第二部プルガトリオ #37

「まず、前提となるお話からしていきましょう。遊動民という方法についてです。定住民の方々は……遊動民という生き方について、ちょっとびっくりするような理想化をされる傾向にありますからね。まあ、それも仕方がないことでしょう。人間という生き物は、とかく自分が置かれている状況に対する不平不満をこぼさなければ気が済まない生き物ですからね。というか……自分が世界を支配していたらどれほどこの世界が幸福になっていたかということを主張したがる生き物だというか。私達ではない何者かは、私達よりも遥かに幸福に暮らしている。しかも、それは、私が今まで主張していた通りの方法によって! その対象となる「何者」かが、どれほど悲惨で過酷な生活をしているのか。そういったことは関係ないんですよね。現実なんて関係ない、そんなものは無視して、とにかく、自分が思い描いた理想を押し付ける。とにかく、自分が、自分ではない支配者に対して罵詈雑言を投げつけられればそれでいいということなんでしょう。

「勘違いされている方が多いのですが、現在、この世界において成立している全ての社会制度、その基礎となっている構造を作り出したのは定住民ではありません。遊動民です。私が言っている構造というのがなんであるかはお分かり頂けますね? そう、「栄光」というcurrencyのことです。正確には人間の遊動民というよりもヴェケボサン=ユニコーン的社会構造をモデルとしたヴェケボサニアにおける集団モデルといった方がいいのですがね。まあ、それは専門的なことですから置いておきましょう。とにかく、エオストラケルタ大陸からアーカム大陸にかけて、それにダニッチ大陸を加えた、ナシマホウ界における最大の世界圏。ここにおいて採用されている社会制度は、間違いなく、遊動民的な「栄光」を中心としてあらゆる構造を構築しています。あはは、砂流原さん。この世界には、既に、定住民的な集団モデルはほとんど存在していないんですよ。まあ、過去においては……イタクァ的社会構造という定住民的な集団モデルがなかったわけではないんですけれどね。とはいえ、イタクァは、四大高等種戦争の時に滅ぼされてしまいましたから。イタクァ・モデルは、少なくともナシマホウ界においては、その残滓程度しか残っていないでしょう。

「「栄光」というcurrencyの最初の形態、つまりは権力・名誉・貨幣・愛情に分化していないところの原初的な「栄光」とは、つまり、ヴェケボサニア・モデルにおけるコミタートゥスでした。月光国では……どうなんですかね、ヴェケボサニア・モデルについての教育というのは行っているんでしょうか。例えばEUとかだと、休戦協定が影響してきてしまうので、ヴェケボサンだとかユニコーンだとか、そういった歴史まで教えることは出来ないみたいなんですけど……まあ、とにかく、コミタートゥスというのはですね。遊動民の集団における、支配者を中心とした、中央集中的な英雄構造のことです。これは、ヴェケボサンの女王を中心として、その女王との交尾権を持つ少数の女騎士によって構成されていたサークルのことを模倣して作られたということらしいのですが。それはそれとして、このコミタートゥスが、集団における「栄光」のほとんどを独占していた。

「遊動民というのは、定住民とは全く異なった生活をしています。定住民よりも遥かに過酷な生活を送らざるを得ない。なぜなら、異常気象による損害に対するバッファーというものが存在していなかったからです。定住民であれば、例えば、異常気象が数年くらい続いたとしても、なんとかそれを凌ぐことが出来ないわけではありません。なぜなら、乾燥させた穀物というのはある程度の保存がきくからです。そりゃあ、味は悪くなりますけどね。それに、多少は栄養価が落ちたりもするでしょう。とはいえ、食えないというわけではない。その一方で、遊動民が栄養のベースとしているのは、動物の肉体です。遊牧民でも遊猟民でも遊漁民でも構わないのですが、そういった人々の栄養源は、それほど保存がきくものではない。それだけでなく、農耕において獲得出来る穀物よりも絶対量からいって少な過ぎる。農耕というのは一つの革命であって、一人一人の労働から得ることが出来る食料の量を飛躍的に増加させることに成功した。つまり、遊動民の生活というのは、定住民が想像出来ないほど過酷だということです。

「それからもう一点指摘しておかなければいけない点があります。定住民とは異なり、遊動民というのは協力関係を築くということが限りなく難しい方法であるということです。あはは、ちょっと考えてみて頂ければ分かると思うんですがね。定住民には、土地があります。つまり、その土地に縛られて生きていかなければいけないということです。何せ定住民なんですからね。ということは、別に強力な支配・被支配の関係性がなくても、否応なく、その土地に住む人々は、一つの集団として結集しなくてはいけないというわけです。「栄光」によって人々を一つにまとめる必要なく、協力の体制を築くことが出来る。こういった生活の方法からは、強力な支配・被支配という関係性は生まれません。そりゃあ、ある程度の上下関係は出来るかもしれませんがね。けれども、それは定住民の本質的な性向ではありません。定住民は、その生活において、協力をベースとしている。

「一方で、遊動民にはそんな贅沢は許されません。だって、人と人とを結び付ける絆は何もないんですから。まあ、確かに、遊牧民であれば、家畜の群れがいるかもしれませんが――というか、家畜の群れというある種の財産があったからこそコミタートゥスという制度が成り立ったという側面もあるわけですが――それでも家畜の群れは土地とは全然違います。だって固定されていないんですからね。その気になれば、群れの中から数頭のつがいを選んで、集団から離れていくことが出来る。これはある意味では自由といえるかもしれませんが、はっきりといえば放埓です。こういった状況下では、自分自身の持つ欲望・嫌悪を超えて人と人とが協力関係を結ぶということは出来ません。いや、出来ないとまで言うと言い過ぎかもしれませんが、限りなく不可能に近い。

「まあ、もしも、そこが非常に生活しやすい場所だっていうんならそれでもいいですけれどね。異常気象からは完全に守られていて、生活の糧となる動物は食い切れないほどいて、その上、周囲には敵意のある集団が一つもないっていうんなら、まあそれでもいいでしょう。けれども、そんな都合のいい場所は、この世界にはほとんどないわけです。どこであれ、かしこであれ、異常気象というのは毎年のように襲ってくるものであるし……ああ、そうそう、誤解なさらないように。異常気象というものは、人間が引き起こすものではありませんよ。人間ごとき卑小な生き物の些細な行動が気象という惑星規模の現象に何か影響を及ぼせると思うのは、それはあまりにも馬鹿げているというものです。この星はね、あはは、兎にとっての兎穴というわけではないんですから。そもそもの話、異常気象という言葉自体がおかしいんですよ。人間の生活に都合のいい気象から逸れているというだけであって……ずっとstableな環境が続くという方が異常なんです。とにかく、そういうわけで、人間の行動とは全く無関係に、流動的な気象というものは、変動的な気象というものは、毎年毎年襲ってくる。そうして気象が安定しなければ、当然のように、獲得出来る動物だって安定しないわけです。

