第3話 長慶、晴元に仕える

 徳川家康を倒した、長慶は骸と天文の世に向かった。

 

 屋敷で骸は晴元をマジマジと見つめた。

 江口洋介に似てると思った。骸は『東京ラブストーリー』や『ひとつ屋根の下』を好きで見ていた。

 父は細川澄元、母は清泰院、嫡男は細川昭元。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄、本願寺法主・顕如の義兄に当たる人物でもある。


 当時、畿内で内乱状態にあった細川京兆家を纏め、自らの政権を確立させたが家臣の三好長慶の反乱で没落、勢威を取り戻せないまま没した。管領に就任したとする説があるが、史実ではない。


 晴元の諱は室町幕府12代将軍・足利義晴の偏諱を受けたものであるが、義晴の偏諱を受ける前や、義晴と敵対関係であった時期には六郎の通称(仮名)を諱の代わりに用いた。

 

 細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなり享禄・天文の乱となる。


 そのため天文2年(1533年)6月20日に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した。「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」(『本福寺明宗跡書』)とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。交渉自体は仙熊の名を借りて、叔父の三好康長など代理の者がした可能性もある。


 この直後に元服したとされる。理由は長慶の嫡男・三好義興や13代将軍・足利義輝、晴元の子の細川昭元などが11歳で元服しているためである。


 千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである。


 8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津越水城を奪回した。翌天文3年(1534年)になると本願寺に味方して8月11日に細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄(尼崎市)で晴元方の三好政長と戦ったが、河内守護代でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。この後の10月22日、晴元の命令で長慶の家臣が京都平野神社の年貢等を横領しているのを止めて還付するようにされている。


 その後は晴元の武将となり、天文5年(1536年)3月に細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍を7月29日までに全滅させた(『続応仁後記』)。

 

 骸もライフルで戦ったが、これ以上世界を変えたくないから、あまり殺さなかった。

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三好長慶 鷹山トシキ @1982

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