朔夜と明菜
彼女と別れて数年して、水族館で彼女と偶然再会した。恋人が居ると彼女は言った。その恋人は彼女がずっと好きだった人だった。なんだよそれ。向こうには彼氏がいるから叶わないと恋だと言っていたくせに。
「彼女に捨てられたら私のところ戻ってきて良いからね。また前みたいに慰めてあげる」
思わずイラついてしまい、彼女にも聞こえるようにそう捨て台詞を吐いて立ち去る。彼女のことは本気で愛していた。だけど——いや、だからこそ、ずっと好きだった人と結ばれて良かったねなんて、心からそう祝福してあげることなんて出来なかった。やっぱり男が良いと捨てられてしまえば良いのに。そして私の元に戻ってくれば良いのに。そんなことを思ってしまった自分を責めた。
それから数日後。街でばったり彼女の恋人と会った。隣には大学生くらいの男性が居た。彼女は彼に甘えるように腕を組んで歩いていた。私に気付くと固まり、ハッとして彼の腕を離す。葉月は言っていた。好きな人には彼氏が居たと。だから叶わない恋なのだと。だけど葉月は彼女と付き合った。それは、彼女は葉月の恋心を受け入れたということではないのだろうか。何故男なんかといちゃいちゃしながら歩いてるんだと憤りを覚えて文句を言ってやろうと口を開きかけたところで男性が「姉さんの知り合い?」と首を傾げながら彼女を見た。姉さん。その一言で冷静になり、開きかけた口を閉じる。
「私というか……葉月ちゃんの元カノ」
「葉月ちゃんって……先生?」
「そう。先生。……シュウ、先帰ってて。私、彼女とお茶してくる」
「は?」
「うん。分かった。帰るわ」
「えっ、ちょ」
「よし、じゃあ行きますか」
「は? ちょ、ちょっ——」
何故か彼女は弟を先に帰らせて私を近くの喫茶店に連れ込んだ。仕方なく彼女の正面に座り、なんのつもりだと彼女を睨みつける。
「あれ、弟ね。浮気とかじゃないから。心配しなくても私は葉月ちゃん一筋だよ」
「……別に心配なんてしてません」
「お姉さん、なんか食う? 無理矢理連れてきたの私だし、奢るよ」
「……要りません」
「あらそう。じゃあ自分の分だけ頼もーっと。すみません、アイスコーヒーとカツサンド一つずつお願いします」
店員に声をかけて注文をする彼女を見て、マイペースな奴だなと呆れる。
「私は和泉明菜。二十五歳の現役女子高生です。今年で二十六になります」
「……は? 二十五歳の現役高校生? ふざけてんの?」
「ふざけてないふざけてない。ほら見て。私」
彼女が見せてくれた写真には高校生くらいの男女が写っていた。その中には彼女も居た。写真に写る女子達と同じ制服を着ている。
「過年度生なんですよ私」
「過年度生?」
「中学卒業してすぐに高校に通わずに何年か遅れて入学した人のこと」
確かに高校は中学卒業してすぐじゃなくても入学できる。しかし、今年で二十六ということは、高三だとしても八年遅れ、高一なら十年だ。仮に現役高校生というのが事実だとして、そんなにも長い間高校に行かずに何をしていたのだろうか。
「で、お姉さんの名前は?」
「……木谷朔夜」
「朔夜さん、何してる人? 大学生……ではないか。葉月ちゃんの先輩だって言ってたもんな」
「……普通に社会人してるけど。あんたはなんで今更高校なんて通ってんの」
「家庭の事情で、高校への入学を一旦諦めて就職したんだ。で、落ち着いてきたからそろそろ良いかなって」
「……遊びたいから仕事辞めたってこと?」
「遊びたいわけじゃない……とも言い切れないか。憧れだったんだ。高校生活が」
「憧れねえ」
良い年した大人のくせにと鼻で笑って見せるが、彼女はその私の嫌な態度に苛つく素振りなど全く見せず、平然とコーヒーを飲む。その余裕に私の方が逆にイラついてしまう。調子が狂う。なんなんだこの人。
「で、朔夜さん。葉月ちゃんのこと、今でも好きなの?」
顔色一つ変えず、彼女は私に問う。それが聞きたくて連れてきたのだろうか。
「……なに? そうだって言ったら、葉月のこと返してくれるの?」
「返すもなにも、彼女は私の物じゃないよ。誰と付き合うかは彼女が決めることだ」
正論で返されて思わず舌打ちをする。
「選ばれた側の人間だからって偉そうに説教すんなよ」
「そうだね。私も立場が逆なら同じこと言ってる」
彼女は私が向ける敵意に一切動じない。ほんとに、なんなんだこの人。わけがわからない。何を考えているのか分からない。分からないけど、敵意がないことは分かる。それがまた不気味で仕方ないのに、不思議と嫌な感じはしない。
「……はぁ。あんた、なんで私と話をしようと思ったわけ? 普通関わりたくないでしょ。恋人の元カノなんて」
「この間煽られてムカついたから煽り返してやろうかなーって思って」
そう言う割には嫌味っぽさを感じない言い方だった。
「……なにそれ。性格悪」
「って言う割には帰らないね」
そう言って彼女は笑う。彼女の言う通りだ。なぜ私はまだここに居るのだろう。
「……あんた、昔彼氏居たんでしょ」
「ああ、うん。葉月ちゃんから聞いたの?」
それがどうかしたのかと言わんばかりに首を傾げる。後ろめたいことだとは思っていないようだ。
「男が好きなくせに、なんで葉月と付き合ってんの。あの子は特別とでも?」
「いや、レズビアンだよ私は。ヘテロどころか、バイですらない」
「はぁ? でも、彼氏居たんでしょ?」
「まぁ、うん。あの頃はレズビアンであることを隠したくて」
「……ああ。そのために男利用したんだ?」
最低だなと吐き捨てる。だけど彼女はやはり同時ない。
「そうなるね。でも、騙したわけじゃないよ。周りがうるさいから付き合ってることにしようかみたいな。そんな感じ。あの頃は人の目が怖くて仕方なかったから」
けど……と、彼女は目を伏せて続ける。
「そのせいで当時から好きだったあの子までも勘違いさせて苦しめてしまったことは、後悔してる。あの頃の私は、どうせ彼女も私とは違うだろうって決めつけて諦めてた。一歩踏み込む勇気なんてなかった」
そう語る彼女を、私は責められなかった。差別に怯える気持ちは私にも痛いほど分かるから。私も葉月が自分と同じだという確信が無ければ口説かなかった。口説くことなんて出来なかった。性別以外の理由でフラれるならまだしも、性別が理由でフラれることだけは耐えられないから。
「……でも今は違う。私はもう二度とあの子からも自分の心からも逃げたりしない」
彼女はそう、私を真っ直ぐに見据えて締め括った。宣言するように。
「……ああそう」
「うん。だから葉月ちゃんのことは諦めて」
「……言われなくたって、そのつもりだよ」
最初からあの子の心は私に向いていなかった。向いていた瞬間なんて、一度もなかった。ずっと彼女に向けられていた。私は土俵にすら立てていなかった。この人がもっと、彼女の恋心を利用するような最低な人間だったなら良かったのに。そう思うと同時に、彼女が騙されているわけじゃないことにホッとした。悔しくて流れた涙と共に、心の奥につっかえていた何かが流れていく気がした。
「あの子のこと、泣かせたら殺すから」
涙を拭い、彼女を睨みつけて言う。すると彼女は満足げにふっと笑ってこう返した。「その言葉、そっくりそのまま返すよ」と。
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