「そういうわけで、何ほどかの生活の保障のためには、どうしても家畜を育てるという選択をしなければいけなくなる。すると何が起こるか? その家畜を狙って他の集団が攻撃を仕掛けてくるんですよ。そうなってしまったらもう、自由だのなんだのいっている場合ではなくなりますよね。自由なんていうものよりも、安定した生活の方がよっぽど重要になってきます。たった一人、明日にも死ぬかもしれない自由よりも、集団において安心して支配される方がよっぽど良いとなってくる。

「ということで、人々は、自由を手放して秩序を手に入れようとするのですが……ここで先ほどの問題が出てくるわけです。つまり、遊動民が生活する空間、草原にしても海洋にしても森林にしてもいいですけれど、そういった空間は無限に広がっているという問題です。無限と言ったら言い過ぎですけれどね。ただ、少なくとも、人間が自由に生活するには十分過ぎるほどの空間であるということには間違いない。だから、少なくとも、人と人とを結び付けるのに、空間という物理的な紐帯を使うことが出来ない。これはですね、非常に大きな問題なんですよ。

「えーっと……砂流原さんはこう思われるかもしれませんね。別に、そういった方法で人と人とを結び付けなくても、目の前に生命の危険が迫っているのならば、人々は自然に一つの集団にまとまるのではないか。あはは、そうです、その通り、おっしゃる通りです。「目の前に生命の危険が迫っていれば」、物理的な紐帯など存在せずとも、人々は協力し合うでしょう。しかしながら、「目の前」からその「危険」が去ってしまったら? そして、それが火急火燎のものではなくなってしまったら? もちろん、人々は、また放埓に散乱していきます。

「あはは、砂流原さん。人間というのは、本当に、文字通りの意味で救いようがない生き物でしてね。未来に起こるであろうという危険に対して、その危険性を正確に把握出来ないほど愚かなんです。ですから、危機が現在進行形で存在していれば、まあ、何かしらの紐帯として機能しますけどね。けれども、それが抽象的な危機の可能性に過ぎないというのであれば……そんなものはなんの役にも立たない。人間の自分勝手・自己愛・わがままの前には、そういったものは完全に無力なんです。

「ということで、定住民のように、協力関係の土台となる土地という要素がない遊動民は。協力とは異なる形での集団化を図らなければならなかったというわけです。そして、それこそが、支配と栄光とだった。EUでは……ヴェケボサンやユニコーンや、そういった生き物に関する記述が、休戦協定によって不可能になっていますからね。こういった関係性、つまり、支配だとか栄光だとかいうシステムは、定住民から発生したと教わります。例えば、こんな感じの説明ですかね。人々は定住し、農耕を開始した。その結果として大量の穀物を蓄積出来るようになり、人口が増加し始めた。まず、ここで支配が発生する。増加した人口を、より効率よく農耕作業に従事させるために、上下関係が発生したということだ。その後、一つ一つの農耕集団が、その定住範囲を拡大して、やがて他の集団と出会うようになる。その結果として、土地を巡る争いが始まり、戦争というものが生まれる。そして、その戦争の中で栄光という原理が成立する。

「はははっ! 全く、ここまで愚にもつかない考えをどうして考え付けるんですかね。いいですか、まずは支配の発生について考えていきましょう。まあ、いいですよ。農耕作業をしていく中で、ある程度の支配関係が発生していくというのは否定しません。ただですね、それがどうして絶対的な中央集権構造に繋がってくるんですか? あのですね、ちょっと考えればそんなことになるわけがないということは分かるでしょう。たかが農耕作業ですよ? 命懸けの作業でもなんでもない、ただただ植物を育てるというだけの作業のために、支配などという構造が必要になってくるわけがないじゃないですか。せいぜいが、年功序列の緩やかな上下関係ですよ。農作業に熟練した作業員が未熟な作業員に対して指導を行う。そういった徒弟系協力体制が発達するくらいなもんです。

「また、栄光についても考えていきましょう。というか、戦争についてですね。人口が増えて、定住する範囲を広げていく。いいでしょう、論理的な考えです。やがて二つの集団が出会うことになる。まあ、そういうこともあるでしょうね。そして、戦争が起こる。いやいやいや、なんでそうなるんですか! そんな急に起こりませんよ、戦争は! あのですね、戦争ですよ、戦争。人が死ぬんです。そりゃあ、支配の体制が整っていたらあり得るかもしれませんよ。そういった集団は、まあ、集団の拡大のために構成員を犠牲にすることもあり得るでしょう。しかしながらですよ、たかが農民の徒弟制度、その程度の関係性が、どうしてそこまで軽々と構成員に犠牲を要求出来るんです?

「ちょっとはまともに使って下さいよ、その脳味噌を。というか、その頭蓋骨の中から現代的な偏見を洗い流して下さい。すっかり遊動民的な思考形式に汚染された考え方をですね、少しでも当時の定住民の考え方で考えられるように努力して下さいよ。いいですか、定住民の集団と定住民の集団とが出会った時に、まず考えることは、話し合いです。定住民の集団において、人間の数は、多ければ多いほどいい。それは労働力なんですからね。ということは、それを減らすことになる行為、戦争などという行為は、極力避けるはずなんです。

「それどころか、定住民は、遊動民とは違い、動物を殺すという発想そのものが非常に希薄です。そりゃあ、農耕だけではやっていけないでしょうからね。多少は狩りをするでしょうし、釣りもするでしょう。しかしながら、そういった動物性の食糧のほとんどは……遊動民から獲得するはずです。だって、遊動民は植物性の食糧が必要ですし、定住民は動物性の食糧が必要ですからね。そこで交易をする、となれば、定住民自体が動物を殺す必要性は限りなくゼロに近くなっているというわけです。つまり、何かを殺して何かを手に入れるという発想は、定住民の通常の思考の形式の中でごくごく僅かな領域しか獲得していない。

「だから、まずは話し合う。いや、まあ、話し合いの段階に至る前に、異人に対する恐怖の段階があるでしょうけれどね。極力相手方に関わらず様子を伺う。そのうちに、集団の中でも特に無謀な一部分、恐らくは若い構成員の小集団が、主に性的な関係性を中心として、一定の交流を開始する。その交流が広がっていって、互いが同じような人間であるということに気が付く段階が来る。そして、そこからは話し合いです。自分達の集団はどういう集団であるかを伝達し、相手方の集団がどういう集団かを理解する。その結果として、どうなるか? もちろん集団と集団との融合が始まるんです。

「いいですか、よく考えて下さい。この当時の集団は、現在の集団とは全く違ったものなんです。集団の黎明期、私的領域だの公的領域だのさえ発展途上でしょう。ましてや、排他的なナショナリズムなんてものは兎の耳の先ほども出来上がっていない。そうであるならば、同じ人間と同じ人間と、そこにどこに争い合う理由なんていうものがあるんですか? そういった関係性をすぐに戦争に発展させようとするのは、あなた方が現代人だからです。遊動民的な思考に毒された栄光の羊だからなんですよ。

