第18話


 古典の授業が終わってすぐ、氷月さんはパタパタと駆けて行った。


 教科書やノートを持たずにどこへ行ったのだろう? 


 机の上に放置された品々を持って行ってあげるべきか否か悩んでいると、来栖が話しかけてきた。


「ねえ、また凛と喧嘩したの?」


「うん?」


「授業中。何か口論してたでしょ」


「あ~~~、口論というか、なんというか……」


 僕は言葉を詰まらせた。


 そうか。なるほど。いま僕達は仲が悪いと思われているのだ。先日の喧嘩が原因となって、仲直りした様子さえ見せていないのだから、僕の驚きの声が怒声ととられるのは致し方ないことであろう。これを利用するべきか利用するまいか、僕は判断に迷ったけれど、来栖はずいと詰め寄ってきた。


「凛は私の大切な友達なの。あんまり悲しませないでよね」


「やけに氷月さんの肩を持つじゃないか」


「けんジィにとっては子供っぽい子かもしれないけれど、凜にはいろんな魅力があるんだよ。ほとんど話したことがないじゃない? たしかに、額面どおりに受け取ると冷たいように見えるけど、でも、表に見せてないだけで、凜は凛なりに色々考えているんだよ。不器用なだけなの」


「分かった。分かったから……」


 僕はじりじりと後退しながらとにかく来栖をなだめようと試みた。


 氷月さんが内心で思い悩んでいることくらい僕だって察している。それを口に出すとまた「女慣れしてる!」とか言われそうなので控えているだけだ。繊細な彼女の心を傷つけないようにどれだけ腐心しているか、来栖にも見てもらいたいくらいである。


 しかしそんなことを知るよしもない来栖は「私、嫌なの」とさらに詰め寄る。


「凛は大切な友達だけど、けんジィもたった一人の幼馴染なんだから。私の大切な人たちが仲が悪いって、すごく、悲しい」


「………………」


「お願い。凛と仲直りして」


 真っすぐな瞳で見つめられても僕は困るのである。仲直りもなにも行き掛かりで付き合う事になったのだから、仲はそこそこ良いように思う。お互いに嫌いならばそもそも付き合うことだって無かったろうし、その交際も今のところ良好である。


「仲直りなんてする必要あるか?」


 しかし来栖は必死に訴えかける。


「あるよ! 2人の仲が悪いのを見てるのすごく気分が悪い! けんジィから謝ってよ、お願い……」


「うっ………………」


 距離を詰め過ぎた来栖の、その大きく柔らかい胸が僕の体に当たっているにも関わらず、彼女はさらに詰め寄ってくる。柔らかい圧がみぞおちに広がる感覚は、あたかもふわふわのぬいぐるみを押し付けられているようである。


「来栖待て、当たってる、当たってるから!」


「ねえ、仲直りしてよ。お願いだから仲直りして」


 いくら同年代に興味が無い僕とはいえこれはたまらない。


「す、するから、仲直りするから勘弁してくれ!」


 するりと身をひるがえして、僕は自分の荷物を回収すると脇目もふらずに教室を後にした。「あー! 逃げるなーーー!」という怒りの声が聞こえてくる。多分、自分が胸を押し付けていた事に気づいていないのだ。


「なにあれ、信じらんない! こうなったら絶対に仲直りさせてやるんだから」


 来栖は腕を組んでぶつぶつ言いながら、なにやら余計な事を企んでいるようだった。


     ☆☆☆


 ところ変わって2階の階段の防火扉裏である。


 氷月さんが防火扉に隠れるようにしてしゃがみこんでいた。真っ赤な顔を両手で覆って「うぁぁぁぁ……」とゾンビのようなうめき声をあげている。自分でやっておいて恥ずかしくなったのだろう。「はぁ、好き……好きだよぉ、八重山~~~~」と絞り出すように呟いては「うぅぅぅぅぅ……」と悶えていた。


 古典の授業ではとても頑張った。


 彼女は勇気を出して隣に座って、声をかけた。会話を続けようとどうにか言葉を絞り出して漢文を教えていたら、僕があまりにも真剣な顔で聞き入るものだから可愛くて可愛くて、抱きしめたくなるのを頑張って我慢した。送り仮名クイズは、実は、彼女からのメッセージだった。可愛い、好き、愛してる。全部氷月さんが僕に向けたメッセージだったのだが、僕がまったく理解できなかったから「違う!」と言いたくなるもどかしさを我慢した。


 まったく、我慢の時間の連続だった。


 しかし、これだけの我慢を重ねたのだから相当大人に近づいたのではないかと思われる。彼の理想の女性像に少しでも近づけたのではないかという実感がある。


 大人の女性。お姉さん。その理想を思い描くたびに自分が小さな子供であると思い知らされる。


 そもそも誰かに好かれるために努力したことなど無かった。


 いつも向こうから寄ってきた。


 自分から話しかけずとも、いつも相手から寄ってきたし、何の努力もせずに褒められた。気に入られた。


 容姿なんて親からの貰い物なのだから本人の良さとは無関係。そんなの氷月さんが一番よく分かっている事だ。


 勝手に好意を持たれて、勝手に可愛いと褒められて、勝手に冷たいと思われる。


 そういう他人の評価に振り回されるのが氷月凜の日常だった。それに疲れて全部がイヤになったら氷の女王と呼ばれるようになった。


「容姿以上の美しさを手に入れていない女性に興味はない。かぁ。なんて面倒なやつ。可愛いって言えよ。私のことが好きって言えよ。すぐに取り乱すくせに、顔を真っ赤にするくせに、なんで可愛いって言わないんだよぉ……言ってよぉ……」


 可愛いと言われたいと思ったのは初めての事だった。


 勝手に言われていた言葉なのに。もう嫌気がさしていたはずなのに。本当に欲しい人がくれない言葉。


「ねぇ、八重山……。あんたは私の事をどう思っているの?」


 氷月さんはぽつりと呟いて、目を閉じた。胸がキュッと締まる。


「可愛くなりたいなぁ……」

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