第二部プルガトリオ #39

「単純で、愚昧で、醜悪で! この人間という生き物よ! いいですか、砂流原さん。たった今私が申しあげた方法、アヴィアダヴ・コンダを救済するための二つの方法、これらの方法を、人間は、絶対に、受け入れなかったでしょう。それはなぜか? あはは、砂流原さん……これらの方法について、もう一度、よくよく考えてみて下さい。そうすれば、その理由が分かるはずですよ。要するに、この二つの方法では、アヴィアダヴ・コンダの大半の土地をASKによって奪われてしまうということになる。

「それは、人間には許容し難いことだった。というか許容出来ないことだった。自分達は何も悪いことをしていないにも拘わらず、土地の大半を奪われてしまう。しかも、そうして土地を奪ったASKは何一つ不利益をこうむっていない。善良なはずの自分達が傷付いて、悪辣なASKはその悪辣さに対する報いを受けることがない。そんなことは、人間にとっては耐えられないことだった。物語の中では……そんなことは、あり得ないから。

「自分達のものが奪われるということに対する本能的な拒否反応と、それに伴うASKに対する憎悪と、それらの二つが原因で、人間はアヴィアダヴ・コンダから脱出することが出来なかったんです。まあ、他にも、もちろん……ファニオンズに対する不信感も原因の一つと考えるべきでしょうけれどね。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティに所属するような人間にとっては、ファニオンズもASKも似たような組織です。同じように、自分達の敵だと思っている。まあ、そう考えることにも一理ないわけではないんですけれどね。ファニオンズは、基本的には集団が有する「経済力」の総量に比例して優先順位を決定しています。もちろん、ここでいう「経済力」とは、一般的な意味における「経済力」ではなくファニオンズの専門用語としての「経済力」ですが――「世界貢献力」? 「世界参加力」? んー、どちらもぴんときませんね――それはそれとして、だから、ファニオンズの決定においては明らかにASKの方が有利な立場にあるということは否定出来ません。なんといってもASKは汎世界的な軍需企業ですからね。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティのような、一部の領域を支配する程度の存在とは比べ物にならないくらいの「経済力」を有している。

「しかしながらですよ、だからこそ、先ほど私は、ファニオンズに提訴する前に、アーガミパータ内におけるアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの影響力を増しておくべきであるということを申し上げたんです。確かに、そんなことをしたところで、ASKが有する「経済力」には遠く及ばないでしょう。けれども、それでも、アーガミパータにおける勢力の中には、神々にも匹敵する力を有した集団があるということには間違いないんです。そういった集団の後押しを受ければ、少なくとも、裁判においてまともに扱って貰える程度の「経済力」を持つことは出来たはずなんです。まあ、それはそれとして……とにかく、こういうファニオンズに対する不信感も、ASKに対する憎悪の中に含めてしまっても問題ないでしょう。先ほども申し上げたように、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティにとっては、どちらも同じような存在なんですからね。

「人間は……絶対に、自分達のものであるはずの土地を手放すことが出来なかった。例え自分を犠牲にしたとしても、あるいは、他人をどんな不幸に突き落とそうとも。人間は、あまりにも動物じみた強欲さのゆえに、アヴィアダヴ・コンダという土地を手放すことは出来なかった。また、人間は、絶対にASKのことを許すことが出来なかった。例え自分を犠牲にしたとしても、あるいは、他人をどんな不幸に突き落とそうとも。人間は、他の何者かが自分よりもいい思いをするということが許せなかった。自分、自分、自分、そう、自分なんです。他人なんてどうでもいい、自分が一番大切だ。自分のものを取り返せるなら、気に食わないやつを殺せるなら。他人がどうなっても構わない。

「人間という生き物のこういう自分勝手な思考形式を、もう少し掘り下げて考えていってみましょう。要するにですよ、人間は……自分が負けるということが許せないんです。世界というこの物語における主人公であるはずの自分が、結局のところ何者かに負けるということが許せない。自分は、英雄であるはずだ。ヒーローであるはずだ。そして、ヒーローは必ずヴィランに勝利する。そういう思い込みがあるわけです。

「砂流原さん、砂流原さん。確かに、物語の中でもヒーローがヴィランに敗北することはあり得ます。けれども、それは、あくまでも狭義のヒーローと狭義のヴィランとの話です。あはは、私が何を言っているのかということが分かりますか? つまり、物語の中では、絶対に、作者がこうあるべきであるという展開が、作者がこうあるべきではないという展開に敗北することはあり得ないということです。物語の内的原理は敗北しない。敗北することなんてあり得ない。

「まあ、キャラクターが勝手に動き出しただの、物語が勝手に動き出しただの、そんな馬鹿みたいなことをおっしゃる方もいらっしゃいますけれどね。それもやはり、所詮は物語の内的原理内での出来事に過ぎません。なぜキャラクターが勝手に動くのか? なぜなら、作者が、このキャラクターはこういう風に動くものだと思っているからです。なぜ物語が勝手に動くのか? もちろん、作者が物語はこう動くべきだと思っているからです。そういう全ては、作者が決定したところの物語の内的原理を勝利に導くための一つの過程に過ぎないんですよ。

「物語においては、作者が……つまり、私達が先ほどの議論で使用した定義を使うのならば、主人公が。敗北するということはあり得ないんです。だからこそ、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは受け入れることが出来なかった。自分達が信じている内的原理が破綻し、ASKが勝利するということを。自分達は敗北者であってはいけない。勝利者でなくてはいけない。どんなに追い込まれていようと、自分達は、絶対に、勝利する。そして、感動とともにアヴィアダヴ・コンダを取り返すのだ。

「はははっ! なんて幼稚な現実逃避! そうは思いませんか、砂流原さん。現実を見ることが出来ず物語の中に生きるということは、要するにこういうことなんです。そもそもですよ、勝利と敗北と、その二つになんの意味があるっていうんですか? 誰かが勝利したことがそのまま幸福に繋がりますか? それか、敗北が直接的に幸福に繋がるか? いいですか、砂流原さん。そんなことはあり得ない、絶対にあり得ないんです。誰かが勝利した結果、戦利品として何かを手に入れる。そこで初めて幸福が発生するんです。あるいは、その逆も同様です。何かを奪われて初めて不幸が発生する。もしもただの純粋な勝利やただの純粋な敗北やに満足感が発生するのだとしたら。それは真の幸福ではありません。あくまでも、公的領域における搾取に対する満足感に過ぎないんです。

「執着を……断ち切るべきだった。人間は、憎しみの感情や英雄願望、土地にべったりとしがみ付く性欲の紛い物、自分が負けるはずがないという自己陶酔、敵側が利益を得ることが許せないという利己心。そういったものを捨て去るべきだったんです。そして、あくまでも、現実の中に生きるべきだった。現在、自分達が置かれている状況を冷静に観察し、あらゆる選択肢が帰着するだろう結論を比較衡量し、世界における真の幸福が最も大きくなる選択肢を選ぶべきだった。自分のことだけを考えるのではなく、他人のことを……味方のことだけでなく、敵のことをも考えて、自分がなすべきことを理解するべきだったんです。