「こう言うと、このような反論をされる方がいらっしゃるかもしれませんね。確かに、出会ってすぐに戦争ということは起こらないかもしれない。けれども、集団と集団とが出会って、その出会いが必ず友好のままに終わるとは限らないだろう。必ず、敵対的な関係に陥ってしまう出会いもあるはずだ。はいはいはい、まあそういうこともあるでしょう。それは認めますよ。けれどもですね、敵対的な関係になったからといって、どうしてそこで戦争が起こるんですか! あなた方のようなよほどの蛮族には理解出来ないことかもしれませんがね、集団と集団とは、そんな簡単に戦争をするものではないんですよ。

「血に飢えた獣のようなあなた方ではない定住民にとって、戦争なんかよりもよほど簡単な解決方法があったんです。つまりですね、ある集団とある集団との出会いが敵対的なものとなってしまったら、ただただ、互いに別の方向に行けばいいだけの話なんです。だって、そうでしょう! 今とは違うんですよ、現代社会とは状況が全く違うんです。土地なんてね、奪い合いをしなくても腐るほどあったんですよ。あなた方は、耕作に適した土地は少なかったなんて馬鹿みたいなことをおっしゃるかもしれませんがね。その少ない土地が有り余る土地に思えるほどに当時の人口は少なかったんです。土地は無限にある、一方で構成員の数は有限だ。それなのに、なんで、構成員を犠牲にして土地を手に入れようとするんですか! 全く、論理性の欠片もない戯言を学術的な仮説であると詐称するのはいい加減やめて欲しいですね。

「いいですか、当時の人々の気持ちになって考えて下さい。現代的で遊動民的な考え方を捨てて、当時の人々の気持ちになって考えるんです。そうすれば、定住民が有していたはずの最も原初的な形での関係知性には、栄光なんていうものは存在していなかったということが分かるでしょう。栄光の代わりにそこに存在していたのは、つまるところ協力です。戦争の代わりには交渉が、自由の代わりには秩序が、そして、人間的な理性の代わりには、生命としての必然が存在していたんです。

「そこには権力も名誉も貨幣も愛情も発生し得なかった。なぜなら、人々は、まさに動物的な意味合いでの群れだったからです。一つのまとまった群れとしての人々であった。権力ではなく土地の共同的な所有があり、名誉ではなく世代ごとの役割分担があり、貨幣ではなく必要に応じた分配があり、愛情ではなく緊張を弛緩させる遊戯的性愛があった。その社会制度には支配なんて必要なかったんです。なぜなら、全てが、必然的に決定していたから。一人一人の構成員は自分の意志なんていうものを持たなかったから。

「そうそう、言うまでもないことですが、共産主義と呼ばれる全ての無意味な努力は、絶対に失敗することが予定されているところの、定住民に回帰しようとする行為のことです。あはは、そう、当然ながら、その行為は失敗することが確定している。なぜなら、人々の思考の構造は、既に異なったものとなってしまっているからです。協力を善きものとする定住民の思考ではなく……栄光を、戦争を、自由を、善きものとする、遊動民の思考になってしまっている。その証拠に、共産主義者を名乗る方々は、必ず、共産主義によって人々に自由がもたらされるとおっしゃいますよね。そんなことあるわけがないじゃないですか。自由というのはね、遊動民にとっての価値観です。定住民的な社会制度である共産主義からは、そんなものは排除される。というか、絶対に、排除されなければいけないものなんです。

「ああ、申し訳ありません! 話が少し逸れてしまいましたね。とにかく、栄光と支配と、それに戦争というシステムは、遊動民がもたらしたものであったんです。まず発生したのは戦争でした。つまり、限られた資源を巡る奪い合いです。戦争の発生を考える上で、最も重要なのは……なぜ、定住民と遊動民とという違いが生まれたのかということです。あはは、もちろん、そういった違いは、本人達の性質の違いによって生まれたのではありません。それは環境の違いで生まれたものです。

「定住民は、定住が可能な土地に生きていたから定住民になったんです。肥沃な土壌に豊富な水源に、そういった使用可能な資源が潤沢になければそもそも農耕をしようなんて思いませんからね。そして、遊動民……その中でも、特にヴェケボサニア・モデルを作り出したような遊動民は。広大な、ヴェケボサニアの荒野に生きていました。そこには、確かに、土地はいくらでもあったでしょうが、利用可能な資源は非常に少なかった。荒野のあちこちに点々としている草原地帯、そこに生えている限られた草木。そして、その草木を、人間にとっての栄養源に変換するための草食動物。とても、とても、限られた資源しかなかった。

「だから、遊動民には、定住民のような贅沢は許されなかった。平和的な解決策などという甘ったれた選択肢は、遊動民には存在しなかったんです。特に……異常気象が起こった時などはそうでしょう。家畜はばたばたと死んでいき、草原地帯の草木は軒並み利用不可能な状態になる。そんな時に、別の場所に行けばいいなどと生易しいことをいっていられますか? もちろん、いっていられません。なぜなら、別の場所も、やはりそんな状態だからです。そうなったらもう、残り少なくなった家畜を巡って集団同士が戦争を行うしかない。

「というよりも……テリトリーを巡って、と言った方がいいかもしれませんね。家畜を育てるのにより適した土地、狩猟の獲物をより期待出来る土地。遊動民だって、どこにでも住めるというわけではありません。生きていくために必要な資源がある土地にしか住むことが出来ないわけです。そして、農耕民が住んでいる場所とは異なり、遊動民が住んでいる場所には、そのような恵まれた土地はあまりにも少ない。そういうわけで資源が豊富なテリトリーを巡って争いが起こるということです。動物だって、より強いものが良質なテリトリーを独占するでしょう? それと同じです。

「ということで、遊動民は戦争を発生させました。いや、どちらかといえば、遊動民が住んでいた場所の、その環境が発生させたといった方が正しいんですけれどね。それはまあいいでしょう。とにかく、ここで重要なのは、戦争が発生した結果として、遊動民は、どうしても支配というシステムを発生させざるを得なくなったということです。

「先ほども申し上げたように、定住民とは異なり、遊動民は具体的な紐帯を有していません。だから、まさに今目の前に存在している危険性、そういったものがなければ一つにまとまることが出来ない。しかしながら……戦争というものはね、砂流原さん。戦争が起こってから一つになっても、大した意味はないんですよ。その前に、兵士を訓練したり兵器を生産したり、そういった準備段階が必要なんです。そして、準備段階は、長ければ長いほどいい。戦争に有利な条件を整えることが出来る。

「だから、遊動民は、戦争よりも前に一つにまとまっていなければいけない。具体的な危険が見えていない段階で、強力かつ堅固な集団として一体化していなければいけない。そうするには、一体どうしたらいいのか? あはは、砂流原さん。簡単なことですよ。危険がないというのなら危険を作り出せばいい。というか、まさに集団そのものが危険になればいいんです。

