロではないのだ。もしも、サヴィエトが妨害して、その結果として助かるべきマコトが助からなかったら。今度はサヴィエトが、ジャーナリスト達からの集団暴行を受けることになる。ということで、マコトを発見したいのはサヴィエトも同じなのだ。

 サヴィエトとエスカリアとが合同で捜索隊を派遣する。行方不明になった地点は大体ではあるが判明している。そして、スペキエースの手によって作られた、それなりに大きなシェルターがここにある。まあ、ほとんど雪に埋まってしまってはいるのだが……それでも、これだけの好条件が揃えば発見される可能性は高いだろう。それも、捜索が開始されてから、かなり早い段階で。マコトの推測では、一週間程度の期間にわたって吹雪がやめば、その間に、確実に発見されるはずだ。

 つまるところ、全ての事態がマコトの予想通りに進めば。まあまあ、二か月もすれば、マコトは救出されるだろうということだ。そして、マコトは、自分の予想に絶対の自信があった。これまでに、政治や経済、社会、文化といったマクロなレベルで物事を観察した場合に、人間という下等な生物種が、マコトが考えた通りの行動を取らなかったことなど一度もなかったからだ。まあ、とはいえ、気象条件に関しては、さすがにマコトとしても確実な想定が出来るというわけではなかったが……とはいえ、少しくらいは想定外の要素がなければ面白くない。

 そう、面白くないのだ。絶対に安全なローラーコースターのどこが面白いというのか? レールは錆び付き、安全ベルトは切れかけ、コースターに取り付けられたローラーはがたがたと歪んでいて、今にも粉々に割れてしまいそうな。そんなローラーコースターでなければ、マコトにとって乗る価値などないのだ。

 二か月の絶望。生きるか死ぬかさえ分からない中で、人間の死体しか食べる物もなく、たった一人きりで氷の世界に閉ざされる。これこそが「面白い」と呼ぶに相応しい悪夢であって。だから、救出される可能性が五分五分、いや、それよりも少しばかり低いこの状況こそがマコトにとっての理想的状況なのだ。

 ということで。

 そのローラーコースターに。

 マコトは、乗ることにした。

 さて、そのシェルターの外の世界では……完全にマコトが想定した通りに、出来事が生起していった。サヴィエトとエスカリアとが和平交渉を締結し、開拓地帯はサヴィエトに返却されて、クルトゥーラのメンバーはエスカリアに引き渡されて。そして、まさに「マコト・ジュリアス・ローンガンマン」を捜索するための捜索部隊が、サヴィエトとエスカリアとの合同部隊として結成された。ちなみに、大変白々しいことであったが……この捜索部隊は、サヴィエトとエスカリアとが戦争を乗り越えたということ、友好の証・親善の証として世界的に喧伝されることとなった。

 まあ、それはそれとして、ここまでは、ちょっと退屈なほどマコトの想定通りに進んでいったのだが……ただ、一つだけマコトの想定通りに進まなかったことがあった。それは、やはり、人間の手が届かない領域の出来事。自然という巨大なる力についてのことだった。要するに気象条件である。

 どうも詳しいことは分からないのだが、なんとか海で起こったなんとか現象が原因であったらしい。その現象が起こるのは非常に珍しいことで、五十年だか百年だかに一回。しかも、その現象が起こったのは、マコトが天気についての情報をまともに手に入れられなくなってからだった。とにかく、その現象のせいで、エオストラケルタ大陸の北西部には巨大な寒気が停滞することとなり……そして、サヴィエトの荒野を、人間が記録を開始して以来の凄まじい厳冬が襲うこととなった。

 普通であれば吹雪が収まってくる時期であったにも拘わらず。マコトが閉じ込められていた地域を、ほとんど途切れることなく豪雪と暴風とが襲い続けた。捜索隊は、もちろん、最高レベルの装備と人員とでマコトの捜索に向かった。サヴィエト側は、サヴィエトの吹雪に対抗出来るように特殊な加工を施したビークルを提供したし。エスカリアに至っては、普通であれば軍事的用途でしか動員されることのないレベル7のスペキエースさえ動員してその捜索に当たったくらいだった。

 しかしながら、科学的な力だけではなく、一部には神学的な力さえ含まれているサヴィエトの吹雪の前では――ちなみに、吹雪のこの特性は、第二次神人間大戦期においてゼティウス形而上体から人間を保護するため、ニコライ・サフチェンコがこの荒野の一帯に刻み込んだ魔学式に由来するものである――それほどの装備と人員とが揃っていても、捜索は遅々として進まなかった。