「あはは、もちろん出来ませんでした。いうまでもなく、人間は、それが出来なかった。そして、だからこそミズ・ゴーヴィンダは何も出来なかったんです。砂流原さん、砂流原さん! ミズ・ゴーヴィンダは何も出来なかった、人間を救うことが出来なかった。けれども、それは、ミズ・ゴーヴィンダのせいではなかったんです。まさに、救われるべきであった人間のせいだった。人間が愚かなせいだった。人間が愚かであるがゆえに救われることを望まなかったからこそ、ミズ・ゴーヴィンダは何も出来なかった。

「いいですか、砂流原さん。もしもミズ・ゴーヴィンダが、自分が正しいと思っている方法を取っていたとしましょう。その方法が実行出来れば、確実にアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを救うことが出来るところのあの方法です。そういうミズ・ゴーヴィンダの行動に対して、人間は、果たしてどのような反応をしていたか? 人間は、ミズ・ゴーヴィンダに対して反乱を起こしていたでしょう。あはは、これはまず間違いのないことだと思いますがね。人間は、寄ってたかってミズ・ゴーヴィンダのことを殺そうとしていたはずです。

「なぜなら、ミズ・ゴーヴィンダのその行動は自分達が信じるところの物語に適合しない行動だからです。ミズ・ゴーヴィンダは、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティのリーダーです。ということは、英雄の中の英雄であるはずです。そんなヒーローが逃げ出す? ファニオンズのようなエスタブリッシュメントに助けを求める? ASKが利益を獲得するということを許す? そして、何よりも……アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを敗北へと導く? そんなことはあり得ません、絶対に、あり得てはいけない。

「だからこそ、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティはミズ・ゴーヴィンダのそういった振る舞いを許すことが出来なかったでしょう。ミズ・ゴーヴィンダがダクシナ語圏からの脱出を呼びかけたその瞬間に、人間は、ミズ・ゴーヴィンダのことを疑っていたはずです。このダイモニカスは、リーダーとして本当に相応しいのか? 自分達のものであったはずのものを奪われて、それでも、反撃しようともせずに逃げ出すなんて。そんな弱い生き物が、そんな誇りなき生き物が、リーダーに相応しいのか?

「ミズ・ゴーヴィンダがどんなに言葉を尽くして説明しても無意味だったに違いありません。なぜなら、人間は、理屈でそう思っているわけではないからです。公的領域における、物語における、内的原理としてそう考えている。それを現実における正しさによって覆すことなど出来ない。それは疑うことを許されないドグマであり、全ての論理がそこから導き出されるところの公理だからです。よって、ミズ・ゴーヴィンダがその物語を否定し、現実における救済を目指したとすれば。人間は、もう、ミズ・ゴーヴィンダのことを主人公であるとはみなさなかったでしょう。その時点でミズ・ゴーヴィンダはヒーローの座から引き摺り降ろされてヴィランへと転落していた。そして、物語においてヴィランを待ち受ける運命は……もちろん、死です。

「あはは、まあ、とはいっても。人間ごときがミズ・ゴーヴィンダを殺せたなんていう可能性は限りなくゼロに近いですがね。ミズ・ゴーヴィンダが本気を出せば、アヴィアダヴ・コンダに所属していた人間を皆殺しにするなんて簡単なことです。たかだか十数万人程度の人間がフォー・ホーンドのダイモニカスをどうにか出来たはずがない。とはいえ……その可能性は、ゼロではなかった。

「どんな場合にも例外があるという抽象的なことを言っているわけではありませんよ。もっと具体的な、あり得たかもしれない破滅のシナリオの話をしているんです。つまり何が言いたいのかといえば、当時のアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが空間戦略学的に非常に微妙な立場に置かれていたということです。当時というのはもちろんASKとの戦闘がここまでの惨状を示す前ということですが……とにかく、その時点では暫定政府とアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティとの間には未だに一定の関係性があった。イパータ語圏、つまり暫定政府の支配領域から、ダクシナ語圏へと繋がるポータルの幾つかは開いていた。それに、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティに所属する人間達は、暫定政府に対する信頼を完全に失っていたわけではなかった。

「これが何を意味しているのか? もしも、人間が、ミズ・ゴーヴィンダに対する反乱を起こしていたら。暫定政府が介入していた可能性があるということです。もちろん、この介入は、様々な美辞麗句によって飾り立てられていたでしょう。アヴィアダヴ・コンダにおいて、神国主義的な独裁を行っていた支配者に対して、現地の人間至上主義勢力が反旗を翻した。自由的で民主的な現地住民が、抑圧的で搾取的な権力に対して抵抗を開始した。一人一人が自分自身として独立した自由な市民による民主的な政治こそが理想であると考える暫定政府は、もちろん、この抵抗を支持し、可能な限りの支援を行わなければいけない。こんな感じですかね。

「とはいえ、もちろん、暫定政府の本当の目的は違います。ダクシナ語圏における神国主義勢力を追放し、アーガミパータにおける空間戦略学的優位を獲得するということ。それに、暫定政府にとっての真実の同盟者であるASKの利益を図るということ。この二点こそが、暫定政府がアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの内紛に関与する理由です。だからこそ……もし、この内紛が、人間の勝利という形で終わったならば。もっとはっきりといってしまえば、ミズ・ゴーヴィンダの死という形で終わったならば。暫定政府は、アヴィアダヴ・コンダから速やかに手を引いていたでしょう。そして、その後のことは、全てASKに任せていたでしょう。

「あはは、要するにですね、ミズ・ゴーヴィンダが人間のことを救おうとしていれば。あらゆることが最悪の形で終わっていた可能性があったということです。人間は、自らの手でミズ・ゴーヴィンダのことを処刑して。そして、その後、ろくな抵抗も出来ないままに、アヴィアダヴ・コンダにある全てのものは――いうまでもなくカーマデーヌも含めて――ASKのものとなっていた可能性があった。だから、ミズ・ゴーヴィンダは、自分が正しいと思っている方法をとることが出来なかったんです。

「そうなるくらいならば、人間と一緒になってASKとの戦いに身を投じる方がましだ。そちらの方が、ごくごく小さな可能性、本当に僅かな確率ではあっても、アヴィアダヴ・コンダを救うことが出来るかもしれないから。ミズ・ゴーヴィンダは、そう考えて、人間と共に戦う道を……つまり、人間の英雄として生きる道を選んだんです。そして、その結果として、一体どうなったのか。あはは、そのことについては、私がお話ししなくても、砂流原さんは、よくよくご存じですよね。

