第41話 過去からの逃走とこれから

「てか、なんだお前彼女いたのかよ」


「……」


振り返りたくもない。振り返ればどうしようもない怒りでどうにかなってしまいそうな気がした。

ただ、今目の前に見えているのは状況が掴めずに困惑した瞳と、怜をどこか不安そうに見つめる葵の顔だけだった。葵のその表情だけが唯一怜の怒りを沈めるストッパーを担っていた。


「はっ、相変わらずの無口だな」


今更、荒井のことなどどうでもいい、と思えるほどになってきたと思っていたのに、そんなことはなかった。経過した時間がわずか5年だったのが原因だったのだろう。お互いの記憶から消し去るのには短すぎる時間だ。


「なんだなにも言い返さないのか? お前も弱くなったな。昔はあんなに威勢がよかったのに」


(やめろ、その話は姫野の前でするな……っ!)


自分に言い聞かせる。


――動くな。動けばお前の負けだ。


どうにかしてこの衝動を抑え込む。それしか方法がなかった。かつてのように怒りに任せればすべてが無駄になる。


玲奈たちが築き上げてきた文化祭も、明菜あきな陸斗りくとが助け出してくれた今の環境も、これまで怜のしてもらったことが全て無駄になる。だから抑えろ――


それしか考えていなかった。


だからこそ怜は目の前で起きようとしていることに気付けなかった。


「ちょっと君――」


「……!?」


「あ?」


思わず振り返った。振り返らざるを得なかった。


「いくらなんでも失礼だと思う」


「ひめ、の……」


その表情はりんとしていた。相手に真っ向から挑むように、絶対零度の冷めきった視線を荒井に向けている。


「君には夜狼くんのことが何も分かっていない」


「はぁ? なんだ彼女だからって彼氏を守ってんのか?」


「まずまずボクと夜狼くんは恋人じゃない」


「じゃあなんだよ」


「ボクと夜狼くんは――」


「やめろ」


葵と荒井が目を見開いた。


怜は俯くことしかできなかった。それが最善の策だと思ったからだ。


「もういい、姫野。俺たちに構うな」


「え、でも……」


怜は歩き出した。荒井の横をすり抜けるようにただまっすぐ。


「ちょっと待てよ。逃げんのか?」


逃げる、違う、怜はただこの場にいたくないだけだ。

姫野の不安そうな表情かお、冷めきった表情は見たくなかった。怜がここにいれば葵は変わらずその表情を続けているだろう。それだけは避けたかった。


だからここは――


「ひっ……!」


まるで獲物を狙うかのように狼の向ける眼差しを荒井に向けた。


荒井は驚き、怜の肩に置いた手を話した。

その隙を見計らって怜は再び歩き出した。


もう終わったことだ。

――そう思いたい。



それから怜は黙々と歩き続け、誰もいない屋上にやってきた。

運が良かったのかその時は人っ子一人いなかった。


「友達に連絡した」


「悪い……お前の時間を奪うつもりはなかった」


渋々頭を下げる怜。葵は怒らず、それを受け入れた。

葵の頭の中には怜の謝罪など、今はどうでもいいことだった。それよりも、怜の思い詰めた表情が気になったからだ。


「すぅーはぁぁ……」


深い溜め息を付いた。自分を落ち着かせるために。


「あの人とは一体どういう……」


「……申し訳ないけど、玲奈から小学校時代の話は人にはしないようにって言われてるんだ。俺も話はしたくない。お前も例外なくな」


「そう、わかった。ボクも君の過去に深入りするつもりはないし、君は前に自分に得にならないことは話したくないって言ってたから、今回に限ってはそれに従うよ」


「悪い」


快く受け入れてくれた葵に感謝しつつ、屋上のフェンスに体を預けて空を見上げた。


気分が落ち込んだときは毎回こうやって空を見上げている。マンションの自宅のベランダから、時折景色を見るのもその一貫だったりする。きれいな景色や、澄み渡った空を見ると気持ちが楽になると玲奈から言われたことがあり始めたが、思った以上に楽になるものである。


