第8話 我慢大会(叶芽)
「なあにが少しずつだよ!」
翌朝、まだ暗い時間に起きた
昨夜は『触れるのは少しだけ』と言われて、冬真の寝室に入った叶芽だが、あっという間に脱がされて、さんざん触れられた。
おそるおそるトレーナーの腹をめくると、キスマークだらけで恥ずかしくなったが、それ以上に怒りで頭がどうにかなりそうだった。
「人のこと、むちゃくちゃにしやがって!」
だが枕をぶつけたところで、冬真の幸せそうな寝顔が崩れることはなかった。
「ダメだ、ふらふらする」
怒りに任せて立ち上がったもの、酒と行為の余韻で立っていられなくなった叶芽は、仕方なく冬真の隣に寝転がる。
「次に起きたら、絶対許さないからな」
怒りで目が冴えていた叶芽も、疲れで睡魔は突然やってきた。
「……ん……くすぐったい」
早朝に二度寝した叶芽だが、首のあたりに温かいものを感じて、瞼を半分だけ開く。
が、自分の現状を知って、急激に覚醒した。
「ちょっと、冬真!」
「いてっ」
自分に覆いかぶさる冬真を、叶芽は思い切り蹴とばした。
すると冬真は恨めしそうに叶芽を睨んだ。
「朝から何する気だよ」
「何って……隣に叶芽がいるから、仕方ないだろ」
「何が仕方ないだよ」
頭を抱える叶芽を、冬真は抱きしめる。
「いいよな?」
「ダメに決まってるだろ!」
「なんで?」
「なんでって……こっちが聞きたいよ」
「俺の許可なく触ったら、絶交だからね」
「昨日はあんなに気持ちよさそうだったのに」
「おい」
叶芽は声を低くして、冬真を睨みつける。
「相手が嫌がってるかどうかもわからないのか?」
「でも抵抗しなかったよね?」
「抵抗できなかったんだ! なんでわからないんだよ」
「本気で抵抗すれば、俺だってやめるし」
冬真の呟きに、怒りが沸騰した叶芽は無言で帰り支度を始める。
「え? 叶芽……もう帰るの?」
「帰るに決まってるだろ。冬真がそんな調子だったら、悪いけど……これ以上は一緒にいられない」
「え!? なんで!? ちょっと待って」
後ろから抱きしめられて、叶芽は動けなくなるが、冬真の足を踏んづけて逃げ出した。
それでもすがりついてくる冬真に、叶芽は苛立ちをぶつける。
「そうやって、力でどうにかしようとするなよ」
「だって……叶芽がなんで怒ってるのかわからないから」
「俺がどうして怒ってるのか、本当にわからないのか?」
叶芽は呆れて口が塞がらなかった。
そんな叶芽に、冬真はキスをしようとするが──叶芽は容赦なく冬真をひっぱたいた。
「いて……どうしてダメなの?」
「人が真面目に話してる時、キスはダメ」
「でも、叶芽が可愛いから」
「それはもう聞き飽きた。そうじゃないだろ? 恋人でも合意は必要なんだよ」
「お互いに好きなら、何をしてもいいんじゃないの?」
「もう、その価値観がすでに違う……今までいったいどんなつきあいをしてきたんだよ」
「今までは、女の子の好きにさせてたから……わからない」
叶芽はため息をつく。
「いい、冬真? 自分の思い通りにしたい気持ちはわからなくもないけど、相手にだって心はあるんだから。好きにしていいわけがないよ」
「叶芽は俺に触れられるのは嫌なの?」
「そうじゃないよ。冬真に触れられるのは嫌じゃないけど、でも許容範囲があるんだよ」
「どこまでならいいの?」
「最初は首までって言ってただろ?」
「そんなの無理だよ」
「無理だったら、最初から言うなよ! ……もう、いっそ距離を置くか?」
「いやだ」
「いやだ、じゃない。冬真に必要なのは、我慢だよね」
「でも俺だって、いっぱい我慢したんだ。叶芽が隣で寝てても、今まで手を出さなかった」
「俺のせいだって言いたいの?」
「叶芽が可愛いから……」
「ほんとにそれしか言えないの?」
冬真がまるで子供のようで、呆れた叶芽は大きく息を吐いた。
「じゃあさ、ちょっと距離を置こう」
「え?」
「ひとまず一か月我慢できたら、ご褒美をやるよ」
「ご褒美って何?」
「えっと……まだ決めてないけど」
「俺はご褒美より叶芽がほしい」
「待った! 近づかないで」
「どうして? 触れるのもダメなの?」
「あのさ、俺は真剣に話をしてるんだよ?」
「俺はいつだって真剣に叶芽が好きだよ」
「どうしてわからないの?」
「叶芽だって、わかってないよ」
「何がだよ」
「そばにいるなら、触れたいって思うのは当然だろ? 叶芽は違うの?」
「そりゃ、触れたいって気持ちはあるけど……俺は冬真が怖いよ」
「すぐに慣れるって」
「慣れる……? そういうものなの?」
「そういうものだよ」
「……いや、違う。慣れるとかそういう話じゃないんだ」
「何が違うの?」
「そもそも人が嫌がることをするべきじゃないだろ?」
冬真に言いくるめられそうになって、叶芽は慌てて
「……俺のこと、好きじゃないの?」
「……好きだよ」
「好きで、触れたいと思うなら、何が問題なの?」
「だから言ってるじゃん! 触れるにも許容範囲があるんだって」
「俺は叶芽が理解できない」
「どうしてわかってくれないの」
「……泣いてる叶芽も可愛い」
「おい、こっちに来るなって」
「こわくない、こわくない」
