第22話 穏やかな雨水月
「スヴェン、お前の家にオレの部屋も作れ」
ジークフリードと一緒に色んな学問の話を聞くようになって一カ月ほど経った頃、新しく天文学を教えてくれるようになったエルンスト卿が勉強室を出て行った後に突然言い放たれた。諸々バレているのは分かっていたが、まさかこんなことを言い出すとは思わなかった。実を言うと、貴族の居住区域に買った土地に元から建っていた建物の補修は終わっていて、そちらにはいつでも引越し可能になっているのだ。だがぼくらが住む屋敷はまだ建設途中である。また、平民の居住区の孤児院も建設が進んでいて、今年の冬にはほぼ出来上がるだろうと言われている。ひょっとして、情報が漏れているのだろうか。様々な考えが脳内に駆け巡った。
「……一番日当たりのいい部屋は、ルカ様のお部屋に決まってしまっているんですが……」
「よい。日当たりのいい部屋はベステル・ヘクセ殿に譲ろう」
「はい……ええっと……ラルクの部屋の近くにしますか……?」
「そうだな。防犯上、主の部屋周辺に空室がちな部屋を作るわけにも行くまい」
「……わかり、……ました……?」
「なんだ、どうしたスヴェン。大丈夫か」
「だい、じょうぶです……?」
ルクレーシャスさんはいつも通り、魔法で出したソファに寝そべってぼくの作ったおやつを食べている。今日はカボチャ餡の入ったパイだ。何か言ってよ! 全然だいじょばないよ! でも別にジークフリードが嫌いなわけではない。でもぼくのおうちにお部屋を作ってあげるほど仲良しでもないよね? どうしたんだよ、もう何も分からない。
「オレの誕生日の祝いは、それでよしとする」
なんだぁ、それが言いたかったのか。ジークフリードの誕生日は日本で言う七月、皇国歴で言う芽吹き月の十五の日。来月である。誕生日、忘れられてないか不安だったんだね。ジークフリードのこういう不器用なとこ、嫌いじゃないなぁ。
にやける顔を引き締めて、体ごと傾けジークフリードの顔を覗き込む。
「ジーク様」
「うん?」
「贈り物はもう、別に用意してありますよ?」
ウードさんに剣術を習い始めたジークフリードへ、ルクレーシャスさんのお知り合いに作ってもらった剣を準備してある。多分、ジークフリードは強い剣士になるだろう。本人も剣術は性に合っていると言っていた。
「では来年の贈り物ということにしておけ」
ぷい、と顔を逸らしたジークフリードの耳が赤い。なんでだか、素直な時と素直じゃない時があるんだよなぁ。まぁ、それも子供らしくてかわいいんだけど。
「いいんですか? 来年は来年で、ぼくまたジーク様がほしがるものを作るかもしれませんよ?」
「くっ……! その時はその時で考える」
「お誕生日の宴、ぼくも招待していただけるのですか?」
「当たり前だろう。今の時点でオレの侍従と決まっているのはお前だけだ、スヴェン」
「……そうですよね」
ふう、とため息を吐き出して肩を落としたぼくを、今度はジークフリードが覗き込む。
「……」
「どうした」
「いいえ。宴には、バルタザール伯も来るのですよね」
「ああ。呼ばんぞ」
「えっ!」
「お前にまた突っかかるだろう。だから呼んでない」
あっさり答えたジークフリードを呆然と仰いだ。それはいけない。バルタザールだけではなく、ミレッカー宮中伯にまで恨まれかねない。ぼくが口を開くより先に、ジークフリードは手のひらをぼくの顔の前で広げた。
「お前が何を考えているかは分かっている。スヴェンが気にする必要はない」
「へ?」
「あっはっは」
ルクレーシャスさんが突然笑い声を上げた。ぼくは意味が分からず首を傾げる。
「
「ああ……、えっ?」
身内だけって、そんな宴にぼくが行っていいのかな。ジークフリードのジレの裾を掴んでしまったのは、完全に無意識だ。上目遣いになったのだって、ジークフリードの方が背が高いからで。それでも、瞳が潤んだのはジークフリードの気づかいが嬉しかったからだ。最近、涙腺が弱くて困る。
「ジーク様のお部屋には、たくさん玩具を準備しておきますね」
「……何を言うかと思ったら……」
赤くなって固まった後、頭を掻きながらジークフリードは忌々しそうに床を蹴った。暴れるジークフリードを見るのは久しぶりだな。
