第5話
侯爵子息たるレオンツォの演奏が終わる。十五分足らずの曲であったが、カノンを驚かせ、興味を抱かせるには充分だった。
「今のはなんていう曲なのですか!」
レオンツォが顎を浮かせイルヴィオンを肩から下ろしてお辞儀をするや否やカノンは訊いていた。そうやって声を出してから自分の不躾な態度に気づき、立ち上がって「申し訳ありませんっ」と頭を下げた。
「顔を上げて、カノン。今のは僕の先生がソロ用に作った曲でね。標題はつけられていないんだ」
カノンたちのすぐそばまで来てレオンツォが笑う。機嫌を損ねていないようで安堵した。どうやら彼は、ブナグール侯爵家と古くから親密な間柄にある音楽家一族の家長から、イルヴィオンを教わっているのだという。それも四歳の誕生日からずっと。
「不思議な曲ですね。私の知らない音の並びで、興奮してしまいました」
顔は上げたが立ったままでカノンは目を輝かせた。
「三ヶ月前に出来上がったばかりの新曲だからね。先生も僕も古典や伝統というのはあまり好かないんだ。ローズマリー、君はどう感じた?」
彼の言葉につられてカノンはローズマリーに目をやった。その表情に動きがないのが意外だった。カノンと比べると大して感動していない様子なのだ。
「私も面白く感じました。新鮮過ぎて、どう表現したらいいのか迷ってしまいますわね」
「うーん……それじゃあ、今の演奏を採点してくるかな。十点満点でさ」
「そんな。恐れ多いですわ」
「オットーは七点と評されて落ち込んでいたよ。君はなかなか厳しい聴き手だってね」
ご令嬢の顔に剣呑な気配が走って、唇を軽く噛み、次の瞬間には波一つ立たない状態に戻る様をカノンは目にした。
オットー、その名が彼女にとって特別な人物のものであるのは間違いない。
「……レオンツォ様が彼とそれほど親しかったとは知りませんでした」
「いやいや、そうでもないんだ。音楽会以外にもいくつかのパーティでご一緒しただけだよ。彼もまた旅に憧れは持っていたみたいだけれどね」
過ぎ去った日々を懐かしむような目つきでレオンツォは話を続ける。
「元気だった頃、兄妹でクライスラ家のお屋敷に出向いて君と演奏するのを毎月何より楽しみだって話していたんだ。これは君のほうが詳しいね」
オットーというのは亡くなった婚約者ではとカノンは当たりをつけた。無論、それを直に確かめはせず二人の会話がどこに着地するのか見守るしかない。
「ごめんよ、ローズマリー」
レオンツォがローズマリーの前で片膝を立てて跪く。イルヴィオン本体、そして弓をそっと脇に置くとご令嬢の手をとった。
「彼を思い出させてしまって」
「いえ……」
「この一年、君が本家から離れて使用人と最低限の交流しかしてこなかった話を耳にして、僕はひどく心を痛めたんだ。そして僕のような人間だからこそ言えることがある」
そう口にする彼がご令嬢の手を力を強めたのが横にいるカノンからもわかった。第三者なのに勝手に羞恥して、どうにもいたたまれなくなる。だが、目も耳も離せない。
「嫌われるのを覚悟して言おう。ローズマリー……そろそろ未来に目を向けるときが来たんじゃないか。君にはきっと黒よりも白が似合う」
しんと、時が止まったかのような室内でカノンだけが突っ立っていた。ローズマリーがレオンツォの手をごく自然に、無理なく振り払って、時は動き出す。
「あなたの演奏を聞かせて」
その願いはすぐ眼前ではなく、顔を横に向けてなされた。
ベールで隠された瞳からこれまでにない強い想いを感じ取ったカノンは激しく動揺した。跪き、手をとった若き貴族の男性ではなく、幼さの残る平民の娘に演奏を求めているのだ。後から演奏を聞くと言っていたが、このタイミングでその機会を与えるのは異様だった。
「わ、私ですか」
「そう。明るい曲がいいわ。亡き人を独りで偲ぶよりも、小鳥たちと戯れているような。そんな曲を頼めるかしら」
すらすらと。先の沈黙がなかったふうに。
「カノン、君に自信がないのなら僕が弾こう。そのために来たのだからね」
立ち上がってその長身でカノンを見下ろすレオンツォの微笑には、そうすべきだという誇示があった。しかしそれはすぐに苦笑に変わる。なぜなら彼は気づいたからだ。カノンは聞いていない。ローズマリーにその視線、むしろすべての意識を持っていかれているのだ。
「わかりました。弾かせてください、ローズマリー様のために」
「肩の力を入れ過ぎてはいけないわ。昨夜、月夜に捧げていたのと同じ気持ちでいいの」
カノンは肯き、ケースからイルヴィオンを取り出した。それを見てレオンツォの眉がピクリと動く。
彼が旅のお供に選んで、今しがた奏でたばかりのイルヴィオンはブナグール領内の由緒正しい職人によって作られた代物で使い始めてから一年ほどだ。
対して、少女がやや細身のネックを掴んで持ち上げたそれは年代物であるのが一目でわかる。表面に塗られたニスが退色しており、規格の細部がレオンツォのものと異なるからだ。素人が見てわかる差異ではないが、各地を転々としている間にその土地のイルヴィオンを見ているレオンツォであれば気づく。
面白い、彼はそう思った。
