第82日 無の世界で

 ――そこは、無の世界だった。


 目を開けたぼくには、そこに何もないことがわかった。五感が働かない。色すらないからこの光景すら表現できない。白でも黒でもない。

 何だか既視感のある感覚だが、それが何かはついぞわからなかった。


 ふとそこに浮かんできたのは一つの円環。アニュラス。どこまでも広がるモノトーンの世界に、ただ一つ濃灰色の円環が浮かんでいた。


 それはまさしくぼくの光景が無から有になった瞬間だった。モノトーンだが、確かに円環が存在している。しかし、これは円環というよりかは――

「――ゼロ?」

 気が付くとこの単語が口をついて出ていた。

 そう、円環は少し縦に細長くて、数字の「0」のように見えるのだ。それが白黒の世界でぽつねんと宙に浮いているのだから、早い話かなり異様である。

 しかしそこでぼくはぼくが存在することを認識した。

 声があって、それを感じる聴覚がある。そして円環を見る視覚があって、それをゼロだと感じる思考が存在する。思考の存在はぼくの存在と定義していいのだろうか、と疑問に思ったが、今はそれを議論してくれる相手すらいない。

 そもそも自分自身の存在の肯定はかなり難しい。自分を見つめてくれる他者がいれば簡単なんだけれど、この世界にぼく以外の人間がいるかは見当もつかなかった。


 ぼくの呟きは、このだだっ広い空間にこだました。ぐわんぐわん。大声で叫んだら一体どうなってしまうのだろう。


 しかし、こだまするということは少なくともこの世界に終点があるということである。何となく安心する。本能的なものなのかはわからないが、ぼくは永遠やら無やら限りがないものを恐れる。だから有に安心した。

 ぼんやりと「0」とかたどられたモニュメントのようなものを眺める。あれは何でできているのだろうか。無機質な金属に見えるけれど、果たして実際は。

 

 確かめるためにぼくは一歩踏み出す。地面を踏みつける音が響いた。

 しゃ、しゃ、しゃ。

 しかし、歩いても歩いても一向にゼロに近づけない。ああ、それがゼロか。人が触れることのできない無。すなわちゼロ。

 

 ゆるやかな絶望に襲われる。この何もない世界で、ぼくは一体どうしたらいいんだろう。


 ♢


 ――おはよう、こんにちは、こんばんは。

 澄んだ声とともにくすくすという笑い声。


 いきなり背後からかけられた挨拶に、ぼくはひどく驚いてしまった。だってこの世界に人がいるなんて思わなかったから。

 慌ててがばっと後ろを振り返る。


 そこにいたのは、幼馴染の彼女だった。どうしてこんなところに。 

 ぼくの困惑をよそに彼女はしなやかな手を頬に当てて首を傾げてみせる。すらりとした手がきれいだ。

「ふふ。この世界には時間の概念がないから挨拶に困ってしまうわ。だから全部同時に言ってしまうことにしたの」

 我ながら名案だと思ったわ、と彼女は満足気に笑って見せる。

 ぼくは、なぜ彼女がそんなに平然としていられるのか不思議でたまらなかった。こんな異変しかない世界で、どうしてわざわざ挨拶の話をするのか。


 そうだ、と彼女は続ける。

「確かフランスは時間帯に関わらず、Salut. らしいわね。こういう時便利だと思うわ。それより、気分はどう?」

 彼女は恐ろしいほどいつも通りだった。マイペースとも言うのか。

 モノトーンの世界で、まるで世間話をするようにぼくに話しかける。いや、世間話をしているのだ。それが異様だ。もう少し慌ててもいいのに。

 

 けれど、あの嫌などろどろとした絶望感はもう消え去っていた。


 それに気が付いたぼくは苦笑して答える。やはり彼女には敵わない。

「まあまあ、かな……。それよりもきみはどうしてここに?」

 彼女がどこまでこの世界のことを知っているのかを知りたかった。そして教えてほしかった。この世界はどんなもので、どうすればここから抜け出せるのか。

 ぼくはいつも彼女に教えてもらってばかりだ。ぼくが彼女に何かを渡せていたらいいのだけれど。

 

 しかし彼女はこてんと首を傾げた。心底不思議そうに、

「どうしてここにいるかって? そんなのわたしが知るはずないでしょう。気が付いたらここにいた。それ以上でもそれ以下でもないわ。きみの声が聞こえたからここに来ただけよ」

 ぼくは唖然とした。目の前の彼女に率直な疑問をぶつける。

「……なら、どうしてそんなに平気なの?」

「だって慌てても仕方がないじゃない。だって何も変わらないもの。そもそも時計もないこの世界、時間の概念だって曖昧だし。それにあのゼロにだって永遠に近づけそうにないじゃない」

