第二部プルガトリオ #35

「さて、物語なるものがいかにして人間の知性を捻じ曲げるのかということについては、これによって十分に議論することが出来たのではないでしょうか。そして、今までの話から、「卓越」した方々が現われの時空間と呼んでいたものに関して、それのどこに瑕疵があるのかということについても、なんとなく曖昧な輪郭を描くことが出来たのではないですかね。

「つまりですね、「卓越」した方々が主張されるのとは全く反対に、この世界で起こる全ての問題というのは、他者との関係性の欠如によって起こるのではなく他者との関係性の過剰によって起こるということです。はははっ! 全く、まるで冗談のような話ですよ! まさかこの世界から他者というものがいなくなるということを心配するなんて! 空の底が抜けるのではないかと心配する方がまだ理性的な恐怖でしょうね。

「まあ、「卓越」した方々は、他者の喪失ではなく他者との関係性の喪失でもなく、人間を人間として定義しうるような他者との関係性であるとおっしゃるかもしれませんがね。同じですよ、全部同じ。だって、他者がいる限りそこには関係性が伴いますよね。そして、そういった関係性がある人間と別の人間との間で結ばれればですよ。関係性の中にいる人間は、多かれ少なかれ、自分が一人の人間であるということを自覚するものなんですよ。

「だから、人間が物質になることなんてありえない。tyrannyの最高の形態としての集団に所属していた人間でさえ、決して、孤独のうちに生きていたわけではなかった。それどころか、お互いにお互いのことを実存的な人間として認め合い、その実存的な了解によって、一つの言論の空間を維持していたんです。そして、その言論の空間の中にこそtyrannyが存在した。自分自身が世界の中心であると信じ込んで、それ以外のあらゆるtyrannyを疑った人間達こそが、最低最悪の形のtyrannyを、脇役に対する主人公の搾取・抑圧・虐殺を肯定するところの全体的劣悪制度を生み出したんです。あはは、つまりは……アヴィアダヴ・コンダをASKに売り渡した人間至上主義をね。

「そうであるならば、そういった問題を解決するためには、現実性なんていうものを考えてみても無意味なんですよ。だって、現実こそが問題なんですから! そして、現実を現実のままに捉えて、そこから、それをどのように改善していくのかということこそが、私達が課題とするべきことなんです。そうであるにも拘わらず、「卓越」した方々は、現実性などというものを求める。これは一体どういうことなのか。

「つまり「卓越」した方々には現実を現実のままに捉えようという気がないということです。あはは、いや、まあ、私だってね、人間ごときがそんなことを出来るとは考えていませんよ。ノスフェラトゥなら可能でしょう、あるいは商武も出来るかもしれません。そういった種類の生き物は人間よりも高等な知性を有していますからね。しかしながら、人間は、記号化を通してしか現実を認識することが出来ません。ということは、人間には、現実そのものを把握するのは無理でしょう。けれども、そういった記号化を、終わることなく続けていくことによって。あるいは、現実に限りなく近い姿を見つけ出すことも可能かもしれません。あたかも、多角形を構成する角度と直線とを増やしていくことによって、限りなく円に近い図形を見つけ出すようにね。

「しかしながら、「卓越」した方々はそういった努力を完全に放棄してしまっている。それどころかそういった努力を否定しさえするんです。なぜなら、「卓越」した方々にとって最も重要なのは自分自身だから。ちなみにですね、ここで「自分自身が重要」という意味は、もちろん自分だけが生き残りたいとか、自分だけが富を得たいとか、自分だけが快楽を味わいたいとか、そういった意味ではありません。それに、ここで定義されている自分自身という存在も、やはり私個人というものに属するわけではありません。

「あはは、私達がここで告発すべきことはね、そういった単純なことではないんですよ。それよりも、遥かに遥かに根源的な自己陶酔。それは「卓越」した方々の次のような態度なんです。自分自身というものが世界の中心であり続けることによって、世界そのものを、個々の人間がそれぞれの固有性を定義し、その実存を獲得するための方法であるとしてしまうこと。そして、それによって、絶対的な「正しさ」というものを、現実のレベルから人間のレベルにまで引き摺り落としてしまうということ。

「もっと端的に申し上げましょう。ここまで議論してきたように、「卓越」した方々が定義するところの現実性というものは、その名前に反して、現実とはなんの関係もない概念なんですよ。それはむしろ現実を貶めるものなんです。現実というものから、自分自身にとって都合の悪い全てのもの――もう一度申し上げますがここでいう自分自身というのは私個人という存在ではありませんよ――を削ぎ落として、そうして、その後に残ったものだけがこの世界の全てであると考える、思考の怠惰の一形式なんです。それは自分自身の思考を絶対視するという意味で自分勝手であり、自分に都合のいい世界だけを認めるという意味で、完全な自己愛の性質であるわけです。

「現実性という感覚のこの不愉快さは、もちろん人間的状態の絶対化という観点から捉え直すことが出来ます。以前にも申し上げた通り、あなた方は世界的状態を人間的状態に変換する「人間の勝利」こそが「正しさ」であると規定なさいますが、私達は人間的状態を記号的状態に変換する「快楽」こそが「正しさ」であると仮定します。私達にとっては克服するべきものが、あなた方にとっては到達するべき目的となっている。私達にとっては所与の条件であるものが、あなた方にとっては獲得するべきものとなっている。それがなぜかということは……あはは、砂流原さんのような聡明な方であれば、説明しなくてもお分かりですよね? そう、「卓越」した方々に特有の、つまりは読者という存在に特有の、自分自身こそが世界の中心であるという確信のせいです。

「先ほどもご説明させて頂いた通り、「卓越」した方々は主人公以外の存在を論理の前提条件とすることが出来ません。それゆえに、「正しさ」というものも主人公という存在から導き出しうると、ごくごく自然にそう考えてしまうわけです。けれどもですね、ちょっと考えると分かることですが、主人公というものは、もうとっくの昔に舞台の上に登場しているわけです。物語の中には主人公が組み込まれている。というか、物語というもの自体が主人公から導き出されるところの一つの……あはは、あなた方の言葉を使うならば、一つの現れの時空間であるわけです。そうであるならば、その主人公から導き出されるところの「正しさ」というものも、既に存在していないとおかしい。

