第5話 美穂のおばあちゃんとの再会
一人の女性のシルエットを模った、影が川の向こうに立っている。外見は影で覆われていて全身灰色だが、人の形であることは確かだ。
私は川の中へと一歩踏み出した。始めてこの川に入ってから、すでに10年以上は経っているが、いまだにこの川の温度が分からない。正確に言うと、川に入って濡れるところまでは感覚がある。ところが、その先に訪れるであろう、冷たいとか温かいとか、そういう感覚がない。
実際は忘れているだけかもしれない。私が意識して踏み出した川の中は、この世のものではない。私だけの特殊能力。故にこの透き通った水も、私の夢の中だけの話なのかもしれない。
影は私を待っている。いつもそうだ。美穂のおばあちゃんは杖を持っていない、もう一方の手を挙げる。そして私に見せびらかすように、おいでおいでと手招きする。
一見優しそうなシルエットのおばあちゃんといえども、この誘いに乗ってはならない。私は昔に一度だけ、好奇心も相待って川の向こう川の手前まで渡ったことがある。その時、後ろの川がすぅーと消えて始めてたのだ。それと同時に、私の意識は死者の世界へと持っていかれそうになった。真さんが『電夢』のスイッチを抜いてくれなかったら、私は二度と帰らぬ人になっていた可能性は高い。
私は川の真ん中で立ち止まった。
あなたも来て。
私は影と同じように手招きをする。
すると、影は口を開いて何か呟いて、こっちに向かって来た。影元人間で現幽霊なので、もちろんその状態では声を聞くことはままならない。
それでも影にもはっきりとした意思がある。それは生前に思い残して来た後悔かもしれず楽しかった思い出なのかもしれない。
私は恐怖が勝ってしまわないよう、ふくらはぎに力を入れてじっと影を見つめた。〈死の声〉ビジネスを始めて2年経つが、いまだにこのシーンは慣れない。死者の影が誰しも良い意思を持っているとは思えないからだ。
影が私と数十センチの距離にまでやって来た。そして私の手に触れる。私の指先と影の指先が重なり合う。
そのまま、手のひら、腕と、胴体へと影が私の中に入っていく。
美穂のおばあちゃんは、腰が悪かったのだ。背中にまで影入った時、私は突如真っ直ぐに立っていられなくなった。
下半身が影の中に入り、最後は首筋に回って来た。あとは頭だけだ。ここが入れば現世で、私の身体は乗っ取られる。
こっちの世界で私は、影の影響で足元の三途の川を引き換えそうとしてくる。川の向こう岸に着くまで、わずか30秒。
その間なら、身体を取り戻せる。
夏子の目がパチリと開いたのを美穂は見逃さなかった。夏子が始めた〈死の声〉ビジネスはネットを中心に噂になっていたが、実際に死者に憑依する場面は撮影禁止で、本物は言葉の言い伝えでしか知らなかった。
美穂が「あなたはどっち?」と声を発するより先に、夏子はむくりと上半身だけ起き上がると、美穂を見ては口を開いた。
「ようやく会えたね。美穂ちゃん…」
夏子、いや、美穂のおばあちゃんの美代子は優しく微笑んだ。
「おばあちゃん、おばあちゃんなのね」
「ええ、そうよ。ずっと会いたかったよ」
夏子に憑依した美代子がベッドに座ったまま手を伸ばす。すっと美穂の頬を触って動きがピタリと止まる。
「ううん。こちらこそ、おばあちゃんが亡くなる前に愛知に行けなくてごめん」
「いい? 美穂ちゃんが謝ることはないさかい。未来を生きなさい。物騒な過去や現在は変えれなくても、未来は自分の行動次第で変えらるわよ」
「うん。ありがとう」
「私、もう行かなくちゃ」
近くに立って二人のやりとりを見守っていた真は、腕時計を見た。
20秒。
頃合いだ。
腕時計に仕込まれた『電夢』のスイッチを押す。
超微量の電流と人間では聞くことができない超低周波がヘッドフォンから流れ始める。
美穂のおばあちゃんの声がに聞こえる。私の肉体がおばあちゃんの意思で動かされているのがはっきりと感じ取れる。そして私の肉体はおばあちゃんの影によって連行されていた。
川の中枢よりも先の位置に来ると、いよいよあの世も近い。私の目の前には広大な紫色の大地と空。そしてその先の水平線上の境目には、どこまでも続くかのような真っ暗な世界が広がっている。
20秒。
抗えない肉体とは切り離した、心の中でつぶやいた。それと同時に川に青白い電流が何本も走る。
そのうちの一本が私を乗っ取った美穂のおばあちゃんの肉体にぶつかる。
寝起きで冷たい水で顔を洗う瞬間のように、私は我に帰った
おばあちゃんの影から肉体も意思も抜け出す。
バリバリと音が耳に入ってくる。『電夢』による三途の川からの脱出の合図だ。あの世を背に、最初にいた場所へと駆けて行く。やがて河岸に両足がついた時、突如として視界が晴れ、私はこの世に帰ってくることができた。
「ふぅー」
ゆっくりと息を吸い、その倍の時間をかけて吐いた。手を伸ばしてヘッドフォンを外し、首にかける。
向かいに座っている美穂をチラリと見た。思わず目が合う。その瞬間美穂はギクリとして私の方を目を丸くして見つめた。
「青嶋美穂さん、お疲れ様でした。これで故人のおばあちゃんとの面会は終了です。夏子も無事にこちらの世界に帰ってくることができました」
真さんが場を締めくくるようにして言った。私は立ち上がって美穂の背中に手を置いた。
「ああ、ごめんね美穂。驚かせる気はなかったんだけどさ。いつもこのビジネスしてるとさ、戻り型がシュールだから困るんだよね。何はともあれ、あなたのおばあちゃんはとっても良い人だわ。私も身体をとっとられながら聞いてたから分かる」
「ううん。別に気にしてないよ。目の前で起こっている情報が一転二転してさ、少しびっくりしただけ。不思議だねー。まさか本当におばあちゃんの思いを聞き出すことができるとは。演技だと噂する声もあったけど、あなたは本物よ夏子。私もやっとおばあちゃんとスッキリした形で別れることができた。本当にありがとう」
そう言って美穂は椅子立ち上がった。今まで両手で抱き抱えていた、日本人形を美穂に返す。
「すごいよ。ほんとにアレはおばあちゃんだった姿が変わっても喋り方や仕草がもうそれだもん。ありがと」
美穂は袋に日本人形を詰めて、診察室を出て、玄関のドアを開ける。
外から聞こえる蝉がよりいっそう元気に鳴いている。私はセキュリティロックを解除して門を開ける。美穂と手を振り合って別れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます