第39話
誉が、みどりの足元に視線を落とした。
「足が痛くなりませんか?」
「良いのです。草履では思うように走れませぬ」
みどりは野球をやるとき、袴姿で素足になる。大学予備門の学生達は地下足袋のようなものを履いているが、みどりはそうしていない。洸次郎とクモは草履で参戦しているが、だいたい途中で脱げている。
「そうですか……」
誉は腕を組んで考え込んでしまった。
「いえ、何でもありません」
「結城さん……でしたね。次、のぼさんの代わりに打ってあげて下さい」
金之助が、誉にバットを渡した。
「のぼさん、元気に振る舞っていますけど、かなり無理しています。先月、海に療養に行ったくらいです」
金之助が小声で誉に話したのが、近くにいた洸次郎にも聞こえた。
「わかりました。僕で良ければ」
誉がバッターボックスに立った。白シャツに折り目の綺麗なズボンは、砂埃ですぐに汚れてしまいそうだが、誉は爽やかにバットを素振りする。
ふと洸次郎がみどりを見ると、みどりは目を輝かせているとも潤ませているのとも言える、絶妙な表情で誉に見とれていた。先日、クモが「女の顔」と唾棄した表情だった。
「みどりさん?」
洸次郎が声をかけると、みどりは首を横に振った。
「
それも素直な感想のひとつのようだが、見とれていたのが洋靴だけではないことは、世間知らずの洸次郎にもわかった。
「ええと、奥様?」
みどりが話題を逸らすように、誉と一緒に来た女に話しかける。夏に、熊谷から出る蒸気機関車に乗り合わせた女だ。地味な着物姿だが、学生のような鞄を肩から下げていた。洸次郎は、上野の路地で会った色気を隠さない女を思い出し、こちらの女人はずいぶん控えめだと思った。
「いえ……ただの昔馴染みです。
そのとき、白球が誉のバットに当たった。振ったのではなく当てた。
「右の塁に走れー!」
のぼさんに言われるまま、誉は一塁に滑り込んだ。ズボンが砂まみれだが、誉は爽やかにこぶしを握りしめた。
「げっ」
蛙が潰れたような声を発したのは、クモだった。みどりを指差す。みどりが誉に見とれていた。
「兄上! 蛙でも飲み込みなさいましたか!」
「女の顔してる奴に言われたくねえぜ!」
「またそんなことを仰る!」
お約束の喧嘩が始まった。
「すみません。いつものことなんですけど」
洸次郎が、絹子に詫びた。絹子は、俯いて首を横に振った。
「汽車の中でも見ました。仲の良い兄妹ですね」
絹子は、洸次郎達と汽車で会ったことを隠さなかった。
「よお、また絵を見せてくれや」
「兄上、それが物を頼む態度ですか!」
「だって、上手かったんだぜ。学びたいってもんよ」
クモが、ずかずかと絹子に歩み寄る。絹子は、鞄でクモを引っ叩いてしまった。
「理不尽!」
「当然の結果でございます。して、絹子殿、絵を拝見しても?」
みどりの申し出に、絹子は微笑んで画帳を見せてくれた。
「優しい鉛筆の筆使いでございますね。身近な草花が微笑んでいるようです」
それを聞いた絹子が、安堵したように溜息をついた。
「なんで、妹だけ」
クモは不服そうだ。
二塁には進めなかった誉が戻ってきて、苦笑いした。
「お絹は色々あってね、今は心の栄養を培っている時期です」
「心の栄養……ね」
クモは関心ありそうに呟いた。
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