238 フィン・シャンドレン
知っている顔だった。
とてもよく知っている、超絶の美貌だった。
すぐ目の前で、くちづけをされる寸前にまで到った相手だった。
何度も何度も夢に見てしまった、そのたびに異様に体が熱くなって目が覚めた、妖しくも麗しい、危険すぎる存在だった。
カルナリアの知る限り最高に最悪な危険人物が、フィンの服をまとって、そこにいる。
理解能力が飽和し、頭が真っ白になる。
宵闇の色の髪。
目はスッと切れ上がって、鼻筋は通り、たっぷり濡れている唇は色鮮やか。
装飾品や化粧のたぐいは皆無だが、この美麗すぎる
髪から額、鼻筋、唇、あご、肌、耳に到るまで、顔のつくりの全てが妖しい光彩を帯びているようだ。
陽光の中にいるのだが、それとは別な、内側からの輝き。
昼なのに、夜。夜が輝く。宵闇の化身。
「………………!」
もう声にならない悲鳴ばかりを発し続けていたカルナリアは、肺が完全に空っぽになって、ものすごい音を立てて息を吸う。
「どうした」
超危険人物にして超絶の美貌の
くちづけされたら悦楽と共に何もかも吸い尽くされてしまうだろう、魅惑的すぎる唇が、これまで自分を守り、慰め、支えてくれたのと同じ声を流し出した。
「! ……! ………………!」
カルナリアは意味のある音声を発することができないままに、くわっと目をひんむくばかり。
こちらを見てくる、夜の姫の――宵闇そのものの、瞳。
あの吸いこまれる心地……は、襲ってこない。
そこにあったのは、色の濃い、深い瞳というだけだった。
それでようやくカルナリアは、ほんのわずかだが自分を取り戻すことができた。
「かっ…………顔っ! お顔っ!」
「ああ」
フィンは、剣を持っていない方の手で、つるりと自分の顔を撫でてみせる。
麗しい手が、それ以上に麗しい顔の上を動き、髪を流す仕草には、
「まあ、こういう顔だ。うかつに見せると、色々めんどくさいことになる。だから隠していた。わかったか」
危険すぎる美しさの顔が、フィンの声と口調で言った。
「…………!」
カルナリアは口をぱくぱくさせる。
「話は、依頼をすませてからにしよう。
それまで、まかせたぞ」
宵闇そのものの美女は、カルナリアではない方に目を向けた。
「はい……」
緑色の星がそこにあり、弱々しく答えた。
レンカがいた。
地べたに転がっていた。
両手、片脚がめちゃくちゃに折れ曲がった無残な姿で。
打ち落とされた激突地点からここまで、唯一残された片脚だけでたどりついていたのだった。
それでいてなお、カルナリアを守れと言われ、守りますと返事した。
カルナリアは打ちすえられた。
これほどに献身することがひとにはできるのだ。
だが自分も今までとは違う。守られているだけではない。
この悲惨な、限界を迎えているだろう相手を救う方法が……今の自分には、ある!
「治してやれ」
フィンは――多分フィン・シャンドレンである夜の化身は、言ってから、カルナリアに背を向けた。
その後ろ姿――長くしっかりした美しい脚、素晴らしいお尻から細くくびれた腰、なめらかな背中という最高のプロポーションは、間違いなく、あの時にあの部屋に現れた人物と同じ。
それによって、ついに、カルナリアの中で夜の姫とフィンが重なった。
このひとの、ぼろ布の中身が、あれ。
美しすぎる、危険すぎる、『夜の姫』。
これまでずっと、密着し、持ち上げられ、運ばれ、守られ、時にはしがみつき、あるいは共に寝て、一緒に空も飛んだ相手の、あの布の中に、あの超絶の美貌があったのだ。
しかしどうして、あの時、あの部屋に!?
