第17話
3時限目は古典だった。古典は2年の全クラスを成績順に3つのクラスに分けて合同で行われる。一ノ瀬高校には謎の空き教室が幾つもある。古びた備品を寄せ集めたようなワックスの剥げた教室。オフィスにあるような事務机が置かれたカーペット敷きの教室。成績と待遇はイコールではなく、高成績の生徒が古い方を使うのである。まあ、高成績とはいえ、平均以上を取っていれば高成績と見做されるのだから、必然的に数も多くなる。古い方は昔の教室を再利用しているので他の空き教室に比べて広いのである。
僕はいつもの窓際の席を選んだ。3クラス合同ということもあって席は自由である。来栖は他クラスの友達と隣に座ることが多い。氷月さんはいつも教卓の前に座る。
「八重山。隣、いい?」
「ん? うん。いいよ」
しかし、今日は僕の隣に座った。
漢文の授業だった。隣とペアを組んで白文を書き下し文に変換せよというのだが、僕はどうにも漢文が苦手だ。
「なんだこれ……こんな知識が今後必要になるとは思えない。返り点くらい先に打っててくれてもいいだろうにさ」
簡単なものなら分かる。例えば読書なら書を読む。読と書の間に返り点を打てばいいことくらいは分かるけれど、1・2点、上中下点のようなものが入り始めるともうダメだ。漢字パズルである。パズルは苦手だ。
「もしかして、漢文苦手?」
「苦手というか……白文を書き下し文に変えるなんてパッと言われて出来ることじゃあ……」
「え、そうなの?」
氷月さんの手元をチラッと見ると、そこには手書きの文字がみっちり書かれた教科書があった。できてるー。ほぼできてるー。
「まあようは、この漢字だけの文章を日本語として読む時に読みやすくしてるのが書き下し文だからさ、動詞にレ点とか、それなりに規則性があるんだよ」
「はあ?」
「私は英語みたいなものだと思ってる。もちろん、厳密に言うと全然違うんだけどさ、読書を英語にすると『I read a book』私は本を読みます。になるよね。これが書き下し文になると『読レ書』読む、書を。になる。動詞の後に名詞。似てるでしょ?」
「……その視点は新しいな」
ペアの授業では机を向かい合わせてくっつけることになる。氷月さんはノートに短い文を書きつけて教科書と比べながら次々と漢字だらけの怪文書を解読していった。
「ほらできた。漢文なんて簡単でしょ?」
「すっげぇ……」
「これで後は自由時間だね。なにする?」
「なにをするったって……授業中だぞ?」
氷月さんはさっさと教科書を片付けて身を乗り出した。周りを見渡すとほとんどのペアがうんうんと頭を悩ませている。順調そうに見えるペアはちらほらいるけれど、完全に終わらせたのは氷月さん一人のようだ。
頭が良い事は知っていたがまさかこれほどとは思わなかった。「見直した?」と氷月さんが言うので素直に頷く。すると彼女は頬をほころばせて「ありがとっ」と言った。
「じゃあじゃあ、漢文に慣れるためにクイズを出してあげます」
「クイズ?」
氷月さんは教科書をパラパラとめくって、課題とは全然関係ないページを開くと僕の方にずいと差し出した。「そう。私が指さした漢字の送り仮名を答えて」
「できれば返り点の練習をしたいのだけど……というかそれ、古典関係なくないか?」
「そんなこと無いよ。漢字が読めないと文章が分からない。文章が分からないと返り点の打つ場所も分からないでしょ?」
「それはたしかに、そうかもだけど」
しかし、自由時間だと浮かれて目を付けられるよりかはクイズに付き合った方がマシだろう。変に課題を増やされても面倒なだけだし。
「じゃあ、課題の時間が終わるまでな」
「やった! じゃあ、まずは……これ」
「……
「正解。これは?」
「………これは、健やかに?」
「うんうん、読めるじゃん!」
僕は氷月さんの指す漢字の送り仮名を次々に答えていく。同じページから出題されることもあれば、唐突に前のページに戻ることもある。ランダムに選んでいるように見えるが、氷月さんは何か理由があって選んでいるようにも見える。
「す、て、き。か、わ、いい。き、み、が、す、き。あい、して、………おいちょっと待て」
「どうしたの?」
「どうしたのじゃなくて、漢字の選び方に
「偶然じゃないかな?」
「偶然なわけあるか!」
なんとこの女。大胆不敵にも授業中に戯れようとしていたのだ。皆が真面目に授業を受けている中で2人だけ親睦を深めようとはなんと背徳的なやつ。
けしからん。実にけしからん。
「ねえ八重山。大きな声を出すとみんなにバレちゃうよ」
「くっ、自らの将来性もろとも窮地に追い込むとは狡猾極まりない。こんな事で可愛いと言うと思ったか。容姿端麗、頭脳明晰な君と授業中にこっそり戯れるという妄想的シチュエーションに喜んでるなんて思ったら大間違いだ!」
「喜んでるんだ? かわいー」
「違うぞ! 断じて違う!」
と、先生と目が合った。迷惑そうに眉間にしわを寄せて僕をジロリと睨んでいる。
「ほら、騒ぐからこうなった」
「誰のせいだよ、誰の」
頬が熱い。柄にもなく恥ずかしがっているのだ。シチュエーションのせいだろうか。
「バレたらまずいんじゃないのー?」
「くそっ、氷月さんにしてやられるとは思わなかった……」
「形成逆転、だね」
氷月さんはそう言って、追い打ちをかけるように手を重ねた。絹のように白く柔らかい手のひらが手の甲にそっと重なる。僕はされるがままになるしかなかった。次また声をあげてしまうと、今度こそ周りにバレる可能性がある。悔しいが、今は氷月さんの好きにさせておこう。
太陽のように温かい手のひらだった。
「私、冷え性なんだけどね……」
――ドキドキして体が熱い。分かる?
氷月さんはそう囁いて、ギュッと手を握った。
書き下し文の課題が終わって机の向きを直したあとも氷月さんは手を離さなかった。一番後ろの席を選んだこともあってか、机の距離が近い事を指摘する人はいなかった。
お互いの肌の温度が近づいて、手を握っている事も忘れたころ、僕も高揚して体温が高くなっているのだと初めて気づいた。
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