「さて。

「以上が。

「アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティ。

「そこに所属していた人間の。

「その性質についての話です。

「砂流原さんは……おっしゃいましたね。ミズ・ゴーヴィンダは、人々のために立ち上がったと。あはは、そうです、そうなんです、まさしくその通り。ミズ・ゴーヴィンダは人間のために立ち上がった。そして、人間のために死んでいったんです。人間のせいで、人間が愚かだから、ミズ・ゴーヴィンダは死ななければいけなかった。本当は、本当ならば、ミズ・ゴーヴィンダは死ななくてよかったんです。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは滅びなくてよかったし、カーマデーヌはASKのものにならなくてよかった。アヴィアダヴ・コンダの生き物、全てとはいわなくても、少なくともその一部のことを、ミズ・ゴーヴィンダは救えたはずなんです。それにも関わらず、ミズ・ゴーヴィンダは何も出来なかった。人間が、栄光などというものを追いかけたがゆえに……あるいは、砂流原さんがお使いになった言葉を使うならば、「希望」などというものを持ったがゆえに。

「あはは、砂流原さん。あなたは、ミズ・ゴーヴィンダの自己犠牲に「感動」したのでしょう。そして、ASKがアヴィアダヴ・コンダを支配したこと、そういう悪いことをしたにも拘わらずなんの罰も与えられていないという事実を「憎悪」した。あなたのおっしゃる「希望」というものは、まさに、こういった「感動」と「憎悪」とによって成り立っていた。あなたは、あたかも、この「希望」によって世界を肯定したかのようにおっしゃっていましたが……けれども、それは欺瞞ですよ。あなたは「希望」によって世界を肯定したわけではない。結局のところ、あなたは、自分自身を肯定したに過ぎないんです。どこまでも自分勝手で、どこまでも強欲な、栄光の搾取者を肯定したに過ぎない。

「はははっ! そうです、そうです、あなたは自分自身を否定してなどいない。そうしているように見せかけているだけですよ。まあ、私としてはあなたのそういう態度を責めるつもりはありませんけどね。人間というものはそういう生き物です、自分自身を否定することなど決して出来はしない。だって、人間にとって自分自身とは認識の全てなんですから! そうであるのならば自分自身を否定することなど出来るわけがありません。あはは、私だって私を否定することは出来ませんよ。ただ、そうはいっても、そのように否定出来ないことが事実でないというわけではない。

「いいですか、砂流原さん。あなたがどんなに肯定しようとしても、あの方々について肯定することは出来ない。なぜなら、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、そこに所属していた人間は、まさに自分自身のために戦ったからです。確かに、権力のために戦ったわけでも、名誉のために戦ったわけでも、貨幣のために戦ったわけでも、愛情のために戦ったわけでもなかったでしょう。しかしながら、あの方々は、物語のために戦った。自分自身が物語の中で主人公であるために戦った。もっと端的にいえば、要するに、あの方々は、栄光のために戦ったんです。

「そして、そういった栄光の搾取のせいで。少数の弱者は、諦めの中で惨たらしく死んでいかざるを得なかった。安全に生活したかった人々……私達のような生活をしたかった人々。辺境としての森の中で明日殺されるかもしれない生活を送るよりも、ある程度の文明の中で快適な生活を送りたかった人々。そういう人々は、確かに、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの中にもいたはずなんです。土地なんてどうでもいい、復讐なんてどうでもいい、そして、誇りなんてどうでもいい。とにかく安全な場所で楽に生きていきたい。けれども、あのアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティという集団の中では、そういう当たり前の考えこそが自分勝手であるとされていた。恥ずべき考えであるとされていた。

「なぜなら、そういう考え方は物語の外側にある考え方だからです。物語の内的原理はそういう考え方を許容出来ないからです。だから……そういう生活を送ることが出来る可能性はあったのに。ミズ・ゴーヴィンダによって、そういう「安全」な生活を手に入れることが出来る可能性はあったのに。それにも拘わらず、その可能性はtyrannyの拳の中で粉々に握り潰された。そして、少数の弱者は、体制のために死んでいくということを強制された。はは……はははっ! 確かに、確かに、砂流原さんがおっしゃった通りです。砂流原さんはおっしゃいましたね? アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティが、「そのために全てを犠牲に」してもいいものがあると私達に教えてくれたと。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、確かに教えてくれました。物語の中に生きる人間は、自分が栄光を獲得するためならば、弱者を犠牲にすることさえも正当化されうると考えているということをね。

「砂流原さん、砂流原さん! そういえば、砂流原さんは、こうもおっしゃっていましたよね! アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは砂流原さんの「幼稚な正義感のせいで」、砂流原さんの「愚かな優柔不断のせいで」滅ぼされたのだと。あなたが昨日起こったというincidentの中で、一体どんな役割を果たしたのかということは存じ上げませんが……ご心配なく。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティはあなたのせいで滅んだわけではありませんよ。あの方々は、あの方々のせいで滅んだんです。あの方々ご自身が、その滅びを望んでいたんです。あはは、あの方々は、物語の主人公だったんですよ。栄光を手に入れられるならばなんだってしたんです。物語のために死ねて、さぞかしご満足であったことでしょう。それこそ……あまりの満足のせいで、自分が何をしたのか、どれほど弱者を搾取したのか、どれほど弱者を抑圧したのか、そんなことさえ気が付かないほどにね。

「と、こんな感じで……アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの性質については話し終えることが出来たのではないでしょうか。あの方々が、どれほど自分勝手であったのか、あるいはどれほど強欲であったのか。そういったことをお話しすることが出来たと思います。私の主張はこれで全部なんですけれどね。ただ、誤解がないように、一つだけ付け加えさせて頂きたいことがあります。

「私には、この話によってミズ・ゴーヴィンダを軽蔑しようなんて意図は、兎の耳の先ほどもないということです。あはは、だってあの方はダイモニカスですからね。私のような人間よりも、遥かに、遥かに、賢い生き物です。私がこのお話でしたかったのは、むしろその反対のことです。ミズ・ゴーヴィンダのことを称賛したかった。ミズ・ゴーヴィンダのことを賛美したかった。ミズ・ゴーヴィンダが、本来であれば成し遂げたかったこと。それを明らかにして、それこそが……まさに「正しさ」であったのだと証明したかったんです。なぜなら、砂流原さんは誤解なさっていたようだから。ミズ・ゴーヴィンダという……弱者が。あはは、まさに集団における少数者という意味での弱者が、人間という強者によって強制させられたところの物語こそが、ミズ・ゴーヴィンダの本当に成し遂げたかったことだとね。

