第二部プルガトリオ #40

「あー、デニーさんですか? そうですそうです、マコトです。え? ああ、はい。はい、はい、そうですね。あはは、本当ですか? それは……そうですね、はい。えー! それは驚きですね! 良かったじゃないですか。 え? あはは、そうですね。はあ、なるほど。はい、はい。あー、確かにそうですね。へー、それは……ああ、なるほど、そういうことですね。いやー、あはは、さすがデニーさんだ!」

 駐機場に止めてあるフライスに寄り掛かって。

 マコトは、いかにも適当に相槌を打っている。

 ハンドデヴァイスの向こう側でデニーが何を話しているのかということは聞こえないが、とはいえ、デニーがどのように話しているのかということ、真昼には、まるでその耳に聞こえているかのように想像することが出来た。恐らく、いつものあの感じで話しているのだろう。話を聞いている側が理解しているのかどうかなどということを考えもしないで、自分が話したいことだけをべらべらと喋くり倒す。話はあちらからこちらへと飛躍して、しかも、その一つ一つが、あたかも子供が食べかけたままでほっぽってしまったケーキのように不完全だ。だからこそ、デニーがそんな話をしているからこそ、マコトも、こんな感じの対応になっているのだろう。まるで話を聞いていないとしか思えない、いかにも上っ面だけで頷いているような、脊髄反応としての生返事。

 先ほども少し触れたのであるが……ここは駐機場だ。採掘場に向かう前にマコトがフライスを止めていたところの駐機場。入領ヴィザがあればタダで止められるというカージナスの駐機場。#39が終わってから、割合とすぐにフライスは地上に辿り着いて。そして、マコトと真昼とマラーとは検問所で検問を済ませた。そういえば、検問所というのは、最初にカーラプーラに入ってきた時と同じ重要人物のための検問所だったのだが。そこで検問をしていたのは、あのヨガシュ族の兵士だった。飼っている猫に炒めていた玉ねぎの欠片をぶつけてしまっててんやわんやになったという、あの二十代の女性である。兵士はもちろん三人のことを覚えていたので、検問はこれ以上ないほどスムーズに終わった。

 夜のカーラプーラ……無限に続く熱力学の原理がそのまま原初的な光の洪水となって、ビルディングとビルディングとの間、その隅々にまで満ち溢れているカーラプーラを。あたかも誕生日のケーキを二つに切り裂いていく、一本の洒落たナイフのようにして、マコトのフライスは突っ切っていって。そして、この場所にまで辿り着いたということだ。ちなみに、どうでもいいことではあるが、魔力によって作り出された例の光。彫刻・絵画、そういった類の芸術作品のように様々な形をした光は。本当に、あらゆるところにその形を表していて。マコトのフライスは、避けもせずにそれらの形を疾駆していった。一度などは、あのウルトラ・ヴァイオレットのコルブラ・エラピデアにさえ突っ込んだくらいだ。

 その時に、真昼は。確かに、真昼の体は、デニーの魔学式のおかげで、この程度の魔学的エネルギーの影響は受けない程度には強化されていたのだが。それでも……人間の魂魄が有する直接の感覚性を灼躍するかのような、紫を超えた色の狂おしさ・凄まじさに。思わずマラーを抱いていない方の手で目を覆ったほどであった。抑えることの出来ない、まるで鋭利な衝撃のようなヴァイブレーションが真昼のことを貫いて。痛いわけではない、ただ眩しいのだ、そして、そのあまりの眩しさは、人間の耐久性を超えたところにある感覚の氾濫であって。真昼は……いや、人間は。精神が死んでいたところで、肉体の苦痛に耐えることは出来ない。笑ってしまうような、当たり前の現実だけがそこに提示されていた。

 まあ、それはともかくとして。

 そのようにして、この場所に。

 三人は、辿り着いて。

 カージナスは、いうまでもなく夜こそがその時間である。魔学的な力によって空中に浮かび上げられた、巨大な真球状の構造を中心として、あたかも一つの寺院のように構築されたビルディングは、その材料として青イヴェール合金とコンマギーアとを惜しげもなく使用した、現代建築における一つの極致ともいえるものであるが。その真球から発せられる光は、まるでダンスフロアにおけるミラーボールのように、無限に移り変わる鮮やかな光の乱舞によって、最盛の多幸感を知らしめている。

 今、この時点での真昼は……アーガミパータの賭け事については全く知らなかったけれど。アナンタの一族が支配する地域に特有の長方形の骰子、細長い四つの面にだけ数字が書かれたアクシャと呼ばれる骰子を使ったゲーム。マホウ界に生息する生物、テーワ・チーニャと呼ばれる小さな蛞蝓のような生き物を戦わせる、共通語で闘滑と呼ばれる遊び。それに、もちろんカンカーギ・パライミー。そういった様々な、煌めくような賭博を遊ぶ音が、まるでここまで聞こえてきそうなくらいだった。

 とはいえ、それは本当に聞こえてきているというわけではない。駐機場の全体は、比較的静かな雰囲気に包まれている。時折、頭に派手なターバンを巻き付けた人間、カージナスの職員であると思われる人間が駐機場にやってきて。そして、顧客から持ってくるように命じられたのだろうフライスに乗ってカージナスの方へと飛んでいく、すわーむという感じの音。それに、随分と遠いところから聞こえてくるグラディバーンの咆哮が、惨たらしいほどに尾を引いて消えていく時の残響。恐らく、この咆哮を上げているグラディバーンは、かなり長い間、グラディバーン用の駐機場に止められていて、すっかりと退屈し切ってしまったグラディバーンなのだろうが……それはともかくとして、この場所に聞こえてくる音は、そういった音だけだった。

 残響、そう、残響だ。この駐機場に沈み込んでいる夜の気怠さをこれほど的確に表現している言葉もあるまい。音だけではなく光も。ここに辿り着くのは残響だけである。確かに、駐機場の全体が、なんとなくYellow mellowが滲んでいるような街灯の光によって照らし出されてはいるが。その光は、決して、カーラプーラから溢れ出すような、あの光の洪水と同質のものではない。それは薄暗く、それは最低限であり、それは、泥濘の中で眠りにつくような、そんな光なのだ。そして、それ以外の光……つまり、カーラプーラのナイトライト、その光については、どこか遠いところで誰かが叫んでいるような、そんな残響としてしか届いてこない。

 そんな駐機場に。

 マコトは、フライスを止めて。

 そのフライスに寄り掛かって。

 デニーと電話をしている。

 「やあ、やあ、ようやく着きましたね」「あはは、随分とまあ遅い時間になってしまいました」「それで、えーと」「あれ、砂流原さんのこと、どこに連れて行けばいいのかな?」「そういえばデニーさん、そのことについてなんにも言ってませんでしたね」「全く、あの人は適当な人なんだから!」「ちょっと待ってて下さいね」「今、電話して聞いてみますから」。そして、真昼のことをどこに連れて行けばいいのかということを質問するために、デニーに対して電話をかけたということだ。

 そういえば……マコトが使っているハンドデヴァイスであるが、真昼が見たこともないタイプのものであった。明らかにASKホンであるようには見えないが、とはいえ、スマートバニーのものでもないらしい。SGSのマーク、兎の顔をデフォルメしたような例のマークがどこにも描かれていないからだ。

 ちなみに、これがどのようなハンドデヴァイスなのかということを説明しようとすると、マコトとマーク・ヒルトンとの出会い、後々になってボールドヘッドと呼ばれることになる自称天才科学者との出会いに触れないわけにはいかなくなるのであって。話がとんでもなく長くなってしまうので、割愛させて貰おう。