 さて、そんな状況下で、マコトは。一か月ぐらいが経過した時点で、既に、これはちょっとヤバいんじゃないかと思い始めていた。普通であればちょっとは和らいでくる吹雪が、ちっともすっとも弱まる気配がない。マコトは、なんとか現象が起こっているということは知らなかったのだが、それでも、何か、自分の生存にとって大変不利益なことが起こり始めているということに気が付いた。ということで……もう贅沢をするのはやめることにした。

 具体的には、二十日に一人くらい食べていた、その人間の消費の速度を抑えて。そしてその代わりに、こんなこともあろうかと貯めておいた自分の糞尿を摂取することにした。まあ、ほとんど栄養がないとはいえ、少しは腹の足しになるからだ。鍋で、自分の糞尿と、それに他人の死体とを混ぜ合わせて。それを食べることにしたのだ。もちろん、凍り付いた血液は溶かして啜ったし、骨を割って中の髄を舐めた、一度は、骨を粉々にしてその粉を食べようかとも思ったが。ただ、それに使うエネルギーと比較して、摂取出来る栄養があまり期待出来ないのでそれはしなかった。

 また、時間のほとんどを横になって過ごすことにした。それまでは、自分の精神状況を、取材ノートに逐一書き込んでいたのであるが。さほどではないとはいえ、人間は思考にもエネルギーを使う。そのため、物を食べるとき以外には、目を開くことさえやめてしまって。どうしても空腹が抑えられなくなった時だけ起き上がることにしたのだ。

 意識の焦点はだんだんとぼやけていって、肉体は確実に衰弱していった。けれども、それでも、マコトのある一点だけは、確実に明晰なままであった。それは客観的な視点である。自分のことを、どれだけ他人事として眺めることが出来るか。自分の体の中にある、全ての主観的な感覚を排除するということ。痛み、苦しみ、怒り、悲しみ、遠のいていくような感覚に、離れていくような感覚。そういった全ての「自分自身」についての可能性を、外科的な正確さで切除していって。マコト・ジュリアス・ローンガンマンという下等知的生命体が、どうすれば生き残ることが出来るか。それだけを、冷酷に観察していたということだ。

 その場所には昼もなければ夜もなかった。ただただ、吹雪の音だけが、のっぺりと平板な時の流れを咀嚼していく日々。そんな日々の中で、マコトは……とうとう、他人の肉体を食い尽くしてしまった。それに、それだけではなく。何度も何度もマコトの消化器官を通過した糞尿は、既に、吸収され尽くしてしまっていて。要するに、シェルターの中には、マコト自身の他に、燃え盛る死体と骨の欠片としか残されていなかった。

 もう食べられる物は何もない……そう、マコト自身の他には。だからマコトはマコトを食べることにした。それ以外に方法はないのだからあーだこーだ考えていても仕方がない。ということで、その肉体に通された神経系が、マコトという意識を統合的な幻覚として発生させている脳髄と接続しているところの、その肉体を、マコトは食料とすることにしたのだが。問題なのは、肉体のうちのどの部分を食べるかということだ。

 今後救出されることがあるとして、救出された後には、これまで通りの日常を送ることになるのであるが。その日常に支障がない部分から食べていくべきであろう。ということは、眼球だとか舌だとか、そういう感覚と密接に結び付いた部分は論外である。また、手や足や、そういった部分もなるべくなら食べたくない。太腿も、やはり歩行に支障をきたす可能性があるし、二の腕は手の動きに関わってきかねない。耳や鼻やといった顔から盛り上がっている部分は、食べてもさほどの問題になりそうにないが……とはいえ、実際にどれほどが可食部分であるのかという問題がある。

 普通の人間であれば、ここで、臀部が最有力候補として立ち現れてくるだろう。確かに、尻の肉には、さほどの有用性があるように思えない。だが、残念なことに、マコトは新聞記者なのだ。新聞記者の人生において、その半分はアウトドアでの取材に費やされるだろうが。けれども、もう半分はインドアでのデスクワークなのである。ということは、その間ずっとどこかしらに座り続けていなければならず、尻の肉というものはクッションとして非常に重要な役割を果たすことになる。そう、マコトが記事を書く時に座る場所は、ふかふかのクッションが置かれた椅子の上とばかりは限らないのである。

