173 第五日、巨獣の朝



 ――絶対に二度と会ってはならない危険人物に捕まり、夜の瞳に吸いこまれ飲みこまれ包みこまれて溶かされて、別な自分に作り変えられてゆく妖しい夢の中で、目覚めた。


「……!?」


 反射的に喉に手をやり、体を確認する。


 暗い。

 全裸。大きな布にくるまれた状態。前もこんなことがあった。


 首輪なし。

 ……すぐ横に、隠蔽いんぺいの布がしっかり巻かれたまま、置いてあった。手にして、魔力も感じて安堵する。とにかくそれを首につけた。


 顔の腫れがほとんど引いている。体は、ほかほかして、痛みはなく、軽い。

 起き上がったらすぐ宙返りでも何でもできそうだ。『流星』があれば空だって飛べる。


「…………起きたっすか……」


 闇の向こうから、ファラの声がした。


 いつぞやの、はたらかされ尽くして限界まで消耗しきったフィンを思い出す、地の底から響いてくるような声音だった。


 わずかな赤い光。発熱サイコロのそれ。


 照明の魔法具が灯された。


 フィンの持つあれではなく、ファラの杖の先が光を放っていた。


「…………ど、どうしたのですか!?」


 光の向こうに、ひどい顔があった。


 メガネの下の目はものすごく充血し、目の下には色濃いくまができ、鼻血やら何やら色々と垂らして固まったものがこびりついていて。


「お、鬼め………………鬼上司とは違う意味での鬼っす、あんたのご主人様……」


「?」


「あんたをほぐしきって、眠らせた後で、今度はレンカちゃんを……もう、もう、見せつけて、散々、すごいとこ、すごい声、すごい格好……それなのに、お前は拒んだのだからって、見るしか許さないで…………終わった後には、手を出すなよって釘さして……!」


 ファラの視線で気づいた。自分の隣にレンカが横たわっている。


 同じように、多分全裸にされているのだろう小柄な体を、布でくるまれて。

 横に、双剣はじめ様々な装備がきちんと並べて置かれていて。


 レンカは、あのあどけない、可愛らしい顔で、むにゃむにゃと幸せそうに……それは間違いなく、徹底的にほぐされきった後の状態で。


「え、ええと…………ご主人さまは……?」


 カルナリアは、胸が高鳴ったのを誤魔化して訊ねた。


「ずっとあんたを包みこんで、抱きかかえて横になってたけど、夜明け前に咲くある花からしか作れない貴重な薬があるからって、採集に出ていったっす」


「ずっと……!」


 その途中で目覚めることができなかったのが、残念すぎる。


「あのひと、本当に、ぐうたら者なんすか? なんかもう、ずっと、動きまくり、働きまくり、すごいことしまくりなんですけどー」


 言われると、すぐに口が回りだした。


「楽をするために、色々するんです……ここで薬の材料を手に入れておけば、この後で楽ができる。私やレンカを治しておけば、面倒みなくてすむ。みなさんを助けて先へ進ませれば、自分で食べ物とかこの天幕とか、色々運ばなくてすむ……」


「前にカルちゃんから聞いた時は、もっと図々しくて、きついとこは他人にやらせて何もしないでおいしいとこだけ自分が持ってく、一番たちの悪い貴族みたいなの、想像してたんすけどねえ」


「そうやってみんなにあきれられ嫌われるのはただの愚か者です。本物のぐうたら者は、十日間のはたらきで、三年何もしないでいられる報酬を手に入れて、悪く思われることなくつまり邪魔されることなく、のんびり過ごすんです」


 フィンの行動原理、すべてを理解している確信と快感のままにカルナリアは言った。


「そいつは理想だけど、ねえ……」


「最初は私も理解できませんでした。三日かかる道のりも、一日で走破してしまえば、丸々二日も休めるではないか、って嬉しそうに言うのを聞いて、あたま大丈夫でしょうかこの人は、って」