「そうであるにも拘わらず、この世界は、どこからどう見ても「正しさ」の世界ではないわけです。ちなみに、ここで「正しさ」という「正しさ」は、価値判断を行うのが人間であるという意味では人間的な意味における「正しさ」ですが、一方でそれに到達出来るのは人間ではないという意味では絶対的な意味での「正しさ」であって……とにもかくにも、そういった「正しさ」は「この世界における人間」としての世界ではない何かである。

「これをどう考えればいいのか。物語は正しいはずだ、けれども、物語は正しくない。この矛盾をどう解決すればいいのか? あらゆる矛盾の解決には欺瞞が必要であって、このケースでもやはりそれは同様です。そして、このケースにおける欺瞞とは、「物語というものは本来的に「正しさ」であるが、そこに登場する主人公がそれを誠実に実行していないがゆえに、その「正しさ」が喪失してしまっている」と考えることです。

「つまり、設計図自体がそもそも出来損ないであると考えるのではなく、設計図そのものは完全な璧玉のように完全であるのだが、その設計図通りに作っていないから歪な構造であると考えるんですね。自分自身は、この世界の何よりも素晴らしい存在である。しかし、その自分自身を誠実に生きていない。それゆえに、この世界は「正しさ」であるところの場所となっていない。

「そして、その不誠実さ……言い換えれば、物語の内部に入り込んでしまった不純物として、現実を利用するわけです。あはは、それはそうですよね。「卓越」した方々のspectには物語しかないわけで、そうであるにも拘わらず、物語に不純物が含まれていると考えるためには、もう現実自体が不純物であると考えるしかないわけです。

「例えば、「卓越」した方々は、そのイデオロギーを考えようとする際に、人口動態のような要素を排除しようとする傾向にあります。人口動態というか、この世界にどれだけの人間がいて、どれだけの場所があって、そして、それらの場所の中にそれらの人間がどのように配置されているのかということですね。これはいうまでもなく、有効なイデオロギーを考え出そうとする時には絶対的に重要な要素です。

「例えばですよ、非常に極端な例を申し上げるならば、借星にたった一人しか人間というものがいないのであれば、それならばイソノミアは絶対的に有効な制度として機能しうるでしょう。あはは、何せ、これほど広大な場所に一人なんですからね。そりゃあ、自由で平等な主権者として振る舞うことが出来るでしょう。また、人間が二人でも、まだ有効な制度となりうる可能性があります。三人、四人、五人、六人。これくらいならば、まあ、大丈夫です。けれどもですね、この星に百億人というのは、ちょっと、どう考えても多過ぎる。どう考えても、狭い場所で、多くの人間が、共同生活を送らざるを得なくなるわけです。

「そうなると、もうイソノミアは機能しないんですよ。だってですよ、共同生活を送るとなると、限りある資源を浪費するわけにはいかなくなるわけです。どうしても、あるものだけでやっていかなければいけなくなる。理想的な配分というものを考えなければいけなくなるわけです。その配分というものは、共同体の構成員同士の合意によって決定されるのでも、暴力を独占している人間が独裁的に決定するのでも構わないのですが、とにもかくにも、そういった配分を決定して、そうして、それを共同体の構成員に強制しなければいけない。そうしなければいけないんです。

「まあ、それ以外にも方法はないわけではないですよ。例えば、借星の他に生きていくことが出来そうな場所を探し出して、人間が使える資源の量を増やしていくとかね。ただ、そういった方法をとろうとすると、またもや別の問題が出てきます。それは、外敵という問題です。この宇宙にはね、人間以外の生命体なんていくらでもいるんですよ。しかも、その中には、明らかに致命的な生命体がいるわけです。サイクラノーシュの方々やシャッガイの方々やといった一つの宇宙域だけで満足してらっしゃる方々、スグハの方々やイスの方々やといった、宇宙全体に対して支配領域を広げようとしている方々。そういった方々と、宇宙の資源を巡って争っていく必要性が出てくるわけです。もちろん宇宙は無限ですが、外敵も無限なんですよ。そして、外敵というものがいる限り、やはりイソノミアは機能しません。なぜなら、外部の敵と戦うには、友と友とによって構成される内部を作らざるを得ず、その内部というのは、やはり共同体の構成員に死ぬことさえも強要しなければいけない共同体であるからです。

「あれ? えーと、砂流原さん、どうもピンときていらっしゃらないようですが……あはは、もしかして、イソノミアという概念をご存じありませんか? ご存じない? ああ! それは申し訳ない! まあ、それもそうか。イソノミアがちょっとした流行になったのは第二次神人間大戦の直後のことですしね。今となっては大学の政治学の教科書にさえ取り上げられるか取り上げられないかって感じですから。えーと、イソノミアは、共通語では一般に「無支配制」と翻訳されています。語源としては、パンピュリア語で「平等」を意味するisosと「社会体制」を意味するnomosと、この二つを合わせた言葉ですので、まあ、まあ、「平等による支配」とでも翻訳するのがちょうどいいんじゃないですかね。その言葉の通り、その制度のあらゆる構成員に対して平等な律法によって支配されているところの政治制度のことを指し示します。

「この仮定においては、支配者と被支配者と、あるいはその他のあらゆる不平等な取り扱いは存在していないとされています。なぜなら、そこでは、交換様式における負債の感覚が完全にリセットされているからです。んー、どうしようかな、ここの部分の説明をすると、話が非常に煩雑になってしまうんですが……ごくごく簡単にお話ししますね。

「交換様式というのは、基本的に、激怒対恐怖によって成り立っていますよね。いや、正確にいえば激怒対恐怖の原初的な形態としての侵害の感覚なんですがね。要するに、当然性としての非外在的支配領域の欠損です。本来、本来ですよ、私達は、別に、何かを貰ったからといって何かを返す必要なんてないわけですよね。それでも、ほとんど本能的な感覚として、何かを貰った場合に何かを返さなくてはいけないと考える。あるいは、何かを与えたのであれば何かを取り返す必要があるように感じる。

