第37話

 藤田の妻を名乗る女が訪ねてきたのは、「とっちゃなげ」を食した翌日。洸次郎が「狂斎」の字を見てから二日後のことだった。

「みどりさん、ご無沙汰しています。藤田でございます」

時尾ときお様!」

 一回り以上歳の離れた友人を、みどりは嬉しそうに迎え入れる。

「一昨日は留守にしていて、申し訳ありませぬ。洋菓子、ごちそうさまでございました」

「こちらも、何度もすみません。みどりさんにお話した方が良いと思ったことがありましたもので」

 家の奥に引っ込んでいたクモが、襖を少し開けて時尾の様子を伺う。

 時尾はクモに気づき、微笑んで会釈した。

 洸次郎は、みどりが時尾と話している間に、茶を淹れにかかる。そうでもしないと、みどりと洸次郎でお茶汲み争奪戦になってしまうからだ。

「こちらのかたは、もしかして、上州から来たという……?」

「はい。洸次郎といいます」

「夫から聞いています。大変でしたね」

「藤田さんには、お世話になりました。なんか、便宜を図ってもらったみたいで」

 洸次郎は、まるで使用人のように、部屋の隅に控えてしまう。

「モノは藤田の担当です。とはいえ、洸次郎さんに同情したみたいですよ。あいつは大丈夫か、と今でもぼやくことがあります。今度藤田に会ったら、さすけねえと言ってあげて下さい。それと、おひとりでモノの調査などしないように。みどりさんやクモさんに頼って下さいね」

 モノ、と時尾ははっきり言った。

「ところで、みどりさん。先日、モノが出たそうなのですが、そのモノを祓おうとした絵師の雅号が……」

 時尾は、言葉を濁した。

「もしかして、『くるう』の字を使った『狂斎』ですか⁉」

「そうです、そうです。ご存知なのですね?」

「先日とは、いつ? どこで? 一昨日? 上野?」

 食いつく勢いのみどりに、時尾は目をしばたいた。

「そうです、そうです。最近では、一昨日、上野で。その前は、さらに十日ほど前。『狂斎』の雅号と一緒に、絵からとび出したような蔦や異国の食虫植物が現れたり、みどりさん達とは違う絵師がいるようなのです」

「やはり」

 みどりは膝の上でこぶしを握りしめた。

「コウ殿が見たという『狂斎』の雅号でございますね」

「見たのですか?」

 時尾が、部屋の隅の洸次郎に訊ねる。

「はい。でも、モノや蔦の絵は……」

 蔦の絵は見ていない、と言いかけ、洸次郎は上州で見たものを思い出した。蔦の絵が突然茂り、洸次郎の盾になった。違う時機には、洸次郎達を取り囲み、熊谷まで一瞬で運んだ。

「……そのときは、見ていません」

「……そうでしたか」

「時尾様、貴重な情報をありがとうこまざいました」

「いえ、伝えるべきか迷いましたが、早めに対処した方がよろしいかと思って」

「そうです。お気遣いありがとうございます」

 その後、みどりと時尾は他愛もない話をして、帰っていった。

「……クモさん、大丈夫ですか?」

 聞き耳を立てていたクモが、頭を抱えていた。

「さすけねえ」

 時尾の真似をして、おどけてみせるが、顔色が悪い。

「……悪い。寝る。若い頃みたいに無理ができねえみてえだ」

 モノと対峙すると体力を使い、本来の絵の仕事に遅れが出ると、徹夜してまで巻き返そうとする。クモは冗談を言うことが多いが、根は真面目だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る