 まあ、一つだけ書いておくとするのならば……これは、確かにASKのものともSGSのものとも全く異なったネットワークを使用するハンドデヴァイスである。ボールドヘッドが打ち上げた衛星によって構築された特殊なネットワークを通じて通信を行う、第三のスマートデヴァイスとでも呼ぶべきものだ。ASKにもSGSにも通信を傍受されることがないので、マコトのようなジャーナリストにとって非常に使い勝手がいいスマートデヴァイスなのである。いや、電話の時とかは、相手が使ってるハンドデヴァイスの種類によっては、任意の集団に盗聴されちゃいますけどね。

 まあ。

 そういったことは。

 ともかくと、して。

 マコトは。

 そのスマートデヴァイスに向かって。

 話し続けている。

「ですから、どうも今回の件にはミズ・マントファスマが関わっているみたいなんですよね。ええ、ええ、そうです。まあ、私も、アーガミパータの取材で手一杯なんで、セレファイスのことまでは手が回ってない状態なんですけど……いえ、違います。あはは、クーシェの方々とはデニーさんの方が親しいじゃないですか。えー? いやー、ちょっとそれは……あはは、それを言われてしまうと弱いですね。本当は、情報源については話してはいけないんですけど……まあ、デニーさんなんで、特別にお話ししましょう。実はですね。ちょっとばかり、ヴァンス・マテリアルのデータベースをクラッキングしまして。あはは、そうですそうです。そこに……えーと、なんて呼べばいいんでしたっけ。アザーズ? そうそう、アザーズについて、ミズ・マントファスマと結び付けるようなデータがあったんです。ですから、ちょっと不味いかもしれませんね。デニーさんもご存じの通り、ミズ・マントファスマは……あはは、魔法が通じませんから。そうですね、何かしらの対策を考えておいた方がいいかもしれません。

「え? 砂流原さんですか? はいはい、もちろんです、ここにいますよ。大丈夫です、大丈夫です、ご心配なさらずに。砂流原さんのご安全は、このマコト・ジュリアス・ローンガンマンが命を懸けてお守りしましたから。え? あはは、そんなことおっしゃらないで下さいよ! ああ、そうそう、私、そのことで電話したんですけどね。いや、そのことっていうのは砂流原さんのことですけど。砂流原さんのこと、いつ頃、どこら辺にお連れすればいいんですかね。そういえば、そういう諸々のことに関する詳細って、全然お伺いしてなかったなと思いまして。

「ああ、もうご用件は終わってらっしゃるんですね。それは良かった、それで、今はどちらに……エーカパーダ宮殿? エーカパーダ宮殿にいらっしゃるんですか? なんとまあ! さすがデニーさんですね。アポイントもなく突然やってきたにも拘わらず、それだけの特別待遇を受けられるなんて。それで、今夜は、そちらにお泊りですか? あはは、羨ましい限りです! 実際、私もご一緒したいものですよ。アヴィアダヴ・コンダでの取材の準備がなければの話ですけれどね……ええと、それで、砂流原さんはどちらまでお送りすれば……ああ、はいはい、橋のところまでですね。そこでレーグートにお渡しすればいいと。分かりました。

「えーと、そうですねえ……今、私たちがいるのがレイクサイド・カージナルの駐機場ですので……え? ああ、違います、違いますよ。フライスを止めてるだけです。そうそう、駐機代がタダだから。あはは、そうですね、砂流原さんはそういう娯楽がお好きではないようで。それで……そうですね、一番近い橋は南側の橋っていうことになります。ああ、分かりました。では、南側の橋の袂にレーグートを待たせておいて下さるということですね。

「それでは、あと十分ほどでお連れしますので……え? 代わるんですか? 電話を? いえ、いえ、別に構いませんけどね。いやー、デニーさんにしては珍しいことをおっしゃるなって思いまして。だって、あと十分かそこらで会うことが出来るのに、わざわざ電話で話したいなんて……そうですよ、普段のデニーさんなら……いやいやいやいや絶対にそんなこと言いませんって! まあ、それくらいデニーさんにとって「重要」だっていうことなんでしょうね。はいはい、分かりました。今、代わります。」

 と。

 そんなことを。

 電話口に。

 向かって。

 話してから。

 ところで……真昼は、まだフライスの座席に座っていた。それは、マコトの電話が終わるのをわざわざ立って待っているというのが、なんだか馬鹿みたいであるように思えたというのも一つの理由であるが、それ以上にマラーのせいであった。マラーは、よほど疲れてしまっていたらしく、よほど深く寝入ってしまっているのか。フライスがここに着いても、目覚める気配などまるでなく、真昼の腕の中で眠り続けていたのだ。

 もちろん、デニーの魔学式という大変大変便利なものがあるので、マラーのような幼い少女の一人二人、颯爽とお姫様抱っこをするくらいわけのないことではあったが。とはいえ、下手に動いてしまえば、その振動がマラーに伝わって、変な感じに起こしてしまうことになりかねない。

 だから真昼は、取り敢えずのところは、マコトの電話が終わるまでこのままでいることにしたのだが……マコトは、寄り掛かっていたフライスから、とっと背を離すと。くるっと振り返って、そんな真昼の方に視線を向けた。それから、手元のハンドデヴァイスを指差してこう言う。

「デニーさんがお話ししたいそうですよ。」

「私とですか?」

「ええ、そうです。」

「今?」

「みたいですね。」

 そして、マコトは、そのハンドデヴァイスを差し出してきた。それに対して真昼は……暫くの間、何も言わずに、それを見ていた。その視線は、別に、見つめているという感じではなかった。とはいえ、ぼんやりと眺めているという感じでもない。なんというか……それは、灰色だった。灰色の視線であった。

 そして、それから、真昼は。

 その、ハンドデヴァイスを。

 受け取る。

「デナム・フーツ。」

「あーっ! 真昼ちゃーん!」

 当たり前のことではあったが、ハンドデヴァイスの向こう側から聞こえてきたのはデニーの声であった。真昼は、その声を聞くと……一瞬、ほんの一瞬だけではあったけれど、頭の中が真っ白になってしまった。これは比喩的な表現ではなく、本当に、思考の全てが空白になってしまったのだ。まるで、頭蓋骨の中で、透明で苦い味のする爆弾が爆発したみたいに。その閃光によって、目が眩み、何も見えなくなってしまったみたいに。けれども、その一瞬はすぐさま過ぎ去って……真昼の思考は、また、夜というこの場所に戻ってくる。

 どうやら、デニーの使っているハンドデヴァイスにまともなノイズキャンセリング機能が付いていないのか、それともノイズキャンセリング機能ごときではキャンセルし切れないほどの騒ぎであるのか。とにかく、デニーの声の背後には、何やら、随分とやかましい音が聞こえていた。それは、ただの騒音というわけではなく、どちらかといえば……何かきちんとした規則のもとに並べられた、ものであって。要するに、それは、何かの音楽であったり、あるいは歌声であるようだった。

 賑やかで。

 楽しげで。

 ラ、ラ、ラ。

 ハッピーな。

 デニーに。

 相応しい。

 音。

「ろーんぐたいむ、のーしーっ! どーお? 大丈夫だった? ちゃんと生きてる? 死んでない? 右手はある? 左手はある? 右足は? 左足は? 目と鼻と耳はなくしてない? 顎は誰かに取られてない? 内臓は平気? のーずいは残ってる? えーと、えーと! マコトちゃんは優しくしてくれた? 楽しいことはさせて貰った? 綺麗なものは見せて貰った? おいしいものは食べさせて貰った? カリ・ユガのおうちはどうだった? 真昼ちゃん的には素敵だった? ああ、そうそう! デニーちゃんと離れ離れで寂しくなかった? 泣いちゃったりしなかった? 真昼ちゃん、真昼ちゃん、真昼ちゃん! ちゃんと、元気は、いっぱいですか!」