 また、それ以前の話として。この状態の自分が、自分自身の尻の肉を上手く切り取れるのかという問題があった。先ほども書いたように、マコトの肉体は恐ろしく衰弱していて、しかも、慢性的に凍傷寸前といった感じであった。凍えかけた肉体、その指先は、アルコール中毒の患者みたいにして常に震えていて。握った手にナイフを押し込むのがやっとだというほどだ。こんな状態で、手元を見ずに尻の肉を切り取ろうとして……もしも失敗してしまったら? 少しでも手が滑って、ナイフが、何かしらの重要な器官を傷付けてしまったら? どんな些細な怪我でも致命傷になりかねないこんな状態で、そんな危険を冒すわけにはいかない。

 あるいは、腕の筋力が足りず、尻の肉を切り取れなくて。それでもなんとか切り取ろうとして……そのまま力尽きてしまったら? その場合、マコトは、自分の尻に自分の手でナイフを突き刺したままの死体として発見されることになってしまう。マコトは、肉体のどの部位を食べるべきか思案していた時に、そのようにして発見された自分の死体をふと思い描いてしまって、そのあまりの馬鹿らしさに思わず爆笑してしまったくらいだったが(そんなに笑ったのは数か月ぶりだった)(エネルギーを消費し過ぎて文字通り笑い死にするところだった)。とにかく、そんなクソ間抜けな最期は、さすがのマコトもなるべくならば避けたいところだった。

 そんなわけで、尻の肉も却下だ。ということは、残った部分は……頬の肉しかなかった。比較的切り取りやすい箇所、切り取っても生存に影響がなさそうな箇所。頬の肉が、生きることについて重要な役割を果たしているという話は、少なくともマコトは聞いたことがなかったし。頬であれば、体の正面にあるため、大変切り取りやすい。それに、もしもナイフが滑ってしまったとしても、せいぜいが舌を刺し貫くくらいだろう。

 また、それ以外にも、頬を食うことには重要なメリットがあった。それは傷口から流れ落ちる血液についてである。右の頬でも左の頬でもいいのだが、その肉を切り取った場合、切り取った頬がある方向の反対側を下にして横たわれば、その傷口から流れ落ちる血液は、そのまま口の中に入ってくる。ということは、そういった血液を一滴残らず摂取することが出来るのだ。これは、僅かな栄養も無駄にしたくない現在の状況においては非常に嬉しいメリットであって。そして、尻の肉をカット・オフした時には、望むべくもないメリットでもあった。

 と、まあ、以上のような理由によって、マコトは自分の頬を食べることに決めた。右頬ではなく左頬にした意味は特にない、敢えて何か意味付けするとすれば……食べた後に横になる時には、右を下にした方が消化にいいというような話をどこかで聞いたことがあったからだろう。もちろん、血液を無駄にしないためには、マコトは横にならなければいけないのであって。それならば、消化にいい横になり方をしようと思ったのだろう。

 さて、マコトは、まずは右を下にして横になった。頬の肉を切断する際にも、やはり流血は起こるからである。それから、強く強く握り締めた手の中に無理やりナイフを押し込んで、その手とは反対の手、人差し指と中指とを口の中に突っ込んだ。その二本の指と親指とで、強く強く頬を掴んで。今度は、そういった指があるところよりも少し上のところ、ナイフの刃先を口の中に突っ込む。痛みは……感じなかった。ちょっと驚いてしまったのだが、本当に、全く感じなかったのだ。なんだか、自分の本当の肌の上に張り付けられた柔らかい布を引き裂いていくような感触、それだけしか感じなかった。そのまま、引き裂けるところまで、そのぎりぎりまで引き裂いて。一度、ナイフを引き抜く。もう一度、今度は指があるところよりも下の方に、ナイフの刃先を突っ込んで。また、自分の頬を引き裂いていく。こちら側も、ぎりぎりのところまで傷口を広げていって。上と下と、その両方に切れ目を入れた結果として……マコトの頬は、マコトという人間の肉体から、完全に分離することになった。

