第5話 記憶喪失
玄関先で、私はおずおずとドアに手を伸ばす。
私は、一体なぜためらっているのか? 母が怖いからか?
いや、母は優しいし、きっと私に怒鳴らない。それなのに、なぜか嫌な予感がする。
私は一歩踏み出し、取っ手をつかんで回す。渋々ドアを開けると、天井灯のついていない薄暗い玄関が視界に入った。
「お母さん? 帰ってきたよー?」
試しにそう告げてみたが、答えはなかった。私の震える声が玄関内に虚しく響いた。
母はいつも仕事で忙しいのだが、毎日欠かさず三時前に帰るようにしている。
今思えば、それは簡単な料理さえできなかった私のせいだったのだろう。だから、母はまだ家にいるはずだ。
――まさか、私を捜しに出かけたのか?
玄関内に視線を泳がせていると、私はあることに気づいた。
料理部を飛び出したとき、エプロンを外すのを忘れてしまった。つまり、私は未だにエプロンを着けているのだ。
私は奈波への罪悪感に苛まれ、頭を抱えて困惑した。
母を捜すべきか、それとも学校に戻ってエプロンを返すべきか?
いずれにせよ、どっちもやらなければならない。しかし、どっちを優先すればいいのかさっぱりわからない。
奈波は友達だから許してくれるだろう。少なくとも、そう信じたい。無意識に盗んだエプロンなんて些細なことで仲違いするくらいなら、絶縁したほうがよさそうだ。
兎にも角にも、許してくれるとしよう。
私は意を決し、また家を後にした。行方不明の母を捜しに――。
そのとき、誰かの足音が聞こえてきた。こちらに走ってきているような。
そして、その『誰か』の声が風に乗って私を呼ぶ。
「待って、彩夏!」
夕焼けに染まった景色の中、一人の女性がこちらに向かって全力疾走している。金髪のツインテールを風になびかせて。
「奈波? どうしてここに?」
「ごめん……心配したから……彩夏の後を追おうと思って……」
「こちらこそごめん! エプロンを盗んじゃって! どうか、許してください!!」
そう
てっきり怒られると思いきや、奈波は純粋な笑顔を見せた。
彼女の輪郭が夕陽に照らされ、浮かび上がる。光り輝くオレンジ色は天使の輪を思わせた。
「彩夏はエプロンを盗んでなどいないよ。彩夏が選んだエプロンだからね」
奈波の言葉に、私はポカンと口を開けた。
過去を引きずってはいけないことはわかっているが、それでも学校図書館でパソコンさえ譲りたくなかった奈波だ。
態度が一変して私にこんなに優しくしてくれるとは思いもしなかった。
こちらに微笑みかける奈波に、私は微笑み返す。
私だけのエプロン。しかも、彼岸花のような緋色のエプロン。
それは私にとって最高のプレゼントだった。
「ありがとう! でも時間がない!」
こうして過失窃盗事件が一件落着したが、もう一つの問題がまだ残っている……。
「なぜそんなに焦ってるの? 母に謝るだけでしょ?」
「母は……こんな時間だと家にいるはずなのに、母を見つけられなかったんだ! 今すぐ捜しにいかないと!」
「待って、彩夏! エプロンを着けたまま走っちゃいけない! つまずいちゃうでしょ!」
そう言って、奈波は私のエプロンを外し始めた。
その手の温もりが私の身体に伝わる。
外し終えると、奈波は私の右肩にエプロンをタオルのようにかけて、こう言う。
「じゃあ、行こうね!」
奈波は先頭を走りながら、必死に追いかけようとする私をしきりに振り向く。
彼女は料理部の部室で『そんなに頭が良くないよ』と言っていたので、もしかして方向音痴なのかと思っていたが、実は私より土地勘があるようだ。
ああ、頼もしい友達ができてよかった。
⯁ ⯁ ⯁
遠くに彼岸花が続く。どこまでも、どこまでも。
一人だったら、私は都市伝説を無視してでもそこに行っただろう。が、私の居場所を奈波にばらすわけにはいかない。
だから、私はそこに見向きもせず、ただ
「ねえ、彩夏。お母さんがどこにいるか、見当がついたの?」
走っているせいか、それとも風が強くなったせいか、奈波の言葉はよく聞き取れなかった。
「残念ながら、皆目見当がつかない……」
「カイモク? 言っとくけど、あたし頭が良くないからね? そんな言葉を使わなくていいって」
昨日と同じ流れになったので、私は
坂道を下りながら、私はあははと
「ごめん。一度だけでもいいから皆目って言葉を使いたかったんだ」
「それって昨日の台詞じゃないか?」
「まあ、一応同じ流れになってるしね。ふさわしいと思ったんだ」
「ところで、彩夏はもしかして本好きなの?」
「別に」
「そうか」
声が風にかき消されないように、奈波は話すたびにこちらを振り向く。
下り坂を走っている間、私たちの速度は次第に上がっていく。
汗ばんだシャツが風に翻る。
晩秋の夕方なのに、真夏のような情景のようだった。
「あのね奈波、どこに行っているの?」
私の問いに、奈波は首をかしげた。ややあって、またこちらを振り向いてこう答える。
「彩夏のお母さんがいる場所に、でしょ?」
確かに。なぜか……母がそこにいると感じる。
――しかし、奈波はなぜ母の居場所がわかっているのか?
そう思った途端、奈波は突然立ち止まり、転ばないように踏ん張る。
私は危うく彼女の後ろにぶつかりそうだったが、ギリギリ足を止めた。
私たちがたどり着いたのは、見慣れた校門だった。
「学校? 私の母は学校にいるの?」
「あはは、ついにおかしくなったね彩夏。本当に忘れたのか? 君のお母さんはこの学校の先生だよ?」
そう言って、奈波はまた心配げに笑った。
彼女の言葉に、私ははっとする。
言われてみれば確かに。私は母のクラスにいたことがないが、彼女は紛れもなくこの学校の先生なのだ。どの科目を教えているのか思い出せないが。
私はどうしてそんなことを忘れたのか? まだ若いのに、もう記憶力が落ちているのか?
いや、それは釈然としない。
何かがおかしい。私ではない何かが。
「じゃあ、
そして、風田先生――母の教室。
全てが奈波の言う通りだった。机の後ろに、母が座っている。
それを見て、私は安堵の溜息を吐いた。
「彩夏……? あと、これは新しい友達なの?」
「石川奈波です。よろしくお願いします」
軽く自己紹介をしてから、奈波は会釈した。
「あの、家に帰ったけどお母さんはいなかったんで、奈波と一緒に捜しに来たんだけど……邪魔をしたならごめんなさい」
「いやー、かなり心配を掛けちゃったねー。普通に残業はしないけど、今日だけ残業しなければならなかったの……。まあー、そろそろ携帯を買ったほうがいいよね」
「ところでお母さん、今日の晩ごはんは何にするの?」
「まだ決めていない。それじゃあ、一緒に帰って冷蔵庫の中を探ろうか。多分晩ごはんになりそうな食材が残っているでしょうね」
「うん。そうしよう」
ちなみに、その後、奈波を晩ごはんに誘おうとしたが、彼女は『ごめん、課題をやらないといけないから』と断ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます