#9 外堀小破

 目覚まし時計を使わず、自然と目が覚めるまで熟睡。休日にだけ許された、無料でできる最高の贅沢だろう。このささやかな幸せを奪うヤツは、たとえ肉親であろうと許せない。肉親どころか、友達ですらないヤツであれば怒りは尚更だろう。


「ほら! ペースあげて!」

「キツイですって……」


 午前四時、早朝というより、もはや明け方の範疇だろうか。夜更かしでもしないかぎり、普通は寝ている時間だろう。そんな時間に、ろくに話したこともない影山かげやまさんからジョギングのお誘い、もとい呼び出しを受けたのだ。許せねぇ。


「しっかりしてよ、痩せなかったらアンタのせいだからね」


 そう、ダイエットがしたいという、非常にくだらない理由で睡眠を阻害されているのだ。こいつは許せねぇ。


「初日から……飛ばすと……続かないですよ……」


 息も絶え絶えに訴える、休ませろと。間違ったことは言っていないはずだ、無理な運動と食事制限は三日坊主の要因となりうる。もっとも、続かない方が俺にとっては幸運なのだが。


「続かないとか、適当なこと言わないでくれない? 私のこと、なんにも知らないくせにさ」


 何にも知らない間柄なのに、明け方ジョギングに誘ったのか。俺には理解できん。

 あと、何にも知らないわけではないぞ。キミは平気で人を呼び出すくせに、その相手に敵意むき出しの感じ悪い女だろ? よく知ってる。


「とにかく休みましょうよ……ほら、あれ見てください」


 そう言って後方にいる人物、俺よりも先にスタミナ切れを起こしたアラサーを指差す。


「そのために、休憩増やすために呼んだの? ホント、情けない男」

「勝手に来たんですよ、呼んだ覚えはありません」


 あの日以降、天馬さんは遠慮なしにメッセージを送ってくるのだが、その際ジョギングの件を話したのだ。早く寝たいからメッセージ送ってくんな、って意味を込めてな。そしたら、自分も行くと言い出し、今に至る。

 影山さんと二人きりは気まずいから、ありがたいんだけどね。


「飛鳥さん! 路上喫煙はダメですよ!」


 生真面目な性格なのか、アラサーにビシッと注意する。俺にはできん芸当だ。


「田舎だから……いいじゃん……うげぇ」


 あーあ、息切れ起こしてるくせにタバコなんか吸っちゃって。ストレスがヤバいときしか吸わないって聞いてたけど、ヤバいのかな。なんできたんだよ。


「進次郎君、勿体ないからあげるよ」


 ジョギングのせいで肺がタバコを受け付けないのか、吸いかけのタバコを渡してくる。俺もジョギングしてたし、そもそも普段吸わない人だからキツイんだけど。


「……ありがとうございます」


 断るとうるさそうだし、渋々受け取る。あれ? 前と同じ銘柄のはずなのに、味が違うな。

 いや、それより、なんか……感触というか、口当たりが……。


「天馬さん、なんか妙に吸い口が湿ってません?」

「そりゃ湿るだろ。口紅ついてないだけ感謝しろ」


 タバコって軽く咥えるもんじゃないのか? こんなに唾液つくか?


「っていうか口紅してないんですね」

「この顔だからな。しないほうが可愛いだろ?」


 可愛いかは知らんが、確かに口紅は不自然だな。いや、最近の中学生なら普通に口紅ぐらいしてそうだし、どっちかといえばタバコの方が犯罪臭やばい気がする。

 それよりさ、これ……湿ってるのもさることながら……。


「なんでタバコに噛み痕がついているんです?」

「メンソールのカプセルを歯で潰してるからな。あと、単純な噛み癖」


 噛み癖ってアンタ……本当に子どもっぽいところあんだよな、この人。

 っていうかメンソールのカプセルなんて入ってるんだ。前に貰った時は知らずに吸ってたよ、どうりで味が違うわけだ。


「ちょ、ちょっと、アンタ」

「なんです?」


 どうしたんだろう、影山さんがわなわな震えてる。休憩のせいで冷えたか? それとも、路上喫煙にキレてるのか? この辺は禁止区域じゃなかったと思うんだが。


「それ、それって間接キスじゃ……」

「ん? ええ、そうですね」


 それがどうしたというのか。潔癖なのか? そんなに引くようなことか?

 いや、たしかに湿ってるのは気持ち悪いけどさ。


「そうか、美羽みうには言ってなかったな。進次郎君とは、家に泊まったり、パンツ貰ったりする仲だよ」


 一回泊まっただけでしょう、それも仕方なく。そして、パンツをあげたつもりはない。


「う、嘘でしょ?」

「いや、パンツは勝手に借りパクされただけですよ?」

「私のもあげただろう」


 貰ってねえよ! お前が勝手に置いて行ったんだよ!

