第97話
魔力を右手に集中させる。
精度に揺らぎはない。
いつでも殺せる。
今すぐ殺す。
眼前に佇むのは香織の姿をした何かだ。
彼女は死んだ。
もう元には戻らない。
もし仮に復活したとしても、それは決して香織じゃない。彼女の死を弄び尊厳を凌辱した事実は決して許されざる事だ。
わざわざ僕の前に、その姿をして出てきた事は評価してやる。
ああ、何よりもそれが一番効くさ。
ああだこうだ言い訳を連ねたところで本音は変わらない。
香織にもう一度会いたいと思っていたし、もう二度と会う事が無いのを祈っていた。
動く気配はない。
殺れる。
今なら何のミスもなく葬れる。
何も、無かったことに出来る。
「勇人」
喋らせるな。
彼女の声だ。
紛れもない本物だ。
あの声も、顔も、忘れる訳が無い。
死人だ。
人形遊びだ。
だから、躊躇うな。
「……勇人」
哀し気な表情をするな。
お前は死人だ、ただの死体だ。
だって彼女は死んだんだ。
香織は、声をかける間もなく死んだ。
その瞬間を見る事すら叶わなかった。
敵を殺して振り向いた瞬間、既に事切れていた。
迷いはない。
僕の右手の一撃で土御門香織、その肉体を容易く葬れる。
あの鯨ですら葬った火力は現代に至るまでの期間で更に高まっている。今更人型一人葬るくらい、何の問題も無かった。
それなのに。
僕の耳は彼女の声を聞いてしまうし、その言葉の意味を考えてしまう。
「────雨宮紫雨はまだ
なぜこれを告げるのか。
命乞いでもなく、言い訳でもない。
実に香織らしい、率直な物言いだった。
振り翳した右手が魔力で歪む。
空間が歪むほどの魔力が籠っている。
とても街中で放つべきものではないのに、僕はこれを放り投げようとしていた。自分でもわかる。
冷静じゃない。
…………わかってるんだ。
土御門香織は死んだ。
もう二度と彼女には会えないと思っていた。
ダンジョンで死んだ筈の人間が敵になって蘇るとわかった。
絶対にこの瞬間が訪れると覚悟していた。
それが、予想もしてない場面で遭遇して動揺している。
動揺している、だけだろう。
「…………香織……」
手が動かない。
抵抗する気配が一切ない、死体を一つ片づけるだけなのに。顔と声と言動がかつての良き人に瓜二つなだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
彼女はただ微笑むばかり。
もう語る事は無いと言いたげだった。
香織が告げたのは雨宮紫雨についての一言のみで、何も語らない。言い訳も、命乞いも、再会の祝いも。
「……言いたいことは、それだけ?」
辛うじて絞り出した声。
僕が何を考えているのかわかったのか、夢にまで見た苦笑と共に、全く同じだった。
それらを見る度にこの判断に間違いがないか疑いそうになる。
いや、疑っている。
僕はこれで良いのかとずっと投げかけている。
答えは見つかりそうにない。
「そうだな……なら一つだけいいか?」
「……好きにしなよ」
「今度はお前に看取って貰えるからな、怖くないぞ」
────…………。
…………はぁ……。
左手で頭をガリガリと掻く。
正解がわからない。
勇者としての僕はここで必ず殺すべきだと判断している。
死人が蘇った事実はともかく、彼女は五十年前に死んでいるんだ。善意を持って蘇らせるとは考えにく…………
待てよ。
そもそも仮に雨宮紫雨が正気ではなかったとして、なぜわざわざ香織を地上に寄越す必要がある?
それも破壊工作をしている訳でもなく、ただ街中の人里離れた小山で生活をさせてるんだ?
不可解な点が多い。
香織は香織だと断言できる。
操り人形で特定の動作によって自爆するとか、そういう機能が搭載されていてもおかしくはないが……もっと効果的な手法がある。
解せない。
だがこの思考が正常なのかどうかの判断も難しい。
俗に言う正常性バイアスという奴だ。
僕は香織が蘇生を果たし人類に合流し共に戦ってくれる仲間だと思いたい。だからこうやってうだうだと遠回ししながら、彼女が如何に『正常であるか』を探り続けている。
この思考がまともであるかどうか。
判断が出来ない。
ここで判断をすることがそもそも良くない。
つまるところ手詰まり。
そもそも考えてもみろ。
彼女は死人であり、唯一人類側で蘇生手段を持つ僕の手以外で復活した貴重な人物だ。そんな人物をここで、一介の探索者である僕の判断で消すのは良くない。
落ち着け。
冷静になるべきだ。
合理的に損得勘定で判断しろ。
動揺を掻き消す為、右手に溜め込んだ魔力をぐぐぐぐ……! と圧縮を重ね潰していく。
……仮に正体が敵だったとして。
ダメージを受けるのは殆ど僕だけだ。
僕と共に行動していれば少なくとも被害は抑えられる。
なら、こちらの事情ではなく、あくまで迷宮省として──人類の利益を判断する。
ギュゴッ!!