「そう、あなたは悪くない。先ほども申し上げた通り、あなたは何も悪くないんです。しかしながら……あなたが「正しさ」だと思っているもの、あなたが「正しさ」だと主張したもの。それは悪です。それこそが、昨日起こったところの全ての虐殺と破滅とをもたらした。それこそが、アヴィアダヴ・コンダをASKのものにした。それこそが、カーマデーヌをASKのものにした。そして、それこそが、ミズ・ゴーヴィンダを殺害した。あなたは昨日起こったこと全てを憎悪していた。あなたは昨日起こったこと全てに感動していた。まさに、それこそが、全てを導いた。あなたのおっしゃった「正しさ」……物語が、この世界におけるあらゆる虐殺と破滅とを、惨たらしいほどの渇望によって求めているんです。

「ミズ・ゴーヴィンダは救えた。

「けれども、何も出来なかった。

「あなたが。

「信じると言った。

「物語の。

「せいで。

「ということで、これで議論はお終いです……ですよね?」


 そう。

 これで。

 議論は。

 お終い。

 なんだか……なんだか、奇妙だった。何が奇妙なのかは分からないけれど、とにかく、自分の肉体が触れている全ての感覚が、静かに震える海の水面のように歪んでいるのだ。震えている……震えている。自分の感じる全ての自分が、まるで、最初から何ものでもなかったかのように、曖昧に揺らめいている。

 それは、確かに不思議な出来事だった。けれども、決して、不快な出来事であるというわけではない。なんだかとてもふわふわとしている。まるで空でも飛んでいるみたいに……まあ、実際に空を飛んでいるのだが、そういう意味ではなく、重力がなくなった世界の中でふわふわと浮かんでいるみたいに、とても、とても、ぼんやりとした気持ちになる。

 何もない。ここには、何もない。だから、搾取や抑圧や虐殺や、あるいは悪という名前で呼ばれるあらゆる現象もなかった。もちろん、幸福も存在しないのだが。とはいえ、幸福に対する渇望というものもなかった。そもそも、幸福を感じるための感覚が、非常に不確かなものになってしまっているのだから。何もかもが存在せず……何もかもが空っぽで。

 つまり、例えるならば、夢の中にいるような感じなのだ。しかも、具体的に、なんらかの状況が設定されている夢ではない。なんだか刹那的な、全てが空虚の中で流れ去っていく、ひどく透明な夢。そんなものを見ているような感じだった。

 粉々に砕かれた何かが……きらきらと光っていて、綺麗。どろどろとしていて、真昼のことを包み込んでいる、真っ黒な空虚の中で。何かが煌めいている。それは、たぶん、鏡のような何かなのだが……そこに映し出されているものがなんなのかということは、今の、この感覚、甘く痺れたような感覚では、はっきりと理解することが出来ない。

 私は。

 とても、とても、静かだ。

 私は。

 とても、とても、冷たい。

 サンダルキア。

 サンダルキア。

 お姫様は。

 暗く、広い、海に。

 沈んでいく。

 この世界は、冷たくて、暗い。あの空で光り輝いている、この世界で最も光り輝いている、太陽にとって。この世界は永遠に続いていく冷酷・永遠に続いていく暗黒であるに過ぎない。世界とはそういうものなのだ。この世界は、あまりにも愚かで、あまりにも弱くて、この世界は……涙を失った夜という時間だ。

 結局のところ、パンダーラにとってこの世界は夜だった。たった今、マコトが鮮やかなまでに証明してみせた通り。パンダーラにとって、この世界は、永遠に明けることのない夜だったのだ。真昼はパンダーラのことを太陽だと思っていた。もちろん、それは、真昼が永遠の夜を構成する一つの要素だったからだ。

 太陽は、自らの温度以外を知らない。

 そして、夜は。

 太陽の、温度、以外。

 知ることが出来ない。

 今というこの時間。太陽が沈んでしまった後の時間。永遠の夜の中で、本当に、光が消えてしまった時間。金の冠から、宝石が一つ転げ落ちた。冷たい冷たい宝石の中に、この世界は閉じ込められている。星座の名前、星座の名前。最初から、星座の名前なんてなかった。というか、それ以前の問題だ。あれは星座ではない。金の冠に嵌め込まれた宝石、その一つ一つを繋いで、星座の紛い物を作り出していただけなのだ。

 この世界は真昼の肉体で、真昼の肉体はこの世界だった。それは間違いのないことだ。そして、そうであるならば……太陽を失った世界が夜となったのならば、孔雀の羽を失った真昼は一体どうなるのだろうか? Wry smile、問い掛けるまでもない当たり前のことだ。もちろん、孔雀の羽を失った真昼は死ぬのだ。

 いうまでもなく、これは比喩的な表現だ。自分という存在の全てを否定されただけのこと。たかが絶望、それは死に至る病ではない。とはいえ……真昼の中の、真昼であったはずの部分。ある種の内臓のようなもの、真昼という実存の精神医学的な基礎構造。それは確かに死んだ。そのことは間違いのない事実である。

 空間が凍結したかのような宝石の中に、自分の姿を映し出す、無数の鏡の破片と共に閉じ込められて。真昼は、次第に、次第に、凍え死んでいったのだ。いつの間にか眠ってしまっていたかのように、いつの間にか夢を見ていたかのように。真昼の中の真昼であった部分は、いつの間にか死んでしまっていた。パンダーラ、パンダーラ。握り締められた真昼の手の中で、孔雀の羽は、静かに、静かに……一輪の造花であったかのように、枯れてしまった。

 そう、真昼は、死んだのだ。凍り付くような夜の冷度の中で、死んでしまったのだ。何度もいうが、これは比喩である。真昼は、実際には、死んではない。マコトの言った通り、この世界は物語の世界ではないのだ。これが物語であるのならば、真昼が、愛の喪失のゆえに死んでしまうこともあるだろう。けれども、これは現実なのである。人間という生き物は、全ての愛を失ったところで死ぬことはない。人間の感情は、人間の愛は、この世界にとってそこまで重要なものではない。

 ああ……真昼は……恐ろしいほどに静止していた。ここには、この認識という場所には、恐ろしいほどに何もなかった。真昼にとっては、自分の肉体の感覚さえも、既に不確かなものであった。真昼は、真昼は……自分の腕の中に、マラーを抱いているはずだ。けれども、それが本当のことなのかさえ分からない。何も、何も、分からない。腕の中に感じているはずの重さ、真昼の全身を包み込むように感じていたはずの温度。そういったものは、真昼にとって、もう、どうでもいいものになっていた。

 真昼の腕の中で、くしゅんという、小さな音がする。眠っているマラーが、この夜の寒さのせいで、くしゃみをしてしまったのだろう。けれども、真昼には、その音が聞こえない。聞こえてはいるのだが、それが正しいことなのか間違っていることなのかという判断がつかないのだ。真昼は……まるで、解き終わった数式が果たして正しいものなのかを確かめるかのように、抱き締めているはずのマラーの体を、もっともっと、強く抱き締めてみる。マラーは、そんな真昼のことを、ゆめうつつの甘やかな心地で甘えているみたいに、抱き締め返す。それでも、それでも……真昼の中で、数式は、数と数との繋がりを失って。見覚えのない記号となって、ほろほろとこぼれ落ちていく。