「つまり、集団から離脱しようとした者を殺せばいいんです。殺して、そこら辺に捨てるでも家畜の餌にするでも自分達が食べるでもいいですが、とにかく、そうすれば集団から離脱しようとする者の数は大変少なくなるでしょう。この段階では、遊動民の社会制度においても、未だに栄光というシステムは発生していませんからね。ということは、集団から離脱して自由になろうとするのは、自由自体が目的なのではなく、自分の生存の確率を少しでも高いものとすることが目的です。家畜の一部を奪って独り占めするためということですね。それならば、離脱することによって、ほぼ確実な死が与えられるというのならば。よほど無謀なものでない限り集団にとどまろうとするでしょう。

「こうして、支配が発生しました。罪と罰との原理は次第次第に拡大・充足されていって、集団の論理に逆らう様々な罪に対する残酷としての罰は、非常に洗練された形で整備されていきました。集団に逆らうあらゆる行為が、惨たらしい形での身体の欠損か、あるいは生命自体の喪失に繋がるようになったわけです。原初的な遊動民についての記録は恐ろしく少ないのですが……それでも、そういった数少ない記録の中に必ず出てくるのは、集団のリーダーが、その集団を統率するために、どれほど非情な惨劇を繰り広げたのかということです。あはは、あるリーダーなどはですね、兵士達に対して自分の妻を射殺すように命じさえしたそうです。そして、その命令に逆らった者の全てを死刑に処した。それほどまでに、遊動民にとって、支配というのは過酷なものだったのです。

「ただ、とはいえ、その支配がどれほど過酷なものであったとしても、支配だけで集団を統率することは出来ません。いや……正確に言うと、支配だけで集団を統率出来るケースもあります。けれどもそれは、支配者の側の「力」が、被支配者であるところの構成員の全てを総合した「力」よりも巨大であるケースです。そういう場合は、その「力」がなんであったとしても支配以外の方法は必要ない。しかしながら、このようにしてある種類の生命体が全ての構造を開始する段階において、特定の個体が他の個体に対して圧倒的な「力」を持つということはごく稀な例外でしかないわけです。いや、それはですね、人間に対するゼティウス形而上体だとか、種族の枠を超えた支配・被支配関係であれば、そういったこともあり得ますよ。でも、人間対人間という関係性の中では、よほど強力な兵器が開発されない限りそういう格差はあり得ないわけです。

「たった一人の支配者に対して、大勢の被支配者がいる。そして、一人一人が有している「力」の総量は、さほど変わるわけではない。このような状況下で、ただただ過酷な支配だけが行われれば、一体どのようなことが起こるか? もちろん革命です。つまり、被支配者が支配者を殺害するか追放するかするわけです。だって、別に、従う必要なんてどこにもないですからね。被支配者の総体の方が強い力を持っているんですから、支配者を取り除くのはひどく容易なことです。そして、別の支配者、もっとましな支配者と取り換えればいいだけの話です。と、いうことで。そういった展開を避けるためには、支配者は、支配だけではなく、他の方法も併用しなければいけないわけです。そして、それこそが栄光だったというわけです。というか、正確に言えば、栄光の最も原初的な形としてのコミタートゥスですね。

「先ほども申し上げたことですが、コミタートゥスとは、もともと人間的な文脈で生まれたものではありません。ヴェケボサン的な文脈で生まれたものです。ヴェケボサンも、やはり遊動民であって、そして、やはり「力」の個体差が限りなく少ない種族であった。今となっては……死亡率の減少による長寿化だとか様々な技術の発達だとかの影響によって、公レベル・王レベルの力を持つ個体も出てきていますが。寿命も技術もそれほどではなかった当時は、どの個体も同じような力しか持っていなかった。

「だからコミタートゥスが必要だったんです。コミタートゥスとは、集団の中でも特に強力な個体を集めて作り出した、支配者個人に対してだけ忠誠を誓うところの私的な軍隊です。そのメンバーは、ごく少数の者に限られていて、例えば、現時点で最も「力」を持つヴェケボサンの女王であるテングリ・カガンのコミタートゥスは、アイレム教において真聖な数字である完全ティンダロス王数、七人の女騎士によって構成されています。それら七人の女騎士の、全てが王レベルの力を持つといわれていて……ああーっと、そういった細かいことは置いておいてですね。とにかく、そうやってコミタートゥスに選ばれた個体は命懸けで支配者を守ることになる。

「それは、本当に、文字通りの意味での命懸けです。戦場において、コミタートゥスは、何があっても支配者のことを守る。そして、支配者が死ねば、その死に殉じなければいけない。いわゆる殉死ですね。支配者が戦場で死んだのだとしても寿命で死んだのだとしても、コミタートゥスは、支配者を追いかける形で命を捧げて、そして、死後の世界においても支配者のことを守らなければいけない。それは血と血との誓い、スナイシャクとスナイシャクとの誓いであって、もしもその誓いを破ったのであれば、その個体はあらゆるものを失うことになるであろう。こんな感じですね。

「一方で……もちろん、コミタートゥスは、その命懸けの奉仕に対する見返りを得ることが出来るわけです。例えば、先ほども申し上げたように、最初期におけるヴェケボサンのコミタートゥスでは、女王との交尾権がそれでした。その当時のヴェケボサンの集団では、女王の子を孕むことが出来るのは、コミタートゥスの女騎士達だけだったんです。あはは、これは非常に重要なアドバンテージですよね。だって、女王と交尾出来なければ、基本的には、ヴェケボサンは子孫を残すことが出来ないんですから。こうして、女王から受け取ることの出来るメリットによって、コミタートゥスの女騎士達は、分かちがたく女王と結び付けられたというわけです。

「まあ、とはいえ、人間の場合はこういったヴェケボサン的な方法は使えないわけですね。だって、人間には男性と女性との別があるのであるし、それゆえに交尾権という概念そのものが存在していないんですから。だから、別の方法を見つけなければいけない。コミタートゥスを支配者に結び付けるための別の方法……それこそが栄光だったということです。いや、まあ、正確にいうと、ヴェケボサンのコミタートゥスの時点で栄光という要素は出ていたんですけれどね。交尾権だけではなく、栄光によってもコミタートゥスの維持が図られていた。とはいえ、ここでは話を単純にするために、そういう部分は省かせて頂きましょう。

「栄光、栄光。まず、支配者は、コミタートゥスに対して、明らかに消費し切れないほどの財産を与えました。食べ切れないほどの食糧、飲み切れないほどの美酒、敵から奪った珍しい品物。そして、次に、コミタートゥスにしか許されない様々な特権を与えました。軍隊を指揮する権利や、支配者しか立ち入ることの出来ない場所に立ち入ることの出来る権利。あるいは、特別な名前で呼ばれる権利。また、それだけでなく、コミタートゥスのメンバーに、交尾権と同じような役割を果たす権利を与えさえしました。つまり、コミタートゥスのメンバー以外には、子孫を残すことを許さなかったということです。そして、最後に、支配者は――これが最も重要なことなのですが――コミタートゥスに物語を与えました。

