第2話 自由と繁栄の弧 前編

 2022年2月24日、岸川ドクトリンの発表後、世界の外交は新たな局面に突入することになった。意外なことに岸川ドクトリンに対して直接否定的な反応を示した国はなかった。


 無論全ての国が積極的に支持するなどという夢のような局面が訪れたわけではない。


 まず、ロシア政府にとっては自国が最初の加害国になり得る話でもあり、日本政府自体もロシアを最初の加害国として認定する意欲を示していたため、強い警戒感を示した。しかし、岸川ドクトリンや国連民間被害回復理事会に対して表立っての反対という態度表明ではなかった。


 ロシア政府は、加害者はウクライナ政府であり、ウクライナ政府の非人道的な攻撃を受けたドネツク州やルガンスク州の人々を守るために兵が送られているに過ぎないと主張し、新たな安保理決議によりウクライナに対しての制裁を行うよう求めだし、その安保理決議の提案が歯牙にもかけられないと、今度は、国連軍が派遣されないからロシアが単独で派兵していると主張した。


 また、民間人や民間施設の被害についてもゲリラ戦を行わせているウクライナに全面的な責任があるという主旨の談話を発表したが、岸川ドクトリンや国連民間被害回復理事会についての直接的な言及は避けた。


 次に慎重な反応を示したのはアメリカ政府と中国政府である。


 アメリカ政府は、安保理決議違反などでの紛争には適用されないという点、そして国連加盟していない組織に対しては適用されないという点で、岸川総理が一定の配慮をしていることは理解している。


 これは中国政府も同様だ。中国政府は台湾については国内問題という姿勢を堅持しており、台湾への武力攻撃を制限されることに対しては極めて過敏ではあるが、岸川ドクトリンが、その点において直ちに問題にならなかったため、反対するには至らなかった。


 アメリカ政府にとっても盟友であるイスラエル政府が、ガザ地区の占有者でありイスラエルに頻繁に攻撃を仕掛けるハマスへの攻撃については、このドクトリンでは適応対象外になっていることが重要であった。むしろ、この岸川総理の提案は、イスラエル政府が他のアラブ諸国から攻撃されるリスクを軽減するかもしれないと、このドクトリン公表の影響を慎重に見極めるとの姿勢であった。


 無論、新たな世界秩序を作るような話にもつながり兼ねないので、アメリカも中国も、その真意や影響力を測りかねているというところであろう。


 一躍、世界の注目を集めることになった岸川総理は、矢継ぎ早に2段目の施策を打ち出したが、それは岸川総理の提案ではなく、民間会社の社長の提案として、最初は知られることになる。


 <サイド 祝田咲>

 わたくしの総理としての次の仕事は、新電力の社長様でもあり旅行会社の社長様として急成長を遂げられたHTSの澤村秀一さわむらしゅういち様を口説き落とすことですわ。


 澤村様をお招きして、まず、私の正体からすべてをぶちまけさせていただきました。澤村様、目を白黒させておられましたが、この数日のわたくしの変化と合わせて、「そんなこともあるのかも知れませんね。」と信じてくださいました。


 常人ならお信じにはならないのでしょうが、やはり聡明であられ、お若くあられたなら和馬様に比肩できるほどの人物と以前に評価していたとおりの方でいらっしゃいますわ。


 澤村様は、私たちにとってのキーパーソンになる方でしたから、正体を伝えるという大きなリスクでありましたが、無事乗り越えることができましたので、本当に安心いたしました。勝算は十分にあるつもりではございましたが、それでもやはり不安はございましたから。


 澤村様に、ありがとう存じますとお伝えすると、「信頼してすべてを話してもらった以上、その信頼には100%応えましょう」と応じてくださいました。


 <澤村社長記者会見>

「本日は、お集まりいただきありがとうございます。我が社の経営方針の発表のため、マスコミの皆様、投資家の皆様に集まっていただきました。


 我が社は、ご存じのとおり旅行業を中心としてさせていただいておりますが、新電力もさせていただいております。この業態に加えて、新たな中核事業として介護事業を始めたいと考えております。


 介護事業の開業と申しましても、国内に開業するものではなく、東南アジアに介護施設を作り、そこで介護サービスを提供させていただくというものでございます。介護サービス、それから医療サービスもですが、国内では医療保険制度、介護保険制度がございまして、その保険が適用されることで利用者の負担が軽減されるという制度となっておりますが、これを海外においても保険制度の対象にしてほしいと、昨日、


