第二部プルガトリオ #34

「まずは……絶対的な「正しさ」というものを信じることによって私達が盲目的になってしまうという主張。自分達の外側にある何ものかを信じるということによって、私達が、「正しさ」というものが本当はいかなる形をしているものなのかということについての思考を捨ててしまい、そして、最終的に、tyrannyの指し示すがままの「正しさ」というものを無思考に受け入れてしまうようになってしまうという主張についてです。

「これについては再反論する必要もないように思われるのですが――あはは、それこそ兎の耳も磨り減るほどに議論してきた話ですからね――一応、おさらいの意味も兼ねて、ざっと再反論していきましょう。最初に指摘しておかなければいけないのは、「卓越」した方々の反論が、まさに人間至上主義的な偏見によって、見当違いのところに議論のポイントを置いてしまっているということです。つまりですね、私達は、決して「人間」を信じるわけではないということです。私達が信じるのは、「正しさ」であるように思われるところの、そのスキアなんです。

「確かに、私達が「人間」を信じるのであれば。それは盲目的な無思考にも繋がりうるでしょう。なぜなら、「人間」というものは形あるものであって、それは具体的な形をとりうるからです。しかしながら、スキアは違う。それは、影なんです。ゆらゆらと揺れ、輪郭もない、曖昧な幻想でしかない。そんなものを、私達は、無思考に受け入れることなど出来るわけがない。というか、そもそも、それを受け入れることさえ出来ないんです。だって、それには、触れるための固定された形象がなく、閉じ込めておけるだけの束縛された質量もないからです。私達は……確かに、それを盲目的といっていいほど絶対的に信じなければいけない。しかしながら、それを盲目的に受け入れることは出来ないんです。

「「信じる」ということと「受け入れる」ということは違うんですよ、全く違う行為なんです。「信じる」というのは私達を捧げることです。一方で、「受け入れる」というのは、そのものを捕食するということです。この二つの違いをごちゃまぜにして同一のものだと考えてしまうのは、人間の思考というものを絶対視してしまう人間至上主義に特有の偏見からくる、世界に対する曲解を原因としているのですがね。例えば、例えばですよ。その曲解は、「卓越」した方々がよくお使いになる「受動的抵抗」という概念に、最も典型的に表れています。

「あはは、砂流原さんはご存じですか? 「受動的抵抗」という概念のことを。えーとですね、ごくごく簡単に申し上げますと、ある強大な集団Aとある弱小な集団Bとを想定してみて下さい。Aは、物資的にも人員的にも、Bよりも遥かに優位にあります。そして、その優位を利用してBを征服しようとします。もちろん、Bが敵うはずがありませんよね。戦争に関しては、あらゆる点でAに劣っているんですから。ということで、Bは、瞬く間に征服されてしまうというわけです。

「しかしながら、「卓越」した方々は、ここでBがAに勝つ方法がたった一つだけあるとおっしゃるんです。それこそが「受動的抵抗」です。つまり、Bを構成するあらゆる人々がAに対して物理的に抵抗することなく、ただただ、思考として、Aには従属しないという態度を保ち続けるということです。そうなると、BはAに対して従属しないわけですから、Aとしては、Bに所属する人々のことを皆殺しにすることによってしかBを征服出来ませんよね。というか、それは征服でさえない、Bという集団は、結局のところAに従属せずに死んでいったのだから、その征服に対して完全に勝利したことになる……そのように、「卓越」した方々はおっしゃるというわけです。

「この主張は二つの点で間違っています。そして、そのどちらもが人間の思考を絶対視してしまうことによって間違われてしまったところの間違いです。まず一点目ですが……間違いというよりも欺瞞ですね。征服という概念について、この主張は、完全に捻じ曲げてしまっている。えーと、砂流原さんはどこかの集団の王か何かになって、その集団とは別の集団を征服した経験がありますか? あはは、ないですよね、そんな経験。いや、私も別にないんですけど、ある集団がある集団を征服しようとした時に、普通は一体何を目的とすると思いますか? まあ、まあ、たぶん、その集団が有している領土だとか物資だとかそういうものだろうなと思いますよね。別に、その集団に属しているところの人間の思考を自分達の集団に従属させたいという欲求から征服行為を行うわけではないわけです。いや、まあ、そういう欲求もないわけではないでしょうが、それは別に人間の思考……というか、意志それ自体を挫けさせようという目的によるものではない。ただただ、人間という物資を手に入れたいという、それだけの目的なんです。

「だから、別に構わないわけですよ。Aとしては、Bが従属しようがしなかろうが。それはどうでもいいことなんです。まあ、自分達に逆らう連中がなんとなく気に食わないなって思うこともあるかもしれませんが、そういった思いは、すぐに殺しはせずに、これ以上ないというくらいに惨たらしく、ありとあらゆる人間としての苦しみ・人間としての痛みを味わわせ続けることによって、すっきり解消出来るでしょう。それに、物資としての人間、ありていにいえば奴隷が欲しいという欲求だって、大人達を皆殺しにした上で、子供達を奴隷とすれば済むだけのことです。Bがいかに思考的な不従属を示したとしても、自我の固まっていない子供達まで不従属を示すことが出来るというわけではないでしょうからね。まあ、大人になって、何かしらの反乱を企むという可能性が全くないとは言いませんが、そういった恐れは、例えば片足と片手と片目と片耳とを削ぎ落とし、舌を抜き喋れなくした上で、常に栄養失調の状態にしておくことによって、ある程度は防ぐことが出来るでしょう。

「あるいは……Bという集団が存在して、Aに対して不従順な態度をとったという、その歴史が残ってしまうのが気に食わないという方もいるでしょう。そんな歴史が残ってしまえばAにとっての汚点となりかねませんからね。しかしながら、それだって、Bという集団が存在した全ての証拠をこの世界から完全に消し去って、その上で、Aの構成員の全ての思考からも、Bが存在したという記憶を拭い去ってしまえばいいだけのことです。これは、昨今の集団が所持する科学力・魔学力を考えれば決して不可能なことではありませんよね。

「要するに、占領というのは、別に人間の思考を従属させることを目的として行うわけではないわけです。だから、人間の思考を従属させなくても、十分に占領の目的は達成出来る。別に、人間の思考なんていうものはAにとってはどうでもいいものなんですよ。ということで、二つ目の間違いに移りましょう。こちらはもう少し単純な話ですが、この主張は、人間の思考というものを、あまりにも過大評価し過ぎているという点です。

「あのですね、思考の上で従属しなければいいなんていうことを、いとも簡単におっしゃいますが。それがどれだけ困難なことであるかということを理解していらっしゃるんですか? というかですね、Aが本気を出せば、Bを構成している人々が、その思考を転向させないということなんて、百パーセント不可能なんですよ。ほぼ不可能とか、たぶん不可能だとか、そういうことではなく、完全に不可能であると断言してしまっても構わないんです。だって、ここまで何度も何度も申し上げている通り、人間の思考などというものは出来損ないだからです。

「例えばですよ、舞龍のような個別知性としての知的生命体であれば不服従を貫き通すことも出来るでしょう。というか、個別知性というものは、屈服するだとかしないだとか以前の問題として、そもそも外的な影響を受けませんからね。触れることの出来ないものを変えることなど出来るわけがないのだから、その本質からいって、あらゆる服従はあり得ない。だから、舞龍をこちらの思い通りにしようとすれば、知性の転向によってではなく、その行動を操作することによってそれを行わなければいけないわけです。入力と出力との関係性それ自体をいじくるのではなく、こちら側の入力を変えなければいけないということですね。

「しかしながら、人間は個別知性としての知的生命体ではない。関係知性としての知的生命体なんです。つまり、つまりですよ、その知性は、外的な影響によって決定されるということです。これもまた、何回も何回も申し上げてきたことですけれどね。人間の思考というのは、個体を取り巻く環境の一側面に過ぎない。集団の内的原理の断片的具体化に過ぎないんです。それならば、外部の環境が変われば、それが変化するのは当然のことなんですよ。要するにですね、「卓越」した方々は、人間のことを個別知性の持ち主であると勘違いしているんです。