 彼女はぼくらの頭上で浮かぶ円環を指さした。

「この世界はきっと縮尺がおかしいのよ。距離という概念はありそうだから、わたしは歩いてきみに近づくことができた。でもあのゼロには永遠に近づけない」

 そこで彼女は短く声を洩らした。閃いた、とでもいうような声。

「そうだ、もしかしたらゼロは月のようなものなのかもしれないわ。近そうで遠いもの。実はあのゼロは月のように大きくて、遥か彼方にある。だから近づけないのかも」

 そこで彼女は言葉をいったん切って、「まあ、これがわかっても何の解決にもならないんだけどね」ひどくつまらなさそうに言った。

 まさしくその通りなのだが、ぼくは短くこう答える。

「よかった」

 今度こそ彼女は怪訝そうな顔をした。「どうして」と顔に書いてある。ぼくは、確かに脈絡がないなと苦笑した。

「いや、有に安心したんだ」

「ゆう?」

「無の反対、きみが存在するってことだよ」

 ああ有ね、と彼女は頷いた。

「それはそうね。有とは限りがある。つまり有限。有限って一見夢のない言葉のように見えるでしょう? 例えば、将来の夢や自分の力が有限なんて言われたら残念よね。……けれど、有限は優しいのよ」

「優しい?」

 今度はぼくが問い返す番だった。ぼくも確かに安心はしたけれど。彼女の言葉は時に難解である。

「そう。わたしたちは、限りがあるから頑張れるのよ。死があるから生を頑張れるように」

 その言葉はすとんとぼくに染み込んだ。腑に落ちたというのだろう。彼女の言葉には妙な説得力があった。


「それにしてもゼロって不思議よね。初めてゼロの概念を生み出したインド人は本当にすごいと思うわ。無を言語化して他人と共有する術を生み出したのだから。

 それにあの形もセンスがあると思うわ。あのゼロの輪っか。始まりも終わりもない。まさしく無を表している。まあ概念は有なんだけれどね」

 彼女の視線の先にはゼロのモニュメント。

「永遠に近づけないのもまた完成度が高いと思うわ」

 神妙な表情をして彼女は頷いた。

 

 しばらくした彼女はゼロのモニュメントから目を逸らし、静かに首を振った。

「……なんてね。さあ、そろそろ次のエリアに行きましょう」

「え?」

 ぼくは一体何のことかわからなかった。次のエリア?

「時間は有限よ。ほら、早く」

 ぐずぐずしているぼくの手を引いて彼女は歩き出した。出口がわかっているというような確固たる足取り。

「ど、どういうこと?」

 訳が分からずぼくは情けない声で半歩先を歩く彼女に問う。今のぼくはひんやりとした手に引かれるまま歩いているだけ。

「どういうこともないわよ。時間がないから次に行くだけ」

 そう言って彼女は目の前の白い壁をとん、と押した。

 たちまちモノトーンの世界は消え去り、さまざまな絵画が展示されている場所に出た。

「あれ……」

 まるで美術館じゃないか。呆けているぼくを見かねたのか、彼女は小さく溜息を吐いた。

「もう、なにをぼんやりとしているのよ。この美術館の閉館まであと二時間なんだから、しゃんとしてよね」

「さっきの部屋は……」

 ぼくは慌てて振り返る。そこには木の扉があるだけ。あんな、ぐわんぐわんと響くようなモノトーンの世界が広がっているとは考えられない。

「さっきの部屋は『無の世界』というタイトルの芸術だったでしょう? 部屋全体が芸術となっているタイプの。……ほんと大丈夫? 気分でも悪い?」

 彼女が本気で心配そうな顔をするので、ぼくは慌てて首を振った。

「いや、大丈夫大丈夫。ただすごい展示だったなって」

 はは、と笑って誤魔化す。

 そういえばぼくは幼馴染の彼女と美術館に来ていたのだ。先程の部屋は個展として現代の気鋭な芸術家がデザインしたもので、タイトルは『無の世界』。

 しかし、あれは展示にしてはあまりにも――。


「それはよかったわ。じゃあ絵画も見に行きましょう。わたし、Aという画家が好きなの。きみのおすすめは?」

 ――いや、彼女がわらっているからそれでいいじゃないか。

 ぼくはあのモノトーンの世界とゼロのモニュメントを一瞬思い浮かべて、そして振り払った。今は彼女と過ごしているのだ。それ以上に大事なことなんてない。振り返るのは今度でいい。

「そうだね、ぼくのおすすめは――」


 ♢


 後日、あの美術家のパンフレットを見たが、『無の世界』の展示なんてどこにも記載がなかった。館内図を見ても、あの部屋があった場所にはそもそも部屋が存在しない。そんな空間も存在しなかった。

 

 ああ、これぞ無の世界か。

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