第120話 美智子

◆美智子


 その日から妻の様子が次第におかしくなっていった。

 最初は風邪かと思ったが、熱は微熱だった。

にも関わらず、家事や洗濯をするとき以外は、テレビも見ずにソファーに横になったり、寝室で寝込んだりしている。

「医者に見てもらえよ」と促したが、

「どうして? ちょっと体がだるいだけなのよ」と返事した。

 確かに、咳き込んでもいないし、だるさだけなのか。

 離婚が決まっていても、それまでは夫婦だ。妻の症状は心配だ。

 携帯で、男、つまり片倉女史の旦那と連絡を取り合っているのか、と想像もしたが、そんな様子もない。

 そもそも妻がおかしくなり始めたのは、リビングで「幽霊を見た」と妻が騒ぎ出してからだ。

 あの日ばかりではない。寝込んでいたかと思うと「ああっ!」と、がばっと起き上り、

「あの女よ!」と叫ぶ。

「美智子の目には何が見えているんだ!」

 俺が訊いても妻は何も答えない。

 俺は思った。これは妻の妄想だと・・

 あの日以来、何かに憑かれたように妄想の虜になっている。そう思った。

「どうして、私を苦しめるの?」妻は何度かそう言った。

 

 妻の調子が悪い間は、裕美が家事を補っている。

 裕美は、「お母さん、しっかりしてよ」と子供っぽく言ったかと思うと、数時間後には、

「何か、悪いものでも食べたんじゃない?」といきなり冷めた口調で言ったりした。


 妻は、芙美子の生霊の犠牲者なのか。

 源氏物語に登場する六条の御息所の生霊も同じような現象だったと記憶している。主人公の光源氏の妻、或いは、愛人たちが次々と病魔に襲われたり、亡くなったりした。

 亡くなった女たちには、それほどの罪がなかったはずだ。

 生霊は本人の気づかない所で、何らかの行いをする。

それが意に沿ったものであるか、意に反するものかを問わない。

 それは、六条の御息所の場合だ。芙美子にまつわる怪異現象とは違う。


「あなたを愛しているのよ・・」

 深夜、妻が寝言で言っているのを聞いた。異様にはっきりと聞こえた声なので、一瞬ドキリとした。

 だが、「あなた」というのが、俺のことなのか、それとも他の誰かのことなのか、確かめようもない。

 いずれにせよ、

 このままでは、妻は痩せ細り、死なないまでも生活に支障をきたす恐れがあるし、裕美にも悪影響がある。

 実家に早く帰す方法もある。だが、妻はイヤだと言った。

「どうして、実家に帰らなくちゃいけないの?」弱々しい声で言った。

「裕美の学校のことなら心配はない。義父の家からでも通える」

 俺はそう言ったが、妻は、裕美の問題ではない。ただ、離婚したくないだけだ。妻はそう答えた。

「もうお義父さんとも話をつけたんだ。今さら元に戻れないことは、分かるだろ」俺は強く言った。

「ええ、それは分かっているつもりよ。お父さんはこうと決めたら一切引かない人だから」

 妻はそう言って、

「前の離婚の時もそうだったの」とポツリと言った。

 あまり以前のことには触れたくないのだろう。妻はそれきり黙ってしまった。


 妻の様子を見ながら俺は思った。 

 俺が過ごしてきた人生と妻の人生の開きについてだ。

 俺は平均的な家で生まれ普通の人生を送ってきた。

 だが、妻の美智子は違う。

 事業家の娘に生まれ、何不自由なく過ごしてきた。だが、それが深沢氏という権力を持つ父親があってのことだ。

 不自由はないが、心の自由はそれほどなかったのだろう。

 通常であれば、ここで離婚話をチャラにすることは簡単だ。だが、深沢家の場合、離婚話がなかったことにするのは、離婚同様に大変なことのような気がした。


 俺は妻の傍にいながら、自身の幼少期に思いを馳せた。

 父親は普通の会社員だった。母は時折パートをしていたが、基本的には専業主婦だった。

 俺の記憶では、父は出世しなかった。そのはずだ。

 特に姉に先立たれてからは、生活や仕事に対する意欲を無くしたようになってしまった。

 それは母も同様だ。

 おそらく、父母は片時も姉のことを忘れることなく、姉の思い出と共にこの世界を去ることだろう。

 俺の場合は、父母の虚無感の反動なのか、必死で勉強し、それなりの大学に入った。

 出世街道を登り詰めようとしたのも、そのような経緯があったせいだろう。

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