第81日 白が似合うきみ

 その夜は月がとても綺麗だった。


 青白い光が、どこまでも静謐で幻想的な世界を照らす。なんて美しい世界。

 そんな世界で一筋の風が吹いた。途端に池はさざ波を描き、そのすぐ傍でくさむらが囁いた。そよそよ。

 自然のざわめきは、この静謐な世界に不思議と調和していた。


 その先に女性が一人佇んでいる。彼女の濃紺のドレスがさらさらと揺れている。まるで一枚の絵画みたいな光景。


 ぼくはほとんど無意識のうちに、何かに導かれるように歩いた。ふらりふらりと夢遊病者のように。そうして徐々に女性の元に近づく。

 あと三歩、二歩、一歩。

 そこで女性がくるりと振り返ったものだから、ぼくはひどく驚いてしまった。

「こんばんわ。いい夜ね」

 そこにいたのは幼馴染の彼女だった。白い月に照らされて、いつもに増してうつくしい。


 彼女は夜空のようなドレスを纏っていた。きらきらと煌めく銀の装飾が、まるで月や星々のようだった。薄い生地を何層にも重ねたようなそのドレスは、どこか儚さを醸し出す。

 それは彼女によく似合っていた。この世界にも。


「どう、似合う?」

 彼女はゆったりと妖艶に囁いてみせる。まるでこの夜の静謐な雰囲気を壊さないように、そっと言葉を置いてゆく。月の光で長い睫毛がきらめいた。

 ぼくはごくりと唾を飲みこんでからやっとのことで答える。

「……うん、似合っているよ。とても、きれいだ」

「ふふ、ありがとう」

 彼女はやんわりと微笑んだ。夜空のドレスに彼女の白い肌がぼんやりと浮かび上がる。

 それを見ながらぼくは、ああ白も似合うだろうな、と思った。そのまま言葉に乗せる。

「きみは白いドレスも似合いそうだね。雪みたいな真っ白なドレス。いつか見てみたい」


 そう、彼女のイメージといえば白だった。コートでも何でも白色がよく似合った。きっとドレスだって白が似合う。

 彼女が真っ白なドレスに身を包んでいる姿を想像する。

 ――ぼくの脳裏に映し出された幻影はひどく蠱惑的だった。


 ああこれはだめだ。あぶない。


 月の光に淡く照らされて薄く輝く純白のドレス。透き通るような世界の中で、何よりもうつくしい彼女が微笑んでいる。形の良い桃色の唇から滔々と言葉がまろびでて、それで――


「ふふ、相変わらずきみったら面白いんだから」

 彼女の澄んだ声に、たちまちぼくの意識は現実世界へと戻ってきた。そうだ、ここは。

 ぼくの眼の前で彼女は頬をほんのりと朱に染めていた。口元にすらりとした手を添えてあくまでお上品に笑みをこぼす。そしてぼくに囁いた。

「それはまるでプロポーズじゃない」

「……えっ?」

 ぼくは本当に何のことかわからなかった。プロポーズ?


 そんなぼくを見て、によによと彼女は笑っている。その顔ですらきれいに見えるのは、やはり月の光の所為だろうか。

「だって、純白のドレスと言ったらウェディングドレスじゃない」

 なるほど、理解した。それは恥ずかしいな。あまりにも恥ずかしい。早く否定しなければ。

「いや、えっとそれはちがくて、」

 そこで彼女は笑顔を引っ込めたかと思うと、あっという間にどこか哀しげな表情を浮かべた。それを見たぼくは尚更慌てる。まるでぼくが彼女を傷つけたみたいじゃないか。

「誤解だって」

 何とか言葉を紡ごうと必死になっているぼくの舌はタップダンスを踊るが如く跳ね回っていて、今にももつれそうだ。

「いや、それはその、違わないこともないんだけど……でもそういう意味じゃなくて、アチッ、舌噛んだ」


 今度こそ彼女は声を上げて笑った。ふふふ、と心底面白そうに。いや、結構本気で噛んだからかなり痛いんだけど。

 それでもぼくは彼女の笑顔がいっとう好きだった。ずっと楽しそうに、無邪気に笑っていてほしい。

 それは単なるぼくのエゴなのだろうか。



 次に風が吹く頃、ようやく彼女は笑いを収めた。そしてそっと言葉を落とした。

「……それにしても今宵は美しいわね。だって月がこんなにも近い」

 先程の大笑いから一転。まるで月の申し子でもあるように、彼女は陶然とした表情で月を眺める。目をゆるりと細め、なにかを敬愛するような表情。それはまるでこの国最古の物語のお姫様のようだった。

 とかく、この世で一番うつくしい横顔がそこにあった。


 なのに、ぼくはその姿にざわついた。なんだか彼女が吸い込まれてしまう気がして。あの物語の通りに、彼女が月に連れて行かれてしまいそうな気がする。


 ぱしり。

 気がついたらぼくは彼女の白い手を掴んでいた。違う、あれは単なる物語だ。そうわかっていても、体が勝手に動いたのだ。

「どうしたの、急に……」

 彼女も驚いたのだろう、軽く見開かれた澄んだ瞳にぼくが映っている。月ではなく、ぼくが。

 ああ、なんていい意味気味!


 はは、とぼくは乾いた笑みを漏らした。ぼくの内面に燻った、本当にどうしようもない気持ちをごまかすように。

「いや、なんとなくそうしたくなっただけ」

 彼女は腑に落ちない様子だったが、「へんなの」と呟いてぼくの手を握り返した。

 それだけで幸せになれるのだから、ぼくは幸せものだった。



 ――あわよくば、純白のドレスを身に纏った彼女がぼくの隣で笑ってくれたらなと思う。

 あまりにも興醒めだから口には出さないけれど。幻想的な世界は幻想的なままであってほしい。



 青白い光を湛えた月だけが、ぼくらを見ていた。

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