第二部プルガトリオ #36

 きらきらと。

 光る。

 たくさんの。

 鏡の破片に。

 落ちて、いく。

 ような。

 ああ。

 世界が。

 黒く。

 黒く。

 虚ろに。

 きれい。

 夜のカーラプーラは……昼の光の単純なvaingloryの中で現れるそれとは全く違う相貌を見せていた。まず違うのは、これは本当に特筆すべきことだと思うのだが、その温度だ。真昼は、あの禍々しいほどに暴虐熾灼なアーガミパータの太陽、永遠の時を眠りによって貪るヒラニヤ・アンダが夜の底に沈んでから、それを感じ始めていたのではあったが。その時から、この不毛の沙漠は、凍り付いた宝石の中に閉じ込められ始めたのかのようにして、急速に温度の低下を開始していた。ファセット。真昼の姿を映し出す、氷のように冷たい、数々のファセット。そう、それは、あらゆる生き物が死に絶えた世界に特有の、絶対的な冷たさであった。そして、そんな冷たさの中で……その都市は光り輝いていた。きらきらと、クリスタルガラスで出来たペーパーウエイトの中に閉じ込められた、ありきたりなほどに冷酷な無関心のように、美しく、美しく、光り輝いていた。

 数を数える気にもならないほどに、暗く閉じ込められた夜空に向かって指先を伸ばしている、真聖さを去勢された讃美歌のようなビルディング達。それらの全てが、不可思議で奇妙な光によって、他人事のように輝いている。五十階建ての驕奢な典麗は、その一つ一つが、そしてそれらの全体が、誰も見たことのない夢であった。光は三つの色によって成り立っているといわれている。青と、赤と、緑と、この三色によって。けれども、真昼の目の前に広がる、全ての光が……真昼には、信じられないような振動によって、その粒子の波動をtripudiumさせている。勘違いして欲しくないのだが、これは別に比喩的な表現ではない。それらの光は、本当に踊っていたのだ。くるくると、ビルディングの様々なところで、あらゆる極子構造から自由になった基本子のように踊っていた。

 つまり、それらの光は、電気によって光る光ではなく魔法によって光る光であったということだ。カーラプーラのほとんどのエネルギーはカリ・ユガの持つセミフォルテアによって賄われている。セミフォルテア、わざわざ科学的な力である電気に変換して使用するよりも、魔学的な力として使った方が遥かに効率的であるということだ。

 赤よりも高きところにある色。

 紫よりも低きところにある色。

 魔法の光は……もちろん、視覚でそれを見ることも出来るのではあったが。ただし、それは、本来的には、肉体における眼球で感覚するものではなく、人間の精神力によって理解するべきものだ。可視のスペクトラムの外にある色、本来ならば人間の目では捉え切れないはずの光の波長が、その人間の体内を満たしている観念のフィールドを直接震わせて。それによって、真昼はその色を認識しているのだろう。

 灰色の壁、人の身によってはとても超えられないような、コンクリートの壁の内側。ただただ夜の音が質量のある無明のように泥濘している沙漠で、その器の中だけが、燦然と輝く栄冠のゆえに華やかに露呈している。もちろん、昼においても、その都市は暴力的なほどに荒々しい剥き出しの信仰であったが。夜になり、その信仰は既に、破滅そのものであるかのごとく力強い一つの洗礼のようなものとなっていた。

 そう、間違いない。それは冠だ。何者かに戴冠されるべくこの世界に映し出されたところの一つの冠。もちろん、それは鉛の冠ではない。金の冠である。天堂の黄金を溶かして作り出されたかのように、吐き気がするほどの恍惚によって光り輝く光が。凄まじく荒れ狂うマラーナ・シュトラウマズとして、都市の全体を飲み干すほどの渦巻を作り出している。

 そして、その渦巻の中で、たくさんの、たくさんの、光で出来た真聖な象徴が、まるで抑えることの出来ない癲癇の発作のように舞踏している。例えば、そういった象徴を一つ描いてみるとすれば……それは、魔法の光で形作られた舞龍だ。色とりどりの羽、紅玉のような赤、碧玉のような青、翠玉のような緑、それらの色彩が、玻璃のように輝いて、瑪瑙のように入り混じって。そのようにして彩られた羽を全身に纏いながら、舞龍は、舞龍は、舞龍は、何百匹もの舞龍の形をした光は、カーラプーラの上でのたうち回るみたいにして踊っていた。

 それ以外にも、様々な生き物が……生き物の形をした光が。ちょうど、ビルディングに刻まれていたあれらの彫刻の群れのようにして、都市という空間の全てに生々しい光輝として刻まれていた。例えば、都市を覆うコンクリートの壁には、巨大なガジャラチャの姿をした光。何頭も何頭も、コンクリートの壁を覆い尽くすほどの数。灰の中に埋めた灰色の薔薇のように輝きながら、大きく大きく、四列の足のうちの、前側の二列の足を空に向かって掲げている。あるいは、その街路とその街路と、都市に巡らされたヴァスキュラー・システムを、当然の支配者みたいにして照らし出しているのは、ユニコーンの形をした光の群れだ。堂々と、それでいて街路を走る何者も追いつけないほどの速度によって、そこら中を走り回っている。それから……黄金の渦巻から、時折、その輝かしい光から、うっとりと芽吹き。金糸と金糸と、柔らかく織り成して、緩やかに束ねて。そこここで、ゆらゆらと花開いている姿は、間違いなくレーグートの姿であった。

 あまりにも。

 不必要なほどに。

 煌びやかな。

 光の、奇跡。

 恐らくは、そういった光にはなんの意味もないのだろう。そう、それこそがアーガミパータなのだから。ただただ、それらの光は、都市の姿をより壮麗に・より絢爛に見せるためだけのものだ。美しいということに意味など必要であるか? 生命が死んでいく様が美しいように、世界が壊れていく様が美しいように、むしろ、それは無意味であるからこそ美しいのだ。

 そして、そういった生物の姿・生物の形。美しい光の真聖さの中でも、最も驚異的というべきは……やはり、この場所の絶対的な象徴であるところのそれ。あらゆる領旗に・あらゆる領柱に描かれているところの形象……四つの首を持つ蛇。

 四つの首を持つ蛇? いや、少し違うかもしれない。それは、あまりにも巨大な四つの蛇の首であると表現した方がより正確であろう。その光、全体は、あまりにも大き過ぎるがゆえに。この都市の中には収まり切らないようだったから。

 時折……都市のどこかから、「それ」が現れる。まるでこの世界を捻じ曲げているかのような、永遠の暗黒へと向かって沈み込んでいく光。ウルトラ・ヴァイオレットの光によって形作られた、絶対的な崇拝であり・絶対的な恐怖であり、その両方であるところの、蛇の頭部。威嚇行動というよりは、むしろその優美さのゆえに首筋のフードを広げ、ゆっくりと鎌首を擡げてくる、コルブラ・エラピデアの姿だ。

 「それ」がどれほどの大きさであるのかということを説明するのは、なかなかに難しいことだ。あまりにも、馬鹿みたいな巨大さであるために、かえって想像がつきにくいように思われる。ただでさえ大きなカーラプーラの摩天楼、その幾つも幾つもが、軽々と覆い尽くされてしまうほどの光の柱。それが蛇の首の形をしているということだ。そして、その蛇は、他の光を次々に食らっていくのだ。ガジャラチャでさえも、その蛇の大きさからすれば、あまりにも小さい象の子供に過ぎない。舞龍、ユニコーン、レーグート、そういった全ての生き物が、そういった全ての光が、次々に、その蛇によって食われていく様。

