幕間:駒の値踏み

 重厚な扉が閉まり、トオルの足音が完全に遠ざかる。


 書斎に静寂が戻った瞬間、『イラ』と名乗った女は、ふぅ、と小さく息を吐いた。


 その吐息ひとつで、彼女を包む空気は変わった。つい先ほどまでの、どこか掴みどころのない柔らかな雰囲気は跡形もなく消え、そこに残ったのは、全てを値踏みするような、冷徹で計算高い支配者の顔だった。


 沈黙に耐えかねたのか、部屋の隅で控えていた侍女が、恐る恐る声を発する。


「…姫様、あの者、やはり不気味です。このまま街に放っておいて、よろしいのでしょうか。もし、姫様に仇なすようなことがあれば――」


「黙りなさい」


 低く、鋭い声が空気を切り裂いた。大声ではない。だが、その一言で侍女の体は硬直し、口を閉ざした。


 イラは視線を動かさずに続ける。


「危険か否かを決めるのは、私。あなたではありません」


 侍女は蒼白な顔で深く頭を下げ、それ以上は一言も発しなかった。


 部屋の隅、カーテンの落ちる影が、ゆらりと動く。そこから、まるで闇そのものが滲み出たかのように、一人の黒衣の男が姿を現し、彼女の前に跪いた。


「ご命令を」


「――あの青年を監視なさい」


 イラの声は、氷のように冷たく澄んでいた。


「イッシキ・トオル。彼が誰と会い、どこへ行き、何をしようとするのか。そして、あの力が再び発現するかどうか。外区の雑踏でも、旧市街の闇でも、その全てを、逐一報告なさい」


「介入は」


「不要です。彼が、磨けば光る『宝石』か、あるいは、触れれば手を汚すだけの『ただの石』か。…まずは、それを見極めるのが先ですから」


 黒衣の男は、無言で深く一礼する。彼が立ち上がろうとした、その時だった。


 「ただし」と、イラは付け加えた。


「命の危険が迫った時のみ、最小限の介入を。…あの『石』が、砕けてしまっては、つまらないですから」


「御意」


 黒衣の男は短く答え、静かに姿を消した。その気配は、まるで最初から存在しなかったかのように掻き消える。


  一人になったイラは、ゆっくりと窓辺に歩み寄り、トオルが消えていった、混沌に満ちた外区の雑踏を見下ろす。


 その紫の瞳に宿っていたのは、もはや感情の色ではない。


 ただ、この街に投げ込まれた、予測不能な一つの駒が、盤上の流れをどう変えるのかを、静かに観察する、冷徹な視線だけだった。


「あの青年が、この街に嵐を呼ぶのは間違いない」


 小さく呟いたその声は、蝋燭の炎が揺れる静寂な部屋に、ゆっくりと溶けて消えた。

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描かない漫画家志望の異世界マンガ道 @towa_hazuki

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