「私がしているのは「人間の思考がどれほど転向しやすいのか」という話ではありません。全く、完全に、それ以前の問題。「人間には個体としての思考は存在しない」という話なんです。例えばですよ、集団Bの構成員が集団Aによって悉く殺されてしまい、たった一人しか残らなかったとしましょう。その一人が胸に復讐の意志を抱き、たった一人でありながらも様々な苦難を乗り越え、集団Aよりも強大であるところの集団B´を作ったとしましょう。そして、見事に復讐を果たし、集団Aの構成員を皆殺しにしたとします。いいですか、砂流原さん。この全ての行動は、集団Bにおいて、復讐は正しいことであり、いかなることがあってもやり遂げなければいけないという価値観が蔓延していたからこそ行われたことなんですよ。それから、まあ、その復讐者が引き継いだところの遺伝的傾向という要素に……あとは、集団Bが崩壊した後に、その復讐者が置かれていた環境も関わってくるでしょうがね。ただし、その復讐者の意思の力だとか、個人の思考の自立性などというものは、一切関係していないんです。むしろ、その復讐者が、自分自身というものを完全に喪失していたからこそこの復讐は完遂されたんですよ。

「人間の思考というものは、かくも空虚なものなんです。ですから、それを転向させる方法などいくらでもあるわけです。例えばですね、最も簡単で、それに安上がりなのは……Aの内的原理がBの内的原理よりも優れているということを理解させる方法でしょうね。この例で示されたケース、つまり集団Aと集団Bとのケースは、今までの話だけだと、まるでAが強欲かつ残忍な集団であり、ただただその野獣のような飢餓を満たすためだけにBを滅ぼしたように感じられるかもしれませんが。とはいえ、Aだって、別にデニーさんだとかレノアさんだとかいった方々によって率いられていた集団ではないわけです。生まれながらの悪魔によって率いられていたのではなく、ごくごく普通の人間によって率いられていた。ということは、Bを滅ぼしたという行為にも、なんらかの合理的な理由があったわけです。そして、もちろん、その合理的な理由は、集団の内的原理から導き出されたものである。とすれば、Aの内的原理がBの内的原理よりも優れたものであるということを証明出来れば、Bを滅ぼしたという行為は正当化されうるんです。

「そういうわけで、AはBを構成していた人々のことを「説得」しにかかるわけです。自分達の内的原理の方が優れているとね。しかも、その「説得」というのは合理的な会話によって行われるわけではありません。大抵の人間は――あはは、もちろん私も含めてということですが――低能ですからね。目の前に、いかに正当な論理を並べ立てられても、自分の偏見というものを捨てようとはしないものなんです。それどころか、その論理が正当であれば正当であるほど、自分の偏見を破壊するものであると警戒して、より一層、強く強く、自分の偏見を抱き締めることになる。その偏見を破壊するのは冷静な討論によっては不可能です。そうではなく、物質的な満足感によってなされなければいけない。

「つまり、Aは、Bを構成していた人々に対して、信じられないほどの富を与えるわけです。例えば、Bのような弱小な集団では獲得出来なかったような饗宴。世界中のあらゆる場所から集められた珍味に、先進的な技術がなければ作れないような美酒。そういったものを提供する。それから、しっかりとした規律ある生活も重要ですね。人間の思考をある集団の内的原理から別の集団の内的原理へと移行させるには、人間の、最も根源的な部分から慣らしていくことが重要ですから。実際のところは、健康的な生活習慣などというものは、価値観とはあまり関係のないところにあるわけですが。それでも、そういう習慣を、とある集団によって続けさせられることによって、その集団の内的原理に従っているおかげで健康になってきたのだと勘違いするようになる。

「このようにして、人間に対して、物質的な満足感を与えていくと。自然と、その思考は転向してくるものなんです。Aという集団に所属することで、Bにいた頃には味わえなかったような生活上の安定を享受出来ている。ということは、Bの内的原理よりも、Aの内的原理の方が正しいのではないか。そう思うようになってくる。あはは、まあ、人間が作り出した集団の内的原理なんてどれもこれも似たようなものですからね。大した違いはない、そうであるならば、富と健康とを手に入れることが出来る集団の方が正しいのではないかと思うのは当然のことです。そして、こうして、内的原理の移行を済ませた人間は……容易く、その思考を転向させるということですよ。

「あとは、これ以外にも、ぱっと思い付くことが出来る二つの方法があります。一つ目は拷問ですね。とはいえ、拷問については「卓越」した方々から反論があるかもしれません。確かに大多数の人間は拷問によって転向するかもしれない。とはいえ、一部には、確かに拷問に耐え切って非転向を貫いた人間もいる。だから、拷問を完全に有効な方法とするのは間違いだ。くっ……あははははっ! いや、いや、失礼しました。ちょっとまあ、現実というものを知らない方々は、時折恐ろしいことをおっしゃるなと思いましてね。怖くはないのでしょうかね、そんなことをいうのならば、実際にあなたが拷問に耐えてみて下さいと、そういわれることが。

「私は、記者として、それほど豊富な経験があるとはいえませんけどね。まあ、確かに、拷問に耐え抜く方もいらっしゃいます。そういう方も何人か存じておりますよ。ただし、その場合の拷問は、人間というコンテキストに収まる範囲での拷問です。例えば(この部分はあまりにも残酷な描写であったため削除されました)とか、あるいは(この部分はあまりにも残酷な描写であったため削除されました)とかですね。その程度の拷問ですよ。時間的にも、停時空間と死霊術とを並行して使ったとして、たかだか一万年だとか一億年だとかその程度じゃないですか? それくらいの拷問であれば、確かに耐え切る方もいらっしゃるでしょう。けれどもですよ、人間以上の拷問に、人間は耐え切ることは出来ないんです。つまり、人間が、その肉体で、予め感じることが出来るとされた上限を遥かに超える苦痛ということです。

「人間の、この肉体の、あらゆる神経。あるいはもっと単純に、この脳髄というものは、所詮は限りある苦痛しか感じることが出来ない。そして、その苦痛は、論理的には、許容範囲内の苦痛なんです。そんなことは当たり前でしょう? 生物学的に考えて、耐えられないような苦痛を感じられるように、予め肉体を構成することがあり得ると思いますか? よほどの間違いでもない限り、そんなことはあり得ないんですよ。ですから、その感じることの出来る限界内の拷問ならば、確かに耐え切ることが出来る人間というのは存在しうるんです。けれども、その限界、予め定められたリミッターを外してしまったら? 人間のこの肉体ではなく、もっと別の、遥かに恐ろしい苦痛を感じられる肉体によって、拷問を受けたら? いいですか、砂流原さん。私が記者として生活してきた限りにおいて、そのような拷問に耐え切ることが出来た方は、ただの一人としていませんでしたよ。

「そして、もう一つの方法ですが、もちろん洗脳ですね。頭の中に元からあった思考というものを洗い流してしまって、こちらに都合のいい思考を新しく刻み込むという方法です。まあ、やり方はいくらでもあって、テレパシーみたいな科学的な方法を使ってもいいし、あるいは歪理術を使って現実そのものを捻じ曲げてしまってもいいでしょう。そういう風にして、Aに対して不服従を貫くという思考を完全に消し去ってしまって。そして、Aへの忠誠心を刻み込めば、それでお終いです。Bを構成していた方々は、これまでに存在したいかなる生命体よりも忠実なAの奴隷へと変貌を遂げるでしょう。

「まあ、この方法には、次のような反論があるかもしれませんね。つまり、そのようにして洗脳を受けたことによって導出されたところの服従というものは、決して、Bの自発的行動ではないではないか。それは人間の本心からなされた転向ではなく、それゆえに真実の転向とはみなせない。Bが真に屈服するというのは、Bが、まさに、自由意志によって、Bという集団を捨てて。そして、Aに対して服従の意思を表明した時だけだ。つまり、「自分自身」の内発的な行動から思考を変えたのではない限り、それは、人間の敗北とは言えないのだ。