 それは、まるで……都市の一部の区画、その空間を、丸ごと飲み込んでしまうかのようだった。凄まじく口を開いた「それ」は、都市の底の世界から現れてきたかのように、大地から、いきなり現れてきて。「それ」が通過する経路にある全てのものを食らい尽くすみたいな態度で、天に向かって首を伸ばしていく。そして、やがて……その顔を、都市の外側へと向ける。

 があっと開いた口は、次元を引き裂いて、その傷口から滴ってくる血液のような色をしていて。その蛇は、その口から、光の洪水を吐き出す。燃え盛るかのごとき熱量を持つインフラ・レッドが、夜の静けささえも焼き尽くすようにして、都市の外側の荒野に向かって嘔吐されるのだ。

 一つの蛇の頭。

 二つの蛇の頭。

 三つの蛇の頭。

 四つの蛇の頭。

 そういった蛇の首が、四つの場所、四つの方向に、同時に現れる。それから、夜の闇を焼いた後に、やはりこれも同時に、都市の地底へと戻っていく。それが、何度も何度も繰り返されるのだ……様々な場所で、蛇の首は現れ、そして、禍々しい光によって、夜の安寧を惨たらしく殺していく。

 もちろん、そういった光、人間の肉体が知ることを想定していないところの光は、完全に、人間にとって有害なものだ。特に、蛇の姿を形作っているところのウルトラ・ヴァイオレットの光は、魔学的な放射線ほどの波長の短さというわけではないが、それでも、相当のエネルギーを周囲に撒き散らしている。こういったエネルギーを、訪れる夜のごとに、そのスナイシャクに浴び続けたのだとすれば。霊的な基底構造が傷付けられて、その生命にどんな異常が現れないとも限らないだろう。

 しかしながら、それがどうしたというのだろう。所詮は人間の生命に過ぎないのだ。そのようなものに価値はない、少なくとも、夜を照らし出すこの光の舞踏と、人間の生命と、そのどちらが価値あるものであるかということは、分かり切ったことではないか? だから、カーラプーラは、毎夜毎夜、これほどまでに美しく、これほどまでに危険な、パレードを催すというわけだ。

 美しい。

 美しい。

 ナイトライトの。

 夜。

 しかしながら、そんなカーラプーラの光景の中で、ただ一か所だけ、そういった他の場所とは全く違う温度を感じる場所があった。それは、おそらく零落ではないのであろうが……どちらかといえば、晴れやかな眩遊というよりも、むしろ絶対零度の停滞といった方が正しいほどの静寂だ。

 静寂、そう、それは静寂だ。あるいは、この世界にぽっかりと口を開いた空虚。人間の頭蓋骨を軽やかに切り開いて、その中に詰め込まれていた玩具をぶちまけたような、カーラプーラの光のdominatioの中で。ただただその場所だけが、ひどく当たり前の高潔と、それによって導き出されたところの退屈なprofanareであるかのように、絶対的な夜の黒……絶対的な夜のカーラの底へと沈み込んでいる。

 カーラ、それは、バーンジャヴァ語ではたくさんの意味を持つ言葉だ。ここまでは、主に「洪龍」を表す際に使ってきたのではあるが。その言葉は、例えば「黒」であるとか……あるいは「時間」という意味さえも持つ言葉である。その場所は、時間というものが止まってしまい、そのために、音も光もそのエネルギーを完全に喪失してしまったかのように。カーラ、カーラ、カーラ、それは黒い色をしている。

 その場所とはどこか? それは、当然ながらカーラのための場所である。洪龍のための場所、氾濫として規定しうるほどの体積を持つ水槽、あまりにも聖なるかな、かくまでも洸大である、「慈悲の貯水池」。つまるところ、その黒に塗り潰されているのは、マイトリー・サラスであった。

 とはいえ、正確にいうと、マイトリー・サラスの全体であるというわけではない。昼の間に見た時には気が付かなかったのだけれど、マイトリー・サラスの全体は、どうやら二つの部分に分かれているみたいだ。その楕円の外円の部分と、それに内円の部分とである。これは以前も説明したことであるが、マイトリー・サラスの中心には一つの岩山が孤島のようにそこにある。湖の大きさの五分の一程度、四方からは、蛇の首を模した、目を見張るような大きさの彫刻が突き出ていて。そして、その四つの彫刻から、カーラプーラの全体を、それどろかカリ・ユガ龍王領の全体を潤すほどの量の水が流れ出ている。

 そして……その岩山に向かって。より詳しくいうのであれば、四つの彫刻の、それぞれ中間の部分に向かって。周囲の湖岸から橋らしきものが伸びているのだ。その楕円形の結果として、橋の長さは東西南北でそれぞれ変わってくるのであるが、東のものと西のものとがそれぞれ四エレフキュビト程度、南のものと北のものとがそれぞれ一.五エレフキュビト程度。その橋の部分は光によって彩られている。

 とはいっても、人間という混沌をそのまま光にして爆発させたような他の部分の澎湃、さんざめく色のダンスとは異なっていて。橋に触れている光の属性は、どちらかといえば凍り付いた死体の、密やかな脊髄のようなものだった。それは、つまり……真聖なのだ。あたかも聖無知を拝領する乙女のごとく、そして、その乙女の機械仕掛けの呼吸のごとく。橋の光は、恐ろしいほどに静まり返った透徹なのであった。

 生命体的な生起性を感じないような、あたかも、生命という汚穢によって損なわれていないかのような。白と呼ぶことさえ浅ましく思えるほどの透明な光。それによって、湖岸より、岩山に至る直前の部分までが照らし出されている。

 それから……東西の橋。南北の橋よりも長い、四エレフキュビト程度の長さの橋。その橋の中間の辺り、少しだけ湖岸寄りの部分に、そういった光が塊となっている部分があった。例えるならば、ナーディにおけるチャクラのごとく。東側に一つ、西側に一つ、一エレフキュビト四方程度の大きさで、光が集中していたということだ。それらの光は、夜という今の時間帯に、しかもこの距離から見ただけでは、なんなのかということをはっきりと理解することは出来なかったが。恐らくは、何かしらの建物が湖の上に建てられているのだろうと思われた。

 さて、こういった四基の橋、あるいは建物らしき二つの光の塊が、先ほど定義したところの外円の部分である。この部分は、確かに死に絶えた透明といえば、そういえないこともないのであるが。とはいえ、それは、静寂というわけではない。人間にとって死というものは一種の凍傷であるといえなくもないのであるが、それでも、所詮、死は死に過ぎないのであって。それはカーラではない。絶望的な静寂ではないのだ。

 遠くて。

 冷たい。

 夜の夜。

 まるで、一つの蝋燭のように。

 最後の、最後の希望が。

 ふっと吹き消された夜。

 それが、そこにはあった。完全なる闇、完全なる黒、一筋の光さえ差し込むことがなく、あらゆるエネルギーが停滞した、客観的な静寂が。内縁の部分、つまりはカリ・ユガ龍王領の全域にわたって形而上的な方法によってもたらされるところの慈悲が発生するところ……あの、岩山。