 世界は。

 世界は。

 愛で動く。

 真昼は。

 真昼は。

 愛を失った。

 あの星座には名前がない。

 海の底へと沈んでいきながら。

 名前のない光を見上げている。

 ああ。

 あたし。

 どうしよう。

 なんで。

 なんで。

 ねえ、信じて。

 こんなこと。

 するはずじゃなかったのに。

 パンダーラさん。

 ごめんなさい。

 許しては貰えないだろうけれど。

 せめて。

 謝らせて。

「あらららら!」

 真昼のことを振り返って、マコトがそう言った。先ほどまでとは違った口調、ちょっとばかり焦っている感じだ。マコトにしては珍しく……なんというか、真昼を気遣っているかのような感じ。まるで、思わぬところで見つけてしまった迷子のことをあやそうとしているかのような感じだ。

「砂流原さん、砂流原さん、泣かないで下さい! ほらほら、お美しい顔が……そんな風に悲しみに濡れるのを見るのは、私には耐えられません。砂流原のお嬢様に涙なんて似合いませんよ? 涙を拭いて、笑って下さい。あなたが砂流原であるという幸福を思い出して、笑って下さい。たった今、私がお話したこと。全ての搾取は、全ての抑圧は、全ての虐殺は……全ての不幸は。所詮は、あなたにとっては他人事なんです。そのことを喜んで下さい。あなたは砂流原だ。この世界における勝者なんです。あなたは重要人物であって、このアーガミパータという土地でさえ守られている。その素晴らしい事実を思い出して……さあ、笑って下さい!」

 そう言って、マコトは、真昼に向かって。

 あのへらへらとした笑顔で笑って見せた。

 ここで一つだけ注意しておかなければいけないかもしれない。たった今発せられたセリフの中で、マコトは真昼が泣いていると言ったが。真昼は、泣いていたわけではない。以前にも説明した通り、真昼の肉体は、デニーによる許可がなければ涙を流すことを許されていない。想定していない時に奇瑞を発動されると、デニーちゃんとしてはとってもとっても困ってしまうからだ。だから、デニーが許可を出していないどころか、近くにもいない現在というこの時間の中で、真昼が涙を流すことが出来るわけがない。

 とはいえ……もしも、涙を流すことが出来ていたとしたら。真昼は、間違いなく涙を流していただろう。それは別に悲しみとしての涙ではない。また、憎悪としての涙でもないし、感動としての涙でもない。そういった、感情の次元における涙ではないのだ。もっと、なんというか、それは……主のいない場所に雨が降るような、そんなごく自然な現象としての涙である。

 あるいは、もっと正確にいうのならば。それは自分の葬儀において流されるべき涙だ。真昼の一部は、確かに死んでしまった。太陽が失われた世界で、孤独に凍え死んだ。自分が死んでしまったというのならば……もちろん、そこには悲しみなどないだろう。あらゆる感情は、その死に対して捧げられることはないはずだ。だって、そういう感情を抱くべき自分が死んでしまっているのだから。けれども、そうはいっても。自分の葬儀で涙を流さない人間がいるはずがない。それは、間違いのないことだ。

 だから、真昼は。

 もしも。

 それが許されてさえいれば。

 涙を流していたはずなのだ。

 そして、マコトは、それを知っていた。人間の精神などというものはマコトにとってフォー・ピース・パズルのようなものだ。あまりにも当たり前過ぎて、退屈なくらいの代物。だから、例え……真昼の表情が、ほとんど完全といっていいくらいの無表情であったとしても。まるで洪水に洗われた後のサンダルキアのような無表情であったとしても。何か、美しい宝石を彫刻して出来た人形のような無表情だったとしても。それでも、手に取るように理解出来ていた。今の、この真昼が、涙を流しているということを。涙を流していなければいけなかったということを。

 ということで、マコトは。

 泣いていない真昼に向かって。

 泣かないで下さいと。

 そう、言葉したのだ。

 とにもかくにも、真昼は泣いていなければならず……そして、真昼は、マコトの言葉によって初めてそのことに気が付いた。真昼は、マラーのことを起こさないように、マラーのことを抱き締めていた腕の片方、その先で震えていた指先を自分の頬に触れさせた。いうまでもなく、その頬は濡れていなかった。真昼は、頬に触れていた人差し指と中指と薬指とを滑らせて。顔の上の方へと滑らせて、それらの指は、目の下の窪みのところまで達する。やはり、その場所も、乾いていた。

 これは、指摘しておかなければいけないことであるが。ティンガー・ルームで意識を喪失した時に、真昼の肉体に刻まれた魔学式を書き換えて、その涙を自分の支配下に置いたということを、真昼に対してデニーは一言も話していなかった。もちろん、別に隠していたというわけではない。聞かれなかったから話さなかっただけだ……だから、真昼は、デニーがそういうことをしたということを知っているわけではなかった。

 しかしながら、とはいえ。真昼は、デニーと、かなりの長きにわたって濃度も密度も高い時間を過ごしていた。ほとんど丸々二日間、体が触れ合わんばかりの距離で、時折は実際に触れあってしまったというような距離で、生活し続けてきたのだ。だから、真昼は、今となっては……デニーが考えるようなこと、デニーがしそうなことなんていわれなくても分かるようになっていた。

 つまり、デニーのような考え方が身についてきていたのだ。デニーならば、どうするだろうか? 自分が保護するべき対象が奇瑞であった場合に。自分が保護するべき対象が、涙を流すと、神々から与えられた力を行使出来るというような場合に。もちろん、デニーは、その対象に対して、自分が許可した場合以外に涙を流せないように何かしらの対処をするだろう。当然の話だ。

 だから、自分が涙を流していないことに対しては、別に驚いたりはしなかった。どうせデニーが何かをしたのだろう。そういえば、ASKで目覚めた時に、ラグジュアリーな病室で目覚めた時に。なんとなく、私の体に描かれていた魔学式が書き換えられているような気がした。たぶん、あれがそれだったんだろう。私の肉体を管理する、私の涙を管理する、新しい「項」を書き加えていたに違いない。

 それにも拘わらず……真昼は、なんだか奇妙な気がした。自分が涙を流していない理由は分かっている。けれども、自分が涙を流していないというこの状況について、何かが、どこかが、「例外的」であるように思われたのだ。正しくないとか、そういうわけではない。それに、こうあるべきではないとか、そういう感情があるわけでもない。ただ、なんとなく……ずれているような気がするのだ。たくさんの白い羊の中に、黒い羊が、一匹だけ紛れ込んでいるような、そんな感じ。ああ、黒い羊、金の蹄を持つ、黒い羊。ありきたりな慣用句ではあるが、それでも、真昼という人間を表すのにこれほど適切な比喩があるだろうか?