「ああ! またもや「自分自身」ですか! 自由意志だの、人間の本心だの、もういい加減にして下さいよ。あのですね、それではお伺いさせて頂きますけれども、あなた方の思考というものは、その一欠片でも、物理的・妖理的な反応から離れたところで行われているんですか? そんなことはないでしょう! あなたの思考というものは、化学物質によって制御されているところの、神経系を走る微小な電気信号によって構成されているわけです。あるいは、観念的なフィールドにおける魔学的エネルギーの関係性によって規定されているわけです。要するにですね、その全ては単なる現象に過ぎないんですよ。

「つまり、Bという集団を構成していた人々が、他の集団を構成していた人々とは異なって、Aに対して不服従を貫けたのは。そういった、現象的な条件が、他の集団よりも有利な状態にあったからに過ぎないんです。それは、決して、Bという集団を構成していた人々が、他の集団を構成していた人々よりも人間的に優れていたというわけではない。ここには、「自分自身」などというものは一切関係ないんです。ここに現れてくる条件は、その全てが物理的・妖理的な現象に過ぎない。

「そうであるならば、ですよ。それが自発的行動なのか自発的行動ではないのかという区別は、全く意味がないんです。だって、そもそも、自発的という言葉が表すところの「自分自身」などというものは、Bの不服従には全く関係していないんですから。人間の本心もクソもない。ここには、現象と結果しかない。ということで、どんな方法を使ったのかということは、敗北の条件にはならない。洗脳という現象から転向という結果が出た場合、それは、間違いなく、Bの敗北なんです。

「そんなわけで……「卓越」した方々が二つの意味で間違っていたということを、まあ、まあ、主張出来たのでないでしょうか。まず一つ目の間違いは、人間の思考に対してあまりにも重要な価値を置いてしまったということ。征服者にとって人間の思考なんてどうでもいいんです。そんなものよりも、もっともっと価値あるものはいくらでもある。人間の思考などというものを質屋に持っていって、一体いくらになりますか? あはは、そういうことですよ。人間の思考にはなんの価値もない。そして、もう一つの間違いは、人間の思考というものをそれ自体として存在している絶対不可侵のものであると思ってしまったこと。それが、あたかも黒イヴェール合金だとかムナーライトだとか、そういった、確固とした実体をもった、永遠不変の物質のようなものであると考えてしまったことです。人間の思考はそういったものではないんですよ。もちろん、言葉の上でそうなんだということは出来ます。人間の思考はどんな強大な力にも逆らうことが出来ると。けれども、それは、所詮は嘘なんですよ。人間の思考はどこまでもどこまでも変化しやすいものであり、いとも容易く転向してしまう。強大な力が本気を出せば抵抗を続けることなんて不可能なんです。

「そういうわけで、「受動的な抵抗」などというものにはなんの意味もない。もしも、「受動的な抵抗」をしたままで、弱小な集団の構成員が皆殺しにされたというのならば。それは、強大な集団にとって、そういった構成員の抵抗などというものはどうでもよかったからに過ぎないんです。コストとベネフィットとを比較してみて、コストの方が大きくなりそうだったから、不要なものとして切り捨てられた。その抵抗者達は、勝利したわけではない。クソの役にも立たないただのゴミとして捨てられた、それだけのことなんです。あはは……人間の思考なんてね、砂流原さん、その程度のものなんですよ。

「閑話休題……まあ、全くの閑話だったというわけでもありませんがね。とにもかくにも、このようにして「卓越」した方々は人間の思考というものを絶対視してしまっているのですけれども。その結果として、一体いかなる曲解がなされているのか? 「卓越」した方々がしている批判は、どのような意味で見当外れなものであるのか?

「簡単に言えばですね、「卓越」した方々は、人間の思考というものを過信してしまっているんです。というか、それが、絶対的な「正しさ」そのものであると考えてしまっている。もちろん、「卓越」した方々はおっしゃるでしょう。私達は、人間の思考を絶対的な「正しさ」であるなどとは考えていない。人間の思考が必ず間違えに陥るものであるということを決して否定しはしない。だが、私達が、まさに生きた経験の中で、現実の生きた経験として思考すれば。必ず、絶対的な「正しさ」に辿り着くことが出来る。そして、それ以外に、絶対的な「正しさ」に辿り着くことは出来ない。

「ほら、ほら! それです、それがもう駄目なんですよ! 今のその反論こそが、あなた方が、人間の思考というものを絶対的な「正しさ」だと決めつけてしまっていることの何よりの証明なんです。よく考えてみて下さい、確かにですよ、あなた方は、人間の思考も「間違えることがある」といっています。けれどもですよ、それは、人間の思考が人間の思考として完全ではないから「間違えることもある」といっているに過ぎないんです。だって、あなた方は、そのすぐ後に、人間の思考によってしか絶対的な「正しさ」に辿り着けないといっているんですよ! そして、あろうことか、それ以外には絶対的な「正しさ」に辿り着く方法はないとまでいっている! ああ、もう! その主張は、人間の思考の完全な形こそが絶対的な「正しさ」であるという主張と、どこが違うんです? 同じです、同じなんですよ、全く同じなんです!

「私達はそんなことはいいません。絶対にいわないんです。それどころか、人間は絶対的な「正しさ」に辿り着くことが出来ないといっている。人間は、人間よりも高等な生き物にならなければいけないといっている。絶対的な「正しさ」に辿り着くためには、人間以上の何かにならなければいけないと考えているからです。人間の思考などというものは、徹底的に不完全であるというだけではなく、それ自体として自律的に存在しているわけでさえない、周囲の環境によってどこまでもどこまでも流動的に変更してしまう現象でしかなく、それゆえに全く頼りにならないものであるということを知っているからです。

「だからこそ、私達は、私達の外部にある何者かを信じなければいけないんです。それも「盲目的」なまでに。それ以外には、人間である私達が、人間の思考を、自分が思考しているところの思考を、疑う方法などないから。つまりですね、私達が信じなければいけないのは、疑うためなんです。本来であれば疑い得ないものを疑うため、つまり、「卓越」した方々が「自分自身」という言葉で定義するところのものを疑うために、それ以外の何かしらを基準点としなければいけないということなんです。

「さて、これでtyrannyと無思考との関係性については十分に再反論し終えたのではないでしょうか。つまり、人間が無能力に陥るのは、tyrannyによって人々が孤立するせいではない。事実は、全く、その反対なんです。それは……「卓越」した方々が、自分自身などという存在しないものを「受け入れて」しまったせいで、あまりにも不完全な人間の思考を疑うことが出来なくなって。実際は集団の内的原理、しかもその最も洗練されていない形での表れに過ぎないところの人間の思考を、絶対的な「正しさ」であると確信してしまうことによって、不可避的に嵌まり込む陥穽なんです。だから、無能力に陥りたくなければ、私達は人間の思考というものを徹底的に疑わなければいけないんです。絶対的な「正しさ」に辿り着くためには、自分自身という概念を、まずは手放さなければいけないんです。

「それでは、次の再反論に移りましょう。それは、「卓越」した方々が現れの時空間と呼ぶところの概念についてです。あはは、いやー、というかですね……実は、この部分を再反論するということは、ただの再反論というわけではないんです。砂流原さんも、たぶんお気付きになったと思うんですけれど。この現れの時空間というのは、要するに、生きた経験のことなんです。というか、正確にいえば生きた経験として人間によって生きられるところのフィールドですね。そして、それは、もちろん物語でもあるんです。

「つまりですね、先ほど「卓越」した方々にお話し頂いた、現れの場についての説明というのは。ほとんどそのまま生きた経験についての説明であると考えて構わないわけです。というか、生きた経験というものがどのようにして世界的状態を人間的状態へと変換していくのか。どうやって、人間の思考によって把握される全ての粒子と波動とに対して現実性というものを付与していくのか。その過程についてのお話だったんです。ということは、この再反論を完了させることによって、私達は、ようやく、私達の主張するべきことを主張し終わることになるんです。つまり、この世界を「正しさ」の方向とは違う方向へと導いている原因が……感動と憎悪と、そして、それを生み出すところの「自分自身の物語」であるという主張をね。