「コミタートゥスはあらゆる人間の中で最も力ある者達である。なぜなら、自分の命を捨ててまで敵に立ち向かうからだ。もしも、自分の命を犠牲にすることなく、臆病にも敵に背を向けるのならば。それは、その分だけ弱き者であるということである。なぜなら、その者は、その臆病の分だけ、勝利の機会を逃すからだ。一方で、コミタートゥスにはそのような臆病は存在していない。むしろ、それらの者達が持つものは勇気である。だから、それらの者達は、決して勝利の機会を逃すことなく……それゆえに、最も力ある者達なのだ。あはは、まあ、その通りですね。もしも彼我の「力」の差がほとんどないのであれば、命懸けで相手を殺そうとする者の方が、保身に走る者よりも相手を殺す高い確率が高いというのは間違いないことです。そうであるとすれば、コミタートゥスの構成員が他の人々よりも強いという主張は、間違った主張であるとは言えないでしょう。少なくとも一部分は正しい。

「そのようにして、コミタートゥスは、あらゆる人間の中でとまではいわないにせよ……当該集団の中では最も「力」ある者達であるという共通理解が発生するわけです。そうなると、集団の構成員は、コミタートゥスに対して、崇拝にも近い感情を抱くことになる。当時の人間にとって最も重要なことは自分の命です。ということは自分の命を守ってくれる人々、「力」ある人々に対して、そういった感情を抱くのは当然です。そして……そう、これこそが集団の構成員が作り出した公的領域における、栄光というcurrencyの原初的な形態なんです。

「物語は、まさに、ここから始まる。例えば、先ほども少し触れましたが、コミタートゥスの構成員にはそういった構成員しか名乗ることを許されないような名前が与えられました。優れたものの特別な名前、それは、ヒクイジシであるとかウツロオオカミであるとか、そういった人間の捕食者となりうる生き物の名前でした。いや、もちろん共通語におけるヒクイジシだとかウツロオオカミだとか、そういった長ったらしい名前ではなくて、もう少し舌の上に乗せやすい、その集団が使用していた言語による名前ですけどね。それはそれとして、その名前が意味するところは、そういった人間達がただの人間なのではなく、強力なマホウ族の力さえ持ちうるところの、ある種の超越的な人間であるということです。

「そして、その名前から、次第に次第に、ストーリーが導き出されてきます。例えば、そういったコミタートゥスは、実は普通の人間とは異なっていて、ヒクイジシだとかウツロオオカミだとか、そういった生き物から生まれてきた人間だというストーリーです。そして、そういったコミタートゥスは、当然ながら、他の構成員とは完全に異なった生き物として認識され始める。栄光という絆によって結ばれた、エリート階級というものが、ここに初めて誕生するわけです。そして、そのエリート階級は、他の構成員達から自分達のことを区別するために、大集団の中の小集団を形成し始める。その小集団の構成員は互いに互いのことをfriend、特別な友であると認識し、互いが互いにとってかけがえのない人間であること、「卓越」した人間であるということを認め合いました。

「と、このようにして、遊動民から栄光が発生した。物語が始まり、卓越が始まり、その結果として、卓越した人間は、コミタートゥス的な報酬として支配者によって作り出されたところの実存的な自由を手に入れたわけです。そして、そういった栄光というシステムを手に入れた遊動民は……瞬く間に世界の全土に広がりました。まあ、正確に言うとするのならば、人間の遊動民ではなくヴェケボサンの遊動民なんですけどね。それに世界の全土といっても、リリヒアント階層の四階・五階・六階の全域、それから三階と七階との一部です。

「そうはいっても、ヴェケボサンの支配領域の拡大は人間に対して多大な影響を与えました。そして、そのようにして支配された領域は人間にとっての全世界に等しい部分だったわけです。そのヴェケボサンによる支配は、いわゆるヴェケボサンの大移動、神々によってナシマホウ界からヴェケボサンが追放されるまで続き……それまで、栄光は、羊達の上に遍く輝き続けた。

「もっとはっきりと何が起こったのかということを言ってしまうのならば。今まで人間達が生活してきたところの定住民的な集団モデルは完膚なきまでに破壊されてしまい、その後で、遊動民的な集団モデルを定住民の生活に適合させたところの奇妙な混合モデルがその古靴を履くことになったということです。いや、もちろんヴェケボサンの支配を退けたイタクァの支配領域においては、定住民的な生活はイタクァ・モデルとして残り続けたんですけれどね。とはいえ、人間の世界の大部分は、ヴェケボサニア・モデルに移行してしまったというわけです。

「と、このようにして、私達は物語の主人公になったということですね。実存という概念や自由という概念や、そういったものは決して普遍的な価値観などではないわけです。それは、どちらかといえば、極限的な状況において支配を有効なものとするために一部のエリート層によって作り出されたところの、歪な幻想のようなものでしかない。最初から、その内部に支配の構造を孕んだ、奇形の概念です。そして、現在の世界において、そういった概念を守ろうとしている方々は……コミタートゥスの子孫、支配者による絶対的な支配を護持し続けようとする、過酷で残酷なエリート層であるということです。

「これが、遊動民という、生き物について。

「理解しておいて頂きたい一つの論理です。

「私がこのお話をすることによって、どんな事実を提示したかったのかといえば……要するに、あなたがおっしゃったところの、否定されることが許されないダコイティの方々。アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの方々は、まさに遊動民だったということです。あはは、まあ、厳密には、ダコイティは遊牧民ではないので、ヴェケボサニア・モデルの原型を作り出した遊動民と一緒にしてはいけないんですけどね。とはいえ、その集団において、極めて原初的な形での栄光が発達していたことは確かです。

「例えば……あなたは、ジュットゥさんという方にお会いになりましたか? あはは、その様子だとお会いになったようですね。あの方は……まあ、この議論には関係ないので詳細は省きますが、色々とあってミズ・ゴーヴィンダに命を救われました。そして、それ以来、自分の命と引き換えにしてでもミズ・ゴーヴィンダの命令に従おうと決意した。何があってもミズ・ゴーヴィンダを守り抜き、ミズ・ゴーヴィンダの命が尽きた時には自らもその跡を追うことを決意した。そういう方なんです。

「砂流原さん、砂流原さん。もうお分かりになりましたよね。そう、ジュットゥさんはコミタートゥス的な方なんですよ。まあ、ミズ・ゴーヴィンダはフォー・ホーンドでしたので、お一方で十分に強力な方でしたし、第一デウス・ダイモニカスには人間の護衛なんて必要ないわけですが……それが物語の一形式であったことには変わりありません。ああ、ちなみに砂流原さんは、ジュットゥさんのジュットゥというお名前の由来についてご存じですか? あれはダクシナ語で「髪の毛」という意味なんですけどね。ミズ・ゴーヴィンダがジュットゥさんの命を救われた時に、その髪の毛を犠牲にしたためにそのような名前を名乗っているそうです。あはは、まさに物語ではないですか!