 とんでもなく能天気で。

 とんでもなく騒々しく。

 そして。

 信じられないくらいに可愛い。

 まさにデニー、デニー、デニーの声。

 それを質問することにも、その質問に対して答えることにも、明らかになんの意味もないとしか思えない問い掛け。それが幾つも幾つも羅列されて、まるでラインダンスをしているかのようだった。一つ一つの質問が、真昼の指先から真昼の心臓まで、馬鹿げた陽気さによって整列して。そして、足先を軽やかに動かして踊っているみたいな気分だ。苛々させられるようなステップは、まだ、まだ、まだ続いていて……真昼は、それを途中で遮るようにして、たった一言だけ、こう言う。

「うるさい。」

「わー、良かった! 元気みたいだね!」

 実際のところは、読者の皆さんもご存じの通り、真昼ちゃんは全然元気ではなかったのだが。とはいえ、真昼としては、自分が元気か元気ではないかという話題をこれ以上掘り下げるつもりはなかったので、デニーのその言葉に対して、特に反論することはなかった。その代わりに……いかにも疲れ切ったとでもいいたげな、深い深い溜め息をつくと。吐き捨てるように、こう続ける。

「それで、何。」

「何って?」

「何か用。」

「別にご用事なんてないよー。」

「なんで、私を電話に出させたの。」

「なんでって、真昼ちゃんの声を聴きたかっただけだよっ。」

「あんたは……もういい、なんでもない。とにかく、声が聞きたかっただけなら、もう十分に聞いたでしょ。これで満足した?」

「えー? 真昼ちゃん、なんか冷たーい!」

 ここではっきりさせておかなければならないが、今の真昼は、信じられないほどの自制心によって、今の真昼に可能な限りの優しい反応をしていた。本当であれば……真昼は、電話口に向かって、デニーに向かって、これまでそんな声で叫んだこともないような声で喚き散らしたいところだった。言葉の限りを尽くして罵詈雑言を投げつけ、自分の知っている限りの悪口を使って讒謗してしまったら、まるで獣の咆哮みたいな絶叫によって、肺の中の空気を吐き尽くすまで叫び続ける。そうして怒鳴りまくった後で、力の限りにハンドデヴァイスを地面に叩きつけて、何度も何度も踏みつける。ハンドデヴァイスが、部品の一つ一つまで粉々になり、風に飛ばされて消えてしまうまで、踏みつけ続ける。

 しかし、とはいえ……そもそも、なんと叫べばいいのか? とにかく、何かを叫びたい。これ以上ないというくらいの憎しみと、これ以上ないというくらいの怒りとを込めて、デニーに向かい、狂おしい暴力を吐き出したい。けれども、いざ、何かを言おうとすると……どうにも言葉が出てこないのだ。何もない、空っぽの空間に、ただただ無間の叫喚だけが響いている。

 それに、それだけではなく、もしも叫べたとして。何かの言葉を思い付いて、それをデニーに向かって叫ぶことが出来たとして。それが何になるというのだろうか? 何のために、私はデニーに叫ぶのだろうか? 真昼という生き物とデニーという生き物との間には、その媒介となるところの隔絶さえも存在していない。言葉が通じ合うだけの関係性が存在していない。

 そう。

 例え、真昼が、その罪に対する許しを懇願しようとも。

 デニーは、それを罪と認識することさえ出来ないのだ。

 要するに。

 デニーは。

 暗闇を恐れる子供が。

 眠る時に抱き締める。

 柔らかい。

 柔らかい。

 ぬいぐるみのようなもので。

「それでそれで、どうだったーあ? マコトちゃんに、どこに連れてって貰ったの? 軍事大学は見せて貰った? 盗賊市場は見せて貰った? えーと、真昼ちゃんは月光国の子だけど……でもでも、マホウ族の生き物って、そんなに見たことのない子だったよね。それなら、王立動物園にはちゃんと行ってきたかな? あそこって、アーガミパータの色々な動物が見られるからね! ますと・ごーだよっ! あとは、あとは、処刑場も、ぜーったい行かなきゃだよね! だってだって、色々な知的生命体の色々な死に方が見られるんだから! とってもとーっても運が良ければ、高等知的生命体の処刑に立ち会えちゃうかもだし……ふふふっ! ほーんと、カリ・ユガのおうちは、とーっても面白いことがたーっくさんって感じだよね!」

 そう言って。

 いつものように。

 可愛らしく笑う。

 デニー。

 そして、これもいつものことであったが……真昼は、そんな感じのデニーちゃんのお話に、何一つ言葉を挟んでいなかった。それは別に、デニーの話すことに反感を抱いていたとか、そういったことではなく……単純に、言うべきことが、何も見つからなかったからだ。デニーの口から出てくる音は、今の真昼にとって……なんだかどうしようもないくらい他人事にしか聞こえなかった。どこか遠い国の、自分には関係のない音楽。それが、心地よささえ感じさせるほどの慣れ親しんだ感覚とともに、真昼の耳に入ってきている。それに対して言うべきことは、特にないというだけだ。

 遠い。

 遠い。

 声。

 遠い。

 遠い。

 部屋。

 まるで、安物のカメラの、ファインダー越しに。

 静かに静かに雪が降る音を聞いているみたいに。

「まあ、マコトちゃんなら、そういう面白いこと、ぜーんぶ知ってるから! きっと色んなところに連れてって貰ったよね! マコトちゃんってさぴえんすの割には楽しい子だから……たまに、ほんとーにたまーにだけど、デニーちゃんの知らないこととかも知ってることがあるしね! マコトちゃんにお話しする時は、とってもとっても気を付けなきゃだけど。マコトちゃんのお話を聞くのは、すっごくすっごく楽しいよね!

「あー、そうそう! お話っていえば! 真昼ちゃん、マコトちゃんのお口の傷のお話は聞かせて貰ったかな? 聞かせてもらった? ふふふっ、良かったね! それで、真昼ちゃんが聞かせて貰ったのはどのパターンのお話かな? パンピュリアのギャングに引き裂かれたっていうお話? グータガルドの内戦で銃弾が貫いたっていうお話? それとも、それとも、エスカリアでデモの取材をしている時に、ガラスの欠片を投げつけられたっていうお話かな? あははっ、ほーんとに、マコトちゃんって、お話を作るのがじょーずだよね! いつ聞いても新しいお話をしてくれるから、デニーちゃんなんて、マコトちゃんに会うたびにそのお話を……」

「ちょっと。」

「ほえ?」

「ちょっと、待って。」

「なあに、真昼ちゃん?」

 自分のものではないイヤホンから聞こえてくる音楽を聴いているかのように、ただただ耳を澄ませて聞いていた真昼が。不意に、デニーの話を遮った。全く別の世界のもののようなデニーの話の中、唐突に、真空の中に投げ出された光の花束みたいに、聞き逃すことの出来ない内容が放り込まれたからだ。