「物語、物語……はははっ! そう、物語。砂流原さんは、なぜ物語というものが問題なのだと思いますか? 砂流原さんも、きっと、今まで生きてこられた中で様々な物語に触れられてきたと思います。神話に伝説に歴史に、漫画に小説にゲームに。それだけではなく、例えば、今まで私が書いてきたような新聞記事の内容だとか、それに最近の流行歌の歌詞だって、やっぱり物語なんです。さて、そういった物語と……物語ではないもの。「卓越」した方々がおっしゃる現実性などというものとは全く関係なく、むしろそれとは反対の概念であるところの現実と。その違いとは、一体なんでしょうか。

「それについてはですね、砂流原さんご自身の言葉でご説明させて頂くのが一番分かりやすいでしょう。あはは、砂流原さんは……私達のこの議論を始める前におっしゃいましたよね。感動がなければこの世界になんの意味があるのか、憎悪がなければこの世界になんの意味があるのか。人間に感情というものがなかったならば、善と悪との区別もなく、従ってこの世界には「正しさ」などというものは存在しないのではないか。絶対的な基準というものは、自分自身の感情と自覚的に向き合って、自分のためではなく他人のために何かをしようとすることによって初めて生まれうるのだ。だからこそ、私達は、自分自身であり続けることから逃れてはいけない。何か別のもの、運命のようなものに全てを任せ切って、担うべき責任から逃避しようとしてはいけない。確か、こんな感じでしたよね。まあ、ちょっと単純化し過ぎてしまったかもしれませんが……あはは、そこら辺はご容赦下さい。

「さて、物語とはまさにこれなんです。つまりですね、物語とは、主人公の立場から世界という現実を再構成するということなんです。もちろん、ここでいう主人公とは、物語に出てくるところのある特定の登場人物を指しているわけではありません。それは、その物語の読者が感情移入する対象としてのキャラクターのことを指します。必ずしも一般的な意味の主人公であるというわけではないし、また、一人の登場人物の視点に固定されているわけでもありません。物語の間に、その視点がたくさんの登場人物を渡り歩くこともあり得ますし。それに、多数の登場人物の集団が内的原理として提供する視点もあり得ます。そして、時には……その物語の登場人物でさえないこともあり得ます。つまり、作者としての視点に感情移入していたり、あるいは純粋に読者としての読者に感情移入していたり、そういった場合ですね。

「その場合、世界は単純な二元論に陥ってしまいます。つまり、主人公と脇役と。そして、脇役は、最終的に切り捨てられてしまうことになります。えーと、何度も申し上げますが、ここでいう主人公とはヒーローだけを指し示すわけではありません。物語が提供する、感情移入可能な全ての視点。つまり、ヒーローもヴィランもサイドキックも。あるいはサポーティング・ロールにマイナー・ロール、一瞬だけ出てきたモブに、物語に登場さえしていないが、その物語から推測しうるところの全ての非登場人物さえも入るかもしれません。一方で、脇役とは? それ以外の全てです。つまり、物語の外側にある全てのものが脇役なんです。

「あはは、いいですか、砂流原さん。いつだって、物語の一部になれない人間というものは存在しているんですよ。そして、弱者とは、つまりはそういった人間達なんです。砂流原さんは思われるかもしれませんね。弱者とは貧しい人間であると。虐待されている人間・搾取されている人間・抑圧されている人間であると。実際のところ、まあ、そういう人々が弱者であるという場合がほとんどではあるんですけれどね。とはいえ、そういう人々の弱者としての本質はそこにはありません。そういう方々が弱者であるのは存在していないからなんです。その人々の姿が見えず、その人々の声が聞こえず、そして、その概念さえも、私達には理解不可能であるからなんです。つまり、物語の外側にいるからなんです。

「もちろん、そういう人々が一時的に主人公となることはあり得ますよ。例えば、あはは、新聞記事になったりしてね。けれども、それは脇役にもスポットライトが当たったということではないんです。だって、スポットライトが当たった瞬間に、その脇役は主人公になるんですから。その脇役は、その瞬間、脇役として存在したわけではない、主人公として存在したんです。だからこそ、物語から消え去って、物語の外側に追いやられてしまったら。その次の瞬間には忘れ去られるんです。そして、また、虚無として生きていくことを余儀なくされる。

「そして、それだけではありません。物語は、脇役を、弱者を、作り出してしまうというだけではない。読者の知性を取り返しのつかないほどに捻じ曲げてしまうんです。読者は……主人公という存在を通して、読者は、常に、自分が物語の中心にいると感じ続けます。そうしているうちに、自分がもしかしたら脇役なのではないかという疑いが完全に消え去ってしまうんです。現実の世界において、いてもいなくてもどうでもいい誰か。その口にする言葉に何の意味もなく、その体がする行動に何の意味もなく、ただただ生きているだけの誰か。そうであるかもしれないという可能性を、完全に失念してしまうんです。

「そして、自分自身が、この世界の中心であると考えてしまう。ちなみに、ここでいう世界の中心とは、例えばこの世界で最も重要な人間であると考えるとか、この世界で唯一のオンリーワンであると考えるとか、そういうことではありません。あはは、そんなことはよほどの誇大妄想をお持ちの方しか考えないでしょう。そうではなく、自分が認識することがそのまま世界の真実だと考えることです。自分が認識するもの以外のものはこの世界には存在せず、また、世界もその通りに動いているのだと確信するということです。人間の曖昧な感覚で把握した粒子、人間の単純な思考で把握した波動、そういったものを、絶対的な世界であると勘違いしてしまうということです。

「具体的な例を申し上げますと……そうですね、分かりやすいですし、以前にも色々と議論をして論点がはっきりとしているということで、移民労働者の例を取り上げてみましょうか。移民労働者を擁護する言説の中にはこんなものがあります。曰く、「移民が担うのは劣悪な環境下で過酷な業務をこなさなければいけない労働である」「集団の構成員はそのような労働を忌避するだろう」「そうであるならば集団の構成員が担う仕事と移民が担う労働とは根本的に異なったものである」「もしも移民がいなくなればそういった労働の担い手がいなくなり結果的に集団は破滅の危機を迎えることになる」。

「まあ、色々なパターンがありますが大筋ではこんな感じですね。こういうことを主張なさる方々は、もちろん、物語の中に生きている方々です。そして、そのせいで、自分自身の考え方以外に、現実というものが存在しているということさえ理解出来なくなってしまっている。あのですね、いいですか砂流原さん。この言説が、どれほどまでに悪辣であって、どれほどまでに卑劣であるか、それが分かりますか? まず最初に、こういった言説を吐く方々は、自分達が絶対にやりたくない労働を他人に押し付けることに対してなんの恥じらいも感じていない。普通であればですよ、少しでも良心というものがあるのならば。これほどまでに人間性が欠如したことをこれほどまでに堂々と口にすることは出来ないでしょう。その労働が劣悪であり過酷であるから、「普通」の人間ではない、移民という別の種類の人間にやらせる。ここまで嫌悪感を抱かせる内容の言説を、あたかも移民の人権を守るための正当な論理であるかのようにして主張する。あはは、自分のことを客観視出来ていないんですよ。自分がどういう意味のことをいっていて、それが、物語の外側にいる人間からはどのように受け取られるのか。そういったことを、一切考えられなくなってしまっているんです。

「それにですよ、それだけではない。ちょっとでも自分自身というものを疑うことが出来るのならば、この言説が、倫理的に間違っているというだけでなく、論理的にも破綻しているということが分かる。つまりですね、移民が担う労働というものが劣悪かつ過酷なのは、別にその労働が本質的に劣悪かつ過酷であるからではないわけです。いや、正確にいえばそういう面もないわけではありませんよ。例えば、生活に必須であるところの農業だとか漁業だとか、あるいは食肉加工だのハウスキーピングだのという仕事は、その性質からいって、低価格に抑えておかなければいけません。だって、そういう仕事は――まあハウスキーピングは別として――どんなに貧しい人々にもいきわたらなければいけないわけですからね。

