第8話 緊急は枕詞なのか

「目が見える様になって、僕の名前は読みにくいなぁって思ったのです」


「と、言いますと?」


「絆 悠絆斗と苗字と名前の間にスペースを入れないと、どこまでが苗字か名前かわかりにくいと思いませんか」


「確かに、言われてみるとそうですね」


「ですので、キズナ ユキトと全てカタカナ表記にしたのです。これならわかり易い…」



「立派な若者ねぇ」


 台所から母の溜息混じりの声が聞こえた。


「全くだ。それに比べて我が家の長男ときたら…」


 朝。テーブルの向かいに座る、父である烈堂の刺すような視線が俺に降り注ぐ。

 家庭における最低のひととき、それは他所の人間と自分を比べられる時だ。

 それが1日の始まりとなると尚更である。そうでなくとも1日の始まりは常に鬱だ。

 始まりというものは常に鬱。


 時刻は今、午前8時。

 全てのテレビ局がCMさえも挟まずに生中継を流している。

 この生中継でどこぞの記者に取材されているのは、俺の大学の同級生であり、アイドル的存在でありながらも社会福祉活動家とやらをやっている絆 悠絆斗という野郎だ。

 こいつは見た目から声まで爽やかなイケメン。

 ではあるのだが、古臭いのだ。

 髪型は80年代の男性アイドル風、額には派手な柄のヘアバンド、細かい光り物の装飾の入った袖無しデニムのジャケットを素肌に着て、下は同様のデニムのホットパンツ。

 しかも靴ではなくローラースケートを履いているのだ。

 その80年代アイドルみたいな絆 悠絆斗が緊急重大発表をする為、緊急会見をやるってことで、全てのテレビ局がこのニュース一色となっているのだ。

 父が手にしている朝刊の一面も絆悠絆斗、緊急重大発表の文字が踊っている。

 で、その緊急重大発表の緊急会見で、絆の奴が何を緊急で発表したのかというと、名前をカタカナ表記に変えるという話であった。

 あぁ、一々“緊急”を付けだかる奴の発表はほとんど、糞どうでもいいことばかりだ。


 これはこのキズナ ユキトの件に関しても、御多分に洩れずってやつだ。

 そうだ、キズナの奴は緊急渡米し、ロスアンゼルスの天才眼科医の緊急手術を受け、視力を取り戻したとやらで緊急帰国して、緊急重大発表、緊急会見という流れなのである。

 緊急ばかりでうんざりだ。

 緊急ってのは枕詞なのか。


 そもそもこの視力を取り戻したって話も眉唾物だ。

 キズナとは何度か大学内で遭遇しているのだが、本当は目が見えてると思われる節がある。

 と言うのは、キズナは露骨なぐらいに女の胸元へ視線を送っているのだ。キズナに見られている、と感じている女もいるぐらいだからな。



「困っている人たちのこうしたい、これが出来たら、といった“夢”を聞き、私は夢を夢で終わらせてはならない!皆で知恵を出し合えば正夢に出来るはずだ!と考えました。

 夢は夜寝て見るものなら、明けない夜はないのです。それなら夢は必ず叶う!その思いからあかつきの会という団体を立ち上げるのに至ったのです」


 あかつき?暁じゃなく、垢付きか、垢すりだろうよ。

 しかも言うに事欠いてわざわざ、夢を言い出すとはな。

 夜見る夢なぞ、ほとんど悪夢。

 その悪夢を正夢にしたいとは、ただでさえ悪夢みてえな現実をより最悪なものにでもしたいのか。

 だとしたらキズナ ユキトは悪魔だ。


「何故、大根を食わない」


 俺の心に父である烈堂の一言が割り込む。


「え?」


「味噌汁の具だ。何故、大根を食わないのかと聞いているのだ」


 父、烈堂は俺の心を滅多刺しにするような鋭い視線を俺へと浴びせ、その声のトーン、音量は抑えられたものではあるが、その声質はデスメタルやグラインドコアと呼ばれる音楽で使われている発声、歌唱法の下水道ボイスに酷似した低音酒焼けボイスであり、その声は俺の心へ容赦なく恐怖を植え付ける。


「え?でも」


「言い訳をするな。大根を食え」


 僕は大根を食べられない。

 僕は野菜なら芋しか食べられない。


「何故、大根を食べないのか。お前はそんなことも出来ないのか」


 一気に目頭が熱くなり、涙が溢れてくる。


「食べられないよ」


 俺は持てる勇気を振り絞り言い返した。


「食え!食うのだ!」


 烈堂の放つ圧に耐え切れず、僕は流れる涙をそのままに、食卓から逃げ出した。

 今日は何があっても大根は食べられない。

 例え烈堂が僕を抑えつけ、無理矢理に大根を食べさせようとしても無理だ。絶対に無理だ。

 何故なら、味噌汁の具どころか食卓に大根が無いのだ。

 大根を使った料理が無いのだから、大根を食べられるワケがないのだ。



 俺は近くの公園のブランコに揺られていた。

 子供の頃から家で事あるごとに、この公園に来てこうしているのだ。

 俺の顔は余程酷いことになっているのだろうか。

 通りすがる人々は俺を見て、早足で通り過ぎて行く。


 俺は空を仰ぎ見る。

 何度こうして空を仰ぎ見たことか。

 灰色の曇り空、どこまでも憂鬱な重く冷たい空気が俺を突き刺してきそうだ。


 それにしても二十歳過ぎの息子に向かって[大根を食え]は無い。

 それは小学生ぐらいの子供に言うことだろうし、そもそも食卓にないものをどうしたら食べられるのか。

 何故こんなことも出来ない、何故こんなこともわからない、何故こんな物も食えない。

 父の口からは何故、何故、何故。

 何故ばかりだ。

 何故出来ないのか、何故わからないのか、俺にはそれがわからない。

 父にしてみたら、俺のような人間が余程珍しい生き物なのであろう。


 虚しい…

 何故、俺はこの年になっても家から逃げ出し、公園のブランコに揺られているのか。


 頬に冷たい一雫。

 雨なのか?


 いや違う、俺の涙だ。

 俺はまた涙を流していた。


 そうさ、これが俺の日常ってやつだ。


 そんな中、ズボンのポケットに入っている携帯電話が断続的に振動する。

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