「あの人の……あの、傷の話って。」

「んー?」

「嘘なの?」

「え? うん、そーだよ。真昼ちゃんが聞いたお話がどれなのかーってことは、デニーちゃんは知らないけど。でも、マコトちゃんがあの傷について本当のことをお話してるの、デニーちゃんは聞いたことがないですねー。なんでその傷が出来たのかーっていうお話、幾つも幾つも聞いたけど……あっ、デニーちゃんのお気に入りはね、ワトンゴラの潜入取材の時に見つかって、研究所の子達が番犬の代わりに飼ってたクニクルソイドに噛みつかれたっていうやつ! あのお話は……」

「それは、なんで。」

「なんでって?」

「なんで、そんな嘘をつくの。」

「えー、デニーちゃんはそんなこと知らないよー。」

 それはまあ、そうだろう。さすがのデニーちゃんとて、わけ分かんないさぴえんすがわけ分かんないことをするのがなぜなのかと聞かれても、そんなこと分かるはずがない。だってわけ分かんないんだから。何かアドバイスするとしても、本人に聞いてみたら?くらいしか言えることはないだろう。まあ、デニーちゃんは別にアドバイスしようとかそういうタイプの人ではなかったので、それさえも言わなかったのだけれど。

 とはいえ、真昼としては……それは、重要な何かであった。とても、とても、重要な何か。マコトが話した話、その口の傷について話した話。それが真実ではなく、まるっきりの嘘であったということは、「わけが分からない」という一言で済ませられることではなかった。なぜなら、なぜなら……しかし、なぜだろう。

 自分が、なぜ、このことについて、それほどまでにこだわるのか。真昼は、それが、良く分からなかった。とにかく、真昼にとって……あの頬の傷は、何かしらの聖性のようなものを意味しているらしい。マコトという生き物に付与された、烙印のようなもの。だから、真昼にとって、その傷の話が重要になってくるのだ。

 ちなみに、嘘をつかれたということ。それ自体は……別に、それほど大きな意味を持つというわけではない。それが嘘であったとして。今更、それがどうしたというのだろうか? 確かに、マコトの口から、その嘘が紡ぎ出された時には。真昼にとって、それは何かの意味を持っていただろう。けれども、その出来事は、今の真昼には、あまりに遠いところで成し遂げられた犯罪であった。時間から考えたとしても、空間から考えたとしても。それは、今の真昼には属さない犯罪だ。真昼には関係のない犯罪。既に死んだ人間に対して働かれた詐欺に過ぎない。

 その傷を、作ったとしても作らなかったとしても。

 エスカリアのデモ隊は、結局のところ。

 誰かにとって大切だった誰かを。

 惨たらしく、虐殺したのだから。

「まーまー、それはともかくとしてっ! あっちに行ったりこっちに行ったりして真昼ちゃんも疲れちゃったでしょ! デニーちゃんが、ここで働いてる子達に頼んで、おいしー食べ物とおいしー飲み物と、どっちもいっーっぱい用意して貰ったから! だから、早く、デニーちゃんのところに戻っておいで! じゃあ、待ってるからね! しー、ゆー、すーんっ!」

 それだけ。

 非常に一方的な話し方で。

 好き放題、話し終わると。

 デニーは、その通話を切った。

 ほんの一瞬だけ、見捨てられた子供になったような気がした。何も悪いことをしていないのに、いつの間にか、誰もいない家の中に取り残されていたような気持ちだ。けれども、すぐに、そんな気持ちになった自分のことが、なんだか救いようのない阿呆であるように感じられもした。要するに、真昼は見捨てられていないし、真昼は子供ではないし、それに、この場所は真昼ちゃんハウスではなくアーガミパータなのだ。真昼の考えたことは、その全てが間違えているのであって……しかしながら……真昼ちゃんハウス、つまり、真昼が真昼の家であると考えるところの家。それは一体、この世界のどこにあるのだろうか?

 暫くの間、何一つ言葉を口にすることなく、ハンドデヴァイスの受話口を右の耳に当てていた。向こう側から聞こえてくる音は、ただただ静かで、ただただ冷たい、るー、るー、という音。その音は……この砂漠のどこかに生息している、ある種の昆虫。夜の間にだけ、誰にも聞かれることのない祈りのような鳴き声を上げる、その昆虫の鳴き声。夜の悲鳴、アル・アジフであるかのように聞こえていた。

 るー、るー、るー、るー。誰にも、誰にも聞かれることのない祈り。それを、ただ真昼だけが聞いている。なぜ真昼はその祈りをその耳に聞くことが出来るのか? なぜなら、真昼も、やはり、誰にも聞かれることのない祈りであるからだ。そもそも、それは祈りでさえないのかもしれない。それが祈りであるならば、まだ救いようがあるだろう。けれども、それは……そう、なんの意味もない、ただの悲鳴。

 そんなことを考えていた真昼の腕の中で、マラーの肉と骨とがしなやかに揺れた。マラーの身体、何か柔らかいもの、何か暖かいもの。それは冷たくて硬い真昼の身体とは全く別のものであった。それは、端的にいえば……祝福のようなものだ。祈りなく与えられた祝福のようなものだ。主は、主は。聞き届けられることのない祈りによって煉獄を作り、主を知らぬものに与えられた祝福によって辺獄を作る。

 まあ、とはいえ……そういった事柄はともかくとして。マラーのことを考えるならば、いつまでも、こうして呆然としているわけにはいかないだろう。いくら、神の卵によって照らし出されている土地であるとはいえ。その聖なる光が眠りにつく夜という時間においては、やはり、空間を満たす温度は、少しずつ、少しずつ、下がっていくものなのだ。そうだとすれば、すうすうと眠りについてしまっていて、目覚める気配さえないマラーの体……この暖かい体は。眠りの静けさのままに寒さを感じてしまうに違いない。そうであるならば、一刻も早く、どこか温暖な場所に連れていってあげるべきなのだ。

 だから、真昼は。

 右の耳から、ハンドデヴァイスを離して。

 そして、右の手の中に持っていたそれを。

 マコトの方に突き出した。

 真昼が電話をしている間中、マコトは、なんとなくボールペンを走らせているといった感じで、特に目的もなさそうに、大学ノートに何かを書き込んでいた。例えば、猫が毛繕いをするように……ある特定の方向に、極度の進化を遂げた生命体は。手持無沙汰な時間を潰すだけに存在している、大した意味もない動作というものを獲得しているものだ。きっと、マコトにとって、あのノートに何かを書き留めるということがそれなのだろう。そして、真昼が電話を終えて、マコトの方に、ハンドデヴァイスを返す仕草をすると。マコトは、ノートからふっと顔を上げて、いかにもマコトらしい笑顔でにへらっと笑った。

「ああ、終わりましたか?」

「はい、終わりました。」

 ハンドデヴァイスを受け取ると、マコトはそれをポケットにしまった。ちなみにハンドデヴァイスをしまったポケットは、ビーディの紙包みをしまっているポケットとは違って、防弾ベストに取り付けられている方のポケットだった。それは、外部から与えられた衝撃に対する緩和はもちろんのこと、着用者が激しい動作をしても中に入っている物が壊れないようになっていて。しかもスライドファスナーがついているので、ハンドデヴァイスをどこかに落としてしまわないかと不安になることもない優れものだった。さすがのマコトも、ハンドデヴァイスの管理に関しては気を使っているらしい。ちなみに、ラクトスヴァプン・カーンの鉱山を見学していた時は、きちんと作業着のポケットに入れ替えていました。

 さて、それから……くっと、軽く首を傾げるようなジェスチュアをすると。「それじゃあ、行きますか」「デニーさんもお待ちでしょうしね」と言う。言われたのは、もちろん真昼であったが。真昼は、それに対して、特に答えることはなかった。

