第40話

 試合の後は、居酒屋で早めの飲み会が始まった。

「俺だって働きてえよ! 働きてんだけんど、日雇いの土木の親方に怒鳴られると親父を思い出しちまう。親父を思い出しちまうと息ができなくなって仕事どころじゃなくなっちまう。こんなに弱っちい俺、大嫌だいきれえだ!」

 酒を飲んだ洸次郎は早速、酒に飲まれる。

「コウ、牛肉も苦手だったな」

「そうなん! 鼻血出しました! こんな俺、大嫌えだ!」

「俺は、鼻血が止まらないあんたも嫌いじゃないぜ」

「兄上、さすがのわたくしも引きます。コウ殿、兄上から離れましょう」

「おい、妹。その腐った頭の基準は何なんだ。鹿島屋の清兵衛がコウにじゃれついても何も言わねえくせに」

「鹿島屋様は良いのです。あれは駝鳥だちょうの子がじゃれついてあるのと同じです」

「清兵衛のこと駝鳥って言っちゃ駄目だろうが。支援してもらえなくなるぜ」

「そうなのです。そこが問題です」

「妹、お前もだいぶ羽目を外しているな」

「わたくしとて、羽目を外したいのでございます!」

「……おお」

 洸次郎は急に眠くなり、卓に肘をついた。背中をさすられ、一層心地良くなってしまった。

「嘔気はありませんか? 変だと感じるときは、なりふり構わず大声を上げて下さい」

 誉に背中をさすられながら、オウキとは何ぞやと考えていると、誰かが「うおー!」と叫んだ。

「のぼさんが言われたんじゃないぞね」

 冷静に突っ込みを入れたのは、屈強な男、秋山だった。試合では大活躍だったが、寡黙なせいか個性の強い連中に埋没しがちで、洸次郎も秋山の存在を忘れていた。

「のぼさん、もう帰ろう。すみません、俺も上がります」

「秋山さん、のぼさん、おやすみなさい。気をつけて」

 誉が、のぼさんを気にして、ちらちらと見ていた。のぼさんは元気溌剌に振る舞っているが、病気を患っているかもしれないと洸次郎でも察した。

「お絹さんよ、あんたは酌すんな! 酌されろ。下膳なんかしなくて良い。酒が駄目なら、食いたいもん食っとけ」

 離れた卓で全く飲まず食わず、男の酌をして皿を片付けていた絹子に向かって、クモが大きな声で叫んだ。絹子は萎縮して俯いてしまう。

「お絹殿、わたくし、甘味を頂きたい気分です。お絹殿もいかがですか?」

 みどりが、お品書きから甘味を見つけ、ふたり分注文する。

 洸次郎は眠気が少し醒め、深く息を吐いた。

「誉さんは、帝都の生まれで?」

 未だに、苗字で呼ぶことに慣れていない洸次郎は、誉の苗字をど忘れした。

「いえ、信州です」

「隣ですね。俺は上州です」

「隣ですね。十年余り昔の話ですが、うちの村から上州の製糸場に働きに行った人がいたんですよ。片道四日かかったと聞きました」

「山を超えたんですか? 大したもんです」

「ええ、

 誉は何度も頷いた。

「洸次郎さんと話していると、お国の言葉が懐かしくなります」

「そうですかい?」

「そうですよ。信州と上州は、少し似ているんですよ」

「じゃあ、誉さん。俺には遠慮なんか要らねえよ。お医者の先生なんだから、ちっとくれえ威張えばってくんな」

「じゃあ、遠慮なく」

 洸次郎が恭しく酌し、誉がそれを受けた。

 刹那、みどりも、クモも、絹子も、誉も、弾かれたように天井を見上げた。

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