「玩具は要らぬ。いつでもオレが過ごせるようにしておけ。それでいい」
「分かりました! 任せてください」
大人になったんだねぇ、ジークフリード。お兄さんは感動だよ。何だか弟を見守るような気持ちになって来た。ぼくたちのやり取りを見て笑っていたルクレーシャスさんに抱え上げられ、皇宮を後にする。最近は皇宮の庭から離宮までなら一人で歩き切ることができるようになって来た。皇宮の庭でルクレーシャスさんの腕から下りて、ゆっくりと歩き出す。
「ルカ様が離宮へおいでになられてから、一年経ちましたね」
「おや、本当だね。時間があっという間だ」
「……」
去年の今頃は、先行きの見えないことに怯えていた。見覚えのない世界でとにかく生き残ることだけを考えていた。薔薇の迷路を抜け、生垣の迷宮へ踏み込む。
「ぼく、ルカ様が来てくれて、よかったです」
そう言って振り返ると、ルクレーシャスさんは目を丸くしてからじんわりと花が開くように笑みを浮かべた。
「そうだね。わたくしも、君に出会えてよかったよ。スヴァンくん」
「えへへ」
笑ってルクレーシャスさんの手を握る。離宮へ戻るとルチ様が来ていて、少し大人げないくらいの勢いでルクレーシャスさんの手を払い除けた。驚いているぼくを抱え上げ、ルクレーシャスさんへ短く何か言い放つ。
あ、これ「ふんっ」みたいなヤツだ。すごいな、言語が違っても分かった。
「もう完全に嫉妬だよね、これ。理不尽過ぎやしないかい」
「ごめんなさい、ルカ様。ルチ様もメッ! ですよ」
『……ヴァン……』
あ、そんな本気で萎れないでくださいルチ様。ぼくが調子に乗りましたごめんなさい。ルチ様の頭を撫でる。
「ルカ様は、ぼくのことをこちらで守ってくださる方なので、仲良くしてほしいです。ね、お願い。ルチ様」
『……うん……』
あ、納得してない顔だな。
「ルカ様がいなければぼく、このまま離宮で過ごすしかなかったんですよ。それだとルチ様と一緒に暮らせません。それでもダメですか?」
『……ごめん』
「はい。今日は寝る前にお歌を歌いますよ。ご機嫌直してください、ルチ様」
『ヴァン。私のポラリス。中天に浮かぶ一等輝く不動の星。私はお前を目指して夜明け前に旅立つ小さな星にすぎない。愛しい愛しい、私の星……』
嬉しそうに頬ずりされた。ルチ様は明星の精霊という割りに、幼いところがある。ルクレーシャスさんみたいに、寿命が長いから種族から考えたらまだ若い個体なのかもしれない。
「もうこれ完全に溺愛じゃん……」
ルクレーシャスさんの戯言を無視して、ぼくをぎゅうぎゅう抱きしめるルチ様へ報告する。
「あ、おうち作りは順調みたいですよ。ルチ様」
『うん。早く、済むように、精霊に頼んだ』
「えっ」
そんなこともできるのか。この世界の家は煉瓦を積み重ねて作る。当然だけど大工さんは平民である。図面は描くのかも知れないけど、設計上に於ける細かな数字の概念はない。基本造りながら調整しつつ、という行き当たりばったり工法らしい。だからある程度施工が進まないと「いつ頃完成」という予定が立たないのである。そもそもこの世界のおうちってそれこそ何年もかかるんだよ、建てるのに。お城とか、貴族の屋敷となれば十年かかったとかそんな建物はザラである。
行儀が悪いのであまり好きではないのだけれど、最近のルチ様お気に入りはぼくを膝に乗せて食事させることである。ルクレーシャスさんと、テーブルマナーの勉強を兼ねてラルクが同席する。その中でぼくだけがルチ様に「あーん」してもらって食事をしているのだ。どんどん幼児退行している気がする。というかおそらく、ぼくを子供扱いする人が周りに増えたんだな、単純に。
食堂のテーブル近くでいつも通りに待機しているフレートへ視線をやる。フレートは目だけでぼくの意図を汲み取ろうと少し、顔を傾けた。ベッテもぼくのテーブルへ目を向ける。
子供扱いの前に、彼らにとってぼくは主で。
それでも、そこに愛情がないわけではない。ただ、それは主従の間の愛情や忠誠だ。それはそれで得難いものだとぼくには分かっている。だがきっと、ぼくが普通の六歳ならどうだっただろう。
君なら、きっと寂しかったよね。
本来ならここにいたはずの、幼子が過る。
よくないな。最近はこんなことばかり考えてしまう。