 とはいえ、マコトを無視していたというわけではない。それどころか、真昼の目、右の眼と左の眼とは、マコトのことを深視していた。まるで、視覚という感覚によって何かを測定しているかのように。比喩的な表現を使うならば……マコトという生き物がいるはずの場所に、ぽっかりと開いている穴。どこか別の世界に繋がっているような虚無の、その温度を測ろうとしているかのように、真昼はマコトを見つめていたのだ。

 「あらららら? 砂流原さん、どうかしましたか?」「私の顔に何かついていますか?」と問い掛けるマコト。「いえ、別に」と答える真昼。真昼は、あくまでも、静かで、静かで。まるで、自分のことを冷凍庫で凍らせてしまったみたいな表情をしたままで、マコトのことを見つめていて……だが、唐突に、その視線を、ふっと逸らした。

 マラーの体に巻き付けてあった、金属製のワイヤー。とてもではないがシートベルトと呼ぶ気にはなれないシートベルトを、マラーのことを起こさないようにして外す。それから、マラーのことを両腕で抱えたまま、お姫様抱っこをしたままで、その場に立ち上がった。

 普通の人間であるならば、両手が塞がっているその状態ではフライスから降りることは出来ないであろう。けれども、真昼の体は、ある程度強化されている体なのであった。だから、真昼は、まるで影が笑うかのような音で、ふっと息を吐き出すと……とんっと跳んだ。

 それは、とても軽々しく成し遂げられた身のこなしであって。真昼の体は、フライスの後部座席から、星空の方向に投げ出された後で。何かの惨劇が弧を描いて落ちてくるかのようにして、マコトのすぐ横に着地した。

「行きましょうか。」

「あはは、そうですね。」

 そう、して、真昼とマコトとは。

 フライスから離れて歩き始めた。


 フライスの駐機場は……その性質から仕方のないことなのであるが、一台一台のスペースがかなり広い。車とは異なっていて、上から下に滑るように下りてきて、そうやって駐機するので。そのためのスペースが必要なのだ。更にそれだけではなく、スペースの周りには四方ともに通路が通されているので、全体的にかなり広大な空間になっている。そのため、さほど混雑しているような印象は受けなかったのだが。それでも、昼の時間帯にここに来た時よりも、かなり多くのフライスが停められていた。

 停められたフライスは、どれもこれもが、ちらと見ただけで高価な機体であると分かる物であって。まさに、カージナスで優雅な一時を過ごすような生き物、上流階級に所属するホモ・サピエンスに相応しい乗り物であるように見える物であった。もちろん、彼ら/彼女らは、間違いなく上流階級なのであって……しかも、ただの上流階級ではない。最も高度に発達した種類のgreed、つまり、他のホモ・サピエンスの死を売り買いして、そうして富の山を築き上げていくたぐいのgreedである。

 例えば、アーガミパータ向けの兵器に使用する赤イヴェール合金を買い付けに来たサリー・トマトの重役。例えば、カリ・ユガ龍王領との経済連携協定を秘密裏にまとめようとするハウス・オブ・ラヴの高官。例えば、国内避難民の受け入れ条件についての話し合いをしに来た「国家・企業及びその他の集団による緩やかな統合組織」の事務局メンバー。それから、もちろん、例のパイプラインの建設によって利益を得るところの、たくさんの、たくさんの、人間至上主義者達。

 そういった人間達が、昼間の会議を終えて……この饗宴の場所に集まってきていたということだ。上品な笑い声が、まるで、腐敗した血溜りの表面を撫でていくさざめきのように揺れる。あるいは、うっとりするようなロムノド・テロスの匂い、グラスとグラスとが打ち合わされて、自分ではない誰かの悪夢のように響いている。そういう情景を、真昼は、まざまざと思い描くことが出来た。なぜなら、真昼は、そちら側の人間であったからだ。ずっとずっとそうだったのだ。

 恐らくは。

 母親の。

 胎内に。

 いた時から。

 真昼の中で、全てが朦朧とした崩壊の中に落ち込んでいく。それは、もう、曖昧という感覚でさえなかった。それが曖昧であるならば、まだ救いがあっただろう。なぜなら、その曖昧さを感じることが出来るだけの内面性が残っているのだから。けれども、もう、真昼にはそれさえも残されていなかった。

 真昼の、一つ一つの断片。例えば自分がそれを目だと思っているものだとか、例えば自分がそれを心臓だと思っているものだとか。手であると思われるもの、子宮であると思われるもの、脳髄であると思われるもの。そういったあらゆる断片が、自分という感覚から切り離されてしまって。そして、夜の闇の中に溶けて消えてしまった。だから、真昼は、もう、自分自身として思考することの不可能性にまで落ち込んでしまっていたのだ。真昼という内面性は、ばらばらに分断されてしまって。それでいて、真昼と真昼ではないものとの境界線、この世界から真昼という一人の人間を区別する境界線が、どこにあるのか分からない。

 駐機場に停められた、一台一台のフライス。その、つやつやとした真っ黒な機体から、その所有者のせいで死ななければならなかった生き物達の、黒く濁った体液が流れ落ちているみたいだ。そして、その体液が、この駐機場の全体に満たされて……それが、この場所の、薄暗い夜になっている。ばらばらになった真昼の断片は、その中に、一つずつ落とされていって。そして、コーヒーの中に溶けていく角砂糖のようにして、不完全な人間の、自分自身という感覚の不確かさへと歪んでいく。

 真昼の肉体に残されている唯一の感覚は、自分自身が自分自身であることの絶望ではない。それは、真昼の腕の中で眠っているマラーの重さだけだ。その重さだけが、ただ一つ、真昼に残されている感覚である。それは良いものでもなければ悪いものでもない。それは、例えば錨のようなものだ。あるいは、コップのようなもの。真昼を真昼としてこの世界に繋ぎ留めている唯一のもの。繰り返すが、それは、何かの必然的な目的というわけではない。本当にニュートラルな感覚、あるいは、ただの物理的現象のようなもの。それがなければ、真昼は、きっと……ラゼノ・シガーの先端からくゆらされている煙のようにして、この世界の中に溶け込んでいってしまうだろう。真昼は、罪という感覚を持たない、ただの物質の塊になってしまって……けれども、それの何がいけないのか?

 罪の。

 ない。

 世界の。

 何が、いけないのか?

 そんな風にして、思考ともいえないような思考を、ただただ頭蓋骨の中で揺蕩わせている真昼。その目の前、導くかのようにしてマコトが歩いている。そう、マコトは導いている、真昼のことを導いている。今の真昼がいるべき場所に。

 駐機場、フライスが止められている場所からマイトリー・サラスの方向へと向かっていく。とても浅くとても広い階段のような形をしたテラスド・フィールドの段々を、一段一段、空腹な獣がステップするみたいな足取りで下りていく。

 恐らく、確かに、マコトは空腹な獣なのだろう。けれども、それは、別に、何か食料を求めているということではない。マコトは、自分が空腹であるということに対して、特に重要な意味を見出さないたぐいの獣なのだ。それは、何か食べられるものが目の前にあれば、それを食べるだろう。けれども、マコトにとって、空腹とはその程度のものに過ぎない。腹が減っているからといって、苦しみを感じることもなければ痛みを感じることもない獣。きっとマコトは、いつの日かその肉体を餓死させてしまうことだろう。けれども、その時でさえ、マコトは……あのへらへらとした笑い顔をやめることはあるまい。