不可思議な音と共に集めた魔力が霧散する。
先程まで身を支配しかけていた怒りも焦りも困惑も、全て一緒に飲み込む。
「…………ふぅ~~っ……」
「だ、大丈夫か?」
「ああ。なにも問題ないさ」
どうせ何かが起きるとすれば僕関連の事柄だ。
無駄に長生きしてる癖に復興の道のりを支えられなかったのだから、それくらい甘んじて受け入れるべき。
うん。
そうと決めれば話は早い。
「香織」
「なんだ、勇人」
「……正直に言うけど、僕はまだ君を信じ切れない」
「当然だな。というか、私もお前がなぜ若い見た目なのか非常に気になるが……」
「色々あってね。それよりも今は君の事が先だ」
真っ直ぐに彼女を見据える。
殺す気で踏み込んだ足を、今度は殺意を一切持たずに前に歩み出る。
僕と香織の身長差はおよそ15センチ程度。
僕が183センチくらい、彼女が168センチくらい。
見下ろす形になる。
瞳も、唇も、睫毛の綺麗さすら変わらない。
見れば見るほど香織本人だ。
どうすれば彼女が偽物だと証明できるだろうか。
どうすれば彼女が本物だと証明できるだろうか。
リッチとしての能力が未知数である限り、目の前の女性を土御門香織本人だと証明する手立てはない。
死体のガワを整える事が可能なら?
記憶を復元して植え付ける事が出来るのなら?
同じ人物を複数体蘇らせる事が出来てしまったのなら?
それは果たして人間と呼べるのだろうか。
「……はは」
なんだかSFチックな悩みだ。
そんな事は今考えてもどうしようもないのに、現実逃避するように考え込むのは迷っている時の悪い癖だな。
「
「構わない。こちらも何が何だか、まだ把握しきれてないんだ」
「君自身が香織としての意識を保っていたとしても、最悪の場合は処分しなくちゃならない」
「覚悟の上だ」
そうだね。
君ならそう言うさ、間違いない。
僕に人の高潔さを教えてくれたのは他でもない君なんだから、当たり前だ。
おかえりとは言えない。
まだ言うべきじゃないと思う。
……だけど、そうだね。
それでも僕は彼女を香織だと思うことにした。
そうした方がいいと、人類の為になると判断したから。
────それはそれとして、だ。
胸の内に、筆舌に尽くし難い想いがある。
まだ全く冷静ではなく、ごちゃごちゃの脳内で何とか導き出した答えがこれだった。
だからまだ感情的なまま、その想いを少しでも抑えつけるように、僕は一歩前に出て、そのまま──香織のことを抱きしめた。
「んっ……」
女性らしい柔らかさと、それに見合わぬ冷たさ。
決して彼女が人間では無い事の証明。
だけど、触れる。
ここにいる。
腕の中に納まる彼女は、紛れもなくこの世に存在するんだ。
頭の中ではわかっている。
まだ彼女の事を信じ切れないと。
それでも、心が信じたいと願っていた。
おかえりと呼ぶには早すぎる。
勇者として現代に蘇った僕では手放しで喜ぶことが出来ない。
だから、今だけは。
今だけは五十年前に旅をしていた、ただの勇人に戻ろう。
「…………また会えて、本当に良かった……」
抱き締めながら呟く。
やがて彼女は無言で抱き締められたまま、そっと背中に手を回して来た。
「……ありがとう、勇人。信じてくれて」
「まだ信じ切れちゃいない。でも、僕の勘が言ってるんだ。君が紛れもなく土御門香織だって」
「ははっ、そうか。随分愛してくれているじゃないか」
「当たり前だろ。僕は香織の事を世界で一番愛してる男だぜ」
「…………お、お前、言うようになったな……」
「誰かさんの教育の賜物さ」
そのまま少しの間、他愛もない会話をしてなんでもない時間を過ごした。
すぐに人類の代表者として意識を切り替えなくちゃいけない。
けれど、今は……今だけは、許して欲しい。
名誉や肩書なんかよりも、この瞬間が欲しくてこれまで生きてきたんだから。
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