抱きしめてくる冬真から逃げようとすると、冬真が腕に力をこめる。
「俺は犬や猫じゃない……ん」
何度拒んでも、冬真はこりずにキスをした。
次第に熱くなる唇に、息も絶え絶えになっていると、そのうち冬真が叶芽の服の下に手を滑り込ませる。
「冬真!」
昨夜と違って酒が抜けた叶芽は、今度こそ本気で抵抗した。
「いてっ」
「本当に別れるよ?」
「どうしてそんなこと言うんだよ」
「お互いを尊重できない関係なら、一緒にはいられないよ──サヨナラ」
叶芽が本気を見せつけて立ち去ろうとすると、
「待って」
冬真が慌てて呼び止める。
叶芽は背中をむけたまま立ち止まる。
「わかった、わかったから」
「何がわかったの?」
「叶芽が嫌なら……触れない」
「本当に?」
「二日くらいなら」
「たった二日? ふざけてる?」
「……一ヶ月、我慢する」
消え入りそうな声に、叶芽は破顔する。
「えらいな、冬真」
「子供扱いするなよ」
***
それから冬真の我慢大会は始まった。
相変わらず常に二人一緒だが、初日から冬真は機嫌が悪かった。
無防備に笑う叶芽の傍で、冬真は何度も喉を鳴らしたが、叶芽は気づかないふりをする。
この時の叶芽は触れてこない冬真に、安心しきっていた。
「冬真、今日も飲みに行く?」
「……今日はいい。やることがあるから、先に帰るよ」
「そっか。わかった」
そっけない冬真に、少しだけ違和感を覚える叶芽だが、その時はとくに何も考えずに解散した。
そしてその日を境に、二人でいることが少しずつ減っていった。
「冬真、おはよう」
「ああ、おはよう」
挨拶だけかわすと、離れていく冬真を見て、叶芽は目を瞬かせる。
(冬真がよそよそしい)
少しだけ寂しく思った叶芽だが、それでも冬真が頑張っていると思うと嬉しかった。
そんな時だった。
「すみません、この大学の事務局ってどこですか?」
大学内の並木道を歩いていると、ふと叶芽は声をかけられる。
振り返ると、学ランを着た長身の青年がいた。
(冬真に負けないくらいイケメンだな)
大きな目をした青年は、可愛い顔だが立派な体格をしていた。
「事務局はB棟の二階だよ。案内しようか?」
「はい、お願いします」
それから道案内をしている間、青年は少し緊張しながらもよく話しかけてきた。
大学のことを聞かれる中、叶芽のことも聞かれた。
初対面だったが、叶芽はなぜか嫌な気はしなかった。
「ここの図書館はけっこう立派なんだ。一般開放もしてるし……あとで行ってみる?」
「はい、お願いします。あの……名前は」
「俺は
「かなめさん……えっと、俺は
「そっか。じゃあ、事務局に行ったら、ついでに見たいところある?」
叶芽が笑顔で言うと、
それから理玖に大学内を案内し終えた頃には、すっかり暗くなっていた。
音楽などの話が盛り上がり、時間が過ぎるのはあっという間だった。
「叶芽さん、今日はありがとうございました」
「いえいえ」
「でも残念だな」
「何が?」
「俺が大学生になっても、その頃には叶芽さんが卒業してるなんて」
「大丈夫だよ、
「……俺、本当は人見知りなんです」
「そう? そんな風には見えないけど」
「それは、叶芽さんと話したかったから」
「なんだか嬉しいな。そんな風に思ってくれるなんて」
「あの……よければ連絡先交換してくれませんか?」
「うん、いいよ」
「――何してるの?」
「ああ、冬真」
「その人は?」
「うちの大学を目指してる人だよ」
冬真が冷たい目で
(なんだか相性が悪そうな二人だな)
「叶芽さん、今日は本当にありがとうございました」
「大したことはしてないけど、またいつでも案内するよ」
「はい! それじゃあ、また」
「叶芽、ちょっと来て」
「どうしたの? 冬真」
理玖を笑顔で見送っていると、叶芽は冬真に手を引かれて、近くの棟に連れていかれる。
無人の研究室に押し込められた叶芽が目を丸くする中――冬真は叶芽の襟元の匂いをかぎ始めた。
「なんだよ、くすぐったいな」
「あいつに何かされてない?」
「はあ? 何言ってるの? そんなことあるわけないよ」
「でもあいつ、絶対叶芽を狙ってるよ」
「バカなこと言うなよ。冬真は考えすぎ──ちょっと! 一ヶ月の我慢は?」
匂いを嗅ぎ始めるうちに止まらなくなった冬真を叶芽が小突く。
「大丈夫だよ、カギは閉めたから」
「まだ一ヶ月経ってないんだけど?」
「もう無理」
(五日でも我慢したほうなのかな?)
「……はあ、じゃあご褒美もナシだな」
「ご褒美って何?」
「冬真の部屋にしばらく厄介になろうかと思って」
「それって、一緒に暮らすってこと?」
「うん、とりあえず一ヶ月だけ」
「本当に?」
「ああ、嘘じゃないよ」
「わかった……じゃあ、今日は何もしない」
「お」
(こんなことがご褒美になるかと思ったけど……意外と効いてる)
「そのかわり、約束だからね」
「わかったよ」
嬉しそうな冬真に、叶芽も笑みを浮かべる。
だが……
叶芽の知らないところで、別の歯車が回り始めていることを、この時はまだ知らなかった。
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