 あはは。

 ちょっと考えてみたんですけど。

 この傷口ってなんだか。

 笑ってるみたいですね。

 ずるりという感じ、滑り落ちるようだった。確かに、マコトの指先は、それを掴んではいたのだが。それでも、頬の肉は、マコトの手によってその口の中に運ばれていったというよりも、マコトの肉体から剥離して、そのまま口の中に落ちていったという感じだった。どちらにせよ、口腔内にある、その肉の塊、栄養の塊を、ほとんど残っていない顎の力で、なんとか咀嚼する。それは意外にも柔らかくて……なんだか蛞蝓みたいな噛み応えだった。正確にいうと、その時点のマコトは、まだ蛞蝓を食べたことがなかったが。後々になって蛞蝓を食べることになった時に(蛞蝓は南アーガミパータの主要な蛋白源の一つである)、「わーお、これってあの時食べたのと似てますね!」と思ったのだった。

 噛んで、噛んで、噛んで。その度に、頬の傷口から、じゅっじゅっという感じで血が噴き出した。恐らくは、咀嚼する時の筋肉の関係なのだろう。とにかく、マコトの顔は、思いのほか勢いよく飛び散った血液で濡れていって。その度にマコトは、飛び散った血液を指先で掬い取って舐めた。ずるずると血液を啜る音、それに、ぐちゅぐちゅという、頬の肉を噛み締める音。そういった音が、暫くの間続いた後で……やがて、唐突に止まった。

 マコトが、頬の肉を、なんとか飲み込み終わったのだ。そして、その後に、マコトは……睡眠に対する急激な欲求を感じた。お腹がいっぱいになったというわけではないが、久しぶりに食べ物を食べたことで、脳髄の中の食欲中枢から眠気を誘う脳内物質が放出されたのだろう。

 ドラマとか映画とかでよく見るような、このまま眠ってしまえば死ぬというシチュエーションではなかった。マコトは、自分が眠くなることを予測して、シェルターの中の、火に一番近い場所に移動していた。その時には、その火の元となるスペキエースの死体は、ずいぶんと小さなものとなってしまってはいたが。それでも、マコトを温めるには充分であった。だから、別に、このまま眠ってしまってもいいのだが……ただ、マコトは、ちょっと不味いかもしれないなと思っていた。

 今までも、何度も何度も、このシェルターで眠っていたけれど。そういった眠気と今回の眠気とは少しばかり性質が異なっていたからだ。たぶん、頬の肉を切断した時に、想定していた以上のダメージが肉体に及んでしまったのだろう。そのせいで、肉体が、今まで以上に根本的な休息を求めていた。

 何がいいたいのかといえば、マコトには予感があったということだ。このまま眠ってしまえば、恐らく、次に目覚めるのは数日後だろう。というか、もっとはっきりといってしまえば……もう目覚めないということもありうる。頬の肉と頬の血と、そこから得られるエネルギーでは少な過ぎて。肉体が、この傷によるダメージから回復し切れずに、そのまま死んでしまう恐れがある。

 しかし……だからといって、マコトには、眠らないという選択肢もなかった。眠れば、少しは回復するかもしれないが。眠らないとして、一体いつまで眠らなければいいというのか? 捜索隊が来るまで? まあ、それはそうだろう。そうだとすれば、捜索隊は一体いつ来るというのか? つまり、マコトは、いつかは眠らなくてはいけないのである。

 そうだとすれば今眠ることになんの不都合もないはずだ。もしかしたらそのまま死んでしまうかもしれないが、起きていても死ぬのだ。それならば眠ってしまって、フェイトかチャンスかの賭けに出た方がいいだろう。ということで、マコトは、頬から流れ落ちる血液を、口の中でぴちゃぴちゃと舐めながら……そのまま、そっと目を閉じたのだった。

 結論からいうと。

 マコトは。

 死んでいた。

 はずだった。

 マコト自身がそうではないかと薄々感付いていたように、マコトの肉体は頬の傷に耐えることが出来なかったのだ。ゼティウス形而上体さえも凍り付かせるような極寒の地においては、感染症などの心配をする必要はなかったが。単純に傷を回復させるだけのエネルギーがなかったということである。マコトの中に残存していたのは、本当に、生命を維持するのにぎりぎりの分量だけであった。しかも、そのエネルギーさえも、既に消えかけているとしかいいようがないほどに小さくなった人体発火の炎によって、辛うじて保たれているといった有様だったのだ。