 要するに、岩山の部分はいかなる種類の光によっても照らされていなかったということだ。そこにはただ夜があった。夜の夜があった。黒く沈み込む静寂、何者によっても侵されることのない、形而上的な意味における真聖。それは……あるいは、きらきらと輝く黒い鏡の破片であった。

 破片、破片……誰かの手のひらの中で、粉々に砕かれて。湖の上に撒き散らされた黒い鏡の破片であった。周囲の光を反射して、湖面は時折光る。さざ波が立つたびに、ばらばらに壊れてしまったかのように、あちらで、こちらで、光を発する。それは、もう既に死んでしまった者の悲鳴だ。

 遠いところにある。それに、とても冷たい。周囲の栄光の中で、その部分だけが運命のように冷たい。誰もが踊っている……しかし、その踊りは、とてもsurfaceだ。あの光が、この光が。黄色の光、青い光、赤い光、それに緑色を叫びたてるようなあの光。全ての光が、まるで、この世界はvanity fairであるとでもいうかのようにして、仮面の舞踏を踊っている。

 そんな中で、真昼だけが仮面をつけていないのだ。あの光の中に入ることが出来ないでいるのだ。夜の夜、真昼は、夜の夜にいる。美しくも虚ろな栄光から締め出されて。ただ一人だけで、孤独の領域にいる。カーラプーラの外側で、マコトの運転するフライスの上に乗って。

 確かに……腕の中にはマラーがいた。しかしながら、それになんの意味があるのだろうか? マラーは、既に眠ってしまっている。いくら抱き締めても、いくらその温度を感じていても。眠っている生き物と、眠っていない生き物とは、分かり合うことが出来ないのだ。いや、それ以前の問題として。そもそも、真昼には、マラーの使う言葉も分からないのだ。それに、確かに……目の前にはマコトがいる。とはいえ、やはり、それにはなんの意味もないだろう。なぜなら、マコトは、真昼の方を向いていないのだから。マコトは、前を向いている。vanity fair、あの栄光を、いつものへらへらとした笑顔で見ている。マコトは、決して、あの舞踏会に参加することはないだろう。けれども、マコトは、誰よりも美しい仮面をつけてそこにいる。

 真昼だけが……真昼だけが、その外側にいた。あるいは、その、最も中心の場所にいた。どちらも同じ場所である。どちらにしても、栄光ではない場所。それは、一般的には運命と呼ばれている場所。誰からも見放されていて、誰からも見捨てられていて。というか、誰かから理解されたと感じることが出来ない誰かが、最後の最後に辿り着くところ。

 落ちていく、落ちていく、真昼は、そんなところに落ちていくように感じていた。カーラの真ん中に、静かに静かに立ち止まった黒い色に。あの岩山があるところ、形而上的な闇……あるいは、黒い鏡の破片の中に。

 真昼は知っていた。もう、この場所に光がないということを。全ての光、真昼がその心臓の内側に大切に大切に抱き締めていたところの、本物の光であった光は。既に、マコトによって冗談半分に吹き消されていた。

 残されたのは、道化のように空しく騒ぎまわる栄光と。それに、その光を反射する黒い鏡の破片だけなのだ。真昼の目の前には、まさに、それそのものの光景が広がっていた。運命と、それを囲む栄光と。これは非常に頭の悪い例えになってしまうが……それは、まるで、一つのドーナツのように見えた。真ん中だけが空虚だ、そして、その周囲は、表面的には美しくさんざめくところの、金の光が渦巻いている。

 あるいは。

 それは。

 ああ。

 そう。

 鉛ではなく。

 金で出来た。

 冠。

 さて、そのようなわけで。クソ長ったらしい上に、何が言いたいのかいまいちよく分からない、人生を生きる上で全く役に立たないどころか、かえって有害でさえあるところの、時間の無駄でしかない話を、マコトが終えた時には。マコトと、それに真昼とマラーと、三人が乗ったフライスは、もうカーラプーラの間近にまで近付いていた。

 マコトは……恐らくは、ご親切にもカーラプーラの夜景を見せてあげようとしたのだろう。少し前から、低空飛行であった高度、徐々に徐々に上げていって、今ではカーラプーラの全体が見渡せるほど高いところを飛行していた。だからこそ真昼は、つい先ほど描写したような光と闇との光景を目に入れることが出来ていたということだ。

 確かに、カーラプーラの夜景は、アーガミパータを観光するのならば(アーガミパータを観光したいと思う人間はよほどの変わり者だと思うが)絶対に外すことの出来ないスポットの一つであろう。これほどまでに奔放な光景を見られる場所は、少なくとも、ナシマホウ界では数えるほどしか存在していないはずだ。

 沙漠の夜を照らし出す、都市一つ分のイルミネーション。しかも、そのイルミネーションには美しくあること以外のなんの意味もないのだ。いや、まあ、もしかしたら、カーラプーラを襲撃しようとする外敵に対する威嚇的な意味合いもあるのかもしれないが。ただ、そんな意味合いは無視していいほど僅かである。

 アーガミパータに住む生き物は、大体において、こういうのが好きなのだ。とにかく派手で、原色で、ごちゃごちゃとしていて、ぎらぎらとしていて、本能を直接刺激するような、プリミティブの感覚。ナシマホウ界の人間達が洗練されていないとして退けてしまったような、生命そのもののめちゃくちゃさ。だから、カーラプーラの夜の内側では。美しさ、というか、美しさと呼ぶことさえ躊躇われるような色彩の疾風怒濤が、まるでシュガーハイの子供達のように踊り狂っているのだ。

 それは、例えば……EUだとか、そういった人間至上主義諸国におけるナイトライトとは性質を全く異にしている。そういう国々におけるナイトライトは、いわば資本主義的なものだ。あるいは、もう少し分かりやすいいい方をするのならば、釣り針に魚を引き寄せるための撒き餌のようなものである。それは、人々を、消費空間に引き寄せるための誘因材料に過ぎない。

 しかしながら、カーラプーラのそれは、神国主義的なものである。それは永遠に続く祝祭であって、ある種の真聖が、最も本能的な形で露呈したものなのだ。だからこそ……その光には、その色には、資本主義的なナイトライトが持つ、ある種の欺瞞のような違和感は存在していない。ただただ傲慢なほどの無邪気さで、諦めにも似た能天気さで、生命を祝福しているのだ。

 まあ、とはいえ、それがいくら生命に対する祝福であったとしても……空を飛ぶ者にとっては、なんというか、はっきりいって邪魔なものだ。これほどまでにダダぎつい、目を焼くような光。というか、インフラ・レッドの光だとかウルトラ・ヴァイオレットの光だとかに至っては、実際に目を焼くところの光なのであるが。とにもかくにも、そんな光が視界の邪魔をして、まともに飛行することさえ出来ない。

 地上を歩いている者達は、まだましだ。光り輝いているのは上空の空間なのであって、都市の低層は、確かに明るいとはいえ、直接的に光による襲撃を受けているわけではないから。けれども、カーラプーラの上空を飛んでいる、グラディバーンだとかグリュプスだとかは、光そのものによって攻撃を受けている。