「お前、これからクラスの手伝いだろ? 渚には何もなかったって伝えておいてくれるか。あいつに妙な気は使わせたくない」


「了解。じゃあボクはもう行くね。あんま思い詰めないようにしなよ」


「ああ、善処する」


「じゃ」


それだけ言って葵は屋上の階段を駆け下りていった。


渚には妙な気を使わせたくない、それはおそらく自分の中にある本心なのだろう。


ずっと一緒にいた渚は、玲奈と同じくらい怜のことをよく知っている。怜が落ち込むときや、楽しんでいるときの様子を見てきたからこそ、無駄な気を使わせて逆に落ち込ませなたくない。


思い詰めたときは大抵ろくなことがないのは自分が一番わかっている。だからすぐに雑念は消し去ろう。そう思うのであった。



その後、葵におすすめされた屋台でお好み焼きとたこ焼きを買って玲奈のもとに向かった。向かっている途中は清々しいくらい楽だった。きっと葵のおかげなんだろうなと思ったが、妙な気は起こしたくないため、そのような考えは飲み込む。


ただ、玲奈や青葉に気づかれなかったというのはなく、差し入れを持っていった際に浮かない顔をしていると言われ、あいにく問い詰められ、玲奈の過剰なスキンシップをもらう羽目になった。


だが、悪い気はしなかった。なぜならいつもよりも優しく頭を撫でられるだけで終わったからだ。こういうところに姉としての弟思いが出てきているのだろうな、と思いつつ玲奈と遅めの昼食をとったのだった。


それからというもの前夜祭は衰えることを知らずに、次から次へとお客さんが来校し、文化祭は大盛況を見せていた。お父さんやお母さんなど、家族が自分の子供の活躍を見に来て、一家団欒の時間を過ごす人や、友達と遊園地に来たかのように遊びまくる生徒、それぞれが様々な楽しみ方をして文化祭は大賑わいを見せていた。


怜も続きを回ろうかと考えたが、これからの忙しさを考えるとそうも言ってられず、生徒会室に残って玲奈の手伝いをすることにした。


想像以上の保護者や、他校の生徒までもが来ているため、なかなか整備が追いつかない部分があり、念のための風紀委員の手も借りているが限界というものある。


人員的なものを考えると明らかに人手が足りなくなってしまう。そのため青葉に相談の下、他校の生徒会の協力を得られないかという形になったが、今年度は青薔薇学園の生徒会のみでの運営になるため、他校の生徒会は後方支援という形になった。


それでも人ではあるに越したことはない。


すぐさま青葉と関わりのある学校から生徒会の協力を要請することができ、十数名の人員を確保することができた。生徒会だけの運営なのであれば、人員を追加するか否かを判断するのも玲奈次第であり、玲奈が必要だと判断したなら青葉は特に何も言わない。そのため協力を求めるのはわりと早い方ではあった。


ちゃくちゃくと運営は進んでいき、その日は何事もなく無事に前夜祭を終えることができた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「1日目お疲れ様〜」