演奏家として無名の少女が古めかしいタイプのイルヴィオンでどんな音を聞かせてくれるのだろうか。どうか古臭くて欠伸が出るような演奏であってくれるなとレオンツォは半信半疑で祈った。
「では、弾かせていただきます」
さっきまでレオンツォが立っていた位置でカノンは肩幅に足を開き背筋を張る。小さくお辞儀をしてからイルヴィオンを構えた。
部屋で調弦は済ませておいたとは言え、初めて演奏する空間だ。弾き慣れた家でなく、初対面の人もいる。しかし今のカノンにとってそうした事実は瑣末でしかなく、意識の外に追いやっていた。
演奏し始めたのは「春の訪れ」の名で知られるイルヴィオンソナタ。
作曲家によって明確な標題が付されていなくても、春季にちなんだ愛称で呼ばれる作品は大公国内でいくつかある。その中でもよく知られている曲だ。
二楽章しかもたない短めな作品であるが弾きこなすのには技術がいる。現に、ニコラから教わった中でも難易度が高く感じているカノンだ。「あんたのじゃ、冬季に逆戻りだよ」と揶揄された覚えもあった。
だが今、ローズマリーもレオンツォもそんなふうにはは一切感じなかった。
音が暖かな日差しを作っている。柔らかな陽気が世界に降り注ぐのを聞いた。それだけではない。その温度、心地よさというのは内側からも湧き上がる。
第二楽章に入るとテンポが増す。
春雷が鳴り響いたかと思えば、生き生きとした蜜蜂が花畑を飛び交う。粒立つ音がローズマリーたちの心に歓喜を与えていた。
曲の終盤に入り、ゆったりとした旋律が戻ってきたとき、カノンの席に代わりに腰掛けていたレオンツォは隣に視線を流した。
演奏に集中したくもあったが、それよりもこの曲をローズマリーがどんなふうに聞いているのか、それを確かめなくては……とそのときになってやっと春の音から離れられた。
そうしてレオンツォは、ローズマリーが破顔しているのを目にしたとき、その可憐な口許とベールに覆われてなお秘匿し得ぬ美しさに深く魅了される一方、敗北感も味わった。
それはたとえば、彼の先生である音楽家が手本として演奏をしたのを聞いた時や、公都の音楽堂に足を運んだ際に優れたイルヴィオン弾きが音楽の神様に愛されているように見えた時とは別の感情だった。
ローズマリー個人の願い出に完璧に応じ、その笑みを引き出した少女の技量に打ちのめされたのである。
「……別の曲のほうがよかったですか?」
曲が終わってカノンは、静聴してくれた二人の貴族が何も言わずにいることに不安がり、曲そのものの感想を尋ねるのをつい避けてしまった。
「レオンツォ様、どうでしたか」
「僕かい? ローズマリー、君が真っ先に彼女に何か言うべきじゃないかな。彼女は君が求めていた曲を奏でてくれたのだから」
「おっしゃるとおりですわね」
席を立ったローズマリーは、演奏中とうって変わって緊張した様子のカノンの前まで行くと拍手を数度して「よかったわ。期待以上ね」と微笑みかけた。
「ありがとうございます! えっと、次はどんな曲がいいですか」
「そうね……。レオンツォ様、あなたから何かリクエストはありますか」
ローズマリーが振り返ると、レオンツォは椅子から腰を上げ、イルヴィオンをケースをしまい込んで持ち上げていた。
「いや、よしておくよ。ここらで僕は退散しようかなって」
「ですが、いらしてからまだ一時間も経っていませんわ。お茶の一杯も出さずに帰らすというのは、クライスラ家としては――――」
「気にしなくていい。むしろ今日ここに突然僕が来たことをきれいさっぱりに忘れてもらったほうがいいぐらいだよ」
爽やかな笑顔。
けれどカノンはその彼の声にはどこか後ろめたさを感じ取った。まるで、退散というのが誇張ではなく本当に逃げ出したがっているような。
「カノン。これは一人のイルヴィオン弾きの直感なんだけれどね」
ふとレオンツォが出入り口へと向かう足を止め、そう前置きする。
「ローズマリーのベールを外すのは僕の演奏ではなく君の演奏だと思うよ」
「それはいったいどういう……」
「理屈じゃないんだ、カノン。恋愛と同じくね。たった一曲ですべてを悟ったと言いたくないけれど、世の中には相性というものがある。うん、これも恋愛と同じだ」
混乱して口を噤んだカノンから、レオンツォは眼差しをローズマリーへと移す。
「お節介は承知だけれど、一つだけ忠告しておくよ」
「忠告?」
「噂好きの僕はオットーの死以外にも聞いていることがあるんだ。つまりね、あまりその子を可愛がり過ぎないほうがいい」
「何のことだかわかりませんわ」
きっぱりとした口調でローズマリーが返す。意図を汲み取れずに怪しがる物言いでなかったことが、あの噂はもしかしたら……とレオンツォに疑念をもたらしたが、それをこの場で言うほどに無作法な人間ではなかった。
レオンツォが退室すると、残された二人はしばし顔を見合わせる。
「次の曲を弾いてくれる?」
やがてローズマリーが目線を逸らしてからそう口にする。カノンは不可解な忠告に気を取られていたが、ご令嬢の声ではっとして「はいっ。喜んで」と答えるのだった。
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