 例えば舞龍の形をした光だとか、そういったものが大きな口を開けて、グリュプスのタクシーを飲み込んで。飲み込まれたグリュプスの方は、いかにも迷惑そうにその光の横腹を突き破って出てくる。グリュプスのタクシーの価格は定価ではなく、交渉次第でいかようにも変わってくるものではあるが。それでも、昼間価格の平均と夜間価格の平均とが二倍近く変わってくるというのも、これで納得出来るというものである。

 年間に、必ず、数十件の事故が起きる。カーラプーラの夜に慣れていない飛行者が、イルミネーションに目を眩まされて、墜落したりだとか衝突したりだとか、そういうたぐいの事故が。そもそも、まともに飛行出来るわけがないのだ。こんなめちゃくちゃな光の中で。目を開けていられるはずがない。

 だから、カーラプーラの夜、このイルミネーションの中を飛行するためには、その魔学的な光の影響を防ぐために、それ専用のゴーグルが必要になってくる。と、いうわけで……マコトは、クソ長ったらしい上に(中略)時間の無駄でしかない話を終えると。どこからともなく、目の全体を覆うような、ちょっと大袈裟ではないかと思うくらいに大きなゴーグルを取り出すと。少しの間ハンドルから手を放して、それをつけたのだった。

 話。

 話。

 話は終わった。

 そう、話は終わったのだ。実際のところは、まだ、完全に終わったというわけではなく。なんというか、And Another Thingというか、ちょっとした残響のようなものが残っていないわけではないが。けれども、この議論は、それが議論と呼べるものであるならばの話であるが、その本質において終了した。真昼は負けた。決定的に敗北した。マコトの口から吐き出されたところの「虚偽」によって、「正しさ」であったはずのその瞬間から叩き落された。真昼は、もう二度と……その高みまで登ることは出来ないだろう。真昼は、間違いによって間違えてしまった。マコトの「虚偽」によって「正しさ」を手放してしまった。その間違いは、二度と修正することは出来ない。

 その通り。マコトが、たった今口にしたことの全て。それは「反論」ではない。それは、ただの「虚偽」だ。以前にも少し触れたことであるが、本来的な「反論」とは、「闘争」ではなく「協力」であるべきなのだ。なぜなら、議論の真の目的とは、議論の相手に勝利することではなく、「正しさ」というものに少しでも近付こうとする営為であるから。

 しかしながら、マコトは、そういったことには一切興味がない。「正しさ」などというものには一切興味がない。ただただ、面白半分に、目の前の少女を粉々に砕いてしまいたかっただけの話なのだ。だから、マコトが口にしたのは、決して「反論」などと呼べる代物ではなかったのである。

 マコトの話を真面目に聞いていた人間がいたのであれば――まあ、そんな人間はこの世界に真昼しかいなかったであろうが――マコトの話に、基本的な破綻が、幾つも幾つもあったことに気が付くだろう。そういったことは、今までのマコトの話にも、往々にしてあったことだが。今回のそれはより一層ひどかった。今までのそれは、せいぜいが矛盾といったところだ。だが、今回のそれは。論理的を手放しているといっていいくらいの破綻なのだ。

 つまり、マコトは、議論をずらし続けたのだ。真昼がようやく辿り着いた場所、本当の「正しさ」。議論そのものではなく、その目的地こそが重要なのであるという場所から。次第に、次第に、真昼のことを引き摺りおろしていった。そして、とうとう、絶対的な闇の中に真昼をおびき寄せたのだ。迷妄と誤謬と……それに、罪悪感とで形作られた闇の中に。

 そう、これこそが。これこそがマコトの最も巧妙なところなのである。真昼以外の人間が、もし仮に、そんなことは万に一つもないだろうが、よほどの奇跡が起こったとして、マコトの話を最初から最後まできちんと聞いていたのならば。それがお話にならないほどに無意味な戯言に過ぎないということに気が付くだろう。けれども、真昼は違う。この世界で、たった一人、真昼だけはそう受け取らない。

 マコトは、気が付いていた。ほとんど本能的とさえいえるあの能力、ちょっとした挙措だとか些細な一言だとかによって、非常に正確に、相手の心情のモデル・タイプを組み立てることが出来るあの能力によって気が付いていた。昨日起こったのだとデニーが言っていた、ASKによるアヴィアダヴ・コンダ・ダコイティの殲滅作戦について。真昼が、ちょっと異常と思えるくらいの、罪悪感を抱いているということに。

 さすがに、それがなぜなのかというところまでは分からなかったが。まあ、大方は……戦闘の最中、このマラーという少女をASKの人質に取られでもしたのだろう。ダコイティかこの少女かを選択しなければいけなくなった時に、その選択をすることが出来ず、全てをデニーに任せた。そして、結局のところ、このような結末になってしまい、それが自分のせいだと考えている。よくあることだ、大したことではない。

 ただ。そうはいっても。それがいくら退屈でありきたりな悲劇の筋書きに過ぎないとはいっても、その筋書きで主人公を演じたところの真昼にとっては、やはり深刻な問題なのである。人間は、あまりにも混濁した精神構造のゆえに、自分の愛が世界の救済であり、自分の死が世界の崩壊であると、本気で信じ込むことが出来る、そんな生き物だ。だからこそ、真昼の罪悪感は、真昼にとって、この世界の正当性さえも揺るがしかねないものとなりうる。そういったことも……マコトは理解していた。

 そして、マコトは、利用出来ると思った。真昼の骨の内側から、がりがりと音を立てて、「お前は間違っている」と囁き続けている罪悪感を。自分の足元に真昼を跪かせる、そのために利用出来ると思ったのだ。マコトにとっては、あらゆるものが利用可能性の問題である。そして、その利用可能性とは、自分の快楽のために使えるかどうかということだ。無論、ここでいう「快楽」は、マコトが口から出まかせを並べ立てて「議論」したところの「快楽」とは全く異なったものであって……要するに、面白いか面白くないかということだ。そこには、一切の良心、一切の善良、あるいは一切の「正しさ」が介在していない。従って、マコトは議論を引き摺り落とすこと。「正しさ」の探求であるべき議論を、感情論による糾弾にまで貶めるということに対して、なんの躊躇もなかった。

 そして、それをした。

 ただそれだけの話だ。

 しかしながら。

 真昼にとって。

 その。

 愛は。

「砂流原さん!」

 そう言葉した声に、はっと真昼が我に返ると。マコトが振り返ってこちらを見ていた。左手だけでハンドルを掴んで、右肩越しにこちらを振り返っている。よく見ると、右腕が真昼の方に伸ばされていて……そして、その先の手のひらには、何かが握られているらしかった。

 「砂流原さんも、おつけになった方がいいですよ」「カーラプーラの夜景は人間の目には有害ですからね」「まあ、デニーさんの魔学式で強化されていらっしゃるから、大丈夫といえば大丈夫だとは思いますが……」「とはいえ、念には念を入れておいた方がいいでしょう」。

 真昼は……搔き乱されてしまった思い、全然まとまらない考えの中で……そのマコトの言葉について……ただただぼんやりと……自分の肉体にデニーの魔学式が書かれているということ、なぜマコトが知っているのかと訝しく思ったが。よく考えれば、真昼は、ラクトスヴァプン・カーンの更衣室で、マコトに対して裸体を晒していたのだ。きっと、その時に見たのだろう。まあ、正確にいうと、それよりもずっとずっと前、デニーと別れる時に。デニーが、その魔学式について言及していたので、マコトは、その時から真昼の体に魔学式が書かれているということは知っていたのだが。ただ、まあ、それはどうでもいいことだ。