「「「おつかれ~」」」


1日目を終えた怜たちは買いだめしておいた飲み物や食べ物を用意して打ち上げを行っていた。


「いや〜1日目から大盛況だったね〜」


「うん……流石にちょっと疲れたかも」


「すごい人だったもんね。過去最高レベルじゃない?」


各々の仕事を終え、その疲れに浸っている渚たちを見ながら怜は炭酸飲料を飲んでいた。

微笑ましいような気持ちを抱きながら飲む炭酸は、またどこか別の味がした。


「浮かない顔してるね」


「眠いんだよ」


「ほうほう。仕事をしなくていいと言われていたのに、勝手にやったのにそれで疲れて眠くなるとは」


「全部言ったなこのバカ」


「お姉ちゃんにわからないことはないのだよ弟よ」


「そうかよ」


からかわれているのを自覚しつつ軽く流してコップの中身を飲み干す。無駄に感のいい玲奈に呆れつつも、再び渚たちの様子を見る。


玲奈もつられて目線を追うが、ちょっとだけ見てまた怜の方へと向き直る。怜もその視線に気づき、玲奈へジト目を向ける。


「何かあった?」


「言いたくない」


「反抗期だ、反抗期なんだ」


「ちげぇよ……ただ、過去に触れる話になるから話したくないだけだ」


前に向き直り、ふと俯く。渚にも、玲奈にも迷惑はかけたくないというのは怜のわがままななのだろうか、そう思った。


「そっか〜ならしょうがないな。お姉ちゃんも折れるとしよう」


「お前は俺が冷たくしただけで折れるだろ」


「だって怜くんに冷たくされると嫌われちゃったのかな……!? ってなっちゃうし」


「うざったらしいな」


「ほら! そういう事言われると私傷ついちゃう」


怜が暗くなってもすぐに明るくしてくれるのは玲奈の陽の部分があるからだ。これまでに何度も暗い表情をして人と話すことをしていなかった怜を、ずっとそばで照らしていたのは玲奈だった。


姉としての役目だからなのか、それとも家族関係なく怜には明るくいてほしいからなのかは考えたことはなかったが、今ならなんとなくわかる気がしていた。


――玲奈は自分の前に闇を作りたくない。


玲奈の周りはいつだって明るかった。玲奈を慕って、玲奈が笑えば周りもつられて笑う。そんな空間を玲奈は好んでいた。


だが、怜のような常に陰のオーラを発して、一人でいることを好き好んでいるような、闇属性の人間は玲奈にとって苦手な人だった。ただ、その苦手な人がこの世で他の誰よりも愛おしくて大好きな弟の怜だからこそ、怜には明るい存在でいてほしいというわけだ。


だから怜が暗いときはボケて、それに怜がツッコむ、そんな展開を毎回作り出しているのだ。


「まぁ、いいんだよ。怜くんをこの空間に呼んだのは私だし、あの場所から無理やり連れ出したのも私だから……だから、怜くんが今過去に負い目を感じていないなら私はそれでいいかな」


「……感じないし、感じていられない。せっかく抜け出して今この空間にいるんだ。もうずっと過去のしがらみに囚われているようじゃ母さんや父さん、青葉さんに迷惑がかかる」


「うん。だから私も怜くんがここに来てよかったって思ってもらえるようにしたいな」


自分は恵まれている。

そう思うのは今の生活が気に入っているからだろう。


ずっと暗い場所で引きこもって俯いていた自分を、玲奈は無理やり外に出してくれた。どれだけ抵抗しても、どれだけ逃げたとしても必ず見つけてそばにいてくれた誰よりも大切な姉。


ふと怜の脳裏にある言葉が過った。


『逃げていい』

『ただ、逃げるだけの臆病者にはなるな』


父――波夜瀬陸斗りくとの言葉だった。


怜の親はいつだってそう言ってくれた。怜に縛る教育をすることをしなかった。

いつだって自由で、やりたいことを真っ向から受け入れてくれる親だ。怜が一人暮らしをしたいと言ったときもすんなり了承した。


逃げることを許してくれた。


怜の居場所を作ってくれたのも家族で、その居場所を受け入れてくれたのは青葉だった。普通ではないことをしているのに、怜にはそれが普通なのだと教えてくれた親にはきっと頭を上げることはないのだろうとずっと思っている。


「十分すぎるくらいだな。渚がいて玲奈たちがいて、こんなに恵まれてるのが嘘みたいだ」


「ならよかった」


玲奈はそういうと立ち上がって渚たちのもとに向かった。


怜もふっと笑って立ち上がった。


きっと変わることがないこの空間を怜は気に入っている。怜がいたかった場所はこんな誰かを思い合って、それぞれが笑い会えるような空間なのだろう。玲奈がそんな空間を作ったのは、怜が望んだからではなく、怜の幸せを願ったからだ。

ずっと一人で行き続けてきた怜に一度でいいから、人と渡り合って、話し合えるような生き方をしてほしい。切実な願いだからこそ生まれたこの空間は、怜の理想の居場所になるのだろう。

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