 そのようなところにこの傷である。確かに、頬は、人間の肉体のうちではさして重要な器官というわけではなかったが。とはいえ、マコトのナイフは、その皮膚を貫いて、その肉を引き裂いたのだ。一般的に、真皮が欠損するレベルでの傷を負った場合、肉体は肉芽組織を作り出すことによってその傷を覆おうとするものであるが。当然ながら、その過程は、表皮細胞の移動によってなされるそれよりも遥かに大きなエネルギーを消費する。端的にいって、マコトにはそんなエネルギーは残されていなかった。

 それにも拘わらず、肉体は傷口を覆おうとする。まあ、それも仕方がないといえば仕方のないことで、いつまでもいつまでも傷口が開いたままでは、そこから血液が滴り続けるからである。そう、血液の流出も問題であった。開いた傷から、血液は流れ落ちていて。そして、マコトの肉体は、そのように喪失された血液も作り出さなければいけなくなったのである。それ以外にも、様々な必要のせいで、マコトの中のエネルギーは急速に消費されていって。ついに生命を維持することさえ出来なくなったのだ。

 マコトが目を閉じてから。マコトが眠りについてから。マコトの肉体は、笑ってしまうほど簡単に、生きる力を失っていって。その全身は、すぐ近くにある炎でさえも温めることが出来なくなった。周囲の冷度によって、重力に導かれるような必然さで冷たくなっていって。恐らくは、自分の力では目覚めることさえも出来ずに……どれほど長く生き延びられたとしても、二日目の夜に死んでいただろう。

 そして。

 捜索隊が。

 そこら中に散らばった。

 元々は人間の骨であったもの。

 その残骸の、真ん中。

 自分の頬から流れ落ちる血液によって。

 腐った薔薇の花弁のような色に濡れて。

 まるで笑っているかのように。

 滑稽に引き裂かれた顔をした。

 マコトのことを。

 発見、したのは。

 ちょうど。

 その二日目の。

 夕方の。

 ことだった。

 マコトを発見した捜索隊のメンバーの、そのうちの一人が、後になって語ったことによれば。それは、想像もしていなかったほどに醜く腐りきった光景であったという。いや、勘違いしないで欲しい。その男とて悲惨な光景はいくらでも見てきた。そもそもその男はエスカリア側から派遣されて捜索隊に参加した人間であったのだが、今回の戦争、つまりサヴィエト侵攻にも参加していた。凍り付いた荒野の中で死んでいく兵士達の姿など見飽きるほど見てきたし、それだけでなく……あまりの空腹のゆえに、味方の兵士の死体を食うことになった兵士のことも知っていた。

 そういうことではない、その光景の醜悪さは、そういうことではなかった。その光景に、頭蓋骨の中に多足の長虫を注ぎ込まれるような恐怖を感じたのは。それが、あまりにも、整然としていたからだ。普通、人間を食うような状態に追い込まれた人間は、良いか悪いかは別として、多少は気が狂ってしまっているものだ。ある意味で獣の世界に踏み込んだ人間でなければ、そんなことは出来るはずがない。それにも拘わらず、そのシェルターの中は……非常に、グッド・オーダーであった。

 マコトが食った人間の骨は、種類によって分別されて。シェルターの周縁、その一周に綺麗に並べられていた。食われた兵士が着ていたと思われる服も、丁寧に畳んでまとめられていて。そして、武器の類は、危険性がないように注意深く無力化された上で、その服の横にまとめられていた。中心部分には、ほとんど消えかけた炎、例の人体発火のスペキエースの死体が置かれていたのだが。その横には、一つの鍋が、まるで正座でもしているかのようにして、几帳面な態度で置かれていた。

 その男は……鍋の中を覗いた時、すぐにその匂いに気が付いた。その鍋は、まるで舐めたかのように(というか実際にマコトはその鍋を舐めていたのだが)綺麗になっていたが。それでも、その鍋が一体何を煮ていたのかということ、それを示すところの匂いは決して消えることはなかったのだ。

 あらゆるものが、あらゆるものが……疑う余地もなく示していた。このシェルターで起こった全てのことをした人間は、決して狂っていたというわけではないということを。この鍋で、死体と糞尿とを煮て、それを食べていた人間が、はっきりとした明晰な意志によって、それをしたということを。