「ダコイティの方々は……そうですね、原初的な形での遊動民というわけではありません。どちらかといえば、それは、一つの巨大な関係知性の中に埋め込まれた「中央と辺境と」という世界構造の中で、辺境を担っている方々です。つまり、ダコイティの方々は、遊動民として完全に独立しているわけではない。むしろ辺境は組み込まれていなければ存在することが出来ない。中央の対概念としか存在し得ないんです。

「ヴェケボサンによる全世界的な支配以降、定住民の集団は急速に遊動民化していきました。つまり、今まで一つの集団として不可分に結び付いていたはずの構成員達が、支配階層と被支配階層とという二つの部分に分かれてしまったということです。このようにして支配というシステムが発生すると、その支配は、ごくごく自然な流れとして細分化された階級制度を発達させます。なぜなら人間というのはただただ支配されることには耐えられないからです。単純な支配・被支配の二元構造においては、被支配者は支配されるだけで一生を終えることになる。それを避けるために、被支配者は、その被支配者の小集団の中で、更に支配・被支配の二元構造を作り出して……そういった構造化が、次々に行われていく。結果として、例えば、アーガミパータにおけるヴァルナやジャーティやといったような非常に複雑なフエラ・カスタが発達していく。

「まあ、ここまではいいのですが……ここで一つ問題が発生してきます。こういった複雑なフエラ・カスタは、そうして作り出された一つ一つの階級に所属する人々に対して、非常に詳細な定義付けを行うということです。それはなぜか? あはは、「それはなぜか?」なんて問い掛ける必要もないくらい当たり前のことですよね。要するに、幾つも幾つもの階級を作るためには、そういった階級の全てが区別出来ないといけないわけです。そうすると、階級間の区別を明確化するためには、より細かく、より詳しく、その階級についての説明が出来なければいけないわけです。そのためには、その階級の人々に対して、その階級独自の行動形式を強制せざるを得なくなる。

「こういうことは定住民の集団には起こり得ません。なぜなら、定住民の生活において、その役割分担というのはほとんど本能的な方法によって行われるからです。例えば、老人に関しては、長く生きている分知識はあるが、肉体労働をするだけの体力がない。だから、そういった知識を継承させる役割を負う。一方で、若者に関しては、未だに知識の蓄積が少ないが体力はある。従って現場での労働を担う。こういった形ですね。定住民は栄光を必要とせず、物語を持つことがありません。だから、それはあくまでも役割分担に過ぎず、階級の分離にまでは達しないのです。あはは、階級の分離というのは、実際に存在しているものではなく、あくまでもフィクションの世界における一つの概念に過ぎませんからね。そもそもそういったフィクションを持たない定住民は、階級などという制度を理解することさえ出来ないんです。

「とにかく、遊動民的な階級制度……人間の肉体的本質によって分担される役割を超えた、全くのフィクションであるところの構造というものは、どうしても人間に対して負荷をかけることになる。だってですよ、どの階級に所属している人間も、所詮は人間に過ぎないんです。例えば、老人と若者とは、まあそれなりに違うでしょう。男性と女性ともちょっとは違うと思います。けれどもね、人間の違いなんてその程度のものなんですよ。あとは、身体に障害でもない限りは似たようなもんなんです。

「それにも拘わらず、そんな微細な差異を、まるで神と人との差異のように扱うわけです、こんな制度が破綻しないわけがないでしょう。いや、正確に言うと、制度が破綻するというよりもその制度に所属している人間が破綻する。制度によって課される負荷に耐えられなくなってしまうんです。そのようにして破綻した人間は……もはや、「中央」における階級制度には適合出来なくなります。そして、「中央」というものが階級制度によって秩序化された空間のことを指す以上は、「中央」そのものにも適合出来なくなる。そして、「中央」以外の場所で生きていくことになる。その場所こそが「辺境」であるということです。「中央」という言葉が指し示す空間の外側にあるが、かといって、集団が持つ関係知性から離脱するわけではないところの場所。秩序の外側にある、制度を超えた領域。いわゆるアサイラムと呼ばれるたぐいの場所。

「ええーっと……話を進める前に、ちょっと補足をしておかなければいけないかもしれませんね。こういった、人々を辺境に追いやることなるところの負荷というものは、カスタ間の抑圧によって起こるというわけではないということです。いや、まあ、絶対に起こらないとまでは言いませんけどね、けれどもそれは、どちらかといえば少数の事例であるはずです。また、こういった負荷が最も強く影響を及ぼすのは、決して最下層のカスタに所属する人々ではないということも指摘しておかなければいけないでしょう。最下層のカスタに所属する人々にも、もちろん負荷はかかりますが……どちらかといえば、中間層のカスタに所属する人々の方が、そういった負荷の影響は遥かに大きいはずです。

「ちょっと考えてみて下さると分かると思うんですけどね。人間という生き物が制度に対して不満を持つのは、一体いかなる時か? その制度が不平等な時でしょうか? その制度が抑圧的な時でしょうか? あはは、どちらも違います。人間は、不平等が自分だけではなく他人にも平等に与えられている時には、そういった不平等に耐えることが出来るものです。それに、人間は、その本質において抑圧を嫌う生き物ではありません。反抗期における脊髄反射的な反抗が一種の強迫観念化した場合にはその限りではありませんが――そして、人間至上主義社会においてはそういったケースが非常に多くみられることは確かですが――とはいえ、通常の場合、人間という生き物は、抑圧に対して非常にフラットな反応を示すものです。

「人間が制度に不満を持つのは、その制度が不平等な時でも抑圧的な時でもない。その制度が不安定な時です。もしくは、その制度の中で自分が担っている役割が不安定な時です。だって、そうでしょう? 今日は王様だけれど明日は奴隷かもしれないなんていう制度の中で安心して生きていくことが出来ますか? あるいは、自分は奴隷として生きているが、これこれの食料を主人から貰うことが出来る。この量は生きていくのには最低限であるが、とにかく生きていくことが出来る。こういう奴隷がいるといましょう。もし、その翌日から、いきなり食料の量を半分に減らされるかもしれないということになったらどうですか? 明日には死ぬかもしれないんですよ? そんな状態で安心して生きていけますか?

