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「今日、ここに来た時間からそう考えたまでです。今日ここに来た時間は張り込むにしては遅すぎました。張り込むのなら最低でも一時間は前にするべきだと思いますよ。それに熟睡がたたって朝食も摂っていないんでしょうが、空腹を訴えてはいませんし、うちの朝食メニューも頼みませんでした。ですが、少なくともこの無糖のコーヒーを甘く感じるくらいには空腹のようですので、恐らく心身の失調から感覚が麻痺しているのだと判断しました。直前の熟睡とそれらを結びつけるものは不眠です。違いますか?」

 そういわれて秋人は目を見張る。というのも海堂の発言通りだった。熟睡したことはもういったであろうが、熟睡しすぎて目覚ましをいつも通り七時にセットしていたにも関わらず起床した時には十一時の長針がすでに半分に近くなっていた。当然、朝食は抜いているが、空腹を抱いてはおらず、朝食は頼まなかった。

「すごいね」秋人は驚嘆していった。海堂は「見ればわかることです」と顔色を変えずにいうと「では明日は遅れないようにお願いします」と釘を刺す。

 秋人は驚いた面持ちのまま頷いて帆布の手提げ袋を持つと、ここで何かに気がついたように海堂に「そうだ」と告げる。

「実家に帰ってイモート・ワークのことを両親にも聞いてみるよ。妹の部屋もよく調べてみる。何か見つかるかもしれない」

 良い提案だと思ったが、しかし海堂からはこんな返事が返ってくる。

「まだ詳細も判っていない情報を他人に喋らない方がいいと思いますよ。特に子を失った悲しみの残るご家庭に、妹は性的なサービスゆえに死んだかもしれないなんていうべきではないと思います」

 確かにその通りかもしれない。だが、秋人はそれには承服も抗議もせず、レジで会計をして(追加のコーヒー代はなかった)店を後にするや、すぐさま自宅には戻らず目の前の地下鉄の駅に入って実家のマンションに向かった。


***********************


 実家は自宅と割と近く、三つ駅を越えればすぐに着く。いつもは実家に帰る日は予め連絡を入れるのだが、今回はそれがなく、秋人は律儀にマンションの玄関ロビーでカメラ付きインターホンで632号室の番号を呼び出す。すると母が、彼女は急に来た息子をすんなり受け入れてくれた。ロビーから部屋までの道中は一人で、途中、自分を見ている視線が複数あることに気がついたが全て無視した。このマンションの住民にとって秋人は自殺した号室の親族であり、また地域の評判を共にする住民たちにとってこの自殺は決して良い評価に繋がる出来事じゃない。その視線はそこまで痛くないものの針みたいに切っ先が尖って、秋人をチクチク刺した。

 部屋に入ると母の夏子が出迎えてくれる。抱擁を交わした後、母はどうして実家に来たのかを尋ねるので寂しくなったから、と答えるとまたハグがあって、夕飯はいるかと聞かれ、いると答えておいた。時刻はもう夕方になっている。海堂と別れた時はまだ午後一時を過ぎた頃合いで、実家へ向かう駅へ行く間に、市街の中心部を抜けるのだが、一旦そこで降りて、朝食兼昼食を、実家で吐かないか心配だったので摂ってきた。適当な店でつけ麺を食し、数時間体調に異変が無いかを本屋等で時間を潰して確認する。どうしてそうまでして体調を気にしたかというと母に具合が悪いことを知られると色々と面倒だからだ。心配性で少し過保護なところがあって、そこがいつも冬子と衝突していた。だから吐き気がするなんていったら実家に泊まれ、もしくは実家に戻って来いといってくるに違いない。そして、きっと次の日は一日中家から出れなくなる。

 父はまだ帰ってきておらず、家には母しかいなかった。母は急遽、三人分の夕食を作ることになるが、二つの冷凍ハンバーグからカレーへと即座に献立を変え、もう調理に取り掛かっていた。楽にしていてね。そういわれて秋人はその隙に、思い立ったように冬子の部屋へ向かった。

 あの日からこの部屋は母がちゃんと掃除をしているらしい。部屋は警察に家探しされたままのように散らかっていることもなく、恐らく冬子が生きていた時以上に整理整頓されている——冬子は母を一度も掃除で部屋に入れることはなかった。


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