第12話Lilac
「先輩、顔疲れてるっスよ」
「ん?ああ、最近あんまり寝れてなくてな」
「まだ睡眠薬なしじゃ眠れないんスか?」
「うん、飲んだら起きられねえし、飲まねえと寝れねえし、どうにも上手くいかねえな」
俺はそう言って小さく欠伸をした。今日もバイトで一日が終わった。こうやって毎回迎えに来てくれる凛華には感謝しかない。
「先輩、ちょっと寄り道して帰りませんか?」
「ん?ああいいよ」
彼女は車の進路を変えて、埠頭の見える公園へと走らせた。ガランとした無人の駐車場に車を停め、エンジンを切る。俺はシートベルトを外し、助手席のドアを開けて外に出た。凛華も同じように外に出てくる。
海が近い公園には潮の香りが立ち込めていて、穏やかな風が絶えず吹いている。
「清水、何飲む?」
「ボクはオレンジジュースがいいっス」
「あいよ」
俺は財布から小銭を取り出し、自分の分のコーヒーと彼女の分のオレンジジュースを買った。
「先輩ありがとうっス」
「いいよ、いつも迎えに来てもらってるしな」
なかなか風が止まないので上手く煙草に火がつかない。見かねた凛華が両手でライターを囲ってくれ、俺はようやく煙草に火をつけることが出来た。二人して地べたに直接座り、夜空を見上げる。
「先輩、ボクと初めて出会った日の事、覚えてるっス?」
「ああ、はっきり覚えてる。女の子なのにホールじゃなくてキッチン志望で、珍しいなって思ったのが第一印象だったな」
「あはは、ボクは人前に出るのが苦手だったんスよ」
「バイト初日なんて、こっちが何を話しかけても黙ったままだったもんな」
「人見知りしてたんスよ、先輩こそ一度も目を合わせてくれなかったじゃないスか」
「そりゃ、俺も人見知りだからな」
当時の事を思い出すと、懐かしさが込み上げてくる。出会ったばかりの頃は、まさかこんなに仲良くなれるなんて思わなかった。
「あの頃は毎日が地獄だったよな」
「ホントっスよ、バイト選びミスったなって思いましたもん」
「店は忙しいのにバイトが全然いなかったもんな」
「先輩なんて休みゼロでしたもんね」
あの頃は本当に毎日が地獄のような日々だった。店は市内の繁華街の中心にあり、毎日沢山の客が押し寄せる繁盛店だったのだが、俺が配属されるずっと前から、人手不足という問題を抱えていた。俺は配属されてから一日も休めなかったし、新しく入ってくるアルバイトはその殆どが一週間以内で辞めていった。
「よく辞めなかったよな、清水は」
「ボクも最初は辞めたかったんスけどね、言い出す勇気が無くてズルズル続けてるウチにだんだん楽しくなって行ったんスよ」
「清水は仕事覚えるの早かったもんな」
「えへへ、先輩にそう言って貰えると嬉しいっスね」
凛華は照れくさそうに笑う。トレードマークのカラフルなツインテールが風に揺れ、トリートメントの香りがふわりと香った。
「半年くらいたった頃から、お互い何も言わなくても相手の動きが分かるようになったよな」
「でスね、見なくても先輩がどの作業をしてるか分かるようになって、それからはホントに毎日がキツかったけど、それ以上に楽しかったっス」
「今まで色んなバイトと仕事してきたけどよ、俺も清水と回すキッチンが一番楽しかったよ」
「そう言って貰えるのが一番嬉しいっスよ」
それからはお互いに、一緒に働いていた頃の思い出を語り合い、懐かしい思い出の数々に二人して沢山笑った。俺が市内の店舗に配属されたのは一昨年の四月の事だった。慣れない環境、地元を離れての初めての一人暮らし、そして過酷な職場環境。配属されてから約半年が経った九月の半ば、あともう少しで心が折れそうな時に凛華が店にやってきた。そしてそれから去年の10月末までの約一年間、共に働き、少しずつ絆を深めて行った。
「先輩」
「ん?」
「ボクが先に辞めた事、少しは怨んでるっスか?」
「全く恨んでないよ。清水には今も昔も感謝しかないからな」
