三
「できるだけ早くすませますのでもう少しだけお待ちくださいね」
というソフィーの言葉をアンジェラが覚えていられたのは最初の数日間だけだった。
――――最近、ブライアン様の様子がおかしい。
別に仲違いしたわけでも、マンネリ化したわけでもない……と、少なくともアンジェラは思っている。
けれど、最近のブライアンはアンジェラと一緒にいる時でさえ上の空だ。それに、どこか焦っているようにも見える。
――――いつもの冷静沈着なブライアン様らしくない。
心配したアンジェラが「何かあったの?」と聞いてみても、「アンジェラには関係ない」と突き放されるだけ。
こんな対応をされるのはブライアンと恋仲になってから初めてで……アンジェラは戸惑っていた。
◆
しかし、その理由をアンジェラは思いがけない形で知ることになる。
「例の噂、ご存じ?」
「あら、どの噂かしら?」
授業に必要な道具を置いてある『準備室』。先生から指示された時にしか生徒達は入室しない部屋だ。
だからこそ彼女達は話しても大丈夫だと思ったのだろう。
「ソフィー様とブライアン様が
「まあ本当に?!」
「ええ。高位貴族の間ではすでに事実として情報が流れているようですわ。噂の広まり具合を見るに、信ぴょう性は高いですわね。それと、私が聞いた話によると婚約解消はソフィー様から申し出たらしいですわ」
「まあっ……それは本当に、
「ええ。ソフィー様からすれば、ようやく……かもしれませんが。以前のブライアン様はソフィー様に……でしたし」
「そうですわね。……ということは、本当にブライアン様は変わったということなのかしら」
「婚約解消できた、ということはそういうことなのでしょうね」
「そう……なら、ブライアン様の次の婚約者はあの方になるのかしら?」
「そうなるでしょうね。あの方がクーパー侯爵家に相応しいかは置いといて……あの方と一緒にい始めてからブライアン様のアレがおさまっているのは確かなようですし」
「ブライアン様はアレさえなければ次期当主に相応しい方ですものね。クーパー侯爵家としてもアレをおさえることができるのなら……と他のことには目をつぶるしかないでしょうし。次の婚約者を見つけるのはなかなか大変でしょうから……ブライアン様って鑑賞用にはいいですが、結婚相手としてはちょっと……なんですもの」
「ブライアン様のそこがいい、という奇特な方もいらっしゃるようですが……さすがに結婚となると……自分だけの問題ではなくなりますものね」
女子生徒達は苦笑混じりで準備室から出て行った。アンジェラは息をひそめていた棚の裏からそっと顔を出す。
「今のって」
思ったより大きな声が出て慌てて口を塞ぐ。扉に近づいて気づかれた様子はないことを確認すると、ホッと息を吐きだした。
彼女達の会話の要所要所に気になるところはあったが、一番はやはり『ソフィー様とブライアン様が婚約を解消した』ところだろう。
しかも、婚約を解消したことでブライアンがクーパー侯爵家を継ぐ可能性が出てきたらしい。
もしかしたら、アンジェラが侯爵夫人になる未来もあるかもしれない。
想像しただけで、心臓がドキドキして、頬が紅潮する。
同時に、最近のブライアンの様子を思い出して、「そういうことだったのか」と腑に落ちた。
――――ブライアン様ったら私に心配をかけたくなくて黙っていたのね。そんなこと気にしなくていいのに。
自然と口角が上がっていく。
――――ああ! ブライアン様にはやく会いたいわ!
はやる気持ちを抑え、教室に戻って、真面目に授業を受けた。
そして、待ちに待った昼食の時間。
アンジェラは授業が終わると同時に教室を出た。早足でブライアンの教室へと向かう。
息を荒げて登場したアンジェラに驚くブライアン。
アンジェラはそんなブライアンの腕を強引に引いて、いつも二人で過ごしている裏庭へと向かった。
ご機嫌なアンジェラは早速、手作りの弁当を広げる。ブライアンも持参した弁当を広げた。
ブライアンは食に対して妙なこだわりがあるらしく、クーパー家で長年働いているシェフが作ったものしか食べられないそうだ。
最初の頃は自分が作ったものを食べてもらえないことにショックを受けていたアンジェラだったが、無理矢理食べさせようとしてえずかれたことがあったので今ではすっかり諦めている。
食後に、果実水で口の中を潤す。ブライアンも持ってきていた魔法瓶に口をつけた。
ふと二人の視線が合う。アンジェラは照れ笑いを浮かべ、そっとブライアンに近づいた。
ブライアンも自然な動作でアンジェラの身体に腕を回して引き寄せる。
コテンとブライアンの肩に頭を傾けるアンジェラ。
幸せな時間に酔いしれていると、遠くの渡り廊下をソフィーが通っているのが見えた。
「あ」
一瞬だけだが、確かにソフィーとアンジェラの目が合った。けれど、ソフィーは軽く会釈しただけで通り過ぎて行く。
――――婚約解消したのは本当みたいね。あら……もしかしなくともソフィー様が言っていたのって、このことだったのかしら。……なんだ。案外いい人だったのね。
ふと、以前ソフィーから言われた言葉を思い出した。
同時に、今までの自分の言動も思い出して罪悪感が生まれる。
「早くソフィー様にも『運命の相手』が現れないかしら」
いくら図太いアンジェラだって、ソフィーだけを犠牲にして自分達だけが幸せになるというのは、ちょっと気まずく感じる。
「何だって?」
その瞬間、頭上から氷のような冷たい声色が降ってきた。
驚いて、慌てて離れる。――――え? 今の声ってブライアン様の声?