 それは。

 それと。

 して。

 駄々っ子をあやすようにして真昼に向かって発せられた言葉の羅列について。真昼のことを、真昼が黒い羊であるということを、この上なく正確に指摘したセリフだ。そう、真昼に……真昼にとっては。結局のところ、このアーガミパータで起きる全てのことが他人事でしかないのだ。真昼にとってのアーガミパータは、映画館のようなものなのである。スクリーンの上には、信じられないほど残酷な惨劇が映し出されてはいるが。とはいえ、それが真昼を傷付けるということはない。絶対に、あり得ない。なぜなら、真昼は、デニーによって守られているからだ。

 真昼は……生まれた時からそうだった。生まれた時から、守られ続けていた。あらゆる残酷から、あらゆる惨劇から。要するに、真昼は、ずっとずっと物語の中で生きていたのだ。物語の中のお姫様。王子様に救われるお姫様。この世界には、真昼にとっての現実なんて一つもなかった。真昼が生きているのは、めでたしめでたしで終わる物語の中なのである。

 それなのに。

 真昼は。

 そのことを理解していなかった。

 自分では、理解していると思っていたけれども。

 実際のところは全然理解出来ていなかったのだ。

 そして、そのせいでパンダーラは死んだのだ。パンダーラ、誰よりも美しかった人。パンダーラ・ゴーヴィンダ、その名前を思い出すだけで、真昼の体の中、甘美な思いで満たす名前。誰よりも、真昼が愛した人。けれども、その愛が……つまるところ、その愛が。自分勝手で、強欲な、その愛こそが、パンダーラを死に追いやったのだ。

 今なら分かる。パンダーラが、どうして、あんなに諦めきったような表情をして死んでいったのかということが。パンダーラにとって、それは運命だったのだ。絶対的な何か、絶対的な「正しさ」としての何か。だから、パンダーラは死ななければならなかった。人間の、私の、愚かさのせいで。パンダーラは死ななければならなかった。

 孔雀の羽は美しい。

 孔雀の羽は暖かい。

 孔雀の羽は永遠の光だ。

 それが、真昼の手の中から。

 失われてしまった、理由は。

 ただ、それを持つ権利が。

 真昼にはなかっただけで。

 真昼が、真昼が、パンダーラのことを死に追いやったということ。これまでの自分が、理解していると思っていたけれど、本当は理解していなかったこと。真昼が「正しさ」だと思っていたことの全てが、パンダーラを打ち抜いたあの銃弾だったのだ。真昼は、何も理解していなかった。真昼が軽蔑していた何か、真昼が差別していた何か。それこそが、本当は「正しさ」であって。それだけが、パンダーラのことを、救えたのであって。

 マコトは、きっと、わざと口にしなかったのだろう。舌の上で蝉をいたぶる猫の残酷さで口にしなかったの違いない。自分が言わなくても真昼は理解するだろうと考えて……そして、真昼は、その通り、理解していた。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの人間の強欲さ・愚昧さに相対したとしても、それでもパンダーラが救済をもたらすことが出来た、その方法があったということを。それはとても簡単なことだ。要するに、ポゼショナイズすれば良かったのだ。人間の思考を操作して、パンダーラが定めた方針に従うようにすれば良かった。ダクシナ語圏を脱出して、カタヴリル語圏に向かうように。空間戦略学的な優位を確保して、ファニオンズに提訴して、後は政治的な解決を図るように。けれども、パンダーラは、その方法さえも取ることがなかった。

 あるいは、こんな方法さえあったかもしれない。つまり、ASKと、全面的な協力関係を結ぶという方法だ。もちろん、カーマデーヌの取り扱いについては交渉しなくてはいけないだろう。けれども、カーマデーヌとパンダーラとが非常に強い絆で結ばれているというのならば。その絆によって、カーマデーヌが傷付かない範囲で、ASKの研究に手を貸すという方法もとれたはずだ。ファニオンズへの提訴をちらつかせて、そういう交渉も出来たはずなのである。そして、そのような協力関係をベースとして……アヴィアダヴ・コンダを未曽有の発展へと導くことが出来たはずだ。

 いうまでもなく、ここでいう発展とは、人間としての発展だけを指すわけではない。ASKには、様々な技術がある。森林に生きる生き物達に豊穣と繁栄とをもたらすような、そんな技術も所有しているのだ。ということは、先ほどマコトが口にしたような状況、危ういバランスの上に保たれている人間と自然との関係性を超えて。アヴィアダヴ・コンダを、理想的な均衡の上に成り立った、幸福の土地とすることも出来たはずだ。先進諸集団のような物質的な贅沢さを享受したいと思う人々と、この土地に残って伝統的な生活を送りたいと思う人々と。それに、人間以外の生き物とを和解させることも出来たはずなのである。

 けれども。

 パンダーラ、は。

 その方法さえも。

 とることが出来なかった。

 そういった全ての不可能性が、真昼のせいだった。もちろん、ここで「真昼のせいだ」というのは比喩的な表現であって、実際は真昼のせいではない。だって、パンダーラがそういった選択肢における選択をした時に、真昼は、アヴィアダヴ・コンダの状況に対して全く関与していなかったのだから。けれども、それは……真昼の主観では、真昼のせいなのだ。なぜなら、真昼が「正しさ」だと思ってきたことこそが、その結果を導いたのだから。

 パンダーラは運命に抗った。パンダーラの一生は、運命に抗うことに捧げられた一生であった。なぜなら、それこそがパンダーラの運命だったからだ。パンダーラはこの二重性を生きた。人間なら放棄してしまうであろう無慈悲で不条理な矛盾を生きた。それを、ただただ、淡々と受け入れて生きたのだ。要するに……パンダーラの一生は、単純な絶望だったということだ。あれほど美しい人が、あれほど強い人が、救われることなく死んでいった。そして、それは、真昼のせいなのだ。ここでいうところの「真昼のせい」とは、真昼が間違えてしまったとか、真昼がそうすることが仕方なかったとか、そんな生易しい「真昼のせい」ではない。真昼の、実存、そのものが、悪だった。悪と定義されるべきものだった。

 星の……星の一つ一つが鏡の欠片であって、鏡の欠片の一つ一つに真昼の姿が映し出されているというのならば。それならば、要するに、この世界を覆う天幕の裏側に産み付けられた一つ一つの卵。そこから吐き出される幼虫は、真昼という存在の、愛の不可能性から発生する何かだということだ。その、禍虫、禍虫、禍虫。真昼が真昼だと考えていたところの真昼ではない真昼、失われた無垢の中でただただ死に至り・ただただ腐敗していくところの真昼の無原罪を食い破って生まれてくる禍虫。それらの幼虫が、この空の一面を、まるで最後の審判のように覆い尽くして。そして、その罪の一つ一つを繋ぎ合わせた星座は……真昼の中で永遠に失われてしまった愛の代わりに、真昼のことを抱き締めてくれるあの星座の名前は……しかし、真昼はまだ目覚めていないのだ。

