第47日 おかしな家
異世界に迷い込んだら、決してその世界のものを口にしてはならない。
♢
「ねえ…………。ねえ、起きてったら」
ぱちり。慣れ親しんだ声に目を開けると、案の定幼馴染の彼女が目の前にいた。柳眉を少し顰めてぼくをゆすっている。
「……ん、どうしたの」
ゆっくりと身を起こしながらぼくは問う。まるで寝起きのような倦怠感がぼくに纏わりついていた。そこまで寝不足だった記憶はないのに。記憶? そこではっとした。
――今は何月何日の何時だ。そして、いつからぼくは寝ていた……?
「きみも気が付いたようね。ついさっきまでわたしたちは普通に歩いていた。なのにいつのまにか意識を失っていて、目を覚ますとここにいる。ここはどこかしら。きみに心当たりはある?」
ふるふるとぼくは首を振った。目の前に広がる光景なんて見たことがあるはずない。
――そこにあったのは、お菓子の家だった。クッキーの屋根。キャンディの窓。チョコレートのドア。生クリームの漆喰と飾り。
童話にでも出てきそうな、何ともメルヘンな家だ。もちろんぼくはこんな家を見たことがない。本物の菓子を使っている家なのか、それとも菓子を模した家なのかはぼくには皆目見当もつかなかった。ただ、ほんのりと漂う甘い香りは本物だった。家から漂うのか、家の中から漂うのか。
よく見ると、周りに広がっている芝生もチョコレートでできていたらしい。ぼくが寝そべっていたところだけ体温で溶けていた。服に少しだけついていて萎えた。
「はあ、最悪。けっこうこの服気に入っていたのにな」
「洗濯したらきっと落ちるわよ」
「ぼく、チョコレート臭くない?」
「チョコは臭くないわ。それを言ったらあの家の方が臭いわよ」
確かに。ただぼくからチョコレートの香りがすることは否定しなかった。取り敢えずこの現実をどうにかせねば。洗濯さえもできない。
「えと……じゃあ、あの家に行ってみる?」
「賛成。ここに居ても時間ばかりが過ぎてしまいそう。わたしたちのいた現実世界との時間の進み方の違いもわからないし。動かないと」
のんびりと彼女は言っているが、少しだけ焦っているようにも見える。帰れなかったらどうしよう。ぼくだって漠然とした不安に襲われているけれど、隣に彼女がいるので左程焦っていなかった。
コンコンコン。
チョコレートでできた扉は思いのほか硬く、ノックしたらいい音が鳴った。さて、返事がなかったらどうしようか。或いは中から危険な魔物やら人がでてきたらどうしようか。
しかし、ぼくの危惧は杞憂だった。
――お入りなさい。
その音が脳内で弾けたかと思うと、扉がひとりでに開いた。幻聴かと思って彼女と顔を見合わせるが、彼女も狐につままれたような顔をしていたのでたぶん同じ声を聞いたのだろう。
「罠かしら」
彼女が些か緊張した声で言う。ぼくも気持ちはわからなくはなかった。しかし、開いた扉から家の中を見るに大丈夫そうだと思った。直感だけれど。
それに声が聞こえたということは、向こうがこちらを把握しているということだ。そんな中もう引き返すことはできない。
「罠だとしても、もう手遅れだよ。そもそもぼくらがこの世界に来た時点で」
「それもそうね」
割り切ると彼女は行動が凄まじく速い。今回も御多分に漏れず、ぼくよりも先にすたすたと扉をくぐっていってしまった。万が一危険があるかもしれないからぼくが先に入ろうと思っていたのに。
「ま、待って」
彼女の背を追うようにしてぼくもお菓子の家に入った。中は完璧な家だった。
クッキーでできたテーブル、ラムネでできた椅子、マカロンでできたソファ、タルトを逆さにしたような照明。一般的な家にあるものはほとんど全て揃っていた。
「わぁ……お菓子ってすごいのね」
彼女が感嘆の溜息を吐いて、メレンゲでできたオブジェを眺めていた。
「どんなパティシエが作ったんだろうね」
創作菓子にしては規模が大きすぎる。そもそも土足で入って良かったのか、なんて後悔し始めたその時。
バタン。
ぼくらの背後でチョコレートの扉が勢いよく閉まった。慌ててぼくが扉に駆け寄って開けようと試みるが、扉はうんともすんとも言わなかった。手で溶かそうかと思ったが、幾ら擦ってもぼくの手には香りさえも移らなかった。芝生の時は溶けてぼくの服を汚したのに。くそう。
「ねえ、その扉から離れたほうがいいんじゃない? この家の主はきっとわたしたちに帰ってほしくないのよ。だからこじ開けようとしても無駄。それより招待を受けたほうがいい気がするわ」
彼女は冷静だった。人は閉じ込められると焦る。ぼくも例外ではなかったようだ。落ち着いている彼女を見て一気に頭が冷めた。
そもそもこの世界に囚われてしまっているのだ。今更おかしな家に閉じ込められたくらいで騒ぐなんてばからしい。