「腕から……頼む……」
レンカの微弱な声にハッとした。
考えるのは後だ。
魔力は、少し回復している。
それを動かす。
先ほどのように広範囲にぶちまけるような真似はできない。やってしまえばたちまち魔力切れで自分は倒れ、レンカはこのひどい状態のまま、すぐに死ぬ。
わずかな魔力を、的確に使い、傷だけを治す。あの時ファラがモンリークの体の中身を、ひとつひとつ治していったのと同じように。
カルナリアは、両方とも折れているレンカの腕の、まだましな左腕の骨折部分に手の平を近づけた。
人間の骨は、見たことがある。
見てしまったことがある。
血吸蟻に食われ、石人に踏みつぶされた後の白いもの。
折れたところも知っている。
レンカの手足も、それらと同じようになっていることを想像し、体の中にある白い骨が元に戻るところをイメージしつつ、魔力を注いだ。
「ん…………」
土気色だったレンカの顔色が、少しだけ血色を取り戻した。
レンカ自身で、前にも見た、痛みを止めるという魔法具を作動させる。
「折れたとこ……戻してから……治せ……」
カルナリアの方がよほど顔を歪める行為をさせられてから、あらためて魔力を注ぐ。
すぐにレンカの指が動くようになってきた。
魔力は枯渇していない。
まだ治せる。
「そこは、もういい……反対側も、同じように――二ヶ所折れてるから、どっちも、無理矢理でいい、元に戻してから治してくれ……」
レンカ自身の左手も使って、折れてはいけない方向に折れ曲がっている右腕の治療に取りかかった。
――その間に。
宵闇の化身、黒髪の美剣士、フィン・シャンドレンは。
剣を抜いていた。
それもまた、漆黒だった。
反りのある、長い、金属光沢を備えた、黒い刃。
きわめて美しい、鋭利な曲線。
レンカを治しつつ、カルナリアはそれを視界に入れる。
凝視する。
あれが、フィンの剣。
背負われて初めて存在を知り、エラルモ河のほとりで目の当たりにして、触るなと念押しされていた、オーバンの屋敷でも抜くことはしなかった、鞘の中にひそんでいたもの。
粗布をびっしり巻きつけてある、肩にかけるための紐がついた
冷え冷えとした――いや、もっと凄まじい、鬼気がほとばしる。
絶世の美女が凄絶なものを宿した姿は、この世のものではあり得なかった。
「お前ごときに、あの子を食わせはしない。
ゆくぞ、グンダルフォルム、グライルの王」
宣告と共に――巨蛇もまた、突然現れた危険な存在に気づいた。
逃げるふたつの豆粒を、追いかけ、もてあそび、抵抗させて死力をしぼり出させた上でまとめて捕らえ、絶望したそれらをいよいよ味わおうとした、まさにその瞬間だった。
目の上の触手が動いた。
鞭として振るわれた。
高速で飛来したそれが――切断された。
黒剣を振るったところは、カルナリアには見えなかった。
構えたそれが、わずかにぶれたとしかわからなかった。
しかし、多くの人間を打ちすえ、捕らえ、口へ運んでいったものが、あっさりと切断され、地に落ちる。
続いて腕が来た。
騎士ディオンの時と同じように、鋭い三本の指が、三人の槍つかいが同時に襲いかかってきたのと同じように突き出されてくる。
今度は遊びの要素はない。
フィンが動いた。
それはカルナリアにもはっきり見えた。
握った剣を腰に。
身を低く。
オーバンの館で――グライルに入った直後に――死の魔法をぶちかましたファラに……これまで幾度か見せたあの姿勢。
そこから、襲い来る槍の方へ、自分から踏みこんで。
「ハッ!」
鋭い気合い。
そして閃光。
動いたと思った次の瞬間には、斜め前に。
突きこまれた三本の指は何もないところを貫き。
黒い刃が、振り抜かれた状態で、フィンの腕の延長上に伸びていた。
水平にたなびいたフィンの髪が、ゆっくり降りてゆき。
グンダルフォルムの槍のような指が、一本、二本、三本と、連続して落ちていった。
続いてその腕自体が半ばから切断されて、重量音を鳴らした。
巨蛇の血は、鮮やかな、青色だった。
「!!」
カルナリアは呆然となった。
信じられない。
レイマール兵たち、あの屈強な戦士たちが総がかりでもわずかな傷をつけるのが精一杯だったというのに!
「あれだ…………あれが、フィン様だ……剣聖、フィン・シャンドレン…………あの時も……オレたちは、みんな、あれを、見た……」
レンカが、怪我の痛みも忘れて、恍惚として言った。
「あの黒い剣で…………あんな風に……ギリアも……きれいに、斬られて……」
「!?」
ギリア。
タランドン城で自分を鞭打った相手。
フィンと同行した、ラーバイの用心棒たちが討ったのではなかったのか!?
グンダルフォルムが、フィンに向いた。
最強の魔獣が本気になった。
切られた腕からあふれ出ていた青い血が、止まった。
「死霊になったギリアも――あの剣の、ただ一撃で、まっぷたつに…………本当に、すごかった……」
カルナリアは、タランドンの街を散策した際に耳にした、語り部の話を思い出した。
残忍非道なる鞭つかいの女は、剣聖さまの一撃で。
女は逆恨みから恐るべき死霊と化したが、剣聖さまは、それもまた真っ二つにしてタランドンを救った。
(あれは、すべて、本当のこと!?)
フィンの背後にいるカルナリアにも、グンダルフォルムの正面顔が見えている。
怒りを感じる目。
災厄の魔獣の怒り。
「ヒッ!」
レンカにしてもそれはまったく変わらず、二人して
しかし、フィンは一切固まることなく――剣を、下から真上へ振るった。
彫像のカルナリアは、その動き終えた見事な肢体を目に焼きつけた。
死の世界の中での、唯一の、生。
美しいもの。
距離は離れており、刃が届くはずもない……。
なのに――巨蛇の顔面の、ほぼ中央に縦の線がはしり……ずれた。
そうだ、あの「若魚」たち四人が、盛り上がって演技する中で言っていた……「我が剣は、神の力ですべてを切り裂く。いかなる盾も、鎧も兜も、どれほど離れていようとも、我が斬撃を防ぐことはできぬ」と。
剣を一閃させると、遠くにあった旗がスパッと切られたと。
フィンは仕込みだと言っていたが、あれもまた、本当のことだったのだ!
