桓玄20 先祖祭祀

○晋書


404 年。元号で言えば元興げんこう三年、桓玄かんげんの元号で言えば永始えいし二年のことだ。尚書しょうしょがなした文書において、本来「春蒐しゅんしゅう」と書くべき箇所が「春菟しゅんと」と誤記されていた。この記述に連なる部署のものはことごとく降格措置、ないしは罷免となった。桓玄が大きな枠組みで物事を見ず、細々とした事柄を糾弾するのは、大体がこうした形であった。


妻の劉氏りゅうしを皇后とし、その宮殿を修繕したいと考え、その仮住まいとして東宮とうぐう、皇太子のための宮殿を指定した。また。東掖とうえき平昌へいしょう廣莫こうばくの諸門を開き、みな三道(皇帝やそれに近しい貴人のみが通れる道、だろうか)とした。更には巨大な大輦を造営した。三千人が座れるほどの広さで、二百人がかりで持ち上げる、と言う代物である。


性分として狩りに出るのが好きだったのだが、肥満加速が止まらなかったため、ついには馬にも乗れなくなった。それでも外に出たがったため、徘徊輿はいかいこうを作らせた。これは桓玄の座る輿がぐるぐると回転するように設計されたもので、桓玄が向きたい方向を命じれば、直ちにその方向に向ける機構を備えていた。


皇帝ともなれば、この当時の儀礼に則れば七代前の先祖まで祀るべきのはずであった。しかし桓玄は曽祖父、すなわち祖父である桓彜かんいの父親より上の世代を祀ろうとしなかった。とは言えこれが義礼に反しているのではないか、と言う不安もあったようで、自身が取った措置について群臣に諮問している。


ここで散騎常侍さんきじょうじ徐廣じょこう晉典しんてんを引いて、言う。

「七廟を陛下の宗祖を追尊なさるためお立てになられませ。およそ士大夫たるもの、みずからの子孫がみずからの親を敬うことを喜ぶものにございます。位の高いものほどこの道理を自然と身に着けておるものにございますし、こうした道理を身につけておるものほど父祖への畏敬の念を示すことを世に知らしめんとするものにございます」


すると桓玄は反論する。

禮記らいきにはこうある。三昭と三穆、そして太祖たいそとで七の宗祖とすべし、と。ここで太祖が廟の之として君臨し、昭と穆とはみなその下につくこととなっている。では、ここでどこまでその数字に従うべきであろうか。禮では太祖を東向きとし、左に昭を、右に穆を配する。しかし晉室の廟においては宣帝せんていを昭穆の列に起き、太祖の位に配された者はない。晋の段階で既に昭穆に狂いが生じ、しかも太祖もおらぬのだ。ならば禮の取り決めは既に遠い昔に廃れている、と見るべきであろう」


桓玄は曾祖父以上の位が高い者ではなかったからと、彼らを祖廟の序列に加えたがらなかった。また王莽おうもうが七廟を超える九廟を設け、誹られていた故事を引き、ついには廟の数をひとつにまで減らしてしまい、かつその祭祀も二日で終わらせるなど、大幅な簡略化をした。


秘書監ひしょかん卞承之べんしょうしは言う。

「これでは祭祀が祖霊にまで届くまい。德も長からぬな」


また晉の小廟を解体、廣台榭とした(?)。


生母である母馬氏ばしを祀るにあたっては、そもそもまともに祭祀すべき場所も指定されず、その命日にも桓玄は賓客らと遊びほうけ、死亡した時間に少し哭礼をしてみせるだけであった。またそうした祭祀の期間にあたっても音楽が途切れることもなかった。


桓玄が遊水門ゆうすいもんから出たとき、突風が桓玄の乗る車の傘を吹き飛ばした。その夜には洪水が発生、石頭せきとう城を襲い、桟橋が大破。多くの人が死んだ。また突風が硃雀門すざくもんの望樓に吹き付け、その上層部が吹き飛ばされ、地に落ちた。



○魏書

このあたりの内容を抜粋しており、新規情報は無い。




元興三年,玄之永始二年也,尚書答「春蒐」字誤為「春菟」,凡所關署皆被降黜。玄大綱不理,而糾摘纖微,皆此類也。以其妻劉氏為皇后,將修殿宇,乃移入東宮。又開東掖、平昌、廣莫及宮殿諸門,皆為三道。更造大輦,容三千人坐,以二百人舁之。性好畋遊,以體大不堪乘馬,又作徘徊輿,施轉關,令回動無滯。既不追尊祖曾,疑其禮義,問於群臣。散騎常侍徐廣據晉典宜追立七廟,又敬其父則子悅,位彌高者情理得申,道愈廣者納敬必普也。玄曰:「《禮》雲三昭、三穆,與太祖為七,然則太祖必居廟之主也,昭穆皆自下之稱,則非逆數可知也。禮,太祖東向,左昭右穆。如晉室之廟,則宣帝在昭穆之列,不得在太祖之位。昭穆既錯,太祖無寄,失之遠矣。」玄曾祖以上名位不顯,故不欲序列,且以王莽九廟見譏于前史,遂以一廟矯之,郊廟齋二日而已。秘書監卞承之曰:「祭不及祖,知楚德之不長也。」又毀晉小廟以廣台榭。其庶母蒸嘗,靡有定所,忌日見賓客遊宴,唯至亡時一哭而已。期服之內,不廢音樂。玄出遊水門,飄風飛其儀蓋。夜,濤水入石頭,大桁流壞,殺人甚多。大風吹硃雀門樓,上層墜地。

(晋書99-20)


太廟、郊齋皆二日而已。又其廟祭不及於祖,以玄曾祖已上名位不顯,故不列序。且以王莽立九廟,見譏前史,遂以一廟矯之。又毀僭晉小廟,以崇臺榭。其庶母蒸嘗,未有定所。慢祖忘親,時人知其不永。是月,玄出遊水南,飄風飛其儀蓋。又欲造大輦,使容三十人坐,以二百人輿之。

(魏書97-14)




見栄っ張りの桓玄くん……いやしんぼだなぁ……


司馬氏を高めて馬氏をぞんざいに扱うとか、桓彝の父以上を祀らないとか、さすがにこのへんになると自分の門第の低さにコンプレックスを抱いていた、と言わざるを得ないですね。けどこれ本当なのかなあ。どこまで信じたもんか。桓玄なんて貶めフリー素材みたいなもんだしなあ。

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