 そして、その明晰な意志を持った人間が、この光景に存在するあらゆる醜悪と腐敗との中心点に横たわっていたのであるが。その人間は、ナイフを握り締めたままでそこにいた。なぜ、その人間はナイフを握り締めていたのか? 問い掛けるまでもなくその男には理解出来た。なぜなら、そのナイフが傷付けた傷口はすぐ目の前に開いていたから。傷口からは血が流れ出していて、その血が、たらたらと血溜まりを作っていて。その人間は、その血溜まりの中に顔を伏していた。つまり、その人間は自分の頬を切り取るためにナイフを持っていたのだ。そう、自分の頬を切り取るために。自分の頬を切り取って、それを食うために。明晰なまでの……明晰なまでの意志。まるで理程式のように、論理的に導き出された結論。生きるためには、自分の肉体を食わなければいけない。そして、その人間は、その通りにした。

 その人間が死んでいるのか生きているのかということは、その男には分からなかったが。願わくば死んでいて欲しいと思った。その男は……シェルターの中、空間と時間とが、完全に腐敗し切っていると感じたのだ。ここで行われたあらゆる出来事は、人間が、他人だけではなく、自分に対しても。人間という生き物に対して行うことが出来る限りの最低の行為であった。その男は、人が人を殺す行為に関しては理解出来た。また、人が人を食うのも、理解までは出来ないとしても、同情することは出来た。だが、そういった事柄を、他人であると自分であるとに拘わらず、ここまでの明晰さで行うというのは……その男は、その人間が、これまで自分が見てきた生き物、それが戦場であるにせよ日常であるにせよ、その中で最も恐ろしい化け物であるということを感じた。

 と、まあ、そういった個人的な意見は置いておきましてですね。そんな状態、要するに死にかけた状態で発見されたマコトは、捜索隊に参加していたテレポーター系のスペキエースによって、エスカリアという国家の中でも最大の規模を誇る大学病院に、すぐさま運ばれた。その大学では、スペキエースの能力の有効利用についての研究が行われていて。といっても、ワトンゴラのそれとは違ってスペキエースの自発的な協力の下で行われていたのだったが、とにもかくにも、この世界でも最高レベルの医療が受けられるということに違いはない。そしてマコトは、そういった医療を惜しみなくその肉体に享受することが出来た。

 マコトを診察した医師団(もちろんエスカリアにおける最高の医師達であり、治癒能力を持つスペキエースも含まれていた)のうちの一人が話すところによれば、病院に運ばれるのがあと一時間でも遅れていれば、間違いなく死んでいただろうということだ。とはいえ、その一時間は遅れることなく……そして、マコトは一命を取り留めた。

 いうまでもなく、マコトは世界的な注目を受けることとなった。マコトが行方不明になってから、最終的に三か月以上の時が経過していたのであって。それほど長い間をどうやって生き残ったのかということを、あらゆる口と耳とが噂し合っていた。また、それ以上に……現代における最高のジャーナリストの一人であるといっても過言ではないマコト・ジュリアス・ローンガンマンが、その全ての出来事を、どのような言葉へと変えるのかということ。リリヒアント第九階層の底の底に下降していって、そこからまた這い上がってきたかのようなサヴィエト侵攻の最前線における体験を、一体どのように表現するのかということ。マコトが発表するに違いないルポタージュを、世界中の人々が、心臓の音さえ止めてしまいかねないような熱烈さで待ちかねていた。

 マコトが発見されてからちょうど一か月後にそのルポタージュは書き終えられた。その後、イエロー・タイムズから予約者に限定して発売されたのは、二巻に分かれた分厚いペーパーバックである。予約者の数は全世界で一万人以上に及び、イエロー・タイムズは、自社で印刷することを諦めて外の印刷所に頼まなければいけなかったほどだ。ちなみに、イエロー・タイムズが新聞以外のものを刊行したのは後にも先にもこれだけだ。

 第一巻が、サヴィエト侵攻が一体いかなる事件であったのかということ。その始まるきっかけから、和平交渉がどのようにして決着したのかということまでを、様々な資料を用いて克明に描き出したものであって。そして、第二巻が、マコトの個人的な体験を描いたものであった。個人的な体験とは、もちろん、前線において、マコトが経験したほとんど全てのことである。

 ほとんど全て。そう、マコトは……三つのことを除いて、それ以外の全てのことを書いた。その三つのこととは以下のことである。一つ目、部隊のメンバーが道に迷う様子を黙殺していたこと。二つ目、部隊のメンバーが狼の肝臓を食べる様子を黙殺していたこと。三つ目、自分の頬を切り取って食べたということ。

