第5話 勉強会

 大地が目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。

 何か夢を見ていたような気がするが、どんな夢を見ていたのかは思い出せない。


 身支度を済ませて、今日も少し早く登校すると、天音が手洗い場に立って花瓶の水を換えているのが見えた。


「おはよう、一星」

「あ、平くん。おはよう、今日も早いね」

「一星はいつも早いよな。毎日花瓶の水換えてるのか? 偉いな」

「朝学習の合間にね。気分転換に丁度いいかなって」


 花瓶に水を入れた彼女と並んで教室へ入る。


 彼女の机には数学と英語の参考書が置いてあった。どちらも授業で使っているものではなく自前のもので、彼女の勉強に対する熱意が伝わってくる。


「前から気になっていたんだが、一星は勉強が好きなのか?」


 勉強が全くと言っていいほどにできない大地はそんな問いを投げ掛ける。天音が放課後に残って図書室で自習をしていることは四季から聞いて知っていたため、どうして彼女がそこまで勉強をするのか気になっていたのだ。


「あはは、べつに好きだからやってるわけじゃないよ? 友達と遊んだりテレビ見てる時の方が楽しいし。でも、私はそれぐらいしないと心配なんだ。もし抜き打ちテストがあったら焦っちゃって一問も解けなくなるかもしれないから」


 万全な準備をしておけば、何も焦ることはないと話す天音。


 大地は彼女が抱えた悩みを解決する手助けをすることになってはいるが、抜き打ちテストなどの単純な実力を確かめるものに関しては何も手助けができない。こればっかりは彼女自身が乗り越えるしかないのだ。


 大地にできる手助けは、二人がセットで行動ができる前提の時のみ。あまりできることは多くないと痛感させられる。


「あ、だけど嫌いなわけでもないかな。勉強ができれば他の人を助けることもできるし」


 彼女は大地を見ながら冗談交じりにそんなことを言う。


「一星が勉強嫌いじゃなくてよかったよ」

「勉強会、今日の放課後からでいいんだよね?」

「あぁ、よろしくお願いします」


 そんな風に他の生徒が登校してくるまでの少しの間、二人は朝の静かな教室内で話し続けた。


 そして迎えた放課後。


「ポテトチップス買ってきたけど食べる? 一星さん」

「今はいいや、手汚れちゃうし。ありがとね、榊くん」

「それでそれで、岬先輩! 告白の返事はどうしたんですか!?」

「もちろん断ったよ? だってわたし……」

「どうしてこうなった……」


 放課後の教室で大地と天音の二人で勉強会をするはずが、気づけば騒がしい混沌の場と化していた。


「まず四季、どうして残ってるんだ? 帰ったはずだろ」


 混沌の場を作り出している一人目は四季。

 彼は一度学校外に出て下校したと思いきや、なぜかスナック菓子や飲み物を買って戻ってきた。


「勉強会だろ? 勉強できそうな話し方してんのに実際は全然できない大地の苦戦する姿が見られるんだ。そんなおもしろい場面に俺がいないわけないだろ~? それに、いざとなったら俺も教えてやれるし」


 ただおもしろいものが見たいのかサポートに回ってくれるのかよく分からない立ち位置を宣言する四季。


「まあ確かに四季も勉強できるからありがたいかもしれない……。だけどそこの二人は明らかに恋バナしてますよね!?」


 そこで大地は絶賛恋バナ中の海原美嘉と梅雨風岬に身体を向け直す。

 美嘉は同じクラスで天音の友達だ。まんまるな目を閉じ、右手を顎に添えると「恋も勉強」と、まったく悪びれることなく言い切る。


 一見すると「キリッ!」という効果音が付きそうなものだが、よく見ると黒髪ツーサイドアップの髪がフリフリと揺れてしまっているため、なんとも格好がつかない無類の恋愛好きだ。

 ちなみに彼女も勉強は苦手なはずだが、恋バナが優先されて勉強道具が机の端に追いやられている。


 そんな美嘉に恋愛事情を根掘り葉掘り聴き出されていたのは一つ年上の三年生、梅雨風岬。既に美嘉から十五分ほど同じ話題で恋バナに付き合わされていたのだが、彼女は美嘉とは対照的に、アーモンド形の瞳を薄目にして申し訳なさそうな苦笑いを浮かべている。彼女のセミロングの銀髪が窓越しの柔らかな陽光に照らされてキラキラと輝いていた。


 そして彼女は他でもない、四季の元カノである。高校に入ってすぐ、彼女から四季に対して猛アタックがあり付き合い始めたのだが、今年の二月に別れたと大地は四季から聞かされていた。なんでも、意見の食い違いがあると母親のように嗜めてきて、自分ばかりが折れなくてはいけなかったため、彼女として見ることができなくなってしまったとか。