 とにもかくにも、そんな言葉とともにマコトが差し出してきたのは、マコト自身がつけているのと全く同じゴーグルだった。この距離、この近さで見ると、そのゴーグルは、どうやら青みがかった色をしているらしいということが分かる。これは、国内避難民キャンプにあった教会を形作っていた、あの青いガラス様の物質と同じ技術を使ったものであって。要するに、青イヴェール合金とフォース・フィールドとを混合して作られた物だった。青イヴェール合金の対世界独立性によって目を傷付ける有害なエネルギーをカットすることが出来るという、要するにサングラスみたいなものだ。とはいえ、それがカットするものは、サングラスよりも遥かに多様ではあったが。

 真昼は。

 マコト、に。

 こう答える。

「いりません。」

「え?」

「私には、必要ありません。」

「あはは、そうですか。」

 マコトは、それ以上は無理強いすることもなくゴーグルを引っ込めると、そのまま体の向きを前方へと向け直した。そして、「どうです、砂流原さん!」「この光景は!」「なかなかに美しいとは思いませんか?」と言って。それから、少しだけ考え直したように「まあ、美しいかどうかは別として……とにかく景気がいい光景であることは確かでしょう!」と付け加えた。

 一方で。

 真昼は。

 そういうマコトの問い掛けに一切答えることはなかった。まるで口を開いたら心臓を嘔吐してしまうのだとでもいうような顔をして、歯と歯とをしっかりと噛み締めて。ただただ無言のままで……けれども、マコトが指し示す先の光景、つまりカーラプーラの光景を見下ろしていた。

 いや、正確にいえば、マコトが指し示した光景をそのまま見つめていたというわけではない。真昼が凝視していたのは、一つの震える剥製のようにして凝視していたのは、カーラプーラのイルミネーションではなく、むしろ、そのイルミネーションが不在している部分であったからだ。

 つまり、真昼が見ていたのは、マイトリー・サラスだったのだ。しかも、その中でも、光の外側にある部分。無邪気に嘲笑う少女のようにきらきらと些喚いて、静かに噛み砕く冷酷さであるような、夜の湖面だ。

 真昼の目に、二つだけしかない安物のガラス玉みたいな真昼の眼球に、その光景はどう映っていたのか? それは、湖のいっぱいに注がれた黒い鏡の破片である。ほとんど無限とも思えるほどの数の破片である。

 今の真昼は、要するに、その破片の中で溺れているのだった。黒い鏡の破片の中で溺れているのだ。口を開いて何かを叫ぼうとする。誰かに助けを求めようとする。けれども、それは無駄な行為だ。なぜなら、そうして真昼が口を開いた瞬間に。まるで貪婪な寄生虫のようにして、それらの破片が、真昼の体の中への浸食を開始するからだ。

 破片の舌触りは、まるで鏡のようではない。例えば、その感覚は……人間の肉体の一部のように軟質の腐敗だ。生理的な嫌悪感を覚えるほどに柔らかく、吐き気を感じさせるほどに甘い。それでいて、その冷度は、遥か昔に忘れられた物語の見る夢であるかのように、限りなく冷たい。

 そう、それは、正確には破片ではないのだ。それは、真昼の体の内側に入り込んできているのは。黒い鏡、歪んだ破片、その一つ一つに映し出された真昼の虚像なのである。真昼の口の中に入り込んで、真昼の食道の奥に飲みくだされて、真昼の消化器官によって消化されて。そうして、真昼の全身を形作る全ての細胞と入れ替わろうとしている。それは、真昼の虚像なのだ。

 しかしながら、それが、完全に、真昼と入れ替わってしまったとしたら。それは果たして真昼の虚像なのか? それとも、それは、真昼自身なのであるか? 真昼には、その問い掛けの答えが分かっている。とっくのとうにそんなことは分かっている。それは、真昼自身だ。疑いようもなく真昼自身なのだ。

 虫の卵。

 虫の卵。

 空一面に産み落とされた。

 災いと。

 呪いと。

 それに破滅との、虫の卵は。

 一体、いつ、孵化するのか。

 愛が死んでいく。愛が死んでいく。誰か助けて、私の、愛が、死んでいく。真昼が、大事に大事に抱き締めていたもの。ただそれだけのために生きてきたもの。温度、体温、生きるために必要だった全ての温かさ。それが、どうしようもなく、取り返しようもなく、失われていく。

 そして。

 真昼は。

 真昼ではない。

 全く別のものに。

 なって、しまう。

 へらへらと、いつものように、口の端を歪めるような笑いを浮かべながら。九つの柄を持つ赤色の燭台のようにして、マコトが、その口から吐き出した言葉について。確かに、真昼以外にはそれをまともに受け取る人間はいない。だが、真昼は真昼なのだ。そして真昼という人間は、その言葉が、唯一、その人間を殺しうるところの人間なのである。

 ああ、栄光の羊。世々限りなく続く、権力と、名誉と、貨幣と、愛情と。真昼は、マコトの言葉によって、不意に気が付いたのだ。自分が……飴玉の山の上に座っているのだということに。その飴玉の一つ一つは、何よりも美しく何よりも高価な物質によって形成されている。それらの飴玉は、ウラニウムで出来ていて、ルビーで出来ていて、金で出来ている。真昼は、その飴玉の山から、手のひらにいっぱい、一掬いの飴玉を掬っては……自分の口の中に流し落としていく。がり、がり、がり。真昼の歯は飴玉を噛み砕き、真昼の喉は飴玉を飲みくだし。ウラニウム、ルビー、それに、もちろん金。真昼は、要するに、強欲であったのだ。

 それを理解していなかったわけではない。ダコイティに対する惨劇の、その全ての責任が、真昼自身にあるということ。そのことを、理解していなかったわけではない。けれども、それはこういう意味であった。二つの選択肢のうちで、真昼が、片方を選んでしまったから。だから、もう片方をその手のひらから滑り落としてしまった。それは選択の問題であって必然ではない。この考え方からすれば、真昼は、選択によっては、ダコイティのことを救えたはずであった。つまり、それは、真昼という存在の全てに対する本質的な否定ではない。

 また、こういうことを理解していなかったわけでもない。真昼が抱いている理想、世界はこうあるべきであるという考え。それが、どこか、この世界に適合しない理想であるということを。マコトと一緒に、このカリ・ユガ龍王領の色々なところを「観光」してきて。自由であろうとするということ、平等であろうとするということ、合理的な思考によって世界の普遍性を捉えようとする努力、それに博愛の心をもって人々に接するという態度。そういった全てが、この世界の基底にある構造に、少しばかり当て嵌まりにくいものであるということに気が付いていなかったわけではない。

 だが、それは、あくまでも……世界そのものの構造の問題に過ぎなかった。世界が理想を受け入れることが出来ないのは、世界が理想の姿に到達していないからだ。もう少しはっきりといってしまえば、人間の成熟の問題である。人間が、未だに、理想的段階に至っていないから。だから、この世界に生きる全ての人間が、真昼が理想であると思っているところの理想を受け入れることが出来ない。自分自身の行動に責任を持ち、世界をより良い方向に導こうとしていくことが出来ない。そういう問題であるに過ぎなかった。それは理想の問題ではなく現実の問題でしかなかった。