 マコトの足が、テンポよく煉瓦を踏み鳴らす音。

 あちこちで他人事みたいな顔をしているベンチ。

 暫くして。

 マコトの体と、真昼の体と。

 真昼の腕の中のマラーの体と。

 テラスド・フィールドの一番下。

 湖のすぐ近くにやってきていた。

 湖畔は……そういえば、今気が付いたのだけれど。白い色をしたあの柵を隔てて、湖と接しているかのように近しいこの場所は。湖をぐるりと一周する、長い長い遊歩道になっているようだった、実際に一周しているのか、ところどころで途切れているのかは分からないけれど。とにかく、この素晴らしい景色を眺めながら散歩が出来るように、一つのルートが整備されていたということだ。

 道の広さは、その場所によって変わってくるらしいのだが。基本的には、六人ほどのホモ・サピエンスが悠々とすれ違うことが出来る程度。あるいは、二匹のグリュプスがさほど窮屈ではなくすれ違うことが出来るほどというべきか。青く濡れたような色の、ひどく透き通った煉瓦が敷き詰められていて。そして、その道を、点々と、一定の間隔を置いて、街灯が照らしていた。

 その様は、あたかも……空腹な獣によって、夜が、一か所ずつ、一か所ずつ、噛みちぎられているみたいだった。一つ一つの光の大きさは直径にして数ダブルキュビト程度の円形。その円形が、無限に続いていく一つの数式であるかのように、完全な等間隔で並んでいるのだ。夜、夜を食らう獣。光の姿をした残酷性。きっと、その獣には、人間らしい感情というものがないに違いなかった。そうでなければ、なせこれほどまでの正確さで、幾つもの噛み跡を残していくことが出来るだろうか。

 それは、機械仕掛けの獣のbite。

 あるいは。

 一つの。

 偽りが。

 演じられるところの。

 無限に続く。

 舞台。

 今の真昼にとって、その光の円形は、一つ一つが舞台のように見えた。一つの舞台ごとに一つのシーンが演じられて。そうして、演劇が進んでいくごとに、マコトと真昼とは目的の場所へと近付いていく。そんな舞台である。

 遊歩道に下りた。

 マコトと。

 真昼とは。

 その舞台の上に。

 滑り込むように。

 上がる。

 真昼は、マコトよりも少しだけ遅れてついていっていたので。その体とその体との間には数ダブルキュビトの距離があった。そのせいで、マコトが一つの街灯に照らし出されている時には。真昼は、その街灯ではない街灯、その街灯の一つ後ろの街灯に照らし出される形になっていた。

 もしも、真昼が……舞台に上がったのだとして。それならば、真昼は、何をするべきなのだろうか? もちろん、真昼は、セリフを口にするべきなのだ。真昼のために定められたセリフ、あるいは運命を。けれども、それは、一体、どんなセリフであるか。真昼は何を言うべきなのか。

 演技。

 演技。

 マコトは演技をしていた。

 真昼に対して虚偽を口にした。

 そうであるのならば、真昼は。

 本当のことを知らなければいけない。

 マコトの頬の傷は。

 あの聖痕は。

 あの嘲笑は。

 なぜ、傷付けられたのか?

 だから。

 真昼は。

 マコトに。

 こう問い掛ける。

「あなたは。」

「はい?」

「私に、嘘をつきましたね。」

 この世界には存在していない幽霊のような表情をしてそう問い掛けた真昼のことを、マコトはふっと振り返った。「あらららら」、わざとらしく人を馬鹿にする運命のような声が響く「私が、嘘を?」。マコトが……その声を口にした時に。マコトの体は、照らし出された街灯の光のちょうど中心のところに立っていた。舞台のちょうど真ん中で、マコトは、その顔を、左側に振り向かせて。そのせいで、マコトの肩越しに、あたかもスポットライトでも浴びるみたいにして、聖痕が、嘲笑が、あるいはただ単なる頬の傷が浮かび上がる。この夜自体に開いた一つの傷口のようにして、頬の傷は、真昼のことを笑っている。

「すみませんが、心当たりがありませんね。」

「その頬の傷のことです。」

「頬の……ああ、これのことですか。」

 そう言いながら、マコトは、頬の傷に触れると。へらへらと虚ろな例の笑い方で笑った。それから、自分よりも弱い生き物をいたぶりながら殺す猫科の生き物のような身のこなしで、するっと真昼から目を逸らして。また、その視線を前方に向けた。とんっとんっと、ステップでも踏んでいるような軽やかな足取り。一歩一歩進んでいって、それから……マコトの体は、光が切り取る空間の中から失われていく。

「あはは、デニーさんにお聞きになったんですね。」

「はい。」

「全く、あの人にも困ったものです。」

 月蝕によって食い尽くされる月の姿のようにして、マコトの体は、光の外側へと出て行って。そして、また、別の光の中に姿を現す。それはアノヒュプスか、それともナリメシアの姿なのか? マコトにアノヒュプスは似合わないだろう……そうであれば、ナリメシア。あらゆる生き物に静かな狂気を与える、凍り付いて閉ざされた不生女の女王。

 「そうは思いませんか、砂流原さん」「人の冗談の種を明かしてしまうなんて」「まあ、とはいえ、あの人らしいといえばあの人らしいですけどね」「正直で、素直で、思ったことをなんでも口にしてしまう」「あの人のように生きられたら……この世界は、さぞかし美しいものに見えるのでしょうね」。そして、ナリメシアは、また満ちる。

「なぜ、あなたは嘘をついたんですか。」

「なぜって、大した意味はありませんよ。先ほども申し上げた通りちょっとした冗談です。あはは、面白いと思ったんですよ。砂流原さんは、面白いと思いませんか? この傷が、もしもASKのオートマタによって付けられた傷であるならば。この傷が、もしも愛国の拷問官によって傷付けられた傷であるならば。この傷が、もしも月光国の魔法少女によって付けられた傷であるならば。それは、とても、愉快なことだとは思いませんか? この世界に……この世界に、一つしか現実がないというのは、耐えきれないくらい退屈なことです。砂流原さん、あなたは、こう思ったことはありませんか? その時その時によって、あらゆる現実が、あたかも魚の鱗に反射する光の色のように、くるくると移り変わるとすれば。それは、とても面白いことではないだろうかと。」

 マコトは。

 そう言うと。

 真昼の方には視線を向けないまま。

 些喚くように、首を傾げて見せた。

 さて、真昼は……マコトとは違う舞台に立っていた。真昼は、マコトと同じ舞台に立つことが出来ない。マコトよりも、少しだけ後ろの場所を歩いているからだ。マコトが一つの舞台の上に立っている時、真昼は、必ず、それよりも一つ後ろにある舞台の上に立っている。とはいえ……とはいえ、真昼は。マコトの跡を追いかけて歩いているのであって。いずれは、マコトが立っている、あの場所に立つことになるのだ。

 真昼にとって、それは恐らく、何よりも絶望的なことなのだろう。だが、それは一つの運命なのであって。一つの、逃れることが出来ない運命なのであって。真昼は、歩き続けるしかないのだ。あらゆる生き物が、始点から終局に向かって歩いていくしかない。現実が、くるくると、兎の目のように気まぐれなものであるならば。どれほど真昼にとって救いになるだろうか? けれどね、あはは、それは現実ではありません。

 だから。

 真昼は。

 また、口を開く。

「教えて下さい。」

「何をですか。」

「現実を。一つしかない現実を。」

「えーと、それはつまり……」

「その頬は、なぜ傷付けられたのかということを。」

 真昼の、その質問に。マコトは……黙ってしまった。ちょっと困ったとでもいうみたいな感じで、口を閉ざして。そして、その場所に立ち止まった。いうまでもなく、マコトが立ち止まったその場所は、舞台と舞台との間、揺蕩うように揺らめく闇の中。まるで仕組まれたかのようにそこにいて……そして、暫くの間、何かを考えていたようだったのだけれど。