「それもそうだね。……おーい、家主さん。ぼくらはどうしたらいい?」
返事があるとは思っていない。どうしようもなかったからそう呟いただけ。
――椅子に腰かけて。お茶会を始めましょう。
また脳内を這いずるような声。彼女と顔を合わせた。うん、やっぱり幻聴じゃないみたい。
テーブルセットを見ると、椅子は三つ。丸テーブルを囲むように等間隔で並んでいる。ありがたい。どの椅子も同じに見えるので、どこに着席するかで迷わずに済みそうだ。
ぼくらは黙ってラムネ菓子の椅子に着席する。ちらとズボンを見るとラムネ特有の白い粉が付いていた。また服が汚れた。なんでだよ。
――ようこそ。さあ、おあがりなさい。
相変わらず最後の椅子は空席だった。でもやっぱり声だけは脳内で弾けている。なんとも不思議な現象である。ぱちりと瞬きをする間にケーキやら紅茶やらがテーブルの上に用意されていた。きっと皿まで食べられるやつだ。キャンディで作られたつるつるの透明な皿。
その上に鎮座しているのは輝かんばかりの苺のショートケーキ。艶々した苺にきめの細かい生クリーム。きっとスポンジもふわふわなのだろう。見るだけで涎が垂れてきそうだ。さぞかし美味しいのだろうなと思った。
トン。
机の下で彼女の手が伸びてきてぼくの太ももを叩いた。ちらと視線を合わせると、彼女は視線で食べてはいけないと訴えてきた。ぼくはわかっているというように視線を返した。異世界で出された食べ物は決して口にしてはならないと相場が決まっている。その世界の住人になってしまうから。特においしそうな食べ物は要注意だ。
――おあがりなさい。
どこからともなく声が聞こえてくる。ぼくの知る誰の声でもなかった。初めて聞く、透明だけれどざらざらした声。きっとこの家の菓子を食べてほしいのだろう。明らかな罠にぼくは呆れてしまう。
――おあがりなさい。
「今、お腹空いていないので」
「口を閉じて!」
ぼくが声の主に断ると、彼女が鋭い声でぼくを一喝した。慌ててぼくは口を閉じる。
――おあがりなさい。
そう、ケーキが一人でに宙に浮かんでぼくの口に近づいてくる。あのまま喋り続けていたら危険だった。くわばらくわばら。
――おあがりなさい、おあがりなさい、おあがりなさい。
宙を舞ったショートケーキは、とうとう地に堕ちた。ぐしゃりと潰れて先程の美しさはもうどこにもなかった。白いクリームの下から覗く、でろりとした赤。いちごジャムとは違う、何処か禍々しい赤色にぼくは顔をしかめた。
――どうして食べないの?
家の主は困惑しているようだった。透明でざらざらした声が揺れている。それに口を開いたのは隣にいた彼女だった。
「だって、もっと甘いものを知っているもの」
そう言ってぼくの腕にしがみついてくる彼女。いつもはこんなことをしないので、ぼくの心拍数はぐんと上昇した。
――もっと甘いもの? 知りたい。知りたい。知りたい。
「それはね、」
意味ありげに彼女はつと自分の唇をなぞった。妖艶にゆっくりと。潤いのある桃色の唇がぼくの脳裏に焼き付く。
「ね、きみも知っているでしょう?」
ごくりとぼくは生唾を飲んだ。お菓子なんて今のぼくの頭からは吹っ飛んでいた。
「ねえ?」
彼女がぼくの瞳を覗き込んで肯定を促すのでぼくはかくかくと壊れた人形のように頷くことしかできなかった。彼女の目にはさぞかし滑稽に映っているんだろうなと思った。
しかしもっと狼狽していたのは家の主だった。
――そんな、この家より甘いものがあるなんて。
それを遺言に、脳に響く声はてっきり聞こえなくなった。
がちゃり。
音のした方を見ると、ぼくらが入ってきた扉が一人でに開いていた。
「行きましょ」
彼女は迷わずそちらに向かった。入ってきた時と同じように、何の迷いもなく颯爽と歩いていく。ぼくも慌てて続いた。
♢
チョコレートの扉を出るとそこは現実だった。ぼくらが二人で歩いていた道。ぼくらはお互いに顔を合わせる。本当に、狐につままれたような出来事。何がしたかったのだろう。
「あんな小手先のこどもだましが通用するなんて。変なの」
「確かに。ただぼくの服が汚れただけだし、さいあく」
背中についたチョコレートに、ズボンについたラムネの粉。本当に最悪。あれは何だったんだ。服を眺めて溜息を吐く。洗濯しないとな。
「……ねえ。きみ、頬っぺたに生クリームついてるよ」
彼女の白い指がぼくの頬をなぞらえる。あまりにもゆっくりと掬っていくのだから、かあっとぼくの頬が熱くなった。それを見た彼女は軽やかに笑う。妖艶な桃色の唇が弧を描いて、彼女の晴れ晴れとした笑顔を彩った。
「ほんとうに、おかしな家だったわ」
甘いのはお菓子だけじゃなかったようだ。
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