 しかしながら。

 マコトは、今、鮮やかに証明してみせた。

 真昼の、そういった考えの、全てが。

 愚かな欺瞞に過ぎないということを。

 実際は鮮やかではなかったし、そもそも証明でさえなかった。矛盾を無視した決めつけと、論理的に破綻した言葉の羅列に、少々の具体例を振りかけたという程度のものだ。けれども、真昼にとっては、それは紛うことなき証明であった。真昼という存在は本質的に否定されるべきものであり、その理想は完全に間違ったものであるということの証明。そして、そういった、捻じ曲がっていて歪み切っている、真昼という生き物の満たされることのない強欲のゆえに……ダコイティは滅びたのだということの証明。

 そう、ダコイティは偶然滅びたわけではない。真昼が選択を間違えてしまったから、あるいは、世界の構造の一部分が組み立て間違えられてしまったから、滅びたわけではないのだ。ダコイティは必然として滅びたのである。人間という下等生命体の必然性によって、自分自身というものが生み出す全体的劣悪制度の必然性によって。それに、何よりも、真昼が真昼であるということによって。必然的に、あの、残酷で、悲惨で、絶対的な虐殺が引き起こされたということだ……少なくとも、マコトの言葉によれば。

 マコトは。

 言った。

 月光国において、奇瑞となることが出来る、生き物は。

 その身のうちに、なんらかの、禍事を、抱いていると。

 障害者であると。

 障害者であると。

 真昼は、精神に、障害があるのだと。

 笑ってしまいそうなほどの真実。

 まさに、マコトの言った通りだ。

 黒い鏡、黒い鏡、そう、黒い鏡に問題があるというわけではない。そこに映し出されたものこそが問題なのだ。実は、黒い鏡は捻じ曲がっているわけではない。実は、黒い鏡は歪んでいるわけではない。実は、黒い鏡は……黒い色をしているというわけでさえない。ああ、真昼は、ようやく気が付いた。黒い鏡は黒い鏡ではない。ただの鏡なのだ。それが映し出しているものが、どろどろと、惨たらしく、濁り切った、闇色の泥土によって覆われているから。だから、黒い色であるように見えただけだ。

 そして、そこに映し出されているものは……世界だ。ただの世界。世界そのもの。全ての破片の一枚一枚に、美しい空の星が映し出されている。この世界は初めから夜であって、今も夜であり、そしてこれから先も夜であり続けるだろう。満天の星。空を覆い尽くす星。その一つ一つが……真昼の体に産み落とされた、虫の卵だ。つまるところ、世界とは真昼であって、真昼とは世界である。そして、その二つとも、救いようがないくらい間違っている。

 誰か。

 誰か。

 誰か助けて。

 真昼は、ただの鏡に、寄り掛かるみたいにして。まるで、その中に閉じ込められているとでもいうみたいにして。縋り付くように鏡の面を殴りつける。全身の力を振り絞るように、拳の骨が折れるくらいに、叩き続ける。けれども、鏡は……まるで、真昼が、そこにいないかのような態度で。ただただ冷静に、そこに立ち塞がっているだけだ。

 鏡は、真昼のことを映し出していて……そこで、真昼は、ふと気が付く。鏡を叩き続ける、真昼の拳。その手のひらの中に何かが握り締められているということに。真昼は、一度、鏡を叩くことをやめて。そして、握り締めた拳を、自分の目の前、自分の視線の高さよりも、少しだけ高い場所に掲げる。そして、真昼は、拳を開く。その手に握り締めていたものが手のひらの上に乗っかるようにして。それを、決してこの世界の上に落とさないようにして、注意深く拳を開く。すると、その中にあったものが、真昼の目の前に、再び姿を現す。

 一枚の。

 孔雀の。

 羽。

 真昼が、あまりにも強く強く握り締めてしまっていたせいで。その羽は、もうぼろぼろだった。羽軸はひしゃげてしまっていて、羽枝は折れ曲がっている。けれども、それは……未だに、「力」を持っていた。何もかも、何もかも、間違っている何もかもを元通りにすることが出来る「力」を。この鏡に映し出された全ての闇を、照らし出すことが出来るほどの光を。あるいは、この夜に……朝をもたらすことが出来るだけの光を。

 この世界の、全ての善きものの象徴。

 真昼にとっての、たった一つの救い。

 それは。

 つまり。

 パンダーラ。

 そう、まだ、真昼にはパンダーラがいる。パンダーラは……自分の全てを犠牲にした。いとも簡単に、当たり前みたいにして、自分自身を投げ出してみせたのだ。ASKを倒すという、ダコイティを救うという、カーマデーヌを救うという、ほとんど不可能ともいえる絶望のために。そんなパンダーラが間違っているなんて誰がいえるだろうか?

 誰にも、誰にも、いえるはずがない。マコトにさえもそれは不可能であるはずだ。間違いない、そんなことは出来るはずがない。そして、もしそうであるならば……この世界は完全に間違っているというわけではないということだ。そして、真昼の持っていた理想も、真昼の持っている理想も、誰かを救おうとすることが出来るということになる。

 真昼が真昼であるということ。

 その、必然的な、結果として。

 あの惨劇が。

 あの虐殺が。

 起こったわけではないということになる。

 少しずつ少しずつ、真昼の内側で何かの感覚が蘇ってくる。完全に壊死していた思考の神経系。まるで夜のように腐敗して、暗く暗く死んでいた感情。そういったものの一つ一つを、孔雀の羽が撫でていって。そして、真昼は、その感覚を取り戻す……真昼にとって、最も重要な感覚。今までの真昼を形作ってきた、真昼の本質ともいっていい感覚。もちろん、それは、怒りの感覚だ。

 真昼は知っている、本当に強い怒りは爆発などしない。それは……真昼の肉体の内側、れいれいと、ゆらゆらと、どろどろと、ただただ満たしていく溶岩のようなものだ。それは行き場のないエネルギーなどではなく、それは暴走する力の絶叫などでもない。それは、真昼の血を飲み込み、真昼の骨を溶かし、真昼の内臓を歪ませる、極めて透明なクラッシックの音楽なのである。

 ああ、そう、怒り。

 この温度は怒りだ。

 真昼は怒りを知っている。

 そして、今、真昼は

 マコトに、対して。

 怒りを抱いている。

 真昼は思い出していたのだ。決して許されないことを、マコトがしたということを。マコトは、その口からだらだらと垂れ流したところの、言葉の形をした絶望の中で……あろうことか、孔雀の羽に触れた。孔雀の羽を、一つの比喩として使ったのだ。それも、「他人」に「見せびらかす」もの比喩として。マコトはこう言った。「あらゆる」「偉大なる行為は」、自己愛に溺れる人間が、自分自身は他の人間よりも優れているということを証明するためだけの、その栄光への欲望を満たすためだけの、孔雀の羽に過ぎないと。確かに、そう言ったのだ。

 マコトがその比喩を口にした時に、なんらかの意味で、パンダーラと関連付けていたのかということは、真昼には分からなかった。実際のところは……もちろん、パンダーラのことを念頭に置いた上での発言であった。真昼がパンダーラに対してなんらかの強い感情を抱いているということを知悉した上で、そういった真昼の感情を逆撫でするために、敢えて孔雀の羽という比喩を使ったのだ。その意味で、真昼は、まさにマコトが考えていた通りの反応を示したわけだが……けれども、真昼にとっては、そういった事実はどうでもいいことだった。

