第119話 深沢邸③
俺は、様々な思いを抱えながら深沢邸を後にした。
通常、離婚は夫婦の話し合いで行われるはずだが、俺たちの場合は、深沢氏の一存で決まるようだった。金銭面でも、その面に精通している人に任せるということだ。
但し、借金の方は娘に弁済させる方向だ・・深沢氏はそう言った。
その時、ふと頭を過ったことがある。
まさかと思うが、妻は他からも借りている・・なんてことはないだろうな。
現在は婚姻はしている状態だ。イヤな予感がする。
街灯だけに照らされた道を歩きながら、携帯を取り出した。
電話の相手は妻だ。帰宅してからは言い出せない話も電話なら簡単だ。
「今から、帰るよ」と言って「お義父さんに会ってきた」と続けた。
すると妻は、
「お父さんは、こうと決めたら、曲げない人だから」と言った。
俺はそれには何も応えず、近くに裕美がいないことを確認した上で、
「金の話だが・・」俺は借金の件を切り出した。「借りているのはあそこだけか? あの鎌田商会という金貸しだけなのか?」
しばし沈黙があった。それだけで、複数の会社から借りていると推測した。
妻は「ごめんなさい」と小さく言った。
「他からも借りているんだな?」
「ええ」と声が聞こえた。
総額がいくらになる? 俺の質問に妻は、「計算しないと分からない」と答えた。
「いい加減にしろ!」
溜まっていた感情が一気に噴き上げてきた。ところが妻は金の話はそっちのけで、
「・・離婚は困るのよ」と言った。
人間は追い詰められると話題を別の話題に転換するものらしい。
妻が言う「困る」と言うのは、自分が離婚歴二回になるということ、それに伴い、周囲の評価も下がる、ということだ。
当たり前だ。だったら、どうして不倫などした。
「美智子は、浮気などしていない、と強く言っていたじゃないか!」
妻は俺の言葉を頑として受け付けなかった。
妻は、片倉女史の夫のことを「あんな男」と評価していた。そして、こうも言っていた。
「あのご主人。とんでもない人よ。あんな男。こっちから願い下げだわ」
それなのにだ。どうしてだ!
俺の猛攻撃に妻はこう答えた。
「私、よく憶えていないのよ」
妻は自分の言ったことも、したことも憶えていない。そう言った。
「私、どうして、浮気なんかしたのか、よく分からないのよ」
まるで、そこだけが記憶が欠落しているかのように言った。
俺は、「呆れてものが言えない」と言った。
「金の件はどう説明する! 男の為に、男のビジネスに投資したんだろ」
「ええ、たぶん・・」妻は自信なさげに言った。
「たぶん、だと!」
呑気に言いやがって・・苛立ちが高まっていく。
「まさか、金のこともよく憶えていない、と言い出すんじゃないだろうな」
そう言った瞬間、俺は、はたと思った。
そのまさかだ。
これは何かの力だ。
背筋がゾッとした。背中を無数の虫が這い上がるような感触がした。
ある仮説が俺を支配したからだ。
その力・・
その絶対的な力は、俺から妻を排除しようとしている。
それはもはや止めることが出来ない。
俺は込み上げてくる怒りを抑え、
「とにかく、お義父さんに迷惑はかけないことだな。それと、裕美を傷つけることのないようにしろ。俺もそう努力する」と強く締めくくり電話を切った。
電話を切ると、ドッと疲れが出た。
全身の力が抜けていく、とはこういう感覚を言うのだろうか。
俺は生涯の伴侶となるべきはずの妻を失おうとしている。
そんなに長い期間でもないが、それなりの思い出もたくさんある。
自分に懐かなかった娘の裕美の変貌も嬉しかった。
だが裕美が俺といる方がいい、と言っていても妻の方に行くことだけは確かだろう。俺と裕美には血の繋がりがない。
家は、今のまま居続けることになりそうだ。幸い、会社にも在籍させてもらえるようだ。
ただ、あの家は、俺一人が住むには大きすぎる。かといって再婚など考えられない。
仮に別の女とできたとしても、また同じ繰り返しが起きるような気もする。
この先のことを考えるとキリがない。
だが、その一方で安心していることがある。
・・妻と別れることになれば、芙美子の力による惨劇が妻に及ぶことはない。
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