「とはいえですよ。いくら低価格でなければいけないとはいえ限界というものがあるんです。労働者だってね、人間なんですから、必要最低限度の生活なんていうものをいつまでもいつまでも続けているわけにはいかないんです。ちょっとは美味しいものを食べたりだとか、そこそこ酔える酒を飲んだりだとか、夏には冷房をつけたいし、冬には暖房をつけたいし、トイレにはウォッシュレットを付けたいものなんです。だからこそ、移民の権利を主張される方々がおっしゃるところの劣悪かつ過酷な労働、まともに生活することさえ出来ないような労働を忌避するわけです。

「と、いうことは。そういった労働は、本来は労働市場から駆逐されなければいけないたぐいの労働なんですよ。もしも移民がそういった仕事を引き受けなければ、集団に所属する他の構成員はそんな労働をしようとはしないわけです。そうなれば、雇用者の側は、労働条件を改善するだとか賃金を上昇させるだとかそういうことをして、劣悪さだとか過酷さだとかを少しでもましなものにしようと努力するわけなんですよ。

「もちろん、今のままでは、賃金を上げることが出来ないのならば。労働者一人当たりの生産性を上げるための技術を研究するだとか、効率性を上げるために生産管理を見直して工程を開発するだとか、そういうこともしなければならないでしょう。経営体制を全体的に刷新する必要も出てくるかもしれません。そう、本来であれば、これほどまでに様々な方法があるはずなんです。そして、そういった方法によって、劣悪で過酷で人間を人間として扱わない労働環境は、次第に次第にまともなものになっていくはずだったんです。そう、移民が、そういった、淘汰されるべき労働を引き受けさえしなければ。

「そうであるにも拘わらず、移民の権利を主張される方々は、労働環境を良くしていくことなど一顧だにしないわけです。いや、ちょっと違いますね。労働環境が悪い、改善しなければいけない。賃金が低い、上げなければいけない。そういったことを、ぽつりぽつりと、何かしらのスローガンみたいにして発言するということは、むしろよくあることだといってもいいでしょう。ただし、ただしですよ。そういう発言が移民の問題と結び付けられることは決してない。移民の問題は移民の問題であって、労働環境の問題と結び付けて考えてはいけないのだ。なぜなら、移民の問題も、労働環境の問題も、最高の方法で解決しなければいけないからだ。どちらかの問題を言い訳にして、どちらかの問題についての妥協をしてはいけない。そんな感じですかね。

「しかしながらですよ、現実問題として、移民が労働環境の悪化の原因になっているわけなんです。そのことについては、別に、私達が主張したことではない、あなた方が主張したことなんです。だって、あなた方はおっしゃいましたよね。移民がクソみたいな労働を引き受けないのならば、そういった労働は成り立たなくなるだろうって。成り立たなくしなければいけないんですよ、そうしなければ、いつまでもいつまでも、そういったクソみたいな仕事はクソみたいな仕事のままなんです。

「そう、要するにこれこそが物語なんです。本来は複雑に結び付き合って多角的に処理されていくところの現実というものを、自分自身が抱いている理想というものに無理やり当て嵌めて、解決不可能なまでに単純化してしまう。あるいは、一つ一つの過程を論理的に追いかけていって、それぞれのケースによって個別具体的に解決していかなければいけないところの問題を、なんでもかんでも構うことなく、自分自身が「これこそ解決策である」と考えているところの思想、たった一つの方法によって解決しようとする。その結果として、個々の問題に特有であったはずの焦点が取り返しのつかないほどぼやけてしまい、完全に曖昧化してしまう。これが、自分自身が世界の中心であると考えることです。

「あるいは、もう一つくらい例を挙げてもいいかもしれませんね。今度は、先ほどよりも単純な例です。砂流原さんは「屠殺」という言葉について……あっ、いや……「屠殺」について話すとなるとミス・スローターハウスに触れないといけなくなるな……そうなると土蜘蛛の説明もしなきゃいけなくなるし……んー、これが一番分かりやすいんだけどな……まあいいか……えーと、じゃあ、砂流原さんは「めくら」という言葉をご存じですか? あはは、そうですそうです、視覚障害者の人々を指し示す言葉ですね。砂流原さんは、この言葉に対して、どのような印象を覚えますか? 非常に差別的な言葉であって、絶対に使ってはいけない言葉である。まあ、そんな感じでしょうね。しかしながら、それは、砂流原さんが月光人だからなんですよ。この「めくら」という言葉は、EUではごくごく普通に使われている言葉です。

「あるいは「気狂い」という言葉。これもやはり普通に使われています。まあ、一部の方々からは使用しない方がいいという主張もなされていますけれどね。一応は差別的な言葉であるという認識もある。ただ、そういったこと、つまりこういう言葉が差別的な言葉であるということを考えさえもしない方々が大半です。小説でも漫画でも頻繁に出てきますし、子供向けのテレビ番組でさえこういった言葉が使われます。「お前はめくらか」とか「気でも狂ったのか」とか、そして、それが問題になることはありません。滅多にないとかほとんどないとかではなく完全にないんです。

「これはなぜなのかというと……まあ、ここから先は、完全に私の推測に過ぎないんですけれどね。恐らくは、「めくら」だとか「気狂い」だとか、そういった言葉に纏わり付いている、各集団ごとの聖性の違いであるように思われます。つまり、月光国という集団とEUという集団と、その二つの集団における歴史的な要素の違いということですね。

「分かりやすくするために、話を第二次神人間大戦の前まで遡らせましょう。共通語という言語が発生する前ということです。EUという国家が正式に誕生するのはもちろん第二次神人間大戦の後のことではありますが。とはいえ、そのもといとなるような集団はアーカム大陸において既に存在していました。そこで使用されていたのは、基本的にはその当時のリンガ・ホビッティカであった汎用トラヴィール語であって……「めくら」に相当する言葉は「blind」、「気狂い」に相当する言葉は「crazy」でした。

「つまり、現在EUで使用されている「めくら」も「気狂い」も、第二次神人間大戦前から月光国で使用され続けているそれらとは、全く異なった言葉であるということなんですよ。まあ、「blind」はグータガルド語の「blandana」からきた言葉であって、それは「混沌によって暗く閉ざされている」という意味の言葉だから、「めくら」と大して違う言葉ではありませんし。それに、「crazy」についてもシータヤルーシ語の「krasa」、「ばらばらに破壊される」という言葉からきていて、「精神的に掻き乱されている」という意味を持つようになった言葉なので、「気狂い」と大差のない言葉ではあるのですが。とはいえ、それはやはり「めくら」ではなく「blind」であって、「気狂い」ではなく「crazy」であるわけなんです。

「そして、「blind」や「crazy」やといった言葉には、「めくら」や「気狂い」やといった言葉に……いわば、べっとりと付着している、聖なる意味合いが、ないんです。まあ、全くないとまでは言いませんけれどね。それでも、月光国の言語における聖性とは比べものにならない程度でしかない。

「聖性とは何か? つまり、人間以上の何者か、ゼティウス形而上体であるとかフェト・アザレマカシアであるとか、聖なるものとの接続可能性です。そして、「めくら」が指し示すような人々、「気狂い」が指し示すような人々は、月光国において、そういった聖なるものとの接続可能性が非常に高かった。

「砂流原さんはご存じですかね? 月光国において奇瑞と呼ばれる人々のことを。あらららら? その顔は、どうやらご存じであるようだ。しかも、かなりよく知っているように見えますね。あはは、それでは、詳細な説明は省きますけれど……奇瑞は、易字で書くと、奇跡の奇に瑞相の瑞、音読みでは「きずい」と読み、易国では「チェーリー」と読んでいました。元々は易国で使われていた概念であって、「神々が人間に対して恵みをもたらす前触れ」だとか、そういった意味で使われていました。それが、月光国に入ってきて「くしのしるし」という音にあて嵌められるようになってから、それとは少しばかり異なった意味で使用されることになった。