 真昼にとっての唯一の問題は、マコトが、孔雀の羽を馬鹿にしたということである。孔雀の羽を貶めた、孔雀の羽を汚した、孔雀の羽を嘲笑った。栄光という強欲さ、そのような醜い概念に、孔雀の羽を結び付けた。

 確かに、真昼は……数え切れないほどの飴玉が堆積した、その上に横たわる、一人の女相続人に過ぎない。緑色のサーティを身に纏い、暗く沈んだエメラルドの首飾りを首に掛けて。緑色、緑色、それはデニーの瞳の色と同じであって。そして、真昼は、時折、自分の体を柔らかく包み込む飴玉の山に手を突っ込んで、その飴玉を、がりがりと噛み砕く。他人から搾取した栄光を、甘く飲みくだすところの、一匹の強欲だ。

 けれども、パンダーラは違う。パンダーラは、絶対に違う。パンダーラは強欲ではない。パンダーラにとって、栄光などどうでもいいものなのだ。パンダーラが重要だと思うもの、そのために自らの全てを犠牲にしたものは、アヴィアダヴ・コンダそのものであり、そこに住むダコイティであり、そして何よりも、パンダーラにとっての運命の象徴であるカーマデーヌだった。

 つまるところ、人間にとっての栄光などパンダーラにはどうでもいいものなのだ。なぜなら、パンダーラは人間ではないから。デウス・ダイモニカスだから。そして、そして……パンダーラは、まさに、より良くあるためだけに、愛としての愛を守るためだけに、孤独なままで死んでいった。

 そう。

 パンダーラは。

 パンダーラは。

 マコトが口にした、全ての言葉。

 あらゆる爛れた絶望に対しての。

 希望に満ちた反証なのだ。

 だから、真昼は。

 こう、口を開く。

「あなたは。」

「はい?」

「あなたは……おかしい。」

「はあ、なるほど。」

 あまりに無感動な。

 気の抜けた、返事。

 真昼の怒りは。

 より一層、その灼熱を研ぎ澄まして。

 より一層、その死凪を透き通らせて。

「あなたはおかしい。あなたの吐き出した言葉の全てがおかしい。あなたは、あなたは……つまり、否定しかしていない。世界の全てについて、あらゆる理想について。あなたはあまりにも巧妙なので、あなたの紡ぎ出した論理を一度聞いただけでは、そのことに気が付くことが出来ない。あなたは、あなたなりに世界を肯定しているように思えるし、あなたなりに理想を持っているように思える。けれども、それは間違いだ。あなたは何も肯定してはいない。あなたは、希望を持つということを否定している。

「あなたが言いたいことは、要するに……この世界が、救いようもなく間違っているということだ。あなたはこの世界は生きるに値しない世界であって、人間は理想を持つに値しない生き物であると考えている。だから、あなたが希望を偽装する時、何かを肯定しているように見せかける時には。この世界ではない別の世界、人間ではない別の生き物、あなたが運命と呼ぶものを持ち出さなければいけないのだ。けれども、それは……結局のところ、生きるということを本当に肯定しているわけではない。ただただ、全てのものを否定するために、全てのものではない何かを仮定しているだけだ。あなたは、結局、あらゆるものを道連れにして死んでいこうとする、人間の形をした破滅であるに過ぎない。

「もちろん……私は、あなたの全ての言葉を否定するわけではない。例えば、これについてはあなたの言った通りだ。つまり、ダコイティが――あの抵抗者達が、生きるに値する戦士達が――虐殺されたのは、破滅させされたのは、まさに私のせいだ。私の幼稚な正義感のせいで、私の愚かな優柔不断のせいで、ダコイティは、絶対にそうあるべきではない運命を強制されざるを得なかった。それについては私は反論しない。

「私は最悪の人間だ。私は最低の人間だ。本来ならば、生きるに値しない人間だ。それでも……私を否定するのは構わない。実際に、私は否定されるべき人間だから。けれども、あなたが、ダコイティを否定することは許さない。それは絶対にしてはいけないことだ。なぜなら、ダコイティは証明してみせたからだ。この世界にも理想があることを。この世界も、やはり、生きるに足る世界であるということを。

「あなたがどんなに否定しようとしても、あの人々について否定することは出来ない。あの人々は……自分自身のために戦ったわけではない。あなたのいう公的領域の欲望、権力だとか、名誉だとか、貨幣だとか、愛情だとか、そういったもののために戦ったわけではない。あの人々の生には、あの人々の死には、栄光に対する強欲さは全く関係していない。あの人々は……ただ取り戻そうとして戦った。全ての正しいものを、全ての美しいものを、全ての善きものを。ただ、生きようとして戦ったのだ。あの人々の戦いは、あなたの運命とは関係がない。ただ、ただ、そこにある、現実のために戦った。そう、あの人々は、この世界は、そのために全てを犠牲にする価値がある世界だと、私達に教えてくれた。

「あなたは……結局のところ、この世界をより良くしていくために、何一つ行動していない。あなたは、ただ、言葉を吐き出すだけだ。この世界に対する呪詛の言葉を。けれども、けれども……あなたは、あの人のことを、嘲笑してはいけない。あなたがあの人のことを嘲笑することを、私は絶対に許さない。だって、だって、パンダーラさんは、この世界のために戦ったんだ。パンダーラさんは、戦った。命だけでなく、その存在の全てを懸けて戦ったんだ。この世界をより良いものにしようとして。パンダーラさんだって、分かってた。自分に出来ることなんて、たかが知れてるって。でも、それでも、戦った。自分の救える人だけでも救おうとして、戦った。あなたは何をしている? あなたは何もしていない。最初から諦めてしまって、自分の救える人さえも救おうとしていない。あなたは、あなたは、「正しさ」じゃない。あなたは、絶対に「正しさ」じゃない。この世界のために死んでいったパンダーラさんこそが、誰かを救うために死んでいったパンダーラさんこそが、「正しさ」なんだ。あんたは、あんたは……絶対に、間違ってる。」

 真昼はそこまでを話し終えると、まるで自分の意思とは別のところで動いていたような、その口の動きを止めた。真昼は、あまりにも……あまりにも強過ぎる感情のために。自分が、今、何をしているのか。何を話しているのかということを、全く意識の外側の現象として受け取っていた。

 いや、受け取っていたというのも間違っている。真昼は、それを受け取ってさえいなかった。真昼の中にあったはずの真昼の意識というものは、激怒のあまりの熱量のゆえに完全に融解してしまって。その残存物である思考が、沸騰した金属の液体みたいにして、ただただ泡立っていたのだ。

 そして。

 その泡の一つ一つが。

 言葉になっていった。

 そういうことだ。

 だから、真昼は……いつの間にか自分が敬語を使わなくなっていたことにも気が付いていなかったし、それどころか、言葉の最後には、マコトのことを「あんた」と呼んでいたことにも気が付いていなかった。感情が高ぶりすぎて、本当の意味で無意識に、そう呼んでしまっていたのだ。