「それはどういうことなのかといえば、つまりは、その根底にあるのは「縄張り争い」なんです。基本的に、縄張りを持つ動物というものは、その縄張りを他の動物に侵害された場合に激怒しますよね。あるいは、そのような動物が間違って他の動物の縄張りに入ってしまった場合には、本能的に恐怖の感覚を抱く。これが、要するに、交換様式なんです。このような「縄張り争い」の感覚が、非外在的支配領域、つまりは自己所有の観念に応用されたものが負債なんですね。債権の分だけ回収しなければいけないように感じるのは、自分の縄張りから排除しようとする本能。債務の分だけ返済しなければいけないように感じるのは、相手の縄張りから逃走しようとする本能。それぞれ基底にあるということです。

「まあ、それはそれでいいんですが。とにかく、イソノミアにおいては、そのような本能を完全に理性のもとに置いているんです。経済的な観点からみれば――あはは、ここの部分を覚えておいて下さいね――社会体制というものは、交換様式によって結合しているわけですね。つまり、私達がある集団に所属しているのは、そこに互酬原理が働いているからです。ある集団に生まれた。その集団が私を生んでくれた。血縁的な、氏族的な、そのような負債の観念が私のことを集団に所属させているわけです。一方で、イソノミアにおいてはそのような負債の感覚はあり得ません。そういった、あらゆる負債をいったんリセットしてしまって。そこから改めて、本能的な負債の感覚ではなく理性的な契約によって集団に対する所属を決定するんです。

「この場合、経済的な観点からみると、「正義の欠損」が起こります。無条件的に、無前提的に、それが正しいとされるところの、正義の感覚が消滅してしまうんです。なぜかといえば、そういった正義の感覚というのは、経済的な観点からみれば、原初的な負債の感覚によって成立しているからです。その負債がなくなって、それに対するところの理性的な契約が社会体制として立ち現れてくるとすると、そこに存在しているところの原理は、人間による人間、自分自身による自分自身、まさにそういったものとなるわけです。要するに、その契約を、自分の人間性によって理性的に決定するところの自由の原理ですね。まあ、この他にも土地からの解放としての遊動民化の必要性だとか、そういう色々な前提があるんですがね。とにかく、あらゆる拘束から解放されているところの個人が、自由に、平等に、契約を結ぶということ。そうして発生したところの社会体制がイソノミアというわけです。

「イソノミアで最も重要なのはその構成員が自由人であるということです。ただ単に自由なのではなく、完全に自由だということ。もしも、仮に、その所属するところの社会体制が、その自由人に対して、その自由人が理性によって同意出来ない支配を行おうとしたら。その自由人が、その社会体制が支配する領域から離れて、全く別の領域に行くことが出来る。そして、それによって一切不都合をこうむることがない。そういったレベルで自由だということです。あはは、ということで、私は先ほどのような批判をしたというわけですね。つまり、この世界は空間的にも時間的にも非常に限りあるものであって、一方で、その領域を支配しようとする支配者は、それこそ数え切れないほどに数多い。イソノミアのような社会体制は現実には存在し得ないではないか。そのようにね。

「ただ、まあ……一般的なイソノミア批判はそのような形では行われないんですよね。なぜかといえば、そもそも、イソノミアというのは、現実に応用する以前の問題として、原理原則からして破綻しているからです。えーと、どういうことかと申しますとね。先ほど私が覚えておいて下さいといったことを覚えていらっしゃいますか? そうそう、「経済的な観点からみれば」という言葉ですね。要するに、そういうことです。

「つまりね、支配の問題というのは本来は政治制度の問題なんですよ。経済制度の問題ではない。支配の問題は、経済的な交換様式で説明出来ることではない。それにも拘わらず、イソノミアは、経済的な交換様式からそれを説明しようとしている。砂流原さんは……政治的なものの概念についてお考えになったことはありますか? 政治的なものの概念の本質とは何か。あはは、まあ、これは政治学の基本中の基本であって、どんな馬鹿でも知っていることですから、別にそんな偉そうな面をして大声で叫びたてるようなことでもないのですが……それは、要するに、友敵区別です。もっと簡単にいえば、捕食者と被捕食者との論理です。ある動物が、別の動物を、捕食者であると考えるか。あるいは、そのような捕食者に対して対抗する場合に利用可能な共生関係であると考えるか。政治の基本的な単位はね、これなんです。

「社会体制、というか、むしろ群れと呼んだ方がいいかもしれませんが。ある群れがある群れとして政治制度を構築するのは、負債によるものではないんです。そうではない。生存そのものに起因しているんです。よくよく考えてみて下さい。先ほど申し上げたように、負債とは、要するに、侵害によって発生している感覚です。侵害によって一つの共同体が一つの共同体としてまとまり得ますか? まとまり得ないでしょう! むしろね、負債、経済制度は、共同体が出来たところで、その共同体内の調整原理として発生してくるものなんです。怒りと憎しみと、あるいは罪悪感、そういった感情を整理整頓するための原理なんです。

「共同体は、生と死と、その根源的な感覚から発生するんです。それゆえに、イソノミアは成立し得ない。イソノミアは、理性のみによる契約を社会体制の根本に置いていますよね? 一方で、共同体成立の条件は、盲目的な死への恐怖なんです。共同体というのは……完全に理性の外側、絶対的な本能によってしか成立し得ない。例えば、砂流原さん。もしもあなたが銃を持っているとしますよね。そして、そのようなあなたに向かって、一頭の、巨大な、恐ろしく巨大な、熊が突進して来ました。あなたはその銃を発砲せずにいられますか? いられないでしょう? それです、それですよ! それが友敵区別というものなんです。それが、共同体の、基本単位です。

「もちろん、その熊は、あなたを殺そうとしていたわけではない。その反対です。あなたを抱き締めようとしていた。その熊は、実はサーカスに飼われていた熊だったんです。とても、とても、人に慣れた熊だった。サーカスの巡業中に、たまたま迷子になってしまった。全然見知らぬ土地。一頭で、孤独で、寂しくて、怖くて、そんな時に、あなたに出会った。優しい優しい人間に出会った。その熊は、喜んだ。ようやく助けて貰える、優しい優しい人間に、暖かくて安心出来るサーカスに連れ帰って貰える。あまりの喜びのせいで、あなたに抱き着こうとしたんです。そして、あなたはそのような熊を射殺した。それが政治です。