「月光国における「くしのしるし」は、神々によってある種の祝福を授けられた人々のことを指します。その祝福を受けた方々は、神々に匹敵するほどの力を、それどころか、場合によってはそれ以上の力を使うことが出来るようになります。ある条件の下でという限定はありますが、根源情報式さえも変えうるような奇跡を起こすことが出来るようになるということです。これは月光国にのみ見られる現象であって、なぜ、月光国の神々が人間に対してそれほどの力を与えるのかということは分かっていないのですが……それでも、どんな人間に対して、その祝福を与えるのかということは分かっています。

「それは禍事としての人間です。その身のうちに穢れを抱いている人間です。つまり、もっと簡単にいうと、どこかしらに欠陥がある人間という意味ですよ。身体障害者であるか、あるいは精神障害者であるかは問いませんけれどね。例えば……私が知っている奇瑞の人々の中には、結合双生児として生まれてきた姉妹がいます。二人の人間が、腰から下の部分がくっ付いた状態で生まれてきたということですね。私がその姉妹と親交を結ばせて頂いた時には、既に、二人の体は二つの体に切り離されていましたが。とにかく、その姉妹にとっては、結合双生児であるということがまさに奇跡の瑞相であったというわけです。

「あはは、砂流原さんがご存じだという奇瑞の方も、きっとどこかしらに何かしらの欠陥がある方でしょう。見た目ではそうと分からなくても、きっと精神のどこかに異常があるに違いありませんよ。まあ、それはそれとして……月光国では、そういった奇瑞という現象……いや、制度といった方がいいのかな? とにかく、その奇瑞のせいで、「めくら」という言葉が指し示す身体障害者の人々や「気狂い」という言葉が指し示す精神障害者の人々やに対して、聖なる力を持つ人々というイメージが形成されたということです。もちろん身体障害者の全てが奇瑞であるわけではないし精神障害者についてもそれは同様です。とはいえ、いわゆる健常者の人々は、そういった聖性に、絶対にアクセス出来ないわけです。

「その結果として、「めくら」という言葉が、「気狂い」という言葉が、ある種の力を持つようになった。その力は、突出した異常性であり、もっと単純にいえば、恐怖です。自分とは明確に異なったものであるという恐怖、人間という種類の生き物ではない、何か、特殊な生き物であるという恐怖。良いものでも悪いものでもない、そういった価値判断を大きく超えた、単なる荒ぶる力。そういった力は、やがては遠ざけられるようになって、制度としての禁忌へと繋がる。そして、そういった禁忌が、集団における差別の基本構造であるわけです。このようにして、「めくら」や「気狂い」やという言葉は、月光国において、触れてはいけない差別用語となったわけです。

「いや、まあ、「わけです」といっても、あくまでも私の推測に過ぎませんけれどね。さて、一方で、汎用トラヴィール語における「blind」や「crazy」やといった言葉ですが。先ほども申し上げたように、これらの言葉には、聖性というものがほとんど付着していない。それはなぜかといえば、汎用トラヴィール語圏において聖性というものはトラヴィール教会によって独占されていたからです。まあ、正確にいうならばトラヴィール教会及びノスフェラトゥとなるのですが、そこら辺はこの話に関係ないところなので省きますね。とにかく、身体障害者だとか精神障害者だとかいった存在は、聖性の担体となる可能性はあったものの、聖性それ自体ではなかったわけです。

「例えば、トラヴィール教会の歴史にも盲目の聖人の話だとか異言を話す聖人の話だとかは出てきます。とはいえ、それは「blind」であるから聖であるわけではなく「crazy」であるから聖であるわけでもない。ただただ聖人であるから聖なんです。というか、そういった聖人の話は、トラヴィール教会以前から存在している障害者信仰、異人としての障害者信仰を、トラヴィール教会が中心となって聖性を独占する中央集権構造に組み込むための一つの手段に過ぎない。あくまでも、聖なるものは、教会なんです。

「ということで、身体障害者も精神障害者も汎用トラヴィール語圏においてはただの人間に過ぎないんです。私達と根本的に異なった人間ではない、異人ではない。そうですね、感覚としては、ちょっと重い病気を患っている人といった感じなんじゃないでしょうか。癌を患ってる人とかそんな感じですかね。だから「blind」という言葉も「crazy」という言葉も聖性を持たなかった。あるいは、それを持っていたとしても……教会によって奪われてしまった。その結果として、元々は汎用トラヴィール語圏であった国々においては、「めくら」や「気狂い」といった単語は差別的な意味を持たなかった。恐らくは、そういうことなのでしょう。

「これは、それが真実であるかどうかということは別にして、ほとんどあらゆる差別について適用することが出来る論理です。例えば、アトナ人差別についても、月光国にいるとその本質についてほとんど理解することが出来ないでしょう。この差別の感覚は、西洋にある国々――この西洋という言葉もケメト・タアウィから見て西側にあるか東側にあるかという意味に過ぎないのですが――つまり、ディアスポラの民としてのアトナ人を、ある種の来訪者、異人、まれびととして扱ったことがある歴史を持つ人々でない限り、理解し得ない感覚なのです。

「そして、このようにして、差別の感覚を抱いたことがなければ。それと対応する感情であるところの罪悪感を抱くことも出来ないというわけです。「めくら」・「気狂い」という言葉が、差別用語として禁止されるためには。「めくら」の人々を・「気狂い」の人々を、差別したという罪悪感がなければいけない。「ダニー」という単語を公の場で口にすることについて、なんとなく憚られるようなことであると感じるためには、アトナ人を差別してきたという歴史がなければいけないんです。

「つまりですね、何が言いたいのかといえば。月光人の方々がダニエルという名前の人を「ダニー」と呼んだとしても、それは差別ではないということなんですよ。外見上は許しがたい差別的な行為であるように見えるかもしれませんが、実際には差別ではないんです。同じように、EUの人間が「お前はめくらか」という言葉を使ったとしても、そこには視覚障害者の方々に対する差別の意図はほとんど含まれていない。どちらかといえば、それは、激しい恋心にとらわれている人々に対して「熱に浮かされているようだ」と形容するのに等しいことなんです。ここでは、視覚障害という概念は、あたかも発熱か何かのように、ありふれた一つの病状として取り扱われている。

「そんなものなんですよ、差別なんていうものは。大して重要な問題ではない、絶対的な悪などではなく、せいぜいが相対的な争点といったものなんです。あはは、もしかして、もしかしてですよ。私達の世界とは全く異なった世界において、黒人が支配階級ではなく奴隷として扱われていたのであれば。その世界においては、黒人に対する差別が問題になっていたかもしれません。そして、その世界では、黒人ではない役者達が、自分の顔を黒く塗って、黒人としての演技をすることさえ許されていなかったかもしれない。砂流原さん、砂流原さん! あり得ないことだと思われますか? 私も、まあ、半分くらいは冗談で言っているんですけれどね。しかしながら、もう半分は本気で申し上げています。

「なぜなら、それはEUで実際に起こりかけていることだからです。第二次神人間大戦までは、黒人は、確かに支配階級でした。ケメト・タアウィという世界最強の国、ヤー・ブル・オンという世界最強の神。そのどちらもが、黒人世界に属していましたが……とはいえ、第二次神人間大戦によって、ケメト・タアウィが滅び、ヤー・ブル・オンがナシマホウ界からいなくなってしまうと。黒人の地位は、それによって大きく低下しました。現在のEUにおいては、黒人というものは、ほとんど劣等人種のように扱われています。昔の栄光に縋り付いて、旧時代的な価値観から抜け出すことが出来ない、惨めな惨めな人々。もっとはっきりといってしまえば、「神国主義者」。そのように、軽蔑され、差別されているわけです。