 ベランダに女性物の下着を干した俺の気持ちを考えてくれ。ご近所さんにあらぬ誤解をうけたらどうするんだ。アパート八分にされるわ。


「待って、頭が……」


 そりゃ混乱するよな。奴隷扱いしてる男と、頼れる先輩がパンツを交換してるって聞かされたら。当事者の俺でも理解できてないもの。


「ほら、そろそろジョギング再開しましょうよ。人通り増えてきますよ?」


 とりあえず強引に流れを変えることにする。人通りが少ない時間を狙って早朝にしたのだから、筋は通ってるはずだ。


「いや、ジョギングどころじゃないわよ! アンタ達いつの間に恋人に」

「恋人じゃないです」


 天馬さんには悪いが、即答してやったよ。

 何が恋人だ。変人の間違いだよ。


「情熱的に口説かれてね」

「あわわ……」


 口説いてないよ。人としてのリスペクトを、恋慕に変換されただけだよ。

 そして、そのしたり顔やめろ。架空のエピソードでマウントを取るな。


「一緒にいて安心すると言っただけです。口説いてません」

「口説いてるじゃない!」


 当たり判定でかくね? 昔のシューティングゲームかよ。


「酔いつぶれた私を家に連れ込んだんだよ。おんぶで」

「ケダモノ!」

「いてぇ!?」


 不条理なローキックをくらう。すぐに蹴りが飛んでくるって本当だったんだな。

 っていうかこのリトルボーイッシュアラサー、外堀埋めにきてねぇか? それが目的でジョギングに参加したわけじゃあるまいな。


「落ち着け、美羽。手は出されてないから、今はまだ」


 なんだそのくそみてぇなフォローは。予定があるみたいな言い方するな。


「まだ一ヶ月も経ってないのに……男って本当に……ありえない……」


 あれ? 俺が迫ってるってことになってる? 被食者側なんだけど。

 魔女裁判だよ。小学校の帰りの会だよ。


「あの、影山さん? 天馬さんが勝手に言ってるだけで、俺はただの先輩だと思ってますよ?」


 そう、ただの先輩。頼れる先輩から、ただの先輩にランクダウン。そろそろもうワンランク下げようと思う。

 おい、なんだそのムッとした顔は。事実を述べているだけだろう。


「でも家に連れ込んでるじゃない」

「家に泊めろってうるさかったんですよ。この人の酒癖の悪さ知ってるでしょう?」

「うるさいとはなんだ。年上だぞ、アラサーだぞ」


 うるさい。こんな時ばっかり年齢を盾に物を言うな。年齢気にしてるくせに。


「下着を交換してるって……」

「勝手に俺のを履かれただけです。んで、天馬さんは、自分のヤツを置いて帰ったんです」

「良かれと思って……」


 人の洗濯物を増やしておいて、何が良かれと思ってだ。


「飛鳥さん、こいつの言ってることは本当なんですか?」

「腹立つけど事実だよ」


 誤解を解いてくれるのは嬉しいが、腹立つってなんだ、腹立つって。


「……まあ、無理矢理じゃないなら私は何も言いませんけど……」


 いや、止めてくれよ。いい迷惑なんだよ。路上喫煙より遥かに悪行だろ。


「でもこいつを信用したわけじゃありません。飛鳥さんと付き合ってるからって、あかねさん達に手を出さないとは限りません」


 付き合ってないし、誰にも手を出す気はない。

 というか、その茜って誰だっけ? あんまり覚えてないんだよな。

 おっとり系の子だっけ? たしか、おばあちゃんって呼んじゃダメな人。いい人の方が少ないだろうけど。


「大丈夫だよ。進次郎君は一途だからな。な?」


 一途だとしてもお前に矢印は向かん。休日の早朝とはいえ、こんなところで腕を絡めるな。汗がつくだろう。


「……じゃあ、もしもの時は飛鳥さんに即、連絡しますね」

「ああ、頼むよ」


 なんだよ、もしもの時って。そして、そいつを身元引受人にするな。

 と、茶番もほどほどにジョギングが再開された。




「今日はこんなもんね」


 元々の予定時刻に達したのか、気まずさから早めに打ち切ったのかわからないが、思ったよりも早めにお開きとなる。


「じゃあ、予定通り午後から茜さんの家に行くから、一旦解散ね」

「……? 天馬さんに言ってるんですよね?」

「は? アンタに決まってるじゃん。あっ、飛鳥さんも来ますよね?」

「勿論」


 ちょっと待て、勝手に話を進めるな。予定通りってなんだよ、聞いてないぞ。


「じゃあ帰ろっか、シャワー浴びたいし」


 待て、なんで手を繋ぐ? っていうか、手ぇ小っちゃ!


「天馬さんの家もこっちなんですか?」

「んー? まあ、将来的にはそうかな」


 何を言ってんだこいつは? いや、言わんとしてることはわかるけどさ。

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