 岸川総理は、医療の点数や介護保険の支給額の調整を行ったうえで、海外施設であっても、日本資本で経営し、専ら日本の高齢者を受け入れるのであれば、保険対象にするよう検討を進めると仰ってくださいました。


 それから、電力事業でございますが、ウクライナ戦争以来、電力調達費用が高騰しております。そこで、東南アジアで発電して、フィリピン、台湾、沖縄、九州と巨大なスマートグリッド網を整備して、電力を国内に提供できる体制を築く予定です。これについても岸川総理に内諾を得て、規制関係の法改正が必要な個所があれば協力する旨の言質をいただきました。


 我が社は、ベースが旅行会社でございますので、東南アジアとの交流が活発になり行き来が多くなれば、それだけ本業の利益も増えていくとの計画でございます。」


 <サイド 祝田和馬>

 澤村氏を招いて話を終えると、咲には珍しく、心から安堵する表情を見せた。


 彼女はどこからその自信が来るのかというほど、この数年は、いつでも不安を感じる表情をすることがなかった。


 こんな表情を見るのは、咲が中学生の頃以来だったから、少し嬉しく思えた。


 話し合いは無事終わったので、明日にも澤村社長は記者会見をするだろう。その記者会見後に、日本政府として、澤村社長の提案を受けて、前向けに制度調整を行うとの談話を発表する、そんな手筈である。


 中国を刺激しすぎないために、今回は岸川総理発案ではない形としたのだ。


 今回の施策の目的は、まず外国人材を国内に招き入れるのではなく、外国人材を必要とする介護事業が外国で事業実施したら外国人材を受け入れなくても良いのではないかという発想から生まれている。


 我が国に溶け込み我が国の発展に資したいとの意思を持つ人が、我が国に来る分には良いが、現実には、それほど高い志や能力を持つ人ではなく、とりあえず介護する人がいないから呼ぼうという発想で、介護職がきつくて、あるいはカスタマーハラスメントなどにより離職した場合に、犯罪行為に手を染めてしまう外国人材も少なからずいる現状がある。


 これからも外国人材を日本に招くにしても、実際に仕事を経験してもらったわけでもなければ、ちょっとした面接だけで、日本にとっていい人材かどうかを見極めることは困難であろう。 


 それなら、現地で介護サービスを受けてもらい、そこで受け入れようというもので、ICTを利活用して、インターネットでいつでも会える、話せるというサービスが提供されたなら、地方の介護施設に親を預けるより安心感もあるだろう。


 円安が進んできたとはいえ、シンガポールなどを除けば、東南アジアの方が人件費、生活費は安いのだ。そこで介護サービスを提供したほうが金額的負担も少ないし、現地の日本資本の介護サービスでやっていける人材を厳選したうえで、国内で介護サービスを受けたい人のために日本国内に来てもらうこともできよう。


 そして、介護施設を受け入れてもらった国に、発電施設の投資もさせてもらう。


 発電施設、自然エネルギーである太陽光、地熱、風力に水力発電、火力発電の効率のいいものを作る。自然エネルギーは特に発電量の安定が課題であるから、国を超えた巨大スマートグリッドの必要性は以前から分かっていたことである。


 また、日本は多くの天然ガスを輸入しているが、天然ガスを液化して船に乗せて持ってきて、天然ガスに戻して火力発電として利用する現状は明らかに無理があった。


 それよりも現地で発電して、電力として持ってきた方が安上がりでできるという計算もあったし、将来的には電力という形で日本にエネルギー供給できるなら原油の輸入量の減少にも繋がっていくだろう。


 日本の1日あたりの石油使用量である455.1万バレル=7億2千万リットルの石油を1万数千キロもの海上運輸を行い、使っている現状は、どう考えても効率的ではない。


 全長1000mを超えるような大型タンカーでも1回の往復ではわずか半日分しか持たないのだ。


 しかし、今回の最大のポイントは、台湾に電力施設を作る点にある。


 咲と話をしていたのが、中国を刺激しない形で、日本、台湾、東南アジアの経済圏をつくりあげて、緩やかな形での共同体をつくり、政治的に自由な発言が許されるべきという共通の価値観を有する国々が連携して、事実上中国の封じ込めができないかというものだった。


 今回の布石は、そこに至るための大胆な一歩である。

 さて、自分は、さきも気付いていない大切な仕事をするとしよう。咲は政策を作る能力では、過去の誰とも比肩できない能力を持つが、政治能力としてみると、調整力であったり、人間観察力が重要な局面も多いのだ。(調整力がないことで上手くいく局面もない訳ではないが。)


 その点では自分の手助けがあったほうが良いだろう。

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