食事が終わるといつもなら、コモンルームで少し過ごしてから部屋へ戻る。今日はルチ様がコモンルームを素通りしてぼくの部屋へ向けて歩き出した。
「おやすみ、スヴァンくん」
「おやすみなさい、ルカ様。ラルクもおやすみ」
「うん。おやすみ、スヴェン」
少し眠そうに目を擦るラルクへ手を振る。ベッテと手を繋いで手を振り返すラルクの頭はゆらゆら揺れていた。微笑ましい、「普通の」親子の姿だ。
藍色のベールの中、静かに夜を進む。何でもないこの瞬間を、ぼくはきっといつか思い出すだろう。妖精たちが鍵星の間の扉を開けた。夜の帳が下りるように
『ヴァン、早く、一緒に住もう』
「ええ。できるだけ早く一緒に過ごせるようにしましょうね、ルチ様」
それでもいつか、ぼくは離宮で過ごした日々を愛しく思い出すだろう。けれども鳥かごを出ることを、出たことを、後悔などしないだろう。
「人生って、後ろに戻ることができないんですよ。ルチ様」
『……そう、か』
「はい。だから、前にだけ進んで、戻れない後ろを振り返って懐かしく思ったり後悔したり、愛しく思ったりするんです。ぼくねぇ、ルチ様」
『うん』
「人間の、そういうとこ、嫌いじゃないんですよ」
『……そうか』
「はい」
ぼくへ顔を寄せた、ルチ様の勿忘草色の虹彩を眺める。ルチ様の瞳は、虹彩の縁が少し、薄桃色に滲んで見える。穏やかで優しくて、とても綺麗だ。
ルチ様、下瞼の目頭辺りに笑い皺ができるんだなぁ。ぼんやりと考えながら、どうにかこうにか声にしてみる。
昼間でも、一緒にお庭を散歩できるといいですね。
ルチ様が返事を聞かせてくれる前に、ぼくは意識を手放したのだろう。ああ、しまったな。お歌を歌うと約束したのに。「また、今度」と抱きしめられた仄かな温もりから、穏やかな雨水月の夜の匂いがした。
翌朝、いつも通りにルクレーシャスさんと二人の朝食の時間に切り出す。妙に思考は澄んでいた。
「ルカ様、貴族向けの孤児院は、孤児院ではなく養護院にしようと思います」
「……どうして?」
「戻せるものなら、爵位を戻す手伝いをしたいです。だから、ルカ様には後見人になっていただいて、爵位継承を一旦保留としてもらった上で、預かった子たちに選べるようにしたいんです」
ルクレーシャスさんは、食事の手を止めぼくを見つめた。金色の耳がぴくぴくと動いている。
「君の思うようにしていいし、そのためにわたくしの名前を好きに使っていいと言ったはずだよ、スヴァンくん」
「ほんと、ルカ様はぼくを甘やかし過ぎですよ」
「わたくしの初めての弟子だもの。甘やかすよ。甘やかされておきなさい」
ほんとルクレーシャスさん人が良すぎやしないか。えへへ、と笑いかけると微笑み返された。うん、今日も師匠が美人さんだ。
「それで爵位継承を保留にしている間の領地経営とか、事務処理とか、誰に任せるとかそういう細かいところをフレートと一緒に詰めて行きたいんです。高位貴族の領地経営に関わったことのある引退した執事さんとか、いないですかねぇ」
無茶を言ってみたが、そんな人材がほいほいと見知らぬ貴族の小僧の話を聞いてくれるわけがないと分かっている。貴族社会めんどくさい。そもそもぼくは、貴族にしては侍従が少なすぎる状況だ。普通は紅茶を注ぐメイド、紅茶に砂糖を入れたらそれを掻き混ぜるメイド、紅茶を給仕するメイド、とたかが紅茶を飲むだけで三人ほどメイドが付く。さらに飲食する時は毒見役も付くわけで、そんな大人数に囲まれなきゃお茶も飲めないなんて前世ド庶民のぼくはご免である。貴族はできるだけ人を雇って経済を回すという使命とかそういう話も関わって来るけどそれ以外にも、これ以上皇王の息のかかった人間を周囲に置きたくないという理由もあるわけで。思案に暮れていると、フレートが何やら考える素振りで床を見つめていた。
「まぁ、高位貴族の執事となると大体は古くからその家門に使える一族になるから、離職しても後継者教育に回るし難しいよねぇ」
「ですよねぇ。最低でも屋敷の管理に携わるハウススチュワードと、領地管理を任せるランドスチュワード二人必要ですし、その手伝いをする侍従も必要だし、人材足らない……」