「そして、最近になって、その差別が罪悪感に転換しそうになってきているんです。つまり、黒人を黒人であるとして扱うことにまつわるあらゆる言動が、ある種の禁忌のようなものになりかけている。例えば、以前は優れた風刺劇であるとされていたブラック・フェイス演劇も、現在ではほとんど行われていません。それどころか、ケメト・タアウィで書かれた戯曲を演じるにあたって白人が自分の顔を黒く塗ることさえ許されなくなってきています。黒人のキャラクターを黒人以外が演じることが検閲に似た現象によって排除されかけている。

「これは、月光人である砂流原さんにとっては信じられないことでしょう。月光国は……黒人について、支配階級だと考えたこともなければ劣等人種だと考えたこともないでしょうからね。月光国の舞台演劇においては、未だに、白人を演じる人々が顔を白く塗るのと全く同じように、黒人を演じる人々が顔を黒く塗っています。そして、これはもちろん差別ではない。ただただ演劇の中でのリアリティを追求しただけのことです。小道具として空の酒瓶を酒の色で塗り潰すのと全く同じ程度の意味しか持たない。

「いいですか、砂流原さん。これが、差別なんです。それはあくまでもあなたが所属している集団における一つの恣意的な決まりごとに過ぎない。イデオロギー、価値観、宗教、なんと呼んでも構いませんが、そういった何かに過ぎないんです。確かに、その差別によって、ある特定の人間が何かしらの不都合をこうむることもあり得るでしょう。惨たらしく殺されたり、人間としての権利を与えられなかったり、そんな扱いを受けることもあるでしょう。しかしながら、問題なのは、その不都合なんです。差別ではない、差別自体はどうでもいいんですよ。

「そうであるにも拘わらず、物語はそれを認めることが出来ない。自分が所属する集団でしか通用しないコンセンサスを、絶対的な真実であると錯誤する。なぜなら、そのコンセンサスこそが主人公であって、それ以外のものは考えに入れるまでもない脇役に過ぎないからです。結果として、例えば差別においては、ブラック・フェイス演劇をなくさなければいけないだとか、そういったどうでもいいこと、それどころか意味の分からないことに拘泥することになるというわけです。

「いや、別に、私だってブラック・フェイス演劇をなくすということになんの効果もないとまでは申しませんよ。ブラック・フェイス演劇にはその根底に支配者階級への軽蔑が含まれていますからね。その軽蔑が、黒人自体への軽蔑に繋がっているというのは確かに否定出来ないことです。だから、まあ、何かしらの効果はあるでしょう。しかしですね、その効果というのは、例えるならば……神々がいなくなったこの世界においても宗教儀式に一定の効果があるだとか、そういった程度の効果に過ぎない。ほとんど信仰と同レベルの問題ということですね。だって、黒人に対する差別それ自体は本当の問題ではないんですから。

「問題なのは、差別対象が劣等種族として扱われてしまうことなんです。差別対象に不都合なことが起こることが問題なんです。そして、そういう不都合は差別それ自体が引き起こすわけではありません。むしろですね、それ以上のところ、つまり集団における二元的構造によって引き起こされる。ということは、その二元的構造が残存している限りは、差別などというどうでもいい次元の問題を解決してもなんの意味もないんです。昔は、白人が差別されていました。そして、その白人差別を解決したらどうなりましたか? 支配階級だった黒人が差別されるようになっただけじゃないですか! そして、今は、黒人が奴隷的な扱いを受けるようになっている。問題なのはですね、奴隷であるfamiliarと市民であるfreedomと、二つの領域が乖離している現在の状況なんですよ。

「けれども、差別を巡る物語はそれを解決しようとはしない。というか、解決出来ないんです。なぜなら――少しばかり単純化した言い方をしますが――その二元構造がなければ、物語は成立しないからです。誰もが主人公である物語を想像出来ますか? いや、まあ、その物語の世界に、過去においても未来においても、もちろん現在においても、数人の登場人物しか存在しないならそういったこともあり得ないわけではないでしょうがね。そういった、よほどの例外を除けば、そんなことはあり得ないわけです。物語というのは、二元構造における市民であるところの主人公と奴隷であるところの脇役によって成り立つ。奴隷によって、物語には登場しない部分を生産・維持して貰うことによって、初めて物語は成り立つんです。そして、主人公である限り、その部分は見えない、見ることが出来ない。なぜなら主人公は物語の中にいて、物語の外の出来事というのは関係のないことだから。

「だから、「卓越」した方々は、物語に関係のあることしか解決出来ないし、解決しようともしないわけです。差別の例でいえば……これは、ちょっと砂流原さんには信じられないことかもしれませんがね。EUに住む「卓越」した方々は、月光国に対してもブラック・フェイス演劇を禁止するように強制し始めています。実際に、EUでは、世界中でブラック・フェイス演劇を禁止しなければいけないという主張が巻き起こっているんですよ。それは、もちろん無意味です。月光国に生きる人々は、今まで一度たりとも黒人に対して聖性を付与したことがなく、従って黒人に対して罪悪感を抱いたこともないのですから。

「そもそも差別をしないんですよ。そりゃあ、例えば、第二次神人間大戦の時に月光国が神々の陣営についてですよ。敗北して、その結果として、人間至上主義陣営が占領軍を送り込んできていたとします。占領軍の中に黒人と白人とがいたら、黒人と白人とのことを差別していたかもしれないでしょう。それはつまり、黒人と白人とがまれびとになるということですからね。しかも、そういった占領軍においては、現在のEUにおけるようにして、神国主義の象徴的存在である黒人に対する白人の差別のようなものが垣間見えていたはずです。そうだとするのならば、白人よりも黒人に対して、より多くの差別感を抱いていたとしてもおかしくない。そういう状況下では、もしかしたら黒人に対する差別感があったかもしれない。といっても、まあ……ほとんど無視出来るような、ごく僅かなものだったでしょうけれどね。

「しかしながらですね、少なくともこの世界においてはそんなことは起こらなかったんです。ということは、そういったごく僅かな差別の感情さえないんですよ。月光人にとって、黒人という生き物は、ちょっと色が茶色いだけの普通の人間に過ぎない。そして、その色の茶色さというものは、平均よりずっと背が高い人を見た時とか平均よりずっと背が低い人を見た時とか、その程度の感情しか抱かせることはないわけです。まあ、確かに「外国人」だとか「人間至上主義者」だとかという意味では差別の対象ではあるかもしれません。しかしながら、それは、白人でも黒人でも、ほとんど同じレベルの差別でしかないわけです。

「そうであるにも拘わらず、「卓越」した方々は、月光国にまでブラック・フェイス演劇を禁止させようとする。そして、それだけでなく、いずれは……普通の演劇において黒人を演じる時に、黄色人種が顔を黒く塗ることさえ禁止するかもしれません。あのですね、そんなことをしてなんの意味があるっていうんですか? 月光国はEUとは違うんです。その集団のコンセンサスは、あなた方の属している集団のコンセンサスとは全く違うものなんです。というかですね、よくよく考えて下さい。あなた方は、なぜ黒人を差別し始めたんですか? 黒人が神国主義者だったからでしょう! そして、月光国は未だに神国主義国家なんですよ! あなた方の行動は論理的に破綻している、完全に意味をなさないんです。

「けれども、それでも、「卓越」した方々は自分達のコンセンサスを月光国に押し付けようとする。まあ、色々と言い訳は考えるでしょう。例えば、ブラック・フェイス演劇が差別を助長するだとか、ブラック・フェイス演劇自体が無自覚の差別であるとか。でも、こういった主張は、たった今申し上げたように、その全てが論理的に破綻している。だってですよ、月光国には黒人を差別するという概念自体がないんです! 少なくとも、二元的構造の中の奴隷的立場に黒人を押し込めようという考えは、月光国という集団のコンセンサスからは出てきようがない。それは、EUが、身体障害者・精神障害者を単なる病気の人々であると考え、差別しようという意識さえないというのと完全に同じことなんです。

