譙縱1  益州の名望家

譙縱しょうじゅう巴西郡はさいぐん南充県なんじゅうけんの人だ。祖父は譙獻之しょうけんし、益州で重んぜられた人物であった。譙縱は幼い頃より慎ましく、しょく人より愛されていた。益州刺史えきしゅうしし安西将軍あんざいしょうぐん毛璩もうきょ參軍さんぐんとなった。


404年、毛璩は譙縱と侯暉こうきらに領諸縣のてい人を兵として与え、桓玄打倒の為に東方に向かわせた。侯暉は叛意を抱いており、また梁州人が東方のいざこざに巻き込まれるのを嫌がっていたことに乗じ、毛璩の転覆を狙い、巴西はさい陽昧ようまい五城水口ごじょうすいこうにて合流、二人で譙縱に決起するよう迫った。譙縱ははじめそんな目論見に成算が立つはずなどない、と恐れ、川に飛び込み逃げようとした。しかし侯暉により引き上げられ、再三の要望の末最終的には兵力でもって脅されたため、ついに譙縱は神輿に担ぎ上げられてしまった。


決起軍は涪城ふじょうを守る毛璩の弟、西夷校尉せいいこうい毛瑾もうきんを攻撃、攻め落とし、殺す。譙縱は覚悟を決め、りょう秦二州刺史しんにしゅうししを自称した。


毛璩は譙縱が謀反を起こしたと聞くと、出先の略城りゃくじょうより徒歩にて成都せいとに帰還。參軍さんぐん王瓊おうけいに三千人を率いさせ、譙縱討伐に向かわせた。さらに弟の毛瑗もうえんにも四千の兵を与え、王瓊のあとに続かせた。


譙縱は弟の譙明子しょうめいしと侯暉を発し王瓊を廣漢こうかんにて迎撃させたが、敗北。綿竹めんちくにまで逃れた。譙明子はこの地に伏兵を二箇所設けており、やって来た王瓊軍を強襲、大破した。死者は十のうち八、九にも及んだという。益州えきしゅうの豪族である李騰りとうは開城し、譙縱を受け入れた。




譙縱,巴西南充人也。祖獻之,有重名於西土。縱少而謹慎,蜀人愛之。為安西府參軍。義熙元年,刺史遣縱及侯暉等領諸縣氐進兵東下。暉有貳志,因梁州人不樂東也,將圖益州刺史毛璩,與巴西陽昧結謀于五城水口,共逼縱為主。縱懼而不當,走投于水,暉引出而請之,至於再三,遂以兵逼縱於輿上。攻璩弟西夷校尉瑾于涪城,城陷,瑾死之,縱乃自號梁、秦二州刺史。璩聞縱反,自略城步還成都,遣參軍王瓊率三千人討縱,又遣弟瑗領四千兵繼瓊後進。縱遣弟明子及暉距瓊於廣漢,瓊擊破暉等,追至綿竹。明子設二伏以待之,大敗瓊眾,死者十八九。益州營戶李騰開城以納縱。


(晋書100-12)




盛大に巻き込まれた譙縱さんカワイソス。譙姓はちらほら蜀の歴史で見れますし、代々の土豪だったんでしょうね。そうした輿望も一手に手にしていたため、アイコンとして都合が良かったのでしょう。一方の譙縱は、下手に刺史、いわば中央から派遣される官吏たちとの接点があったもんだから、この決起の成算がある程度見えてたんでしょう。とにかく、このあと後秦とつながるのが速い。かなり見えてる。問題はその後秦がこの段階ですでに風前の灯なこと。ひどい。いや赫連勃勃って変数さえどうにか鳴れば……ならなさそうですよねえ。


もうなんか初手からいきなりこのひとには同情しかないです。

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