「あーっと、念のために申し上げておきますけれどね。その制度が制度自体として問題を内包していて、その問題のせいで、まともに生きていくことが出来ない人間が出てくるといった場合は。それは、既に制度と呼べるような代物ではありませんよ。ちなみに、ここでいう「まともに生きていく」というのは、少なくとも生きていくことが出来る最低限の資源を享受することが出来るとか……まあ、そんな感じです。だから、奴隷的な生活をしていたとしても、生きていくぎりぎりの食料しか得られなかったとしても、それは「まともに生きていく」の範囲に含まれます。

「と、そういうわけでして……人間が制度から負荷を感じるのは、不安定な状況に陥った時です。こう考えると、階級制度の最下層にいる人々が、あまり負荷を感じていないという、一見すると不合理な現象について説明がつくでしょう。つまり、そういった人々の生活は、非常に安定しているのです。だって、制度が正常に機能している限りは、それ以下の生活になるということはあり得ないんですからね。例えば、小作人のことを考えてみましょう。異常気象によって大飢饉が起こり、ろくに作物が取れないといった状況が起こらない限りは、まあ生活していける。しかも、制度上は、それ以下の立場に貶められる可能性もない。もともと土地を持っていない、何も所有していないのだから、何かを奪われる心配もない。

「最も……以前にも申し上げたように、人間の黎明期においても異常気象は頻繁に起きたわけですし、ということは、制度が正常に機能しなくなるという事態も頻繁に起こったわけですが。とはいえ、そういうことが起こった場合、小作人のような階級にいる人々は、負荷を感じる前に死んでしまうわけです。もともとが栄養失調状態である上に、食料の備蓄もないものですから、飢饉が起こったらそこでThe Endなんですよ。だから、負荷を感じている暇なんてないし、「辺境」に逃避する余裕もない。

「そう、「辺境」に行くことが出来るような人々は、ある程度の余裕がある人々なんです。少なくとも、制度的な負荷を感じることが出来る程度には高い階級に所属していないといけない。何かを失って不安定な状態に陥ることが出来る程度には、財産を有していないといけないんです。そんなわけで、「辺境」に所属する人々は……というか、はっきりといってしまえば、ダコイティになるような人々は。比較的、社会的地位が高いとされるヴァルナ出身であるということが多いんです。

「まあ、大体が戦士階級ですね。利益対立だとか権力闘争だとかなんらかの理由で栄光を失ってしまって、戦士階級から追放された。そして、集団にとどまっていることも出来なくなってしまった。そういう感じです。それから、土地を失ってしまった農民階級の人々だとか……そうそう、一番多いのは神官階級の方々ですね。第二次神人間大戦によって、アーガミパータでもかなりの数のゼティウス形而上体が殺害されました。それによって、神官としての役割を失ってしまった人々がダコイティになったというケースが、最も一般的なのではないでしょうか。

「もちろん例外はありますよ。例えば、例外と呼ぶにはあまりにも大き過ぎる割合を占めるのが女性です。女性に関しては、高い階級に所属している人々よりも低い階級に所属している人々の方が圧倒的にダコイティになりやすい。例えば、ジュットゥさんのお母さんだった方も、やはり被差別的なジャーティに所属されていた方でした。幼児婚の慣習に従って、非常に若い年齢で嫁ぎ先に連れていかれ――何歳だったのかということは分かりませんが少なくとも初潮が来る前でしょうね――そして、虐待を受けた。まあ、よくあることといえばよくあることですがね。とにかく、暫くの間、虐待を受け続けて。妊娠しては流産し、流産しては妊娠するといったようなことを繰り返させられた。

「そんな日々が続いて……ある時、また妊娠して。これ以上流産してしまったらもう妊娠することは出来ないということを直感したジュットゥさんのお母さんは、とうとうその家から逃げ出すことに決めたそうです。深夜、家にいる皆が寝静まったころに、自分のことを縛り付けていたロープを歯で噛み切って。そして、近くにあった森の中に逃げ込んだ。私は、直接お話を聞いたわけではないので分からないのですが……その時は、もう、トラに殺されるなら殺される、ノスフェラトゥに殺されるなら殺される、それでも構わないと思っていたのでしょう。というか、そこまで頭が回らなかったか。とにもかくにも、子供のことを守らなくてはいけない。そして、この家にいたままでは、子供は確実に死んでしまう。そういう思いから、一種のアサイラムとして機能していた森に逃げ込んで……幸運なことに、ミズ・ゴーヴィンダと出会うことが出来た。

「まあ、そういった詳細な事例についてはここでは置いておきましょう。とにかく、私がいいたいのは、ダコイティと呼ばれる種類の方々が、非常に原初的な方法としての遊動民ではないということです。というか、それは、本来的には遊動民ではない。定住民的な方法に遊動民的な方法を無理やり融合させようとする中で、どうしても発生してしまう矛盾を解消するために、非常に露骨な形で遊動民を擬制しているところの、制度的なアサイラムであるということなんです。

「そういった奇妙に歪んだ形での虚像。生物学的な要請とは異なったところの、いわば社会的な脅迫によって発生した制度というのは、往々にして、もともと存在していた制度をより原理的に再現するものです。ここでいう原理的というのは、人間にとっては些細な迷信だとか無意味な慣習だとかであるとしか思えないディテールの部分、しかしながら、それでいて実際には制度を正常に機能させるためには重要な部分を、全部排除してしまって。制度を、非常に単純かつ極端な形で受容してしまうという意味ですが……ダコイティもまさにそのケースに当て嵌まるでしょう。

「例えばフエラ・カスタについてですが……砂流原さんは、このことについてデニーさんから聞いていますかね? つまり、ダコイティのほとんどはヨガシュ族であるのに。それどころか、十一人いるダイモニカスの長老達のうち、十人までもがヨガシュ族であるというのに。それにも拘わらず、なぜゼニグ族のダイモニカスが、つまりミズ・ゴーヴィンダがリーダーに祭り上げられたのか。あはは、そのご様子だと、ある程度は聞いていらっしゃるみたいですね。そうです、その通り。ダコイティの中では、ヴァルナ及びジャーティが、厳格に守られているからです。

「だから、ヴァルナ制度の中でヨガシュ族より上位に位置しているゼニグ族が、ダコイティにおいても最も高い階級に位置する者として扱われているというわけです。こういった差別的な扱いはダコイティにおいてはかなり徹底しています。下層のカスタに所属していた人々は下働きをさせられて、上層のカスタに所属していた人々は指導的な立場を任される。例えば、下層カスタの下働きが、上層カスタのリーダーを殺して、自分がリーダーであると主張したケースもありはしますが……そういったケースにおいては、ほとんど確実に、ダコティという集団は消滅してしまいます。なぜなら、上層カスタに所属している人々は下層カスタの人間に従うことを絶対に拒否するため、上層カスタの人々と下層カスタの人々との間で激しい抗争が起こってしまうからです。結局は、構成員のほとんどが死ぬか逃げるかしてしまうということですね。

「さて、ここでよくよく考えてみて頂きたいのですが、ダコイティにおける、こういったフエラ・カスタの徹底には、一体どんな意味があるのでしょうか? 例えば……中央におけるフエラ・カスタ、特にジャーティには、階級的な差別化を図るという意味だけではなく、職業としての意味があります。あくまでも一応ではありますが、この家系に生まれた人々には、代々これこれという職業に就いてきた歴史がある。だから、次に生まれる世代についても、これこれという職業に就くべきだ。ここには、ある意味で、定住民的な論理が働いています。もちろん、かなり歪んだ形での論理、物語によって歪められた論理ではありますが……つまり、私が言いたいのは、ここには栄光以外のものがあるということです。そこには、必然的に決定されるところの協力の原理が働いている。まあ、あくまでも一応はということですがね。