 真昼は、未だに。

 暗く。

 広い。

 海の底で眠っている。

 濡れていなければいけないはずの乾いた指先を、じっと見つめていると。その震える指先の震えが、次第に次第に大きくなっているということに気が付いた。いや、違う。これは、指先だけの震えではなくて……そこよりも、もっと手前の部分が震えているのだ。腕が震えている。一の腕が震えている。肘が震えている。二の腕が震えている。肩が震えている。そして、真昼の肉体の全てが震えている。

 凍えているのだろうか? もちろん凍えている。けれども、それだけではなくて……つまり、真昼は、しゃくりあげているのだった。ひっ、ひっ、と、まるで溺れているような呼吸。横隔膜が馬鹿みたいに痙攣して、まともに呼吸が出来ていない。咽び泣いている、啜り泣いている、涙を一滴も流していないにも拘わらず、真昼は嗚咽している。なんだか馬鹿みたいだ、けれども、それは生理的現象であるらしいので、真昼自身の意志でなんとか出来るものではない、まるで、ただただundercurrentに流されていくみたいにして、その衝動に身を任せることしか出来ない。

「砂流原さん……」

「あなたは。」

「え?」

「あなたは、なんで、あなたなんですか。」

 マラーの体を抱き締めていない方の手、その手の甲で、流れ落ちてもいない涙を拭いながら。なんだか本当に困っているみたいな口調で声を掛けてきたマコトに向かって、真昼はそう言った。自分がなんでそんな言葉を口にしたのかということは、真昼には分からなかった。それでも、これまで、ずっとずっと抑え込んできた何かが……遂に、破綻したことには気が付いていた。もう取り繕う必要はなかった。もう我慢する必要はなかった。とはいえ、それは歓喜の瞬間ではない。

 一方で、マコトは。そんな風にして発せられた真昼の言葉に「えーと、それは一体……?」とだけ反応した。さすがのマコトも、どう答えていいのか分からなかったのだろう。あるいは、このタイミングでは、どう答えればいいのか分からないというスタンスをとることが正解だと知っているのか。とにかく、本当に困っているのかどうかということは別として、マコトは、真昼のそのような態度にほとほと困ってしまっているような顔をしている。

 真昼は嗚咽している。

 とはいえ。

 真昼は悲しんでいるわけではない。

 真昼は、憤っているわけでもない。

 今、この時に。

 透明な客観性が。

 ただそれだけが。

 真昼のことを満たしている。

「あなたは、どうしてあんな記事を書いたんですか。あんなに、義憤に満ちていて、同情に満ちていて、正義に満ちていて、希望に満ちていて。何も知らなかった私に、この世界の全ての正しいものについて教えてくれるような、あんな記事を書いたんですか? あなたがあんな記事を書かなければ……私は、私は……」

 私は。

 あの人を。

 殺さずに。

 済んだのに。

 そんな真昼の言葉に対して、マコトは、いやー困りましたねー、みたいな感じ、軽く溜め息をついた。それから、とてもとても優しげな口調、恋人を唇で愛撫するように柔らかい口調で、その問い掛けに対してこう答える。

「それは、ああいう記事の方が売れるからですよ。つい先ほど、お話ししたようなこと、そんなことを書いた記事なんて誰も読みたがらないでしょう。誰だって、読んでいて楽しい読み物を読みたいと思うものです。憎悪を掻き立てられるような、感動を掻き立てられるような、そういう読み物をね。砂流原さんだってそうでしょう? 私は、皆さんがお読みになりたいと思うものを提供しているだけなんですよ。」

 マコトの答え。

 そう、そうだ、その通り。

 その答えは完全に正しい。

 けれども。

 だからこそ。

 問題なのだ。

 真昼の問い掛けに答えた後で。マコトは、話を無理やりひん曲げるようにして「ほら、もうすぐ着きますよ!」と言った。その言葉はいかにも白々しく響いたのであったが……とはいえ真実であった。今となっては、三人が乗ったフライスは、緩やかな下降の段階に入っていて。その不可逆な過程は、既に、その中ほどのところまで進んでいた。

 金の冠……真昼を迎えに来た王子様、白馬に乗った王子様がかぶっていたはずの金の冠は。地上に落ちて、それは巨大な都市となっていた。それが、金の冠の本当の姿だったのだ。どこまでも猥雑で、どこまでも腐敗した、人間の生命そのものとしての都市。剥き出しの現実としての都市、カーラプーラ。もちろん、あの冠は……真昼のものではない。もともと真昼のものであったわけではないし、これからも真昼のものになることはない。それは真昼にとってあまりにも大き過ぎるからだ。カーラプーラ、その都市を、真昼は戴冠することなど出来ない。

 その証拠に、フライスが下降していくに従って、マコトによる教育の時間が終わりに近付いてくるに従って。その金の冠は、真昼の視界から隠されようとし始めていた。もちろん、真昼がそれを見ることを遮ろうとしていたのは、カーラプーラの周囲を無表情に閉ざしているコンクリートの壁だ。とても、とても、高い壁。ただの人間である真昼には、越えることなど出来るわけもない壁。その都市が受け入れるべき人間以外の人間を拒否するためのその壁が、真昼のことを拒否している。だから、真昼には……それを戴冠する資格がないのだ。

 冠の守護者、コンクリートの周囲を巡回しているグラディバーンの群れが、異邦人を見る時の目つきによって真昼のことを睥睨している。至極当然のことだ。真昼は異邦人なのだから。真昼は、既に、栄光によって輝くその世界の生き物ではないのだから。物語は死んだ。砂流原真昼と名付けられた物語は死んだ。後に残されたのは、空っぽになった頭蓋骨だけだ。

 きら。

 きら。

 きら。

 真昼とは関係のないところで光る。

 この世界の全てのもの。

 よく見ると、コンクリートの外側にも美しい光の列が並んでいた。幾つも幾つも、あたかも、金の冠から流れ出した光が、コンクリートの隙間から緩やかに漏出しているみたいに。それは、どうやら……カーラプーラに入るための検問所に並んでいる、様々な生き物の列のようだった。日が暮れて夜になったこの時間においても、そういった列は未だに途切れることがないらしい。

 テントの下、空の上、そこここの光。その一つ一つが感動の光であり、憎悪の光であり、小さな小さな物語である。やがては金の冠の中に入り込んで、大きな大きな物語の中に吸収されていくのだろう。その時に、初めて……人間のような下等な生命体は、孤独を感じなくなるのである。あるいは、真昼が今感じているこの感情、虚無。その虚無を満たされたと感じるのである。

