第32話 重商連合


「闘争があったのは間違いないようです」


 その言葉にイグザムは身体を深く椅子に預けた。


「印綬の者は」

「現場に幾つもの血痕がありましたが、状況は知れません」


 バカか、状況を知るために足を運んでいたのではないのか。

 机のはるか前で膝をつく男を一瞥する。これが今の公衛局、アセットだ。かつての部下ならば、より詳細な情報を持って来ていたのだが。


「ただ、近隣の者によると、現場から騎士に護られた馬車が王都に向けて疾駆したと」


 では、何者かが傷ついたか、倒れたか。しかし、これでは情報が少なすぎる。


「その地で印綬の者を見た者はいないのか。街道駅ならば人は多いだろう」

「街道駅は破壊されています。人々は逃げ去り、見ている者はおりません」


 これ以上は、この者に聞いても無駄だ。


「もう良い」


 イグザムは下がるように手を振ると、入れ替わりに入ってくる衛兵に、

「イザベルをここに」

短く言う。


 どうしてこのような内々の事を外の者に相談をしないとならないのか。デカンタから琥珀色の液体をカップに注ぐ。


 しかし、その陰鬱な気分は、

「お呼びですか」

甘い声に吹き飛ばされた。


「おお、呼び立てして悪いな」

「いえ、公のお呼びでしたら喜んで」


 イザベルは真っ直ぐに部屋に入ると、当然のように傍らに置かれた椅子に腰を下ろす。


「実はな、ラミエルが再び現出したようだ」


 この女の驚く顔が見られる。身を乗り出すように言った。


「そのようですね」


 しかし、女は艶然と微笑んだだけだ。


「知っているのか」

「私の所にも先ほど重商連合から連絡がきましたわ」


 商いとは情報と言うが、重商連合ほどの大規模ギルドとなるとさすがに耳が早い。


「印綬の者たちとの闘争の跡があったというが、詳細は不明のようだ」


 探るようにイザベルに目を向けた。彼女は相変わらず口元に笑みを浮かべたままだ。

 重商連合の掴んだ情報を聞きたいが、それにはこちらも隠してはいられないようだ。


「余のアセットによると、騎士に護られた馬車が王都へと疾駆したとのことだ。印綬の者が傷ついたか、倒れたかしたのやも知れない」

「それはありません」


 即座にイザベルが首を振った。


「どういうことだ」

「印綬の者が殺されれば、聖碑の明かりは消えてしまいます。それに、深手を負ったとしても、王都に向けては走らないでしょう。印綬の者ほどのルクスがあれば、その場で治療をした方が早いですから」


  なるほど、確かにそうだ。聖碑の明かりが消えたという話も聞いてはいない。


「では、馬車は」

「おそらく、印綬の者以外に重要な者が、そこにいたのでしょう。そして、そのまま馬車で移動したとなれば、多分殺されたのかと」


 推察をするような言葉だが、その口調は確信を得ているものだ。

 彼らのアセットが、この国に深く入り込んでいることが窺える。


「しかし、それほどの重要人物となれば、王宮官吏の司長クラスか」


 言いながら、再びイザベルを見る。


「さあ、どうなのでしょう」


 彼女の口はそのまま閉じられた。しかし、あの様子では司長クラスの官吏ではないようだ。

 では、一体誰が。ラミエルは、誰を殺したのか。そして、イザベルは何を知っているのか。


「それよりも」


 イザベルの顔が上がった。


「することがあるのでは、ないでしょうか」

「すること」

「不戦の結界は、後二十二日しか持ちません。ここで出遅れれば、リルザ王国に顔向けも出来ないのでは」


 なるほど、兵はまだ領内の砦に分散してある。それを動かすにしても、すぐには出来ない。


「王都の挟撃とは別に、結界が消えると同時に占有地を広げ、リルザ王国との話を有利に進めては如何です」


 その言葉にイグザムは腕を組んだ。

 確かにこちらが勢力を広げれば、リルザ王国もそれに応じた対応を取らざるを得ない。

 しかし。タイミングが難しい。

 結界が消える前に兵を進めれば、近隣公領主から攻められる。領境に兵を集結させても、防備を固められ、容易には抜けない。


 考え込むイグザムに、

「簡単です」

蕩けるような笑みが向けられた。


「何のために、私たちがエルスの傭兵を揃えたのです。彼らを周辺領地に浸透させればいいのです。各地で暴れさせれば、その地の公領主も兵を割かねばなりません。また、襲われた民も難民となります。難民を吸収してこちらの傭兵にすればいいのでは」