「先輩は変わらないっスね」
「清水は随分変わったけどな、主に見た目がな」
出会った頃の凛華はまだ高校生で、髪は黒くほぼスッピンで地味な見た目だった。それが今では金髪にカラフルなエクステを付け、メイクもバッチリで別人のようだ。
「ボクはずっと自分に自信がなくて、嫌いだったんスよ」
「そうなのか?」
「はい、小さい頃は虐められっ子で、友達なんて一人もいなくて。家に帰っても居場所なんてなくて、毎日が辛かったんスよ」
学校にも家にも居場所がない感覚はよく分かる。凛華がどんな風に生きてきたのか、俺はほんの一部しか知らない。だけど何故だか、共感出来る部分が多いような気がした。
「だからボクは決めたんスよ」
「決めたって?」
「自分でお金を貯めて、18になったら免許を取って、免許を取ったら車を買って高校を中退して。そして、家を出て全く違う場所で全く違う自分として生きていくって、そう決めたんでス」
「実際に全部実現してしまうんだもんな、やっぱ清水は凄いよ」
「えへへ、今日の先輩は沢山褒めてくれるっスね」
そう言って照れくさそうに笑う彼女の横顔には、一緒に働いていた頃の面影がまだ残っていた。
「今年の二月に清水から久しぶりに連絡が来た時、俺は本当に嬉しかったんだ」
「あの時先輩は色々一人で抱え込んで、限界だったんスもんね」
去年、凛華が免許を取るためにバイトを辞めてから俺は仕事への情熱がだんだんと薄れていった。そして、そこに追い打ちをかけるかのように、両親を立て続けに癌で亡くした。そして年が明け、一番忙しい正月を何とか乗り切った時点で、俺の心は完全に折れてしまった。仕事に行こうとすると吐き気や目眩に襲われるようになり、無断欠勤を繰り返すようになった。そのうち家から一歩も出られなくなり、このままじゃ本当にダメになると思って駆け込んだ心療内科で、俺は鬱病の診断を受けた。そして一月の半ばから休職を始め、部屋の電気すら付けず毎日をただベッドに横たわって過ごしていた。そんな時、唯一連絡をくれたのが凛華だった。
「先輩、今何してるんスか?」
俺は何も答えられず、電話を繋いだまま黙り込んでいた。そして一時間後、凛華が白いプレリュードに乗って俺を迎えにきてくれたんだ。
「あの日、もし清水が迎えに来てくれなかったら俺は今頃この世に居なかったかもしれない」
「じゃあボクは先輩の命の恩人って訳っスね」
「ああ、本当にそうだよ」
「ボクにとっても先輩は、命の恩人なんスよ」
彼女はそう言うとこちらに顔を向けてニッコリと微笑んだ。
「ボクが変われたのは先輩のお陰っス。何をしても上手くいかなくて、全く自信がなかったボクに、仕事の楽しさとか、やりがい、そして生きる強さを教えてくれたのが先輩なんでス」
「こんな俺でも清水の力になれたと思うと、俺もなんだか嬉しいよ」
「だからね、先輩」
「ん?」
「ボクはこの先何があっても、どんなに先輩が落ち込んだり、ピンチに陥ったとしても、ずっと先輩のそばに居ますから」
「ありがとう、俺も何があっても清水の味方でいるよ」
「えへへ、もうこんな時間ですね。先輩は明日もバイトだし、そろそろ帰るっス」
「おう、今日はありがとな」
「こちらこそ、ありがとうっス」
そうして俺らは車に乗り込むと、俺のアパートへと帰った。別れ際、清水は少し照れくさそうに、ぎこちなく俺の手に自分の手を重ねた。
「ボクと先輩はずっと一緒っスよ」
「ああ、これからもずっと一緒だ」
「それじゃ、また明日っス」
「おう、また明日な」
去っていく凛華のプレリュードが角を曲がって見えなくなるまで見送った俺は、自宅アパートへ徒歩を進める。その後しばらく凛華と連絡が取れなくなることを、この時の俺はまだ知らなかった。
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