 ふと。

 俯くかのように。

 顔を下に向けて。

「さして面白い話じゃありませんよ。」

 そして。

 答える。

「食べたんです。」

「え?」

「頬のこの部分を、切り取って食べたんです。」

「食べた?」

「ええ。」

「自分の頬を?」

「ええ。」

「なんで……なんで、そんなことを?」

「なんでって、そりゃあ他に食べるものがなかったからですよ。」

 どうでもいいことだと。

 そう言うみたいにして。

 マコトは、軽く肩を竦める。

 本来ならば、マコトのこの言葉を、真昼は疑ってしかるべきであっただろう。真昼に対して、あのようなタイミングであのような嘘をついたマコト。それだけではなく、デニーの言っていたことによれば、マコトは、この傷について数え切れないほどの嘘をついてきたということだ。いや、数え切れないというのは大袈裟過ぎるかもしれないが、それでも幾つも幾つもの嘘をついてきたということには間違いがない。

 だから、この話に関しても、本当のことであるという証拠が一つも提示されていない現状においては。それが真実であるのか虚偽であるのかというのは不確かであるはずだ。けれども、それでも……真昼には分かった。この話が嘘ではないということが。マコトが本当のことを話しているということが。マコトの頬は、間違いなく、たった今マコトが言った通りの理由で傷付けられた。つまり、それを食べるために。

 そして。

 真昼の。

 その確信は。

 正しかった。

 マコトの頬は、確かに、マコト自身の手で、それを食うために切り取られたものだった。ちなみに……マコトは、そう口にしたその言葉の通り、この出来事を大変退屈であると考えていて。そして、マコトにとって、退屈であるということは無価値であるということであるために。これ以上、この話を続けるつもりは全くなく……そのため、マコトの口から、この面白みのない一部始終について語られることはない。なので、一体何があったのかということについて少しばかり補足しておこう。

 それが起こったのは第二次サヴィエト・エスカリア戦争の時であった。読者の皆さんもご存じの通り、サヴィエトとエスカリアとの間には、一般的にはエスカリア独立戦争と呼ばれることが多い第一次サヴィエト・エスカリア戦争から数えて計五回の戦争が起こっている。いや、起こってるというか、この物語の時点ではまだ第三次サヴィエト・エスカリア戦争から第五次サヴィエト・エスカリア戦争までの戦争は起こっていないのであるが……まあ、それは置いておこう。

 とにもかくにも、サヴィエトに潜伏していた反スペキエース系武装組織クルトゥーラがエスカリアに対して行った越境攻撃をきっかけとして始められたこの戦争は、別名サヴィエト侵攻とも呼ばれている。名目上は、サヴィエトからエスカリアに対してテロ行為を行うクルトゥーラの拠点を攻撃することが目的だとされていたが、実際には、エスカリアが領土を広げるためにサヴィエトに対して仕掛けたところの侵略戦争としての意味合いを多分に含んだものであった。

 とはいえ、当時の世界的な世論の傾向は、未だにスペキエースに同情的なものだったのであって。そして、エスカリアも、その同情的な世論を最大限に活用して自分達の行為の正当化を図ろうとしていた。ということで、エスカリアは、世界各国から人権派として名高いジャーナリストを集め、自国の軍事的行動を取材させて、自分達こそが虐げられているスペキエースなのであるという大々的なキャンペーンを行うことにしたのだ。

 そして、そういったジャーナリストの一人としてマコトも呼ばれたということだ。これは当たり前といえば当たり前のことであって、スペキエースを搾取される側の弱者として、人間を搾取側の強者として、エスカリア独立戦争を鮮やかに描き出したところの記事を世界中に発信することによって、世界的な親エスカリア的傾向を作り出したのは、まさにマコトだったのだから。

 本来ならば、マコトは……記事の題材として、似たような悲劇を取り上げることはない。理由は単純で、一回取材すればもう十分だからだ。何度か書いている通り、マコトは、人間の精神状態について恐ろしいほどの洞察力を有している。だから、ある一つの惨たらしい出来事について、一定程度の観察を行ってしまうと。そこに関わってくる人間の「傾向」のようなものを完全に理解してしまい、何がどうなれば結果としてこうなるということが見えてきてしまうのだ。つまり、飽きてしまうのである。ということで、同じ戦争を二度と取材することはないのだ。

 しかしながら、マコトは、この戦争が、前の戦争と全く異なった性質を有するものであるということを理解していた。要するに、エスカリアは、サヴィエトの軍事的な力と自国の中枢部分との間に、緩衝地帯を欲していたのだ。サヴィエトは……誰でも知っていると思うが、非常に広大な国土を有している。そして、その大部分が、開拓のしようがない不毛の荒野、永久凍土かそれに類する地帯なのである。ということで、エスカリアは、自国に近い、サヴィエトの開拓された地帯を占領することによって、サヴィエトが容易に軍を派遣できる開拓地と自国との間に、そういった荒野を置こうとしていたということだ。

 そういった意味では、この戦争は、最初の戦争とは全く異なっている。最初の戦争は、命懸けの独立戦争であった。そこには、自分達が生き残るということ以外のどんな国家的意志も介在していなかったのである。けれども、今回の戦争は……余剰な意志が混入していた。いわば、贅肉のようなもの。より安楽に、より安易に、安全を手に入れたいという感情。だから、マコトは、その誘いを受けることにした。何か……自分の知らない、新しい悲劇が起こる匂いを感じ取ったのだ。

 そして、その感覚は。

 完全に正確であった。

 最初の頃は、大した問題もなく、エスカリアは勝利に勝利を重ねていった。確かに、サヴィエトは、世界に六つしか存在していないという桑樹級対神兵器のうちの一つ、神剣ブラディゲートを保有してはいたのだが。それほどの兵器を、たかが領土の小競り合いで使うわけにはいかなかった。というか、ただでさえ、大国サヴィエトが小国エスカリアを虐待しているという世界的な共通見解があったのだ。そのような状況で桑樹級対神兵器など使ってしまったら、間違いなく、サヴィエトという集団の評判は地に落ちる。

 そんなわけで、サヴィエトも、百パーセントの力を出し切ることは出来なかった。その一方で、「小国」エスカリアはやりたい放題出来た。まあ、ジャーナリストの目の前では、あまりやり過ぎるというわけにもいかなかったのだが……それでも、百パーセントの力を出してなんの問題もなかった。そして、エスカリアは、小国であるが、軍事力としての側面から見れば超大国といっても過言ではないレベルの国家なのだ。

 なぜならエスカリアはスペキエースの国家だからである。人間などという生き物を遥かに超えた力を持つスペキエースが数え切れないほどいる。いや、まあ、正確にいえば、国勢調査などで数え切ることは出来ているのだが、とにかく国民の大半がスペキエースなのだ。そして、その大部分が、第二次神人間大戦時にサヴィエトにおいて中核的な軍事力となっていたところのスペキエースと、その子孫達だったのである。

 レベル5なんてザラだ。軍隊の将校クラスになればレベル6もちらほら見られたし、いわゆるレベル7と呼ばれるような存在、つまり対神兵器級のスペキエースさえ存在していた。ということで、エスカリアが本気を出せば、サヴィエトの周縁程度、侵略することなどわけもないのである。