「そのような、絶対的な、抗いようがない本能。前後の、原因も、事情も、条件も、あらゆるものを破棄したところで、ただただ吐き捨てられるようにして成立するところの、切迫した、生き残りたいという感情。そのようなものがなければ共同体は成立しないんです。生活の全てをその共同体の支配下に置こうとする共同体は成立しない。自由だとか平等だとか、あるいは合理性だとか、そういった中途半端に生ぬるい観念からは、人間の欲望を統御しうる共同体は成立しない。だから、イソノミアは、根本的に、根源的に、存在し得ない。まあ、そんな感じですね。

「あはは、ちょっと脱線が過ぎましたね。とにもかくにも、私が申し上げたかったことは……つまりですね、有効なイデオロギー、理想的な価値観というのは、物理学的・妖理学的に与えられるところの条件によって、流動的に変化していくということです。そんなことはね、当然のことなんですよ。自由と秩序とのバランス、その他諸々の価値観のバランスを、具体的な状況の中で選択していかなければいけない。それこそが、現実というものなんです。

「しかしながら、「卓越」した方々はそういった現実を見ようとしない。それどころか、そのようにして与えられる条件の全ては不純物であるとして切り捨ててしまうわけです。はははっ! 全く、私のような人間には理解不能ですよ! だってですね、もしもこの世界にある問題を何一つ解決出来ないというのであれば、そんなイデオロギーになんの意味がありますか? この世界の中で「安全」を確保出来ないというのなら、それは知性ある者のイデオロギーではありません。また、それが人間以上の何かになることを想定していないのならば……別の言い方をすれば、自分自身を「超越」していくことを指向しないのであれば。それは、下等な者のイデオロギーです。

「あはは、「卓越」した方々のイデオロギーは、決してこの世界を良くしていかないんですよ。しかも、それは、人間という生き物に対する理解の上でも不完全です。欲望というものを一面からしか捉えていない。自由自由とおっしゃいますが、人間はね、自由だけを求めているわけではないんですよ。だって、もしも本当に自由になりたいというのならば、まずは自分の全てを不定子レベルにまで分解しているはずじゃないですか! そうすれば、人間はムナーライトにも酸素にもなれるようになる。けれども、そうしたいという人間は非常に特殊な人間に限られていますよね? はっきりいってしまえば精神に病をお持ちの方々しかそんなことを望まないわけです。人間は、自由と同じように秩序をも望んでいる。何者かによって規定されることを望んでいるわけです。

「「卓越」した方々のイデオロギーはそれを理解しようとしない。いや、理解していたとしても、決してそれを肯定しようとはしないんです。そういった人間の中の秩序を求める部分を、物語における不純物であるとして切り捨ててしまって。そして、現実においては、天秤の片側に過ぎないところの自由だけを、過剰なまでに純粋に追い求めてしまう。結果的に、現実には適応不可能なものになってしまうんです。「卓越」した方々の頭の中にしかない、自分勝手な論理になってしまう。

「あはは、砂流原さん、それはね、あらゆる意味において天動説なんですよ。世界が自分を中心に回っていると考える意味においても……その説に固執した方々が、なんとかその説を利用可能にするために、あらゆる延命措置を施した結果として、無意味なほどに複雑な生命維持装置的理論の塊となってしまっている点でも。そう、「卓越」した方々は、なんと秩序さえも自由から導き出そうとしているんですよ! 自由を追い求める方々が、自分自身の自由な意思によってあーだこーだすることで、初めて秩序というものを獲得することが出来るとかなんとか。全く、馬鹿らしい。あなた方が何をいおうと、現実における天体観測の結果と天動説とが異なっているのは天動説が間違っているからだし、人間的な集団に秩序が発生するのは人間が秩序を求めてるからなんです。

「主人公のspectからは主人公のことさえも定義し得ない。主人公が感じることが出来る、知ることが出来る、理解出来ることだけしか定義し得ないんです。だから、結果的に、「卓越」した方々の理論は、それこそ自分自身がやりたいことであると集団の内的原理によって思わされていることを「正しさ」としてしまう。しかも、それは、論理的に突き詰められてさえいない。例えば、全ての価値観は平等に尊重されるべきだと口ではいいながら、そう考えることが出来る自分自身こそが、最も先進的な価値観を持っていると思うように。「卓越」した方々が口にする全ての理論は、自分がそこに住む星であるところの借星こそが世界の中心であって、その他の星々の全ては、借星に従属する天体に過ぎないということを説明するためだけにあるんです。

「あはは、そういった態度はエレメンタリー・スクールでは許されるかもしれませんがね。しかしながら、エレメンタリー・スクールでそういった態度が許されるのは、あなたの保護者がエレメンタリー・スクールに対価を払っているからです。あはは、残念ながらですね、この世界の全ての人間に対して、あなたがそんなにも自分勝手な態度をとることが許される、それほどの対価を払ってくれる保護者なんていないんですよ。だから、いい加減に目を覚まして下さい。そして、そろそろエレメンタリー・スクールから卒業して下さい。

「さて、これが、人間的状態の絶対化から説明し直したところの、現実性についての不愉快さです。「卓越」した方々は、それを人間と世界との信頼関係などとおっしゃいましたがね。なんのことはない、それは利用可能性のことなんです。人間が、好き勝手に振る舞うことの言い訳として世界を捻じ曲げること。世界はそれを認めているのだと声高に吹聴して回るために、あらゆる天体は借星を中心に回転しているのだと主張すること。それこそが、「卓越」した方々のおっしゃる信頼関係なんです。

「そうであるのだとすれば、現れの時空間を形作る「理由」なるものがいかなるものであり、そして、それをどのように加工することで現れの時空間というものが発生するのか、それについてもはっきりと理解することが出来ますね。つまり「理由」と呼ばれるそれこそが、私達が行った以前の議論における感動と憎悪となんです。砂流原さんはおっしゃいましたね、感動と憎悪とがなければ、この世界になんの意味があるのかと。そう、確かに、感動がなければ善に意味がないように見えますし、憎悪がなければ悪に意味がないように見えます。しかしながら、ここまで長々と説明してきた通り、それは完全に間違いなんです。それは、読者として物語を読んでいるからそう思うだけなんです。