 マコトが。

 言葉を。

 続ける。

「いやー、ようやく帰ってきたって感じですね。どうですか、砂流原さん。カリ・ユガ龍王領を観光したご感想は。まあ、観光といっても採掘場を一つ見て回っただけですけどね。とはいえ、それが砂流原さんのご希望でしたから……あはは、とにもかくにも、私のエスコートはいかがでしたか? 少しは楽しんで頂けましたか?」

 まるで。

 ついさっきまでしていた話。

 その全てが、大したことのない。

 雑談だったとでもいうみたいに。

 恐らくそれは正しい認識なのだろう。あらゆる信念は、それが重量を持った瞬間に「正しさ」を喪失する。真剣であってはいけないというわけではない。そうではない。ただ、とはいえ、それが肉体を持ってはいけないのだ。なぜなら、肉体を持った瞬間に、重量を持った瞬間に、落下を開始するから。借星の生き物にとって重さとは下方に偏るということだ。だから、人間のような下等知的生命体は……「正しさ」が肉体を獲得する前に、それを殺さなければいけない。この星の上に生きている限り、「正しさ」に出会ったら「正しさ」を殺さなければいけない。

 ああ、今、ようやく理解した。真昼は理解した、マコトがどうしてこのような人間になってしまったのかということを。マコトは「正しさ」の虐殺者なのだ。冷笑、嘲笑、マコトのそういった態度は弱さゆえの行動であるわけでも愚かさゆえの行動であるわけでもない。マコトは、真昼よりもずっとずっと強く、ずっとずっと賢いからこそマコトであるのだ。マコトは見てきた。人間の信じるあらゆる信念が、この世界にどれほどの不幸をもたらしてきたのかということを。だからこそ、マコトは何も信じようとしないのだ。誰も、不幸に、しないために。

 確かに、確かに、マコトは人間の屑だ。自分だけが幸福であればいいと考えている。目の前にいる誰かが今にも殺されようとしている時に、へらへらと笑いながらそれを見ていられるような人間だ。ただし、マコトは……決して、殺す側に回ることはない。そう、それこそが問題なのだ。もちろん、殺す側に手を貸すことはあるだろう。そうしないとお前も殺すといわれれば、マコトは喜んで手を貸すはずだ。それどころか、そちらに向かって歩いて行けば崖から落ちて死ぬような人間に対して、そちらに向かって歩いて行ってはいけないとさえいわないはずだ。消極的な殺人。それが自分にとっての利益になるのであれば、マコトは喜んでそれをする。それでも、積極的に誰かを殺そうとはしない。マコトは、絶対に、そんなことはしない。マコトの「せいで」死んだ人間はいくらでもいるだろうが、マコトに「よって」死んだ人間は、この世界に一人もいないはずだ。その一方で……真昼は、間違いなく、殺す側の人間であった。誰かを殺すことを手伝えと強制されれば、真昼はそれを拒否するだろう。けれども、それは、真昼が「正しい」人間だからというわけではない。ただ、強制されることが嫌だからそうするだけであって。真昼は、本質的に、殺す側なのだ。喜んで誰かを殺す。もしも、物語にそういう筋書きが書かれていれば。もしもヒーローになれるのならば。真昼は、喜んで人を殺す人間なのだ。

 要するに、何がいいたいのかといえば。マコトは、絶対に、パンダーラを殺さなかったということだ。実際のところ、マコトはパンダーラを見殺しにしたかもしれない。あるいは、パンダーラが死に至る状況を作るのに手を貸したのかもしれない。ただし、それは、マコトに責任があるわけではないのだ。なぜなら、マコトは、それを「正しさ」であると思っていないから。そして、マコトは、起こるべくして起こったことを止められなかっただけの話なのだ。それを責めることは出来ない。なぜなら、マコトがいかに強い人間であったとしても……それでも、マコトは、たった一人の人間であるに過ぎないのだから。

 マコトは知っていた、マコトは全てを理解していた。結局のところ、誰かが「正しさ」であると信じたことがパンダーラを殺すであろうということを。そして、それは、完全に正しかった。真昼がパンダーラを殺したのだ。真昼が「正しさ」であると信じたことがパンダーラを殺したのだ。いつだって……いつだって、この世界に不幸というものが存在する原因は、「正しさ」ではない「正しさ」を、人間が「正しさ」であると間違えて信じてしまうことなのだ。真昼は、今、そのことを感じた。

 まあ、とはいえ……誤解のないように、ここで一つ付け加えておくが。「理解した」だとか「感じた」だとか書きはしたが、これは、あくまでも、真昼がそう「理解した」「感じた」というだけの話だ。実際のところは、何事もそうであるように、やはり物事はそれほど単純であるわけではない。マコトは、何か深い考えがあってこういう感じになったわけではなく、ただ単に共感能力というものが決定的なほどに欠如しているからこういう感じなのであって。別に、誰のことも不幸にしないようにという固い決意から、自分の中で「正しさ」が一つのドグマとならないように注意深く生きているわけではない。

 もちろん。

 マコトの口から出た。

 全ての、全ての言葉。

 それは。

 完全な。

 虚構だ。

 しかしながら、その事実は、大して重要なことではないだろう。ここで本当に重要なのは、真昼がそう「理解した」「感じた」ということなのだ。なぜなら、真昼にとって、この世界は、真昼が認識したところの世界なのであって。真昼がそう信じれば、真昼にとっては、それこそが真昼の世界なのだ。そして、確かに、真昼の中では……「正しさ」が、真昼が「正しさ」だと信じたものが、マコトの手によって殺されたのだ。

 間違いなく、真昼の中で、それは壊れてしまった。パンダーラの死によって揺らいでいたもの、壊れかけていたものが、たった今、マコトによって、完全に破壊されてしまったのだ。真昼は……真昼の中の真昼を、真昼の中に存在していた全ての愛を、粉々に砕かれてしまった。真昼に残されたものは、夜の空で輝いている、あの星々だけだ。

 ああ。

 そう。

 その通り。

 全てのものは、完全に新しくなるために。

 まずは、完全に壊されなくてはいけない。

 重力に従って落下していく。マコトと、それに真昼とマラーとが乗ったフライスは、あと数分で地上に着くだろう。そうして、つい先ほどマコトが言った通り、真昼の「観光」は終わるのだ。けれども、それは、真昼の人生の全てが終わるということではない。これからも、真昼が生きていく限り、真昼の人生は続いていく。

 真昼であったものは死んでしまったのに。

 真昼はどうやって生きていけばいいのか。

 真昼には、もう、何もない。

 自分さえも失ってしまって。

 ただ、暗く広い海に。

 沈んでいくしかない。

 そして。

 マコトは。

 いつものように。

 へらへらとした顔で。

 その様を眺めている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る