「しかし、それでは余がそれを行っていると、すぐにばれる」

「すでにばれておりますわ。この状態で傭兵を集めているのです。すでに、王国に反旗を翻しているのは明白でしょう。それでも、王宮は手が出せません。王がいないのですから」


 その言葉を聞きながら、イグザムはカップを煽った。

 そうだ。今更引き返せるわけもない所まで進んでいるのだ。


「公よ、素早く徹底的には、商いも戦も同じではないでしょうか」

「そ、そうだな」

「それでは早速、外北守護領地を侵食させるべきですわね」


 頷き、デカンタの液体をカップに注ぐ。

 外北守護領地、重商連合が狙っている鉱山地帯を真っ先に襲わせる気だ。そして、それは余の安寧を約束する地でもある。


「分った。では、軍大司長を呼ぼう」


 言った言葉はすぐに止められた。


「それはおやめなさい。軍大司長に伝えれば、領民を護るための軍の増強という最後の建前も失いますよ。国を裏切るのです。正規兵が離反する可能性もあります」


 心を凍てつかせるような、冷たい声だ。


「では、どうしろと」

「私が指示します。委任状をお書きください」


 あっさりと言うと、再び艶やかな笑みを見せる。

 エルスの傭兵の指揮権を渡す委任状。エルスの傭兵だけでも一万を越える。余の軍の三分の一だ。その指揮権を取るというのか。しかし、それを拒絶する言葉が探せない。


「分った傭兵の委任状を――」


 しかし、言葉は再び遮られた。


「いえ、白紙の委任状です」


 表情を変えず、笑みを浮かべたままのその貌に、この女の恐ろしさの片鱗を垣間見た気がする。


「白紙だと」

「はい、白紙です。私たちは公に如何ほどの財を傾け、リルザ王国の仲介に如何ほどの労力を傾けたか、それは良くご存じでしょう」

「しかし、それとこれとは――」

「同じです。先ほども言った通り、動くときは素早く、徹底的に、です。今から結界の消えるまでの間、この国を徹底的に傾けます。その為には、傭兵ばかりではなく様々な力が必要になります。心配いりません、すべては公の為です」


 余の為、本当にそうなのか。すべては、重商連合の為ではないのか。

 それにしても、白紙の委任状は権限を渡し過ぎてしまう。

 連絡員風情が、少しばかり調子に乗っているのではないか。

 ならば、上の者と話をし、少しでも交渉の余地を残しておかねばなるまい。


「イザベル殿、そなたは連絡員のはず。それだけのことをこの場で決めてもよいのか。余が責任者と話をしよう」

「その心配には及びません」


 イザベルが身体を乗り出した。大きく開いた胸元から覗く白い肌が、目を眩ませる。

 その胸元に手を差し入れると、一枚の紙を取り出した。

 席を立ち、ゆっくりと机まで足を進めるとその紙を目の前に置く。


 重商連合の全権委任状。紙の一番上に書かれた文字に、イグザムは言葉を失った。

 この女は連絡員ではない。イザベルの言葉は重商連合の総意ということだ。

 愛人にしてもいいと思っていた妖艶なこの女は、指先一つで守護領地を消し去り、国を傾けることが出来る。


 余はとんでもない化け物を相手にしていた。


「大丈夫ですよ」


 真紅の唇が動き、イグザムの意識は何かに浸食されていくのを感じた。


「しかし……」


 言葉に出せたのはそこまでだ。絶望と諦めに意識が染められた。

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