そう――レンカの言う、死霊がまっぷたつにされたのとまったく同じように。
下から上へ、垂直に剣を振るった、その線上にあるあらゆるものが切断され……つまり、グンダルフォルムといえども……!
巨蛇の顔面にはしった垂直の線から、青いものが噴き出た。
まっぷたつにされたのだった。
「!!!」
まさか、まさか、まさか!
倒した!
斬った!
グンダルフォルムを、災厄の魔獣を、終焉の巨蛇を!
「やりましたか!?」
「……いや」
垂直に刻まれた線が、内側から治癒魔法の光を発し、次の瞬間には青いものの噴出は止まっていた。
地面にぼたぼた青い雨が降るが、巨蛇はまだ変わらず動いている。
「だめか…………あのひとでも…………あの剣でも…………ああ」
レンカが絶望の声を漏らした。
カルナリアも、ぬか喜びから覚め、凍りつく。
グンダルフォルムが、今度こそ、激怒を示した。
咆哮を放つことこそしないものの、灼熱の息を吹き、鼻から炎を噴き上げ、復活した触手は宙に伸びて空中に雷光を走らせる。
鱗や体毛にこれまでと違う魔力がはしり、危険な色合いに変わってゆく。
「ルナ!」
フィンが突然叫んだ。
「はいっ!?」
「私が許す! レンカと――」
言葉を突然切って。
「お前たちも!」
緑の星が転がりこんできた。
グレン。
その左右の腕に抱えられた、ぐったりしたセルイとファラ。かろうじて意識はあるようだ。
「魔法薬を、まだ残しておいたのでな」
あの尾に打ち落とされた自分の怪我をそれで治したということだろう。
その上で、グンダルフォルムの注意がそれた隙に、喰われる寸前だった二人を救い、かかえて、こちらに来た。
――全身に群がった兵士たちや飛び散ったレイマールたちが残らず片づけられたように、グンダルフォルムは複数の「目」にあたる感覚器官を持っており、巨体の隅々まで把握した上で複数の行動を同時に行うことができる。
ならば、逃げようとするのは悪手。
必ず捕捉され、今度は遊ぶことなく一撃で殺される。
ここでの生存の道は――フィンの背後で、みなで固まること。
全員まとめて剣聖に守ってもらうこと。
そう判断しての合流だった。
それが正解であることは、振り向いたフィンがわずかにうなずいたことで明らかだった。
グレンはレンカを痛ましげに見た。
それぞれ強力な魔法薬を持たされていたのだろうが――血吸蟻の時、レンカは自分で自分の腕を切断した、あそこで使ってしまったのではないか。
それを察知した上での、慈悲の目つきだった。
「ルナ。ファラ」
あらためてフィンに呼ばれて、体がピンとなる。
「魔法を使えるお前たちは、引っ張られる。そうならないために――命ある者とつながっておけ」
「何……するんすか……?」
ファラが弱々しく言い、セルイを見てから、なぜか赤くなりつつ、問うた。
「本気を出す」
フィンはいつの間にか鞘を拾い上げていて、黒い刃を一度そこに納めていた。
その鞘にぐるぐると巻きつけてある、粗布。
指で、その
「やっ! やばっ! あれやばい!」
「ルナ。私が許す。レンカと、口づけしていろ。ファラは好きな男とやっておけ」
「はああぁぁぁぁ!?」
反射的に、カルナリアは叫んでしまっていた。
それに、答えてもらえた。
「許すと言っただろう。
…………それに、初めては、もうすませてあるからな」
『夜の姫』の唇が、魅惑そのものの微笑を形作った。
あの唇に吸いつかれたら自分は終わると確信した、『夜の瞳』ともどもの妖しい経験がよみがえってしまう。
初めてと言われて、『
カルナリアは全身燃えあがり、ぼろ布の中の裸の体、そのあちこちにおかしな痺れと異様な熱波をおぼえた。
「早くしろ」
美麗な指が、粗布を、一巻きだけ鞘からはがした。
次の瞬間――これまで幾度か経験してきた、死の気配、恐怖の感覚が強烈に押し寄せてくる!
「ごめんなさいいただきますっ!」
ファラが早口で言い、セルイの体にのしかかると、その唇に吸いついていった。
目を白黒させたカルナリアだったが、フィンいやあの剣から放たれる感覚に、やらなければならないと本能で危機を察して。
「レンカすみません一緒に治しますから!」
「ちょ! お前! 待――むぐっ!」
抗おうとするが、まだ骨折の治療途中で逃れられないレンカに、しがみついていって、可愛らしい顔に顔を押しつけ、唇を重ねた。
「よし。やるぞ」
フィンの指が布を引っ張り、鞘に巻かれていた粗布が一気にほどけた。
【後書き】
フィン・シャンドレンが、ついに素顔をさらし、ついに実力を見せた。恐るべき剣、恐るべき能力……と思ったら、まだ底ではなかった!
死神の剣。その本当の力が、最強の魔獣相手に放たれる。
次回、第239話「ザグレス」。
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