「一方で、ダコイティの集団に働いているフエラ・カスタにおいては……まず指摘しなければいけないのは、職業的な意味合いが限りなく薄れているということです。例えば、全てのダコイティは清掃を必要としていますが、とはいえ、全てのダコイティに清掃ジャーティの人間が所属しているというわけではありません。ということは、被差別的なジャーティに所属しているというだけで、本来のジャーティとは関わりのない、とはいえ同じように被差別的なジャーティがやるべき仕事に従事させられるということもあるということになる。

「私が何を言いたいのかといえば……つまり、ダコイティの集団においては、フエラ・カスタというものは、その性質を変えてしまっているということです、そこにあった「必然的な協力」は、その性質を変えて「必然的な栄光」になってしまっている。その結果として、ダコイティは、原初的な方法としての遊動民よりも、一層強力な形で栄光の原理が働くことになってしまっている。

「ダコイティ的な遊動民、つまりアサイラムとしての遊動民は、このような「必然としての栄光」から逃れることが出来ません。これは、順を追って考えていけばよくよく理解出来ることですが……まず、アサイラムとしての遊動民は、原初的な遊動民と同じように、常に危機的な状態に置かれています。操作可能性が比較的高い食料の供給先があるわけではなく、その上、一人一人の労働生産性が限りなく低いからです。ということは、どうしても支配の構造が必要となってくる。この場合に、もちろんゼロからその方法を作り出すことも可能ですが、とはいえ、それはあまりにも負担が大き過ぎるわけです。ゼロから支配を作り出すためには、ある一人の構成員が、全ての構成員に対して、自分が絶対的な強者であるということを示さなくてはいけない。しかしながら、そんなことを示すためには、かなりの労力と時間とが必要であって、その労力と時間との浪費のゆえに、集団が疲弊してしまう。

「ということは、集団的な観点から見るとそういうやり方は他のやり方がある場合には極力避けたいわけです。そして、アサイラム的な遊動民にはその別のやり方がある。つまり、自分達が所属している関係知性の中にもともと存在していた栄光を、そのまま、支配者を照らし出すスポットライトとして使用するというやり方です。このやり方であれば、不要な闘争を経ずとも集団内部の紐帯を作り上げることが出来る。あはは、もともと……それが人間の集団である限り、支配者なんていうのは誰がなっても同じようなものですからね。そうだとするならば、多少非合理であっても、集団の全体が疲弊するやり方よりも、遥かに望ましいやり方であるといえないこともないでしょう。

「栄光、そう、栄光なんですよ。ダコイティを律している法。その根源を規定している数式。それは栄光なんです。その点で、私達が従っている構造とダコイティが従っている構造とは何も違うところがないんです。ダコイティも、やはり公的領域における強欲さによって行動を支配されている。しかも……私達よりも、少しばかり原理主義的な形でね。

「さてと、ここまでが。

「前提となるお話です。

「それでは、次に具体的なお話をすることにしましょう。つまり、ダコイティ全般についての話ではなく、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティという個別のケースについて話をしていくということです。砂流原さんは、デニーさんに、どこまで説明して貰ってるんですかね? えーと……あはは、まあいいか。一から話していきましょう。

「そもそもアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、ダクシナ語圏に存在していた幾つかの神国において、そのフエラ・カスタの制度に適合出来ず、そこから逃避してきた人々によって作り出された集団であるといわれています。いわれていますというのは……アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、ほら、ああいう集団ですから。文字によって残された記録というのが全くないんですよ。それにシータ・ゴーヴィンデーサの記録も無教徒によってほとんど破棄されてしまいましたからね。今となっては、本当のことは誰にも分からないんです。

「ただ、私の推測だと……恐らくですが、本当の起源はシータ・ゴーヴィンデーサの建国にまで遡ると思います。ああーっと、すみません。その様子だと、シータ・ゴーヴィンデーサについてのお話はデニーさんから聞いていないみたいですね。シータ・ゴーヴィンデーサというのは、ダクシナ語圏にまで攻め込んできたゼニグ族のダイモニカスが建国したところの一つの魔王国です。そこにもともと存在していたヨガシュ族の神国を滅ぼして、その支配地域を支配したとされているのですが……その際に滅ぼされたヨガシュ族の神国の生き残りがアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティになったのではないかと、私はそう考えているわけです。

「現在のアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティを見るとそうは思えないかもしれないですが、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティもやはりダコイティであったわけです。つまり、共通語でいえば盗賊ということですね。現在のように、支配者への抵抗を明確に示している勢力、いわば神国主義テロリストのような勢力になる前には、ごくごく普通のCriminal Tribesだったわけです。あはは、どうでもいいことなんですけれどね、このCriminal Tribesという語は、一般的には犯罪部族と訳されることが多いのですが……実際はもう少し広い意味で使われています。このCriminalという語は、語源的にはホビット語のcrimenをもとにしているのですが、それはもともとは「ふるいにかけられた者」という意味でした。それを前提に考えると、Criminal Tribesというのは「中央というふるいにかけられた辺境の部族」という意味を持つことになり、ここまで私達がしてきた議論を、まさに証明するような言葉であるということが出来るわけです。

「まあ、それはそれとして。当時のアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティは、アウトサイダーと呼ばれている人々がやるべきことの全てに手を染めていました。つまり……神国と神国との間で交易の役割を担うこと。戦争になった時には、傭兵として各勢力の軍事的な下請けの役割を担うこと。それだけでなく、旅をする人々を襲ったり、時には中央の末端部分を襲ったりすることによって……強盗に強姦、殺人、誘拐、脅迫、そういったあらゆる犯罪行為を行っていたということです。それが今のような秩序立ったテロ組織に変質するきっかけとなったのが、以前にも申し上げたスーカラマッダヴァです。あはは、覚えていらっしゃいますか? 人間からすれば遥か昔、第二次神人間大戦以前にアビラティ諸島からやってきて、ダクシナ語圏を侵略した無教徒の主権集団ですよ。

「当時、ダクシナ語圏で最も強大な勢力を誇っていたのが……シータ・ゴーヴィンデーサでした。あはは、そうそう、魔王国のシータ・ゴーヴィンデーサです。砂流原さんは不思議に思われるでしょうね。神国だの龍国だのが乱立していたはずのアーガミパータで、どうして、たかだか王レベルのダイモニカスが支配的な力を持つことが出来たのか。その理由こそがカーマデーヌだったんですよ。シータ・ゴーヴィンデーサを建国したダイモニカスは、スナイシャク特異点であるカーマデーヌとの特殊な関係性を築くことに成功していました。なぜそのようなことが可能になったのか、そもそもどこでスナイシャク特異点を発見したのか。そういったことは、記録が破棄されてしまったので、一切分からないのですがね。とにかく、スナイシャク特異点の力は、あまりにも偉大なものでした。その力は神をも龍をも超えるものであって、そのダイモニカスは、ダクシナ語圏において、最大の国家を築くことに成功したわけです。そして、その偉大なる力に敬意を表して……その王の一族は、牛飼いという意味を表す言葉で呼ばれるようになりました。即ち、その名前はゴーヴィンダ。」

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