第19話 ニセモノの聖女はかく祈る(後編)

 採光用の窓がほとんどないため神殿内部は暗く、灯りと言えば、壁に備え付けられた燭台の蝋燭ろうそくくらいだ。

 石畳の長い廊下には黄色の絨毯が敷かれ、それが最奥の部屋へと続いていた。


 シンは廊下の突き当りの重い石の扉を開ける。すると、揺らめく蝋燭の灯りの中に五角形の部屋が見えた。

 ここが霊脈操作のための儀式の間だ。


 部屋の中央には、大きく平たい岩があった。

 シンはそれに手を置く――その瞬間、岩の上に幾つもの光の線が走った。眩い光が、室内を満たしていく。

 ややあって、岩の盤上に細い光の線で緻密な紋様が描かれていった。それは、幾何学的な網目状の文様で、蜘蛛の巣のようにも見える。


 盤上で、一番大きな面積を占めるのは、中央から広がる金色の光の線だ。

 そして、それを囲うように、上下左右に黒、赤、白銀、青――と、異なる色の光の紋様があった。


 これらは、中央神殿と東西南北の四神殿がそれぞれ担う結界を循環するエネルギー――霊脈を示している。

 そして今、北の神殿から放たれる黒い光が薄くなっていた。

 

「ルリ国側の結界が破綻しかかっているのは、本当だな」


 盤上に描かれた図を見て、シンは確認する。


 シンは深呼吸を一つして、意識を手のひらに集中させた。

 ドクドクと心臓が脈打つように、霊脈の脈動を彼は感じる。そして、彼は意識を遥か彼方の北へ向けた。


 すると、確かに北の神殿の方で、結界を循環する霊脈が極端に低下しているのが分かった。このままでは、エネルギーが供給されないせいで、結界を維持できなくなるだろう。


 どうして、結界に霊脈の力を注ぐことができないのか、シンはその原因を探った。

 彼の額にポツポツと汗の玉が浮かび始める。


「これか…」


 結界への供給線にがあった。

 それが障害物となって、結界にエネルギーを供給できないのだ。

 つまり、結界を正常状態に戻すためには、この障害物を取り除かなければならない。


 このようなトラブルは、シンも一度経験済みであった。

 そのときは、いつもより膨大な霊脈を操って、その障害そのものを破壊し、問題を解消したのだが……。


「果たして同じことができるのか?」


 中央神殿で起こった障害物をその場で排除するのと、遠く離れた北の神殿のトラブルを中央神殿ここで処理するのとでは、難易度が天と地ほど違った。

 標的への距離が遠ければ遠いほど、霊脈のエネルギーは離散してしまうからだ。


 故に、中央神殿ここから北の神殿の障害物を破壊するためには、さらに膨大な量の霊脈と、その霊脈を極力分散させないための極めて緻密なコントロールが必要となってくる。

 いくらシンが歴代聖女の中でも飛びぬけて霊脈操作が上手いとはいえ、そのようなことは人の身に余る。成功する可能性は限りなくゼロに等しい。


 これまでのシンなら、そのような無謀なことに挑戦自体しないだろう。けれども、今はユイトの命がかかっていた。


「やらねばならない。そして、やるからには成功しなくては意味がない」


 シンはより一層意識を集中させた。

 出来得る限りの霊脈を集め、それを中央神殿から北の神殿へと送り出す。


 時同じくして、部屋の中央にある岩の盤上に、新たな金色の線が浮かび上がった。

それは周りのモノに比べて強い光を放ち、上方向へ――つまり北へ真っすぐ伸びていく。


 今やシンは額にびっしりと汗をかいていた。それが頬を伝う。また、徐々に呼吸も荒くなっていた。

 焼け付くような激痛が身体をさいなみ、シンは歯を食いしばる。


 シンの身体が『限界』を訴えているのは明白だった。

 これ以上、無茶な霊脈の操作を続ければ、彼自身がどうなるか分からない。


 それでも、シンは霊脈を操り続けた。

 盤上に描かれた金色の光の線は、着実に北の神殿へ近づいていく。


 あと少しだ、とシンは思った。そのとき――


「かはっ」


 シンは喀血かっけつし、そのまま膝から崩れ落ちた。

 北の神殿へ向けて伸びていた、盤上の線の進行がピタリと止まる。


 何とか意識を保ち、シンは霊脈の操作を続けたが、現状維持が精一杯だった。それ以上、霊脈を北へ送り出すことができない。

 もはや、これが限界かと思われた。



 シンの脳裏に、これから起こりうる災厄の光景がよぎった。


 ルリ国側の結界は崩壊し、大量のエニグマがかの国を襲う。そのエニグマに立ち向かうのは、教会から派遣された選抜部隊の守護者たちだ。

 戦闘は厳しいものになるだろう。特に最前線で戦う守護者たちの被害は甚大になるはずだ。

 死屍累々たる有様。そして、その屍の中に、ユイトの姿が――。



「ふざけるな…」


 そんなことは許容できない。許せるわけがない。

 シンは血まみれの口を手で乱暴に拭うと、立ち上がった。



 シンはこのとき、初めて『神』に祈った。


 その神が、スーノ聖教会が信仰するグランダ神なのか、古き時代にこの世界に存在した数多の神々なのかは、分からない。

 否、そんなものはどちらでも良かった。


 何か自分よりも上位の存在に、シンは心から願い、望む。

 どうか、ユイトを守る力を己に与えてほしい――と。


 ソレが祈りを知らなかった『ニセモノの聖女』の、初めての祈りと願いだった。



 岩の盤上で、金色の線がまた北の神殿に向かって進み始めた。

 シンは朦朧とする意識の中で、霊脈を操作する。彼の衣服はぐっしょりと汗で濡れ、その呼吸は肩で息をするくらい荒い。足は小刻みに震え、今にも倒れてしまいそうだ。


 もはや、シンの身体は限界を超えていて、気力だけで彼は立っていた。



 どれくらいの時間が経ったことか。


 とうとう、シンの操る霊脈が北の神殿に到達した。同時に、結界へのエネルギー供給を妨げるの存在を捉える。

 シンは最後の力を振り絞り、霊脈をそのにぶつけた。


 力の奔流が穿うがち、破壊する――その確かな感触があった。




 やった……、と声にならない声で呟くと共に、シンは床に倒れこんだ。彼の身体は力を失ってしまったようで、もう指一本さえ、動かすこともできない。


このとき、盤上の図に変化があった。

北の神殿から放たれる光が徐々に強くなっているのだ。

それは、シンが結界の供給線上にあった障害物を破壊したことで、北の神殿の結界に再び霊脈が巡り始めたことを意味していた。


 これで、結界は正常な機能を取り戻すだろう。

 結界が崩壊し、大量のエニグマが侵入するという災厄は免れたのだ。



 一方、シンは死の気配を感じていた。

 彼の心臓の鼓動が緩慢になり、呼吸も浅く弱々しくなっていく。


 けれども、シンの顔に浮かんでいるのは穏やかな微笑だった。

 この国から逃げ出してでも、絶対に生き残ると決意していたシンだが、いざ死に直面すると、彼の中には恐怖も後悔もまるでなかった。

 むしろ今、シンは満ち足りた気持ちになっている。


 ただ一つ、心残りがあるとすれば、ユイトに自らの真実を話すことができなかったことだろう。


 自分は男であること。

『ニセモノの聖女』であること。

『イオ』ではなく、『シン』だということ。


 ユイトに『シン』と呼んでほしいこと……。



 そんなことを思いながら、シンは瞼を閉じた。



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