「むちゃくちゃだ」


「ですね。実際は、一日で走破したのに、あとの二日も色々やらされることになってますから」


 カルナリアは笑った。


 昨日はあれこれ思い悩んだことも、きれいさっぱり、すっきりしていた。これも心身をほぐしてもらった結果だろう。


「……まったくもう、ほんと、鬼だわ…………それ王の冠がすぐそこに無防備に置いてあるのに、手ぇ出せないし……こっちがこんなことになってんのに、そんな、サイッコーの顔しやがって……くっそう、きらきら輝く美少女と同じ空間にいるのにいたずらできないのはつらすぎるっ!」


「揉んでもらったらいかがですか?」


「ダメっすよ。あれは、ヤバい。あの手は人間のものじゃないっす。あれにいじられたら、私、戻れなくなる。私相手なら手加減もしない。絶対に、


 ころころ雰囲気の変わるこの女性が、初めて見せる、子供のような顔――本気の恐怖と拒絶の表情。


 フィンの手が人間のものではない美しさ、というところだけは同意できた。

 あれに触れられ、揉まれる気持ちよさは、この世のものとは思えない。


 同じような感触をもたらしてきた危険人物がもう一人いたが、あの時は動転しすぎていたから、肝心の手の形や美しさがよく思い出せないのは幸いだ。フィンの麗しい手を他の者と比べるなど、してはならない。


「……まだ時間あると思いますし、お休みになったらいかがです?」


「レンカちゃん起きたら、ちょっとだけね……一応、ここの守りもやってるから……」


「そのお役には立てなくてすみません」


「今のあんたなら、忍びこもうとする男をぶっ刺すぐらいはできそうだけどね……って? え? ちょ…………っ!」


 ファラの顔色が変わった。


「服着て! レンカ起こして!」


 鋭く言われた次の瞬間、ズンと、地響きがした。


(石人!?)


 全身が凍りついた。

 