「差別は……いいですか、砂流原さん、差別は問題ではないんです。集団における二元的構造を具体化しようとする過程で、その言い訳として差別が使われることで、初めて問題となりうるんです。それ以外の差別は、つまり聖性と罪悪感とから発生したものではない差別というのは、右と左との区別であるとか、上と下との区別であるとか、そういったものと同じ程度の区別に過ぎないんです。そうであるならば、もしも本気で問題を解決したいというのであれば、差別などというどうでもいい部分に固執するのではなく、根本的な部分を解決していかなければいけない。つまり、二元的構造を取り除くか、あるいはそれが無理であるというのならば、その二つの立場を和解させる方向にもっていかなければいけない。白人と黒人とを和解させるのではなく、市民と奴隷とを和解させなければいけないんです。

「そして、物語にはそれが出来ない。なぜなら、物語の中にいる限り、自分自身の思考と現実の世界との区別をつけることが出来ないからです。所属する集団の内的原理が問題であるというコンセンサスを形成した何か。しかもその何かは、絶対的な「正しさ」という仮定から生まれたものではなく、例えば自分自身が信じているところの科学だとか、自分自身が感じたところの経験だとか、もちろん、その科学というのは論理的に証明されたものではなく、その経験というのはあくまでも断片なものに過ぎないわけですが、そういった空虚な錯覚じみたものから導き出されたところの、一つのストーリーラインであるに過ぎない。そんな何かが、この世界における唯一の真実であると、物語の内側にいる方々、つまり「卓越」した方々は確信してしまうわけです。そして、それゆえに、その真実の外側にあるものについては考えが及ばない。差別が問題なのであって、差別さえなくせば世界は良くなると、それだけしか考えられなくなるわけです。

「そして、その真実を、別の集団にまで押し付けようとする。自分達のストーリーラインで問題であることは、他のストーリーラインでも問題であると思い込んで……いや、「思い込んで」なんていう生易しいいい方では足りませんね。そもそも、自分達のストーリーライン以外にストーリーラインが存在しているということさえも気が付くことなく、といった方が正しいでしょう。そして、他のストーリーラインがあるということを認めることさえせずに、例えば「ブラック・フェイス演劇がなくなれば世界はより良い場所になる」という頭の悪いイデオロギーを押し付ける結果になるということです。自分達の集団における本当の問題点、つまり、物語自体の構造が有する瑕疵については、その存在自体を知ることさえも出来ないままにね。

「これが物語なんですよ、砂流原さん。物語というものが、世界とはこれこれこういうものであると定義すると。「卓越」した方々は、その定義を完全に受け入れてしまってそれを疑うことさえも出来ない。そして、あくまでも自分の頭の中に物語があるだけであるのにも拘わらず、まるでそれを自分自身の思考によって、理性的に考え出したことであると思い込んでしまう。それによって、例えば「ブラック・フェイス演劇をこの世から消し去ろうとしない人間は思考が停止している」「差別される側の立場に立って考えようともしない」なんていうことを、平気な顔をしていうようになってしまうんです。

「あのですね、思考停止しているのはあなた方なんですよ。あたかも先生に「こうしなさいね」といわれて「はい、分かりました」と素直に返事をする生徒のごとく、何も考えないままで物語を丸呑みしてしまっているのはあなた方なんです。差別される側の立場に立って考えようともしない? それじゃあね、あなた方は差別される側に立ったことがあるんですか? あなた方は、本当に差別されている黒人と共に働いたことがあるんですか? もしも、働いたことがあるというのならば。そこには、黒人だけではなく、あらゆる人種がいて、奴隷として労働を押し付けられているということに対して、どうしてそれほど無感覚でいられるんですか?

「もしも、それに対して、少しでも「考えた」ことがあるのならば。黒人に対する差別なんてどうでもいいことを取り上げる前に、まずは奴隷を必要とするこの世界の構造について叫ばなければいけないんですよ。そりゃあ、まあ、例えばですよ。この世界とは全く違う世界において、まさに語の意味そのものの奴隷として黒人が扱われているという状況下であれば、黒人差別を是正しようとすることにも意味があるでしょう。なぜなら語の意味そのものの奴隷というものは解放することが可能なものであって、ある種の社会運動により、固定された制度を是正したり破壊したりすることが出来るからです。しかしながら、そうではないわけですよ。私達が奴隷という場合、それはあくまでも、二元構造においてfreedomと対比されるfamiliarに過ぎない。制度としての奴隷は、ここには存在していないわけです。

「ということは、是正するべき制度的な差別は存在していないんです。あくまでも、黒人に対する差別というものは、二元的構造において押し付けてられているところの、無意識の差別に過ぎないんです。そんなものはね、どんな社会運動によっても修正することは出来ない。なぜなら、それは、蛇口からバスタブの中に注がれ続けるミルクコーヒーのようなものに過ぎないから。不歌石で出来た彫像であれば暴力によっても破壊出来るでしょう。しかしながら、いくら拳で殴りつけようとも、バスタブに溜まったミルクコーヒーを破壊することは出来ない。まあ、まあ、いくらかの水をバスタブの外側に跳ね散らかすことは出来るでしょう。しかしですね、蛇口からはミルクコーヒーが注がれ続けているんです。いくらかの黒人が差別から抜け出すことが出来ても今度はそこに白人が注がれ続けるだけ。第二次神人間大戦によって差別から抜け出すことが出来た白人の分だけ、新しく黒人が注がれたようにね。

「つまり、物語の構造を受け入れてしまった人間は現実というレベルで物事を考えることが不可能になってしまっているんですよ。物語が提供する論理によってしか考えることが出来なくなってしまう。これはですね、決して、考えることが面倒だとか、そういうことではないんです。そもそも原理的に不可能なんです。なぜなら、そういった方々……「卓越」した方々は。自分自身を疑うための視点を有していないからです。それゆえに、自分自身の思考というものを絶対視してしまうからです。

「この問題はですね、ある物語から別の物語へと移行することによって解決することは不可能です。なぜなら、別の物語に移ったとしても、やはりその物語が提供する論理によってしか思考することが出来なくなるからです。そして、幾つかの物語の構造に並行して所属することによっても解決不可能です。ちょっと考えただけでは、幾つかの物語を比較して検討することによって物語の呪縛から逃れられるように思えるでしょう。けれども、例え幾つかの物語に所属して、それらの論理を弁証法的に発展させたとしても。ト・フー・ヘネカ、完全であるところの目的、絶対的な「正しさ」という物語の外部の視点がなければなんの意味もないんですよ。なぜなら、それがなければ、結局のところ、あなた方の視点は自分自身の思考なるものに固定されてしまうからです。そして、物語Aと物語Bとの上に、それらの物語よりも広範囲をカバーすることは出来るがやはり現実というレベルには達しないところの、物語Cというものを構築する結果に終わるからです。

「あはは、物語のソックス・パペットになって、馬鹿みたいにぱくぱくと口を開けたり閉めたりするだけなんですよ。要するに、物語の論理から逃れられなくなって、自分が所属する集団の内的原理を現実の世界そのものであると考えてしまう誤謬というのは、自分の思考を絶対視してしまうことから、必然的に導き出される現象なんです。この誤謬から逃れるにはたった一つの方法しかありません。それこそが、自分の外部に視点を作るということ。食べてる時も飲んでる時も歩いてる時も寝てる時も笑ってる時も泣いてる時も呼吸してる時も心臓を動かしてる時も、始終ひっきりなしにお前は馬鹿だといってくれる何者かの存在を、心の中に感じ続けるということなんです。あはは、いや、さすがに泣いている時まで「お前は馬鹿だ」といわれ続けるのはちょっと厳しいものがありますが……それはそれとして、絶対的な「正しさ」のスキアというものを感じ続けることによってしか不可能なんです。

「あはは、そのようなわけで……さによってかくのごとく、物語の読者というものは、自分自身以外の視点を喪失してしまっているがゆえに、自分が世界の中心であると考えてしまう。それどころか自分以外にはこの世界に何者も存在していないとまで考えてしまうようになるというわけです。」

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