ぼくもルクレーシャスさんも食事を済ませたのを見計らって、ベッテがお茶を準備してくれる。ヴィノさんが丹精込めて育てた庭の薔薇の花弁を砂糖漬けにしたものが添えられている。もちろん、砂糖漬けを作ったのはぼくだ。妖精たちが好むから、花の砂糖漬けはよく作る。卵白を塗ってからグラニュー糖を付ける、という方法とアクアビットとかホワイトラムなんかの蒸留酒と砂糖を混ぜたものに浸してから、グラニュー糖をまぶすやり方だ。卵白を付けてからグラニュー糖をまぶすやり方は、花の色が変色せず仕上がりが綺麗である。ぼくが作っている砂糖漬けは後者だ。理由は簡単、衛生面と保存期間である。度数の高いアルコールに浸けてあるので、後者の方が保存期間は多少、長くなる。
皇国はサトウキビから砂糖を作っておらず、砂糖といえばもっぱらサトウダイコンとも呼ばれるビートから作る甜菜糖だ。サトウキビから作る砂糖より、仕上がりはちょっと茶色っぽい。だから甜菜糖で作ると、どう頑張っても砂糖漬けの花の色は少し茶色っぽくなる。だからアルコールに浸した方が、色が鮮やかに仕上がるのだ。理由は簡単。アルコールに浸した甜菜糖が乾く時に、少し透明になるのである。
ああ、上白糖が恋しいよぅ。粉砂糖、グラニュー糖。見た目の美しさはやっぱ、お菓子には必要だよね。でもサトウキビから作る砂糖は高級品なんだよ。ものすごく高価だし、希少品なんだ。滅多に手に入らない。とほほ。
「あの、スヴァンテ様」
「はい」
突然、フレートが口を開いたので少々驚いた。フレートの方を見やると、ぼくの脇へ歩み寄って来る。
「心当たりが、ございます」
「……はい?」
「その、……執事に」
ぽかんとフレートの顔を眺めてしまった。いつもならぼくの目を真っ直ぐに見つめ返すはずのフレートは、視線を床へ向けたままだ。フレートにしては歯切れの悪い言い方である。
「フレートにとって、あまりいいことではないのなら無理は言いません。ゆっくり探しましょう。まだ、先のことですし」
「いえ……その、心当たりに会うには……フリュクレフ公爵家の近くへ行かなくてはならないので……」
フリュクレフ公爵家は領地を持たない公爵である。しかも元フリュクレフ王国のあった、アイゼンシュタット領の正反対であるチェルハ侯爵領に居城とその周辺の僅かな土地を持つのみだ。それなのに皇宮で何らかの官職を与えるでもなく、薬学に関わることも禁じられている。つまり金銭を得る環境がないのである。
だからフリュクレフ公爵家は貧困に喘いでいるわけである。むしろ三代もよく持ったものだとぼくは思う。それで家系が絶えそうだからって慌てて結婚相手を宛がうとか、ほんと無策だよね。
「そうですね……長期間フレートにここを離れられると、困りますね……」
「……はい」
フレートが「あ」と小さく口を開けたことを、ぼくは見逃さなかった。理由はそっちではない、ということか。チェルハに会いたくない人でもいるのだろうか。
そういえば、ぼくはフレートやベッテたちがフリュクレフ公爵令嬢に仕える前は何をしていたのか、どういう経緯で公爵家に仕えることになったのかを知らない。聞いていいことなのか、聞かれたくないこともあるんじゃないのか、と思うと尋ねる気にならなかった。本人たちが言わないことを、わざわざ尋ねる気になれない。きっとこれから先も、ぼくから尋ねることはないだろう。
「そうそうぼくみたいに、誰からも保護してもらえない貴族の子息が現れるとは思えないので、そんなに急いでいません。他を当たってみましょう」
行きたくないところへフレートを行かせるつもりはない。顔を上げないフレートの、体の横へきっちりと当てられた手へ軽く触れる。ぼくが手へ触れると、フレートはまるで軋む扉のようにぎこちなく顔を上げた。常ならば抜け目なく輝いている
「ルカ様に心当たりがあれば、お願いします。マウロさんにも聞いてみましょう。これでこの話は終わりです。さ、ルカ様。コモンルームへ移動しましょうか」
「うん」
ルクレーシャスさんに抱えられ、廊下へ出る。扉を開いて頭を下げるフレートを、ルクレーシャスさんの肩越しに目路へ入れた。閉まる扉の向こう、俯いたままのフレートは知らない「男性」の表情をしていた。
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