 それらの三つのこと以外の全てのことをルポタージュに記した。部隊のメンバーがどのように死んでいったのか、自分が生き残るために何を食べたのか。それに、そこに至るまでの道のりで何が起こったのか、つまり、サヴィエト侵攻の最前線で兵士達はどのようにして死んでいったのか。その全てをそこに書いた。

 それは……今までマコトが書いてきた記事とは、まるで異なった筆致によって書かれていた。それまでのマコトの記事は、犠牲者による告発そのものであった。それは、燃え盛る瞋恚の炎であり、この世界のあらゆる悪を暴き立てる者の絶叫であった。だが、そのルポタージュは。あたかも、ペンを握るマコトの手が、サヴィエトの荒野で凍り付き、そのまま死んでしまったかのように。完全なる冷静さによって書き記されていた。その紙の上で凍結しているインクは、恐らく冷血によって作られていたのだろう。そこには一切の感情が示されていなかった。いや、ただ一つ示されていたものがあるとすれば、それは絶望であった。あらゆる希望を失った者の感情、既に死に至った者の感情。そのルポタージュから読み取れるものはそれだけであった。

 そのルポタージュを受け取った者は、間違いなく、その全てを、一度もページを閉じることなく読み終わった。本当に、ただ一人の例外もなく、そのページを閉じることが出来なかったのだ。どんなに眠くても、その本を読み終わるまでは眠ることが出来ず。どんなに空腹であっても、その本を読み終わるまでは何も食べることが出来なかった。それほどまでに、その本に書かれていたことは、人間のあらゆる思考・あらゆる感情に訴えかけるものだったのだ。その無感情が、かえって、サヴィエト侵攻という出来事がいかに冷酷な出来事であったか。いかに無慈悲に人間というものを碾き潰していったのか。それを表していた。それは、確かに、これまでに世界に存在した中で最高のルポタージュのうちの一つであった。

 しかしながら、それでいて……それを読み終わった者は、大抵の場合、それをもう二度と読みたいとは思わなかった。それどころかそのペーパーバックに触れることにさえ嫌悪感を感じた。それを読んだ人々のうち、そのほとんどは、それを読み終わった後、すぐさまそのペーパーバックを二冊とも焼き捨てた。ただ捨てたのではなく、自分が見ている目の前でそれを焼き、そしてその灰を捨てたのだ。例えば家の中にある暖炉の中で。例えばバーベキュー・グリルに使うケトルで。あるいは、そのペーパーバッグを手に持ったままライターで火をつけた者もいた。それが本当に焼き尽くされるのか、その冷度によって炎さえも凍ってしまわないか。じっと見つめていたのだ。

 本当に、ほとんどの人々が取り返しがつかないほどに破損してしまって。そして、残った人々も、それが二度と自分の目に入ってこないように、どこかに閉じ込めてそのまま忘れてしまったせいで。その二冊のペーパーバッグは今では幻の本となっている。現在その在り処がはっきりと分かっているのは、たった四セットだけだ。一セットは、ジャーナリスト達によって作られた世界的な非営利組織である「我ら真実以外には服せず」の本部に。一セットは、EUの議会図書館に。一セットは、エスカリアの国立図書館に。そして、最後の一セットは、イエロー・タイムズの倉庫に。まあ、この最後の一セットに関しては、イエロー・タイムズの倉庫が完全な混沌であるという理由から、「在り処がはっきりと分かっている」とはいいがたいところがあるが……とはいえ、これ以外のものは、大体どこら辺にあるのかということさえ分かっていない。しかも、これらのペーパーバックは電子化さえしていないので。MJLの熱狂的なファンであるところの、いや、ファンであったところの真昼でさえも読んだことがないくらいだった。

 それは、それらの本は、はっきりいって呪いであった。人間の言葉によって書かれた、この世界に対する呪いだったのだ。マコトが書いたルポタージュ、『冷血の中で』と名付けられたそのルポタージュは、あたかも数式によって形作られた疫病のようであって。読んだ者を次々と絶望に感染させた。無論、その本を読んだ人々によって――その多くは世界的なジャーナリズム・エスタブリッシュメントであった――マコトの名声、ジャーナリストとしての名声は更に更に高まったのではあったが。それでも、その本自体は、完全に葬り去られたのであった。

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