第7話 老婦人の屋敷での奉公
小ぢんまりとしてはいるものの、立派なお屋敷の中、さぎりは廊下の雑巾がけに勤しんでいた。
「ほら、行くわよ、子狐ちゃん」
「きゅん!」
雑巾を構えたさぎりのとなりには、今にも走り出そうとしている子狐。
さぎりが勢いよく動き出し、とたとたと雑巾をかけると、子狐も一緒に走り出し、自慢の足でさぎりを追い抜いて廊下の先にたどり着いた。
「やっぱり速いわ、子狐ちゃん」
「くぅーん!」
「流石ねぇ。全然敵わないもの」
「きゅんくぅーん!」
手足をそろえ、胸を張り、正にお狐様といった風情で満足そうにしている子狐に、さぎりはくすくす笑ってしまう。
―✿―✿―✿―
さぎりを雇ってくれた老婦人は、名を
仕事の内容は、お屋敷の女中である。
屋敷は立地のいい場所にある立派な風情のもので、小さいけれども、老婦人一人で生活できていたとは思えない広さだった。というか、調度品の高級具合や、老婦人の上品な様子から見ても、手づから家事をするような立場にはない人だ。多くの使用人が居て然るべき状況である。
しかし、さぎりの他の使用人は、料理人しか居ないらしい。
さぎりは首を傾げながらも、主人が秘密にしたいことなのだろうと、口を挟まずに頷く。
「貴方は本当に、機微を察することのできる賢い女性なのね」
「奥様」
「ふふ。照れているところも可愛いですね。これからよろしくお願いします」
優しい御影の言葉に、さぎりは嬉しくて頬をほころばせる。
さぎりが喜ぶと、子狐も喜ぶ。
さぎりは、幸せだった。
―✿―✿―✿―
御影は、よく分からない人だ。ただ、普段の様子から、おそらく貴族なのだろうと思う。それもきっと、高位のお貴族様。
この和楊帝国では、貴族は皆、苗字を持つものだ。しかし御影は、苗字はないのだと言う。
「苗字なんてない、ただの御影です。御影ばーちゃんでいいですよ」
「そんな、奥様ったら」
「きゅん?」
「ふふ。子狐ちゃんも、御影ばーちゃんでいいのよ」
「きゅーん!」
尻尾をふりふりと揺らして喜ぶ子狐に、御影は穏やかに微笑むばかりだ。
謎は多いけれども、本当に優しい御仁だ。
さぎりは胸の中に暖かい気持ちが広がるのを感じる。
そんな御影のために、さぎりは張り切って家事をした。
埃を払い、畳を掃き、廊下に雑巾をかけた。
まだこの国では珍しい洋室もあったため、その掃除には手間取ったけれども、なんとか数日で慣れてきた。
そして、たまに御影と昼日中に、
御影は、日中の多くの時間を、外で過ごしているようで、お茶の機会は多くはなかったけれども、それは楽しい時間だった。
彼女の話は多岐にわたり、この四年で世情に疎くなってしまったさぎりは、水を得た魚のように、その知識を吸収していった。
「さぎりさんは本当に賢いのね」
「いいえ。でも、私が知らないことで、お嬢様に不利益になっては……」
ハッとして、その後沈み込んでしまったさぎりに、御影は穏やかに問う。
「前に仕えていた、ご令嬢のことかしら?」
さぎりが頷くと、子狐が慰めるように、さぎりの膝に乗ってくる。
そのふわふわの黄金色の毛を撫でると、子狐は気持ちよさそうに「きゅん」と鳴いた。
「……お嬢様は、とても幼くて、
「きゅん?」
「まだ七歳なのですが。すごくお可愛らしい方なんですよ。笑顔が素敵で」
「きゅん!」
「こう、ほっぺなんかも、ふくふくで柔らかくて。髪もサラサラで、手も小さくてもちもちしていて」
「きゅん……?」
「お小さくていらっしゃるご自分を認識できていらっしゃらないところが、また愛くるしくて」
「きゅん!!???」
「あらあら。子狐ちゃんは、忙しそうねえ」
さぎりの話で百面相をしている子狐に、御影は穏やかに微笑んでいる。
「来月、お誕生日でいらっしゃるんです。何か、贈り物をしたいなと……」
おずおずと見てくるさぎりに、御影は嬉しそうに微笑んだ。
子狐は、ピンと尻尾を立てた後、ぶんぶんと尾を振って喜んでいる。
「じゃあ、とびきりのものを探さないといけませんね」
「ご助言いただいてもよろしいのですか?」
「もちろんですとも。そうねえ、今度二人で出かけましょうか。子狐ちゃんは、お留守番ね」
「きゅん!?」
「えっ? でも、別に」
「子狐ちゃんは、お留守番です」
「きゅん……」
「そ、そうですか」
訳が分からないなりに頷くさぎりに、御影は微笑んでいる。
子狐は、悔しそうにぷるぷる震えていたけれども、最終的には諦めて、さぎりの膝の上で寝たふりを始めた。
―✿―✿―✿―
そうして、さぎりは穏やかに御影の家で過ごしていた。
ある日、御影がさぎりに、こう漏らした。
「さぎりさんは、本当に賢いのね。お話してて楽しいし……欲しくなっちゃうわ」
「奥様?」
「きゅ、きゅん!?」
ふうとため息をつく御影に、さぎりは目を丸くし、子狐は何やら慌てた素振りを見せている。
どうも、御影によると、彼女は仕事を引退したものの、後任が拙いので仕事の手伝いが続いてしまっているらしい。
「息子が引き継いだんだけれどね。本当に、頼りなくて困ってしまうのよ」
「まあ」
「さぎりさん、うちの嫁に来ないかしら? さぎりさんなら、やっていけると思うのよ」
「も、もう。奥様ったら、口が上手いんですから」
「きゅーん!!?」
「あら、子狐ちゃんが警戒しているわ。もしかして、既に好い人が居るのかしらね」
カアッと顔を赤らめるさぎりに、御影はあらあらと驚き、次いで、彼女を微笑ましく見守る。
「昔のこと、ですので」
「若い人の『昔』は、全然昔じゃないことが多いのよね」
「奥様」
「まだ、その方のことが好きなのね」
迷った末、こくりと頷くさぎりに、子狐が「きゅん!?」と驚きの声を上げている。
「その方は、どんな方なの?」
「う……い、いつも、お優しくて」
「きゅん!?」
「お若い頃から、ずっと頑張っていらっしゃるんです」
「きゅ、きゅーん!!?」
「ふとした時の笑顔が、あどけなくて……ずっと、頭から離れなくて」
「くぅん!?」
「身分が違いますし、私はこういう見た目ですから。もう、昔のことで……」
「もしかして、前のご主人様?」
「……! す、すみません」
「きゅん!!!!」
「いいのよ。甘酸っぱいわねえ。……それにしても、子狐ちゃんは、忙しそうねえ」
さぎりの話を聞きながら、オロオロと青ざめていた子狐は、さぎりの最後の一言を聞いた後、急に安心したような素振りで、おはぎを食べ始めた。
御影がそんな多忙な子狐を撫でると、子狐は気持ちよさそうに目を細めている。
さぎりが照れ隠しに、おはぎを口に頬張ると、御影がため息を吐きながら、小さく呟いた。
「これだけ好かれているのに、あの子は何をしているのかしらね」
「え?」
「いいえ。なんでもないのよ、さぎりちゃん」
首を傾げるさぎりに、御影は微笑むばかりで、何も言わなかった。
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