 真昼は、まあ、こんな感じの少女ではあったが。とはいえ、一応のところは砂流原の一人娘、生粋のお姫様であることは間違いないのであって。だから、今日出会ったばかりの人間、しかも、実際に出会うまではMJLとして尊敬さえしていた人間に対して「あんた」という呼称を使うことは……あまりよくないことであると思うだけの文化的成熟度には達していた。そんなわけで、先ほどのシーンで喋り終わった時点で、はっと正気に返って。自分がマコトのことをなんと呼んだのかということに気が付いた時に、真昼は、自分自身のしたことに対して、少しばかり恥じらいの感情を抱いたのだった。

 もちろん、どろどろと揺らめき、ぐらぐらと叫び声をあげる、その怒りの感情に比べれば。そんな恥じらいの感情などは些細なものではあったが……それでも、ちらとマコトの方を伺う。もちろん、マコトはそんなことを気にしている様子さえなかった。いつものようにへらへらとした口調で「はあはあ、なるほどなるほど」なんていうことを言っている。

 真昼は、ほっとするのと同時に……また、その怒りの鋭度を研ぎ澄ましていった。この女には、まともな人間の感情というものがないのだろうか? ちなみに真昼のこの疑問に答えるとすれば、その答えはYESである。マコトはまともな人間の感情など持ち合わせていない、それどころか、痛みだとか苦しみだとかいう感覚にさえ、決定的な瑕疵がある。だからこそ、全ての尺度が面白いか面白くないかという一点に集中しているのだ。まあ、それはそれとして。マコトの反応、明らかにこちらの言うことを真剣に捉えていない、適当な相槌に。真昼は、更に苛立ちを深めて。

 また。

 口を。

 動かす。

「あなたの「正しさ」と、私の「正しさ」は、違います。」

 一拍置いて。

 こう続ける。

「そして、私は、私の「正しさ」を信じます。」

 さて、そのような真昼の宣言に対して、マコトはどのような反応を示したのか? マコトは……暫くの間、何かしらを考えているようだった。まあ、とはいえ、もちろんそれはただのポーズに過ぎない。マコトには、何も考える必要などなかった。なぜなら、真昼の行動、真昼の宣言は、全てマコトが予めそうなるようにレールを敷いておいたところのそれだったからだ。

 あらゆる良心欠如者と同じように、マコトが一番面白いと思うのは、他者の支配である。一定の状況下において、他者がどのような行動を取ろうとするのか。その全てのパターンを計算して、変数の部分に最適な数字を入れる。そして、自分の想定した通りに他者が行動する。これこそが――他人が死ぬのを見物することだとか自分が死にそうになることだとかを除いて――マコトにとっての最高の娯楽なのだ。

 ジャーナリストの仕事をしているのも、その娯楽が大きな理由の一つとなっている。マコトが書いた記事によって、あらゆる生命体が、マコトが想定した通りの行動を取る。しかも一人二人ではない。それによって、革命が起こったり戦争が起こったり、そういうことさえも起こるのだ。これほど……支配欲が満たされることがあるだろうか? ちなみにこの疑問形はもちろん疑問ではなく反語の意味で使っている。

 そういうわけで、真昼の発した全ての言葉は、マコトの想定した通りのものであった。完全に、百パーセント、一言一句残らず、マコトがそう言葉するように仕組んだ言葉であった。これでは、面白いというのを通り越して少しばかり退屈にさえなってしまうくらいであったが……まあ仕方がない。真昼は、所詮は十六歳の小娘に過ぎないのだ。大国の指導者や大企業の経営者や、時には高等知的生命体までも思うがままに動かしてきたマコトと渡り合えるはずがない。

 とにかく。

 マコトは。

 面白半分に、真昼を壊すこと。

 その最後の作業に取り掛かる。

「それで、砂流原さんのおっしゃりたいことは全部ですか?」

「はい、そうです。」

「ふむ、つまり……ミズ・ゴーヴィンダの話ですね。」

 そう言われて、真昼は、一瞬、マコトがなんの話をしているのか分からなかった。けれども次の瞬間に思い出す。ゴーヴィンダ、パンダーラ・ゴーヴィンダ。そうだった、それがパンダーラの完全な名前だった。「パンダーラさん」という呼び方ばかり使っていたところに不意打ちのようにしてその名前を使われたので、ぱっと思い出せなかったのだ。

 ミズ・ゴーヴィンダ。この女は、パンダーラさんのことをそう呼んでいるのか。なんとなく、とても嫌な感じがした。この他人行儀な感じ、どこかしら、パンダーラのことを単なる対象物として把握しているような感じ。もちろん、それは真昼の偏見に過ぎなかっただろうが……それでも、それは、いかにもマコトらしい呼び方であるように思えた。

 そんな真昼の考えなんて。

 全く意に介することなく。

 マコトは、言葉を続ける。

「あなたは、こうおっしゃりたいのですか? ミズ・ゴーヴィンダの死は、何かしらの「正しさ」であった。ミズ・ゴーヴィンダは、世界のために死んだ、世界の役に立って死んでいったと。」

「役に立つって言い方は……」

「では、役に立たなかったと?」

「……パンダーラさんは、人々のために立ち上がりました。」

「あはは、確かに。確かにそうですね。」

 マコトのその笑い声を聞いた時に、真昼はようやく気が付いた。自分が、最初から敗北していたということに。自分が勝利する可能性なんて、森で歌う兎が生き残ることよりもあり得なかったということに。真昼は、最初から……俎板の上で鱗を削ぎ落された魚だったのだ。後は、その首を切り落とされるのを待っているだけ。それ以外には、何も出来るはずなんてなかったのだ。

 そもそもこれは勝負ではなかったのだ。マコトのゲーム、要するに、真昼は、マコトの転がした骰子に過ぎなかったということ。もちろん真昼には自由がある。一から六の目のどれを出すかということは、完全に真昼の自由だ。けれどもその自由にはなんの意味もない、なぜなら、このゲームのルールは、骰子が一から六のどれかの目を出した時にマコトが勝利するというルールだから。

 いや、それは……ゲームでさえないのだろう。真昼はようやく悟った、これは、ただの数式に過ぎなかったということを。真昼は、マコトの舌先によって展開されるのを待つ、一つの数式に過ぎなかったのだ。空虚な嘘に濡れた舌が、真昼の唇の上を舐める温度を感じる。もちろん、これは比喩的な表現であるが……しかし、比喩も、やはり真実の一形式である。真昼は感じる……マコトの口が開くのを。そして、その中にある舌が、まるで誘うようにして揺れるのを。どこに誘うのか? そんなこと、決まっている。もちろん、黒い鏡の内側……あるいは、暗く深い海だ。

 ああ、サンダルキア。

 暗く深い海に囲まれた。

 罪と、楽園と、その名前。

 真昼の目の前で。

 取り返しがつかないほどに邪悪な数式が。

 いとも容易く、冷酷に展開していく光景。

 一つ一つの項は。

 まるで悪意によってなされた予言のように。

 惨たらしいまでの正確さで計算されていき。

 やがて。

 それは。

 一つの。

 証明となる。

 一体。

 それは。

 なんの証明か?

「しかしながら、ミズ・ゴーヴィンダは……」

 そして。

 マコトは。

 海の底に閉じ込められた怪物のように。

 いとも軽やかな愛によって、こう言う。

「結局何も出来なかった。」

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