三、謙虚なる者の土地 2
6
新しく食料を積み、またアステリス曰く「取引に必要なもの」を携えて、彼らはアステリスの家を辞した。全速力で戻り令嬢の護衛という役目を務めなければならない。距離としてそんなに遠くはないから、日が昇る前の今家を出発して、夜には街に戻れるだろう。
寺院を意識的に避け、アステリスは急いだ。その姿はまるで戦に馳せ参じる忠義深い騎士のようでもあり、新妻の出産に駆け付けた無骨者の戦士のようでもあった。三人は途中ほとんど休みなしで街へ向かった。フェクタはだいぶ慣れたようだ、何度か疲れた顔はしたもののとうとう最後まで音をあげず、自分で水を飲んだりアステリスに教えられた通りに干し棗を頬張ったりして、アステリスが感心するほどよく頑張った。
そのおかげかどうかは定かではないが、街には夕方すぎに到着できた。アステリスの予定より四時間ほど早かったといえるだろう。アステリスはイアネイラ嬢のもとへ戻りまずは一安心とほっと一息ついた。自分がこの目で安全であることを確かめられないくらい恐ろしいものはないのだ。いくら街の有力者に保護を依頼したところで、そういうものをくぐりぬけてやってくるのが刺客というもの、アステリスは自分以外の人間の腕などは信用していなかった。信頼しているのはこの身ひとつ、今までの自分を築き上げるのに至った我と我が身である。アステリスとジラルダ、フェクタの三人はその夜令嬢とくわしく打ち合せをして、その日は早々に眠った。アステリスは令嬢の部屋に毛布を持ち込んで床に寝ると言い、、ジラルダとフェクタは向かいの部屋で眠った。といってもアステリスは、令嬢に疲れた身体でそれはあんまりだと言われ、わざわざベッドを持ち込んで頂いたのだが。 そして昼すぎに目覚めた彼らは、令嬢を伴って街の影の有力者、フェッティーエトのもとへと向かった。
「いいかあんたらは黙ってろ。交渉はすべてあたしがする。令嬢もあいつの顔はあんまり見るんじゃない。喰われるからな」
アステリスはそう言うと豪快に笑い飛ばした。令嬢としては冗談なのか脅しなのかよくわからなくて困ったようにジラルダを見たが、彼も判断しかねたらしく、深刻な顔で黙ってしまった。が、アステリスは言わなくていいことは決して言わないくらいのことは、ジラルダはこの数日の旅でよくわかってきているので、とりあえず真に受けておいたほうがよろしいでしょう、仕方なく剣士はこう忠告した。
到着した場所はごく普通の館で、唯一普通でないところはといわれれば、普通とはちょっと言いがたいほどの大きさであることだろう。アステリスは警戒する門番に名を告げ今日訪れる約束をしていたことを告げると、門番は嫌そうな顔をして渋々といった態で彼らを中へと招き入れた。
「心配すんな。あの門番いつもああなんだ」
アステリスは言いながら慣れた足取りで中へ入っていった。玄関は三メートルはあろうかという大男が執事らしき格好をして待っていた。アステリスとは顔見知りらしく、彼女の顔を見ると一度だけうなづいて何も言わずに彼らを案内した。
着いた部屋は大きな樫の一枚板の扉で、中は少々薄暗く、うっすらと闇にたなびく白い煙とその微かな薫りで、部屋の持ち主が何かの病気を慢性的に患っているらしきことが辛うじてわかった。
「アステリスか……」
だるそうな声が部屋の奥から聞こえてきた。暗いのでどこにいるかはわからない。
「久しぶりだねフェット」
「ふふ……久しぶりなんてねもんじゃねえだろう。ずいぶんあちこちで荒稼ぎしてるようじゃねえか、え?」
「あんたほどじゃないよ。それに今日は昔話をしにきたんでもないんよ」
一瞬間があった。ジラルダの感覚からいって、フェッティーエトは目を細めてしばらくアステリスを見つめていたように思われた。この男の感覚ならば、例え辺りが鼻をつままれてもわからないほどの暗闇でも信頼に足る。
「よかろう……で?」
「アヴァスティンまでの手形が欲しい。つごう六人ぶん」
「……それはまた急な話だ。いつまでだ?」
「できれば三日以内」
「アステリス」
闇の向こうから嘆息が洩れてきた。
「いくらなんでもそれはひどい。俺に商売させないつもりか」
「金は払うよ」
「いくら」
「ディヴェリンでそっちの必要経費プラス謝礼込みで……二十枚でどうだい?」
ジラルダはアステリスに言われたことも忘れてもう少しで口を開きそうになった。確か令嬢との手形に要する経費は三十枚と……・しかしその直後のふたりのやりとりでジラルダは辛うじて口を閉じることができた。
「安すぎる。せめて二十七」
「二十三」
「二十五」
「フェット」
アステリスは大仰に肩をすくめてみせた。
「あたしとあんたの仲じゃないか。二十七ぁ? ふっかけすぎだよ」
「六人ぶんの手形を三日以内でこれだけなら、他のどの同業者だって引き受けないぞ。俺とお前の仲だから二十七だ」
アステリスはやれやれとため息をついた。
「ふう……まあ……いいか。と言いたいところだけど」
アステリスは背負い袋の中に手を突っ込んでごそごそやったかと思うとなにか包みを出して暗闇の方に放った。受けとめる音、がさがさと包みを開ける気配。
「! ……これは……」
「見舞いだよ。この間偶然見つけてね、渡すこともあるかと思ってとっておいたんだ」
一瞬の沈黙のあと暗闇から唸り声が聞こえてきた。どうしたらいいものかと思案し考えあぐねている様子だ。
「うーむ・・・。こいつをもらっちまったら安くしないわけにはいかないな・・・。そうだな、二十二枚でどうだ」
「のった」
アステリスは笑顔になった。
「よし。じゃあ三日以内に手形を作ろう。宿は」
「大通りの〈砂吹雪〉ってとこだよ。待ってる」
アステリスはフェットと別れを告げるとほくほく顔で館を辞した。とうとう最初から最後まで黙っていたジラルダたちであったが、料金を安くさせるに至ったあの包みの正体がなんなのか―――――視線だけでも充分アステリスに訴えかける効果はあったようだ。アステリスは気付いて、聞かれるより先に自分からこたえた。
「……あいつはね。重い病気なんだよ。下半身が不随で、それだけならまだしも日々ひどい苦痛に苛まれてる。彼は砂漠の街という街王国という王国すべての裏に通じる大物で、砂漠の裏の世界は奴の手のなかにあるっていっても過言じゃないんだよ。砂漠で大物っていったら、世界で五本の指ってことさね。それなのにあいつは幸せじゃないってあたしに言ったよ。室内に薫きしめられた香……。あれが少しでも薄れると、途端に激痛に悩まされる。そりゃひどい苦しみようでね」
「ではあれは……」
「うん。ジャッティン香だよ。あれだけあれば当分は、ね」
それだけのためにわざわざ、砂漠を渡って家まで戻ったというのか。
それが果たして交渉をうまくいかせるためのものなのか、あるいは彼のもとへ行くきっかけができたので、見舞いついでだったのか、ジラルダにはわかりかねた。
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