「実際の因果関係は、砂流原さんがおっしゃったものとは全くの逆である。人間は、自分自身が感動したものを善であると規定するわけではありません。集団によって善であると規定されたものを見ることに対して感動という反応を示すんです。もちろん、憎悪と悪との関係性についてもこれと同様です。あはは、砂流原さん……砂流原さんがおっしゃったように考えるのは、「人間が痛みを感じたからこそ刃物で切り付けられることは人間の肉体を害するようになったのだ」と考えるのと同じくらい不合理なことです。人間に感情があろうがなかろうが、「清めの欲望」と「穢れの欲望」とが集団において構造化されている限り、相変わらず「正しさ」というものは存在しうるんですよ。

「と、そういったことを「卓越」した方々は理解していないわけです。あるいは理解した上で否定する。そして、公的領域における人間の感情こそが、人間の一人一人に付与されているところの固有性、つまり自分自身というものの実存を定義しうると主張する……そして、その実存によってのみ、人間は「正しさ」というものに到達しうると主張する。えーとですね、まあ……後半はともかくとして、前半に対しては確かにそうかもしれませんね。以前にも申し上げた通り、「卓越」した方々がおっしゃるところの「自分を自分らしく輝かせる」というのは、公的領域において、強者が弱者から搾取することによって成立する事象であるわけです。それが権力であるか名誉であるか貨幣であるか愛情であるかはともかくとして、「卓越」した方々にとって最も重要な概念であろう実存は、そのような犯罪的行為によってしか獲得しえない。そうであるならば、少なくとも前半に関しては否定することは出来ません。

「けれどもですね、それがどうしたっていうんですか? つまり、人間が実存を獲得したからといって、どうだっていうんですか? なぜそれが「正しさ」に到達するための手段になりうるんです? いいですか、そもそもですよ、そもそも、公的領域というものは、その本質からいって何ものも生み出すことがないんです。生産的な力というものが完全に欠如している。もちろん、ここでいう生産とは、ただ単に具体的な形象があるものだけについて言っているわけではありません。あらゆる完成しうるところの目的が、公的領域には存在していないんです。

「そして、略奪と強奪と収奪とだけが存在している。行為と言論とによって他人から栄光を巻き上げて――栄光とは公的領域においてのみ存在するところのcurrencyです――その栄光の光輝、本来は空虚であるところの自分自身というものを、虚栄によって満たしていくというわけです。そういった公的領域の性質のことを「卓越」した方々は暴露的性質と呼びますが、そもそも自分自身というものが存在していない以上、暴露という呼び方は正しくないでしょう。要するにですね……あはは、公的領域の性質は、搾取的性質であるということです。

「そういうわけで、ただただそこには搾取があるだけなんです。それにも拘わらず、あなた方はそれを「正しさ」に至る唯一の道であると主張なさるんですか? そうだとするならば、あなた方にとっての「正しさ」というものは搾取であるということになりますよね。公的領域において、より多くの栄光を集めた人間だけが、実存を手に入れて、freedomになることが出来る。そして、それ以外の人間は、全てがfreedomに隷属するfamiliarである。あなた方は、そういった構造こそが「正しさ」であるといっていることになるんです。

「そして、以上のことから導き出される結論として……「卓越」した方々がおっしゃるところの現れの時空間を現実的にする行為、現れの時空間を有効なものにする行為とは次のようなものであることが分かります。自分自身の感情として個人個人の中に反映された小集団の内的原理を、この世界における普遍的な原理、あるいは唯一のspectとして、全ての現実に対して適用していこうとする行為ということです。

「いうまでもなく、その思考の経路が原理主義的な意味で集団内部に固定される過程は非常に単純なものです。つまり、絶対的な「正しさ」のスキアを持つことなく、自分自身の持つイデオロギーを外部から懐疑することが出来ない「卓越」した方々は、それゆえに、イデオロギーというものを現実に合わせて変化させていかなければいけないということに気が付くことが出来ない。あるいは、言い換えるならば、「自由」という価値観と「秩序」という価値観と、そのどちらもが「正しさ」となりうるのであって、そのどちらを適用するべきなのかということは状況次第で違ってくるということに気が付くことが出来ない。

「繰り返しますが、どんなイデオロギーだって一部は正しくて一部は間違っているんです。ですから、なんらかの理由で間違っている一部を見ることが出来なくなってしまえば。あるいは、イデオロギー自体に問題があるのではなくその不徹底にこそ問題があると考えるようになってしまえば。それが絶対的な「正しさ」であるように見えてしまうわけです。だって、正しい部分しか目に入らなくなってしまうわけですからね。そして、そのようにして、あらゆるイデオロギーが最終的に行き着く先にあるところの完全なイデオロギーであるように見えるイデオロギー、しかしながら実のところは数多あるイデオロギーの一つに過ぎないイデオロギーを、絶対的な裁定者としてしまう。

「自分自身が所属している小集団以外の小集団がそれぞれに持っている内的原理を、それらの全てを劣ったレベルに位置している物語であると考えて。自分自身が持っているイデオロギーこそがそういった物語、spectを限定されたprejusticeに過ぎない物語を、より高い視点から裁くことが出来る現実であると確信する。そうして、結果的に、公的空間における全ての行動、つまり、全ての搾取行為が、劣ったレベルに位置する存在に対する裁定行為として正当化されるようになってしまう。あはは、砂流原さん……これこそが、現れの時空間というものがその根底において構造化しているところの、本質的な役割なんですよ。

「ですから、「卓越」した方々にとっての最も重要な行為、つまり他者との間で「理由」を公開していく行為とは、なんのことはない、物語内部における自己正当化を、ちょっとばかり豪華で壮大な形によって行っているという、ただそれだけのことに過ぎないんですよ。なぜ豪華で壮大な形で行うのかといえば、もちろん、それは、より強い刺激によって感動と憎悪とを刺激して、それによって、ほとんど生物学的な単純さで、物語が「正しさ」であるという錯誤を思考過程に刻み付けるためですが。それはそれとして、それが重要な意味を持っているのは、もちろんその行為の暴露的性格などというもののためではなく、それが、現れの時空間が持つ唯一の役割、つまりは搾取行為を正当化する過程であるからです。