「襲われる感じはしない! でも備えて! 騒がないで! 急いで!」


 ファラは何らかの魔法を自分にかけると、俊敏に天幕の外へ出ていった。


 カルナリアもすぐ気持ちを切りかえ、レンカを揺さぶってから、脇に畳んで置いてあった衣服を猛烈な勢いで身につけてゆく。

 ここはグライル。どれほど甘い気持ちに浸っていようとも、油断すれば一瞬で命を失う場所なのだ。


 レンカもまた、即座に飛び起き、衣服や装備を猛然と身につけ始めた。


 それでも、どちらも裸だったところからなので、それなりに時間がかかってしまい。


 その間も、ズン、ズンという地響きは繰り返され、天幕の外も騒然としてきていた。


「また、石人でしょうか!?」


「いや、これは、違う……近づいてこないし、間隔も……二足歩行じゃない、四つ脚の、大きな獣だ……」


 地面に耳をつけたレンカは、少し聞いて、そう判断した。


 荷物も背負って、レンカと素早くお互いを見て確認し合ってから、まずレンカが外の様子をうかがい、手で大丈夫と知らせて、出ていった。


 カルナリアも身を縮めて続いた。






 外は、東側の空がわずかに白んだ、払暁ふつぎょうだった。

 標高が高いせいか、今までよりずっと肌寒い。


 まだ夜の暗がりが残っている空間に、小さな火がふたつ。

 その周辺を急いで動く人影がいくつも。


 いななく亜馬たちをなだめる声が聞こえた。


「静かに! 動くな! 絶対に刺激するな!」


 ひそめられた案内人の指示が飛ぶ。


 地響きの続く中、野営地の入り口を案内人たちが固め、それぞれの武器を構えていた。


 セルイたちも見える。

 ファラは、恐らくゾルカンの所に行って指示を仰いでいる。


 ゴーチェが、棒を握りしめ、ものすごい決意の顔でカルナリアをかばう位置に立った。


 出入り口の向こうに……。


 薄暗がりの中を、ぬっ、と動く巨大なものがあった。


 まだ遠く、暗くて、全体の姿はよくわからない。


 しかし人体の倍以上――あの角豚ゴルトンよりもさらに巨大な四足獣だということは間違いない。


鎚矛犀ダリテウム、だよ……」


「!」


 間延びした声が後ろからかけられ、びくっとした。


 レンカが飛びすさって身構える。

 ゴーチェは悲鳴をあげかけ、すんでのところでこらえた。


「トニアさん!?」


 カルナリアも冷たいものをおぼえる。

 昨日までなら、この時間帯にしか姿を現さない謎の美女、だったが……昨日の朝、この口調この調子で、襲ってきた男を四人か五人、殺している……。


 しかし今はさすがにそれどころではなく。


「魔獣、ですか?」


「そう、だけど……割と、安全……食べるのは、草や、葉っぱ…………体、おっきくて、硬くて……鼻が、丸く、太く、突き出してて……それで、木を叩いて、へし折って、枝の先の、柔らかい葉っぱを食べるの……そういうのの、群れ……」


「じゃあ、こっちへは?」


「静かにしていれば、来ない……来たら、止められないし、暴れられたら、みんな、踏みつぶされるけど……じっとしていれば……通りすぎる………………」


(騒ぎさえ……)

 カルナリアはつい、モンリークたちが休んでいるだろう天幕の方を見やった。


 幸い、そこから大声が放たれることはなく。


 みなが息をひそめる中、地響きが続き、大きなものが何度も薄闇の向こうを動いていって……一度だけ、近い所に来て、丸く太い、重たそうな――鼻先だというそれらしいものが、防御線のすぐそばを通過したが。