 そんな四季と岬だが、恋人関係ではなくなったものの、友達としての相性は悪くないようで、別れてから半年ほど経った今もこうして同席している。

 三年生の七月ということもあり通常ならいろいろと忙しい時期だが、彼女はすでに受験を終えているらしくその限りではなかった。


「その恋バナの内容、俺たちにも聞こえてますけどそれはいいんですか?」


 聞かれたくない内容だったとしても既に遅いが、大地は念のため岬に確認を取る。美嘉はガタッと立ち上がると腕組みをしてドヤ顔で言い放つ。


「ばーか、むしろ聞かせてんのよ。これは岬先輩の策略なんだから」

「そんなつもりないよ!? そもそも、話を振ってきたのは“ みーちゃん”だし――」

「そう! 岬先輩の策略と見せかけた、あたしの策略!」

「策略なら言っちゃダメなんじゃ……」

「……って、思わせる策略なの」


 徐々に唇がプルプルと震えてドヤ顔が崩れていき、語気も弱まっていく美嘉。きっと雑誌の特集か何かで恋愛テクニックについての記事を見たのだろう。セリフは覚えていても使う場面を見誤ったことで非常にきまりが悪いが、ここまでいくと逆にミステリアスだと言えなくもない。


「さっ、勉強勉強」


 せっかく天音が教えてくれるのだから時間を無駄にするわけにはいかない。大地は早々に会話を切り上げてノートにシャーペンを走らせる。


「ほ、ホントに策略だもん……岬先輩ぃ~!! 平が冷たい!」

「よ、よしよ~し。策略だもんね~」

「こっちはこっちでヤダ!」


 勉強を優先して美嘉にはまったく構わない大地と、子どもと同じあやし方をする岬。当然そのどちらにも軍配は上がらなかった。


「天音ぇ〜!」

「はいはい。もう、平くんの勉強の邪魔しちゃダメだよ? 私の隣に座ってて」


 天音は参考書と教科書を交互に見比べながら、椅子ごと擦り寄ってきた美嘉の肩をそっと抱いて囁く。

 そのあまりにもサマになったナチュラルな動きに四季は「やだ、なにそのイケメンムーブ……!」と声に出さずにはいられなかったようだ。


「あはは、“ ミヨ”は恋バナ始まると長いから、だいたい最後はこうなるの」

「なるほど、慣れてるってわけか。確かに海原には効果ありそうだわ」

「榊もやられれば分かる……」


 当の本人である美嘉は、天音の手を自身の肩から頭にずらして気持ち良さそうに撫でられていた。


 一瞬のうちに美嘉をおとなしくさせた天音は、今度は大地に目を向ける。


「分からないところがあったら遠慮せず聞いてくれていいからね」


 大地は色々と取り込み中の彼女に教えを乞うのは気が引けたため待っていたのだが、先程から手が止まってしまっているのを見かねて彼女の方から声を掛けてくれた。


「あぁ、申し訳ない。ここの問四を教えてほしい」


 大地はそう言って数学問題集の四十七ページを見せる。


「えっと、確率の問題ね。ここは〜……あった、少し前に出てきたこの問題と似てると思わない?」


 天音に問われ数ページ戻ってみると、似たような例題が載っていた。


「……あ、そうか。これだと同じ組み合わせを逆にしたパターンも含まれてるのか」

「そうそう! それさえ分かれば答えが導き出せるよ」

「……できた。ありがとう」


 そうして途中、美嘉の「どうして恋の勉強は学校で教えてくれないの?」や「この学校で一番モテているのは誰?」などという、まるでテスト勉強を妨害しにきているような雑談――話に加わった岬や四季は大丈夫だろうが、美嘉は確実に赤点を取るだろう――を聞かされながらも二時間ほど勉強をし、気づいた頃には午後六時を過ぎていた。


 夏の太陽はまだ高く、昼間と変わらず教室を照らしている。


「今日は終わりにしてそろそろ帰ろっか」

「ああ、今日は教えてくれてありがとう。またお願いします」


 そう言って大地は天音に身体を向けて感謝を伝える。これから定期的に教わることになるが、一回一回の感謝を忘れてはいけないと大地は思う。この勉強のおかげで大地は授業中の遅れを取り戻せるのだ。いくら感謝しても足りないくらいだろう。


「おう、まあいいってことよ。今度メシでも奢ってくれよな」

「四季には言ってないしメシも奢らない。結局一問も教えてくれなかったじゃないか」


 最初はできる限り天音の邪魔をしないよう、四季に分からないところを聞いたのだが、「だってよ、一星」と言って四季はそのまま天音に放り投げたのだ。


「大地はそう言うけど、教えようとしてる一星からしたら『私に聞けよ』ってなるだろ?」

「それは、そうかもしれないが……」

「分かるぞ。頭良く見られたいもんな」


 四季は首を上下に振りながら、ニマニマとして「俺は勉強できるから、あんま共感できないけど。男はそういうとこ気にするもんな。それが見栄だ、大地」と、大地の耳もとで囁くように言った。


「なるほど。確かに大事だな、見栄」


 他の面々を置き去りにして頷き合う大地と四季。

 天音に勉強を教えてほしいと言ったあの日、副教科以外の全部を教えてほしいとすぐに言えなかったのも見栄だったのかと、大地は自分で納得した。

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