「小集団の構成員のそれぞれが、お互いの搾取行為について、というか、その搾取行為を導き出すことになった内的原理の問題点について、それは問題ではなかったということを論理的に証明したり、あるいは、実はその搾取は搾取ではなく教育的な行為であったということを論理的に証明したり。そうすることによって、所詮は一つの物語に過ぎないところの物語を、絶対的な「正しさ」として祭り上げる。価値観が、イデオロギーが、思想が、絶対的な「正しさ」とはなり得ない、そういった全てのものが、絶対的な「正しさ」であると叫び続ける。それが、「卓越」した方々の間でなされる行為・「卓越」した方々の中で交わされる会話が重要であるところの本当の理由なんです。

「あはは……ということで、これが、私達が物語を拒否するべき理由の、その全てです。物語の何が問題なのか? それは主人公の絶対化です。主人公以外の全て、物語の外にある全てを、存在しないものとして扱うことによって。結果として、強者が弱者を抑圧し搾取するという構造を正当化してしまうということです。「卓越」した方々がおっしゃるところの、物語の耐久性・安定性・永続性というのはですね、つまりは、たかだか一つのイデオロギーに過ぎないものを、絶対的な「正しさ」として祭り上げることによって発生する、絶望の一形式なんですよ。いくら間違っていることを間違っていると主張しても、いくら錯誤を錯誤であると主張しても、物語はそれを認めようとはしません。なぜなら、そういったことを指摘することが出来る視点は、その物語の外部にあるものだからであり、その物語の外部にあるものは、その物語にとって存在していないからです。

「そして、弱者は、常に搾取され続ける対象になる。抑圧の究極の形態である、その存在の絶対的な否定によって。強者だけが、物語の主人公だけが、絶対的な「正しさ」として輝き続ける。あはは、全く、信じられないことですよ。だってですよ、普通に考えれば、搾取というものは、搾取している側が悪いということになるじゃないですか。一般的に考えれば、搾取される側は悪くないですよね。けれどもですね、こういった物語の構造の中では、悪くないのは、それどころか唯一無二の存在として正しいのは、搾取する側なんです。悪いのは搾取される側であって、その所属する集団が間違っているからということになってしまう。

「なぜ物語を殺さなければいけないか? それは、物語こそが、弱者というものを作り出すシステムであるからです。侵略と搾取と抑圧と、その全てを正当化する方法だからです。そして、「卓越」した方々は……いえ、いえ、やめましょう。もう十分だ。この段階に至ってまで「卓越」した方々などという持って回ったいい方をする必要はありません。「卓越」した方々と呼ばれるべき誰かが、今まで私が「卓越」した方々という言葉を使って表していた誰かが、一体誰であるのかということは、砂流原さんには、もう十分に分かり切ったことでしょうからね。

「つまり、砂流原さん、あなたは。「卓越」したあなたは。するべきことをせずに、楽な方へ楽な方へと進んでいった。あなたがするべきことは、自分自身であり続けることではなかったんです。強者であるあなたが背負うべき責任とは、自分自身であり続けることなどではなく、自分自身を疑うことだったんです。もちろん、それは非常に難しいことです、なぜなら、自分自身を疑うためにはまずは自分自身を否定しなければいけないんですからね。人間とは自己愛を持つ生き物です、自分のことを最も愛する生き物です……特殊な精神病でも患っていない限りは。だから、自分自身を否定するというのは、ある意味では人間にとって最も難しい行為でしょう。自殺よりも遥かに難しい行為だ、少なくとも、肉体的な自殺は自分を殺さなくても出来ますからね。けれども、それほどまでに難しい行為であっても、あなたはしなければいけなかった。弱者を救うために、弱者を虐げる構造を破壊するために。

「あなたは、他人のために何かしようとする行為こそが最も尊い行為だと言った。けれども、あなたがそう言った時に、その他人という言葉に含まれていたのは、あなたと同じ物語を生きている方々だけだったんです。物語の外側にいる人々は、あなたの視界にすら入らなかった。本当の弱者は、あなたにとっては存在しないものだった。つまり、あなたは、あなたが弱者だと思っている人々、少なくとも強者の中では底辺にいる人々のことしか救おうとしていなかったということです。

「そう、それどころか、それどころかですよ。あなたが生きている物語を否定するような人々に関しては、それに対して敵意を抱きさえしていたのです。つまり、全体主義的な神国主義であるとか、絶対的な権力とそれに従属する人々とか。そういったものに対して生理的な嫌悪感を抱いていた。もちろん、あなたは救いの手を差し伸べようとするでしょう、その全体主義の中にいた人々が、その全体主義を否定して、あなたが生きている物語に所属しようとする限りにおいては。けれども、もしも。もしも、そういった人々が、その全体主義に所属したままで、それでも救われたいと主張したら。あなたはどうしますか? あなたは、自分の物語を否定してまでそういった人々を救うことが出来ますか?

「砂流原さんは、砂流原さんの自由と実存とを引き換えにしてでも他者を救うことが出来ますか? あはは、恐らくは無理ですよ。自分の肉体であるとか自分の生命であるとか、そういったものはいくらでも犠牲に出来るでしょう。けれども、自分自身を犠牲にすることは、あなたには絶対に出来ません。そして、たちの悪いことに……自分自身に対する強欲なまでのそういった執着は、あなたの中では、「他者のために犠牲にすることが出来ないものがある自分の醜悪さ」という形ではなく「「正しさ」を受け入れようとしない他者の落ち度」という形で認識されます。なぜなら、あなたが所属している物語は、ただのイデオロギーに過ぎないあなたのイデオロギーを、絶対的な「正しさ」であると誤解させてしまうから。もしも、誰かが、絶対的な「正しさ」を受け入れないのだとすれば。それは、その誰かが間違っているからですよね? そして、あなたは、その他者が受けている苦痛を、その間違いのせいであると考えてしまうわけです。その間違いを直さない限り、つまり、根源的な原因を取り除かない限り。その他者は、永遠に苦痛を受け続けるだろう、それは仕方のないことだ。あなたはそう考える。

「だから、あなたは救わない。あなたは、物語を受け入れない者、真実の弱者を救うことが出来ない。あはは、砂流原さん。あなたは、あなたに出来ることがもっとあると考えていますね。そして、それが何かが分からずに、これまでずっと藻掻き続けてきましたね。いいんですいいんです、分かりますよ、何も言わなくても。あはは、私の記事を読んで感動したなんていうことをいう方々は、大体そういう方々ですからね。確かに、あなたに出来ることはあります。いくらでもあります。しかしながら、それらの全ては現実の中でしか出来ないことです。