 武器を構える人間たちは、叫ぶことなく、過剰反応することなく、できるだけ身を低くして、耐え忍び……。


 ……群れは去り、白んできた空の下、警戒解除の声が飛んで、みな緊張を解いた。


「はぁぁぁぁ…………」


 カルナリアも、思いっきり息をついて、座りこんだ。


 確かに危険なことにはならなかったが、緊張し続けて、かなり消耗した。


「大丈夫…………だった……ね。それじゃ………………寝る……」


 トニアは挨拶のようにそれを言うと、カルナリアの反応を待たずして、どこかへ消えてしまった。


 もしかして彼女も認識阻害の布を使っているのではないか、という疑惑を抱いた。




 ――そこへ。




「おらあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 甲高い、響き渡る、子供の声があがった。


「行けぇぇぇぇぇぇ! いけよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 カルリトだ。

 わめき散らしている。

 ものすごく響く声が、三方向の岩壁に反射して……。


 ズン。

 その声に呼応するように、地響きがし始めて、近づいてきた。

 聞きつけられ、戻ってきてしまったようだ。


「黙れ!!」


 すさまじく強いエンフの声が聞こえて、声が途切れた。


 だが、上がった声に引き寄せられたことは間違いない、巨大獣の気配が迫り、足の下が揺れ、野太い鼻息が聞こえ――。


 野営地の出入り口、武装した者たちが固めるラインの、人の背丈よりずっと上に、丸太のようなものが突きこまれてきた。


 それを叩きつけて木をへし折るという、人体よりもよほど太い鼻を備えた獣の頭部、わずかな光にきらりとする瞳があらわれて。

 毛のない、硬そうな外皮をそなえた前脚も、踏みこんでくるかどうかというところまで見えてきて。


「…………」


 全力で声を殺して身をかがめた、人間たちの緊迫感が満ちる中……。


 ブフォッ、とまた低い鼻息を漏らして、極太の鼻が引っこみ、巨体は出入り口から離れていった。


 ズン、ズンと、地響きが、遠ざかってゆく……。






「………………ぷはぁっ」


 カルナリアは、完全に止めていた呼吸を再開しつつ、猛烈に噴き出てきた汗を手の甲でぬぐった。


 すぐ横で、レンカも同じようにしていた。


「あれは、あの皮は、斬れる気がしねえ……」


 自分の無力さを悔しがり、握った手を震わせる。


「無理ですよ…………人には、あんなのは……」


「弱ぇなあ……」


「私は、あなたよりずっと弱いですよ」


 レンカに近づき、カルナリアは身をもたせかけた。

 相手は、フィンとは全然違って、自分程度の重さでよろめき、慌てて踏ん張ったのが伝わってきた。


「なっ、こら、いきなり、ふざけんな!」


 しかし自分の体を受け止めてくれて、それが嬉しくて。


「守ろうとしてくれて、ありがとうございます……」


 自然に、心から、感謝していた。


「ざっ、ざけんな! なに言ってやがる! そもそもなあ、あのひとなら!」


 レンカが憤然と何かを言いかけたが。


「やめてぇぇ! やめてください! 離して! だめ! うちの子に何を! うあああぁぁぁぁぁ!」


 ……パストラの、これもまた魔獣を呼びそうな甲高い悲鳴が響き渡り、口をふさがれたように突然途切れた。


 野営地が不穏にざわめき始めた。






「……あの子供が、昨日から、やたらと興奮していたそうです」


 事情を聞いてきたゴーチェが教えてくれた。


「ミラモンテス様たちが、これからはとにかく身を慎み控える、つまり奴隷も同然の立場になることを受け入れたということで…………あの子供が、こいつらには何をやってもいいと思ったらしく……それまでは偉そうだったやつらがおとなしくなったと、図に乗って……」


 きつい目に遭ってきたから、その鬱憤をぶつけていいとみなした相手に、気持ちを解放してしまったということだろうか。


「地響きで目覚めて、みんな怖がる中で、様子を見てこいよ、お前ら行ってこいよ、お前ら今はどれいなんだろ、さっさと行け、行けよぉとわめいたのが、あの声だったようで……」


「それは…………そんなことをしたら…………!」


 カルナリアの血の気が一気に引く。

 自分たちを危険にさらすどころか、呼びこむような真似をした相手に、案内人たちはどう対応するか……!


 ゴーチェも、色を失っていた。

 きわめて硬い声で言う。


「はい。案内人たちが激怒して、カルリトを縛り上げ、母親のパストラが絶叫しかけたのを夫が止めたのですが、二人もまとめて縛られて…………」


「まさか!?」


「はい。ここの全員が踏みつぶされかねない原因を作ったということで、そうです」


 ハッと顔をあげると。


 エンフが目の前にいた。

 絶対に自分を止める、という意志のこもった顔をしていた。





【後書き】

幸せな目覚めからの、突然の危機、そして分水嶺。カルナリアはどうする。次回、第174話「生命の花」。残酷な表現あり。



【解説】

目覚めたカルナリア、レンカとお互いの装備を確認し合い外の様子をうかがってから出るという、ベテラン冒険者のような真似が自然とできています。最初の頃と比べて何と進歩したことか。


鎚矛犀ダリテウム。地球におけるサイの、角が丸太のように伸びて、やや先の方がふくらんでいる形状をしているものです。トニアの説明通り、それで木をへし折って葉っぱを食べます。天然の間伐者。彼らがほどよく木々を倒してゆくことで森全体の生態系が良く回るという役割もあります。基本的におとなしいのですが、やはりこのグライルには彼らをも襲うとんでもないものが色々といますので、刺激によっては暴れます。そうなると誰にも止められません。


カルリト君……貴族よりとはいえ一般人ゆえにカルナリアたちと絡むことがあまりなく、ずっと大人たちと行動させられ、散々怖い目にも遭って、まだ十歳なのにかわいそうではあります。ちなみに、彼および両親のイメージは「スネ夫」および骨川一家でした。


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