ブライアンは温度の無い瞳をアンジェラに向けていた。
今まで向けられたことの無い視線を向けられ、アンジェラは激しく動揺する。つい口が滑った。
「ちょ、ちょうど先程ソコをソフィー様が通っていたのよ。それで、彼女が私達の為に身を引いてくれたっていう話を思い出して……彼女にも私達みたいな『運命の相手』を見つけてほしいなと思って……つい、口に出しちゃったただけなのっ他意はないのよ?!」
後ろめたさからか言い訳じみた言い方になっているが、アンジェラはそのことに気づいていない。
ブライアンは眉根を寄せた。
「なぜアンジェラが
「な、なぜって……皆知っているわよ? 噂になっているもの」
その瞬間、ブライアンは忌々しげに舌打ちをした。どうしてブライアンがそんな反応をするのかわからず、アンジェラは震える。
「う、嬉しくないの? 卒業しても私達こうして一緒にいられるのよ?」
「……それは、そうだが」
「ブライアン様。私、ブライアン様のご両親に一度ご挨拶に伺いたいと思っているの……都合を聞いておいてくれる?」
ブライアンの反応を窺うようにじっと見つめる。アンジェラの真剣な気持ちが伝わったのか、ブライアンはゆっくりと頷いた。
アンジェラはホッと息を吐く。ただ、その煮え切らない態度に思うところはあった。
けれど、アンジェラはここで止まるわけにはいかない。
早くしないとブライアンがどこぞの馬の骨に奪われるかもしれない。
男爵令嬢の自分が侯爵家の人達に容易に認めてもらえるとは思わないが、アンジェラには自信があった。
その時の為にと祖母が直々に仕込んでくれたからだ。あの時の努力がようやく実を結ぶかもしれない。
――――お祖母様。もうすぐ、もうすぐお祖母様の願いを叶えることができるわ。私、頑張るから天国で見守っていてね!
気を取り直して、アンジェラはいつものようにブライアンの腕に己の腕を巻き付けた。
「ふふふ。私、やっぱりブライアン様とこうしている時が一番幸せだわ」
「そうか。それはよかった」
「……ブライアン様は? ブライアン様は違うの?」
――――やっぱり、いつもと反応が違う?
ブライアンの顔をじっと見つめる。ブライアンはアンジェラの瞳をじっと見つめ返した。
けれど、その瞳はアンジェラを捉えているようで、捉えていない。
「ブライアン様?」
「俺は……」
先程同様の煮え切らない返事にアンジェラの眉間に皺が寄る。
どうして、今更そんな顔をするのだろうか。そんな不本意そうな顔を。
今まで疑いもしなかったブライアンからの気持ちに翳りが見えた瞬間だった。
「ブライアン様……私のこと、好き?」
「ああ、好きだ」
「……じゃあ、私と結婚してくれる?」
「それは……」
「どうしてはっきり『する』って言ってくれないの? ……私が男爵令嬢だから?」
「そういうわけでは、ない」
「じゃあ、なんで? 私はブライアン様にこの身を捧げる覚悟も、一生を添い遂げる覚悟もあるのよ? それなのになんで今更……っ」
激情のままに告げ、ふと我に返る。
――――私ったら、こんなところで何を言っているのかしら。この身を捧げるなんて……本音だとはいえ、はしたないことを言ってしまったわ。ブライアン様に引かれてないかしら。
頬が熱い。チラリとブライアンの様子を窺う。
そして、目を見開いた。
ブライアンが虚空を見つめ、何かを呟いていたからだ。
その瞳にはすぐ側にいるはずのアンジェラは映っているようには見えない。
――――何? なんだか……今日のブライアン様は怖い。
アンジェラがそっと身体を離すと、ブライアンがゆっくりと顔をアンジェラに向けた。
まるで人形のような、全く感情が読めない表情。
アンジェラは本能的に後退った。
「わ、私用事を思い出したので今日はこの辺で……」
視線をそれ以上合わせることもできずに、震える手で荷物をかき集める。
袋の中はぐちゃぐちゃになってしまったが、今はそんなことはどうでもいい。
とにかく、この場から、ブライアンから、今すぐに離れたかった。
逃げ出すように立ち去るアンジェラ。
でも、そんなアンジェラの背中をブライアンは一切見ていない。
落ち着いた色合いの碧緑に、ちょっとした刺激を加えたくて、赤を混ぜたら失敗してしまった。
大切な大切な緑が消えてしまった。濁ってしまった色はもう戻らない。
――――なら……もう、後は、ドウデモイイ。
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