「あなたは人間の権利を抑圧する旧来的な体制に抗うことによって何かが出来るわけではない。あなたは人間の自由を搾取する保守的な構造に抗うことによって何かが出来るわけではない。この世界は、若者が権力者に対して歯向かうことによってより良くなるわけではないし、平等を叫びながらあらゆる差別に対して戦いを挑むことで良くなるわけではないし……あはは、反骨のジャーナリストが、この世界の強者に立ち向かう正義のヒーロー達についての、勇気と希望とに満ち溢れた記事を書くことによって良くなるわけではないんです。なぜなら、そういった全ての行動は、所詮は物語に過ぎないから。人間という生き物を、まるで下等ではないかのように扱って。それどころか、本来はただの虚無に過ぎない自分自身などというものが、主体的に思考することが出来るかのように確信して。そして、この現実の全ての存在を・全ての現象を、そういった人間的な視点から、単純化・曖昧化したところの物語に過ぎないからです。

「あはは、砂流原さん。もう物語の時間はお終いにしましょう。そろそろ私達は大人にならないといけないんですよ。寝る前に、ベッドの中で、優しいお母さんに聞かせて貰った物語……自分にとって都合のいい、ありきたりな物語。あなたは、そういった物語の主人公であることをやめなければいけないんです。あのですね、あなたが何をしても世界が変わらないのは世界のせいではありません。あなたが無力で愚かだからです。あなたが、世界が変わらないことに対して怒りを感じたり悲しみを感じたり、そんなことをしてもなんの意味もないんですよ。だって、本当は、悪いのは世界ではなくてあなたなんですから。まずはそのことに気が付かなければいけないんです。そして、あなたは、あなたよりも優れた存在、あなたを超越した何かになろうとしなければいけない。例え、そんなことは不可能でも。例え、あなたがそうすることの努力は、その全てが完全に無駄であったとしても。あなたはそうしなければいけないんです。なぜなら、それがあなたのやるべきたくさんのことだから。それが、あなたの出来る唯一のことだから。

「私達は物語を捨てて現実に生きなければいけません。物語を捨てるのが難しいのだとすれば、せめて、私達は、思想を捨てなければいけません。そして、この世界の現実的側面を見なければいけません。この世界を全て論理化するのは、もう諦めましょう。人間には不可能です。仮に、仮にですよ、この世界の全てをより良きものにする、完全に正当な論理が発見されたとします。それでも、この世界の全てをより良きものにすることは不可能です。絶対に不可能です。なぜなら、その論理を理解することが出来るのは、ほんの一部の人間に過ぎないから。この世界の全ての人間がそれを理解するのは不可能だからです。論理は無力です、思想を持つ者が人間だというのならば、論理に従って行動する者が人間だとするのならば。そうである以上、私達は、人間であることをやめるべきでしょう。そして現実を生きる一匹の動物になるのです。

「現実に生きるとは、要するに、自分自身を変えうるのは自分自身以外の何者かだけであるという当たり前の事実を信じるということです。あなたはあなたを良くしていくことが出来ないという当たり前の事実を信じるということです。ある一つの物語を変えることが出来るのは、その物語を共有する集団ではない、他の集団からの外圧なんですよ。国家を変えることが出来るのは国民の意思などではなく戦争を含む外交だし、自我を変えることが出来るのは自由な信念と平等の理想とではなく常識と呼ばれる不条理な関係性なんです。あなたが既存の共同体を破壊しても自由と平等とは獲得出来ないんですよ。また新しい不自由で不平等な共同体が出来上がるだけです。そして、人間は、それを何度も何度も何度も何度も繰り返してきたんです。

「この世界を良くしていく方法はたった一つだけ。運命を受け入れることです。「安全」を手に入れるために「超越」を目指すこと、絶対的な「正しさ」のスキアだけを信じるということ。それだけなんです。そうであるのにも拘わらず、「卓越」した方々は……あなた方は……砂流原さん、あなたは。それを受け入れなかった。絶対に、受け入れようとしなかった。なぜなら、この方法は現実的方法だったからです。この方法は、あなたの物語の外側にも世界があって、それは現実と呼ばれているのだということを認める方法だったからです。

「そして、その代わりに、あなたはどうしたか? あなたは物語に殉じようとしたんです。あなたはあなたの物語が間違っているということを認めようとしなかった。あなたは物語にしがみ付き離れようとしなかった。あなたは……ほとんど絶叫のようにして物語から「逃げない」ということを宣言しました。そして、弱者というものが一体何者であるのか、一体なぜ弱者なのかということを考えもしようとせずに、ただただ、それを救うおうとした。つまり、あなたは、弱者を救うということを、弱者を基準とすることなく行おうとしたんです。あなたは、弱者を救うということを、自分自身を基準として行おうとした。弱者とは何者であるのかという選択も、弱者に何をすれば救うことが出来るのかということも、あなたは、あなたが決定出来ることであると考えたんです。

「あなたは、結局のところ、弱者のために何かをしようとしたわけではなかったんです。ただただ自分自身が自分自身であるために、弱者という存在が必要だった。栄光を搾取するための弱者という存在が必要だった。ただそれだけのことなんですよ。あなたがいくら言葉を尽くし、この傲慢を糊塗しようとしても無意味です。だって、あなたはおっしゃったじゃないですか。この世界において絶対的な基準となりうるものは、感動と憎悪とだけだって。自分の感情だけだって。つまり、あなたにとっての絶対的な基準はあなただということですよね?

