第115話 泥①

◆泥


 閑静な住宅街。その街灯の下、

「げええっほおおおっ!」

 異様な声が響き渡った。喉のつっかえを除こうとするかのような音だ。この声は、教師の黒川の時と同じだ。黒川と違って、カシヤマは体躯がデカい分だけ声も大きい。続けて「げっほおっ、げほっ、んごほおおっ」と咳き込んだかと思うと、

 続けて、ブーッと破裂音がした。口を閉じたまま何かを吐き出した音だ。

 見ると、カシヤマが手で口を押えている。「んげええええっ」と 吐瀉する時のような声が洩れた。

 その指の間から、何かの液体がタラタラと垂れている。

 吐血か?

 弁護士男のゴトウはその様子を見て、眼鏡を上げ下げした後、

「血?・・いや、血とは違いますね」と判断しかねるように言った。

「泥?・・」俺が呟くように言うと、

 ゴトウは俺を見て、「そうかもしれません」と苦虫を噛み潰したような顔で言った。

 

 間もなく、エンジン音がして、近くに停めてあったのか、シゲタが黒塗りの高級車を回してきた。

「シゲタさん、お腹の方は大丈夫ですか?」ゴトウが優しく訊いた。

「もう治まったみたいっすよ」とへらへらと笑った。

「それはよかった」

 ゴトウは、シゲタの回復を喜び、カシヤマの症状はどうでもいいようだった。

 地面にうずくまっているカシヤマが、二人の男を恨めしそうに見上げている。

 どうして、俺だけがこんな目に遭わなくてはならない。そんな顔をしている。


「カシヤマさん、早く乗ってください!」

 先に乗ったゴトウが声をかけると、カシヤマはよろよろと立ち上がり、ふらふらの体で後部席に乗り込もうとすると、その様子を見た小男のシゲタが、「えっ」と声を上げ、

「ゴトウさん」と声をかけ、

「もしかして、カシヤマさんはゲロを吐いたんすか?」

「そうなんですよ。泥みたいなものを」ゴトウは困った様子を見せ、「全く迷惑です」続けてそう言った。

「シートがゲロで汚れますよ」

「では、シゲタさん。何か敷くものをシートにかけてやってください」と面倒臭そうに指示した。

 シゲタの作業が済むと、

 助手席に乗ったゴトウは窓から顔を出し、

「中谷さん、また来ますよ」と不気味な笑顔を浮かべ、

「今度は、取り立てにお伺いしますよ。もちろん、ご主人ではなく、奥さんの方にね」と宣言するように言った。

 これで終わりではない。ゴトウはそう言い残し去っていった。


 彼らがいなくなると、ドアの向こうにいるはずの裕美を見た。だが、ドアは閉まっていて裕美の姿は無かった。中に入ったのだろう。

 子供が見ていいものではない。俺も外にいる必要もない。あとは妻を問い詰めるだけだ。

 玄関に入ると、すぐに裕美が出てきた。

「お父さん、さっきの人たち、悪い人たちだよね」心配そうな表情だ。

「人によっては、そうかもしれない」そう答えた。

 そもそも、妻が金を借りなければ、俺たちには縁のない人間だ。

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