 しかしながら……あまりに円滑に進んでしまった軍事行動は、逆に、当該主体にとって致命的なものとなってしまうことがある。なぜなら、過大なほどの勝利はさしたる根拠もない楽観を生み出すのであって。そして、それは、状況に対する錯誤に繋がる。サヴィエト侵攻におけるエスカリアは、まさに、その典型的パターンに嵌まってしまったといってもいいだろう。つまり、自分達の戦力を過信してしまい、更に、空間戦略学的な関係性の読み違いまでしてしまったのだ。

 周縁の開拓地、つまり、エスカリアにとって比較的危険性が大きい地帯の占領が終わって……エスカリアは、まだいけると思ってしまった。まだ奥地へと進んでいくことが出来ると、そう思ってしまったのだ。そのような誘惑を感じてしまったのも、まあ、無理がないことといえなくもなかった。なぜなら、もう少しだけ進軍すれば、その先には大量の天然資源が期待出来る地帯が広がっていたからだ。サヴィエトには、様々なマテリアルが埋まっている。一方で、エスカリアはそういったマテリアルに乏しい。もしも、そういった地帯の一部分でも占領することが出来れば……資源面での安全保障に、非常に大きな貢献となるだろう。ということで、エスカリアはそこから先に進軍してしまった。そして、それは、サヴィエトの思惑通りであった。

 サヴィエトの、徹底的なまでの防衛戦。ただただ守りだけに徹した、どこまでもどこまでも長引かせることが目的であるような持久戦のせいで。開拓地の占領が完了した時点において、季節は既に冬になり始めていた。もちろん、エスカリアは、その戦争を夏に開始したのだ。エスカリアとて、もともとはサヴィエトのルイドミのうちの一つであったのだ。サヴィエトに対して、冬に戦争を仕掛けるということが、どれだけ愚かであるのかということくらいは知っていた。

 けれども――先ほども書いた通り――勝利というものは、いかなる賢将をも愚将に貶める。エスカリアは、浮足立っていた。幸福感と、その裏返しである焦燥感に支配されていたのだ。つまり、自分達は、流れに乗っている。この流れが続くうちに、全ての戦争を終了しておきたい。そういう、迷信じみた感情にとらわれていたということだ。もちろん、そこには、非常に巧妙に構築された言い訳もあっただろう。例えば、ここでサヴィエトに時間を与えてしまっては、崩れ切った態勢を整えさせてしまうことになる。それならば、多少のリスクは犯しても、このまま攻め続けた方がいいだろう。こんな感じだ。

 しかしながら、どれほどの言い訳をしたところで、冬という季節にサヴィエトと戦争を行うほどの愚劣を糊塗することは出来ない。しかも、あろうことか……天然資源の採掘地帯、つまり、雪と氷と絶望と、それ以外には何もない荒野に突き進もうとしていたのだ。それは、リスクなどという生易しいものではない。ただ単なるドゥームである。

 さて。

 そんな状況下において。

 マコトは理解していた。

 エスカリアの低能さ。

 サヴィエトの狡猾さ。

 その全て。

 手のひらの上で転がすように。

 理解していたのだ。

 そして、もちろん、マコトは前線に行きたいと考えた。前線も前線、最前線。つまり、凍り付いたように閉ざされた絶望地帯に行きたいと考えたのだ。エスカリアは、どれだけ判断能力を失ったとしても……さすがに、荒野への進軍に、ジャーナリストをついて行かせようと考えるほどのぱっぱらぱーというわけではなかったのではあるが。けれども、マコトは、それを望んだ。そして、その望みは、いうまでもなく、叶えられた。

 そもそもマコトはエスカリアにおける軍事的な勢力のかなり中枢部分まで食い込んでいた。エスカリアにおいて、人間という種類の生き物は、スペキエースに非ざる劣等種という認識のもとに置かれていたのであって。端的にいって被差別階級として扱われていたのだが……その数少ない例外がマコトだった。

 マコトは、エスカリア独立戦争のきっかけとなったジョーダス・アクムアの反乱から、ずっとずっとエスカリアの闘争を取材していた。しかも、それは生半可なコミットメントによって行われた取材ではなかった。文字通り、兵士達と寝食を共にして。時には、自らアサルト・ライフルを持って敵に向かって突っ込んでいきさえもしたくらいであった。

 まあ、それは、どちらかといえば、エスカリアに対して同情して行った行為というよりも、そうしなければマコト自身が死んでいたから仕方なくそうしたという面が大きかったのであるが――実際に同行していたカメラマンはその研究施設で撮影されたものを隠蔽するためにサヴィエトの兵士によって殺されてしまっていた――あらゆる取材対象に対して中立でなければいけないというジャーナリストの誓いをかなぐり捨てた行為であるということには変わりないだろう。

 要するに、エスカリア独立戦争において、ほとんどエスカリア軍広報のような役割を果たしていたということだ。そのおかげで、マコトは――まだ高校を卒業したばかりであったということもあって――エスカリア独立の英雄であり、エスカリアが国家として独立した後にはスペキエース革命防衛隊最高司令官さえも務めることになる人物であり、レベル7のスペキエースでもあるレオナ・ペッツから、血と肉とを分けた娘のような扱いさえ受けていたくらいだったのだ。

 ということで、マコトが、エスカリア政府に対して、最前線への同行取材を打診すると。ちょっとした反対はあったものの、その希望はすぐに受け入れられることになった。ちなみに、その「ちょっとした反対」とは、軍幹部のスペキエース達が、エスカリアにとって重要なマコトのような人物を、そんな危険な場所に送り込んでも大丈夫なのかという懸念を示したということであったが。それも、まあマコトなら大丈夫だろう(ゴキブリみたいにしぶといので)という結論に落ち着いたのだった。

 さて、こうしてマコトは、ほとんど従軍記者のような扱いで、サヴィエトの冬の荒野へと足を踏み入れたのだったが。その場所は、アーガミパータとは別の意味における地獄であった。アーガミパータのことを仮に灼熱地獄と呼ぶのであれば、サヴィエトとエスカリアとのその戦線は極寒地獄と呼ぶべきであろう。アーガミパータのように、この世のあらゆる苦痛が踊り狂う、惨たらしいまでの晴れやかさとは違って。その戦線においては、全てが、全ての物質が、絶望という絶対零度の中で、静かに静かに凍り付いていったということだ。

 サヴィエトは、エスカリアの進軍する先にある人間的空間、それがどれほど小さな村であろうとも破壊し尽くしていた。エスカリア軍は、どれほど進もうとも、サヴィエトの荒野に、一つの補給基地さえも作ることが出来ないままで。ただただ引き延ばされていく兵站線、か細く頼りなくなっていく兵站線に縋り付いていることしか出来なかったということだ。

 これは、その集団の領域に広大な虚無の空間を所持しているところの、サヴィエト的・愛国的な戦法とでもいうものであって。第二次神人間大戦時も、これと全く同じような戦法をとることによって――サヴィエトの荒野においては魔学的なエネルギーさえも乾き切っているのだ――神々側の陣営を消耗戦に追い込んだという歴史があったくらいであった。

 まさに「この地においてあなた方が見いだすものは全て氷によって閉ざされているだろう」の言葉の通りであった。壊された村は、木の破片を薪に使うことくらいしか出来ず。そのようにして火を起こす場所さえも、これほどの吹雪の中ではまともに見つけることが出来ない。マコトが同行していた部隊は……サヴィエト軍との会戦もないままに、次第に、次第に、その数を減らしていって。空腹と凍気と、その二つに苛まれて、ほとんど亡霊の集団のようなものになってしまっていた。

 そして、その日。

 それが起こった。

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