「あなたは責任という言葉を口にした。この世界が良くなっていかないのは、人間の一人一人が、自分自身として、責任を果たしていないからだと。繰り返します、あなたは世界を変えられない。人間は世界を変えられない。少なくとも、自分自身の責任などというものでは、何も変えることが出来ないんです。なぜなら、それは、物語の方法だから。責任を持つとは、要するに、主人公としての自覚を持つということなんです。自分自身が物語の有する内的原理の一部であるということを受け入れて、その構造が破綻しないように、あらゆる現実を直視することを拒むということ。それが、あなたのいうところの、責任を持つということだからです。

「それによって得られるのは人間の勝利だけです。公的領域における栄光と、人間存在の永遠・無限だけです。あなたは、確かに、その方法によって世界から人間を解放することが出来るでしょう。しかし、それはあまりにも無意味です。なぜなら、それは現実から物語の中に逃避するということに過ぎないから。あなたは、あなたが本当に解放されなければいけない状態、つまり人間的状態の混沌からは逃れられません。私的領域において「正しさ」の方向に進んでいくことは出来ません。つまり、つまり……あなたは、現実の中で、弱者に対して真実の犠牲を拒むことを選んだのです。自分自身という、唯一犠牲とするに足るものを犠牲とすることを拒んだのです。そして、弱者は惨めに死んでいった、惨たらしく殺されていった。ダコイティは、残酷に、虐殺された。

「そろそろ……はっきりとさせてしまいましょう。ここまで、私達は、一体何を話してきたのか? それは抽象的な「正しさ」などというものについての話ではありません。そんなどうでもいいことについての話ではないんです。私達が話していたのは、昨日という日に、まさに昨日というその日に、ASKによって「駆除」されてしまったところの、アヴィアダヴ・コンダ・ダコイティについての話だったんです。

「あはは、砂流原さん、あなたは何を見てきましたか。昨日、アヴィアダヴ・コンダのあの森で、あの森だった場所で、一体何を見てきたんですか? あなたが見てきたもの、あなたが聞いてきたこと、そして、あなたが、それに参加したところの、全ての虐殺。それこそが、私達が議論するに値する唯一のことなんです。砂流原さん、砂流原さん、そうは思われませんか? あれに比べれば、あの場所で起こった全ての死に比べれば、あの場所で全くの無意味に消えていった全ての絶望に比べれば、一体、「正しさ」などというものになんの意味があるというんですか?

「あなたは正義を追い求めてきたのでしょう。あなたは理想を持ち、あなたは信念を持ち、ただただ正しくあろうと努力してきた。しかしながら、その努力がなんの役に立ちましたか? あなたの、その努力が、昨日という日に、アヴィアダヴ・コンダという場所で、一体なんの役に立ったんですか? あはは、結構、大丈夫です、お答え頂かなくても大丈夫ですよ。なぜなら、私は答えを知っているからです。それは役に立たなかった。文字通り、クソの役にも立たなかった。

「人間を救うのは「正しさ」ではない。「正しさ」ではないんです。それが出来るのは、ただ「力」だけなんです。いいですか、砂流原さん、あなたは、それを理解していたはずなんだ。そして、あなたは「力」を持っていた。全てを破壊する「力」を、全てを殺害する「力」を、そして……全てを救うことが出来たはずの「力」を。それが何かということを問い掛けるのはやめて下さい。あなたは分かっているはずだ。その「力」がなんなのかということも、そして、それを使うための方法も。あなたは知っていた、全てを知っていた。けれども、その使い方を間違えた。わざと、間違えた。あなたの「正しさ」とやらを守るために。

「はは……はははっ! 砂流原さん、そういうことなんですよ! そういうことなんです、あなたは、あなたの「正しさ」のせいで全てを間違えた。あなたが「正しさ」であるとして大事に大事に抱え込んできた物語のせいで、しなければならなかったことをせず、してはいけなかったことをした。そして、そんなことは、この世界ではいくらでもあることなんですよ。私は、あなたと同じような人々を、それほど腐るほどに見てきました。誰も彼もが物語にしがみ付いて、自分自身にしがみ付いて、栄光にしがみ付いて。他人のことなんて顧みもしなかった。

「いいですか、砂流原さん。簡単なことだったんですよ。人間至上主義者の方々がダコイティを救いたかったのだとしたら、それは、とてもとても簡単なことだったんです。ただただ神国主義者に頼ればよかった。アーガミパータの全土にいる神国主義者、その中には、例えばここカリ・ユガ龍王領のように、ゼティウス形而上体が支配している場所もありました。そういった国、あるいは神閥に、救助を依頼して。同盟を組み、多くのゼティウス形而上体の力によってASKに圧力をかける。そうすればさすがのASKとてアヴィアダヴ・コンダから手を引かなければならなくなったでしょう。コストとベネフィットとの問題で、コストが上回るのだとすれば、ASKはいとも簡単に手を引いたでしょう。あるいは……あの場所を買い戻すために、いくらかの財政支出は必要だったかもしれません。しかし、それがどうしたというのですか? 昨日起こったことに比べれば、それが、一体なんだというんですか?

「そうすれば、そうしていれば、昨日起こったことは起こらなかったはずなんです。けれども、人間至上主義者の方々はそうしなかった。あなたが「力」の使い方を間違えたように、人間至上主義者の方々も、やはり「力」の使い方を間違えたんです。自分達が「正しさ」であると信じるもののために、つまり、自分達が所属しているところの物語を守るために。人間至上主義者の方々は、決して、神国主義者を頼ろうとはしなかった。

「それが、私達が議論してきたこと、私が話してきたこと、私がお話したかったことの全てなんですよ。私は、この世界で、たくさんのアヴィアダヴ・コンダを見てきました。たくさんのダコイティを見てきたし、たくさんのASKを見てきました。たくさんの暫定政府を、たくさんの多集団籍軍を、たくさんのBeezeutを、たくさんのGLUOを見てきました。そして……たくさんの砂流原さんを見てきました。全部、同じです。全部、全部、同じなんですよ。必ず、ダコイティは、弱者は、虐殺されたんです。強者によって全ての栄光を奪い去られた後、ゴミのように捨てられていったんです。物語のために、物語を守るためにね。この世界はそういう風に出来ているんです。

「これで私の話したいことはお終いです。私は、話したかったことを話し終えました。なぜあなたが間違っているのか。なぜ自分自身というものがこの世界で最悪なものなのか、なぜ私達は運命に従わなければいけないのか、なぜ物語は殺されなければいけないのか。そして、なぜ、アヴィアダヴ・コンダのダコイティは虐殺されたのか。そのことについて、全てを話し終わりました。そして、結論としては……あはは、つまり、ダコイティがこうむった全ての災厄は、砂流原さん、あなたのせいだったということですよ。さて、何かご質問はありますか?」

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