第34話 魔法使いの苦心
『ここか。』
一時間後、彼は高級そうな高層ビル街の一角で目もくらむような高さの建物を見つめて口をぽかんと開けていた。
今日の捜査が終わったからだろうか、あるいは最初からなかったのか、事件が起きたと分かるようなものはどこにもなかった。
明らかに十階以上――見た感じ四十階弱――ある、見るだけでもくらくらするような摩天楼。ガラス張りの塔のような見た目のそれは目が痛くなるようなきらびやかさで周囲を眩く照らしている。
立派な建物だ、小市民の魔法使いにはとても住めないだろう豪邸。グリムと呼ばれていた本名を知らない男の栄華と富の象徴にして――
『ここで死んだんだなぁ……』
――墓石だ。
そう考えると、この立派な建物にも寒々しさが宿った気がした。
でかでかと名前が彫られているわけでもないが――それでも、ここには人が死んだとき特有の寒くて背筋に刺さるような不快な気配が宿り、見ている者の心をざわつかせる。
今日この日――もうじき昨日になるが――に起きたことだというのに何日も前のことのように感じる記憶をなぞった伊織はその不穏な気配に目をひそめた。
彼の中にある魔法使いとしての感覚は研ぎ澄まされ、虚偽を暴く。『黒毛の魔法使い』にはそこが恐怖とそれを追い隠す虚勢で濁って見えた。
だが事件の収拾のためにはそれがどれほど濁った池の水であろうと飛び込む必要がある。
彼が視線を目の前で立ちふさがる門扉に向ける。
それほど機械への造詣の深くない伊織をもってしてみても厳重に守られて見えた。
エントランスに当たるだろう部分には厳めしい警備員とみ芽の麗しいコンシェルジュがありの子すら見逃さぬよう目を皿のようにして睨みまわしている。ここを通り抜けるのに人の体はいささか目立つだろう。
さらにさっきざっと調べた限りではこの建物は、訪問先の住戸に連絡してから来訪者にセキュリティカードを貸し出し、その部屋に来訪するシステムが取られているらしい。
そのカード抜きにはこの建物を歩き回ることはできないらしい。
エレベータもオンラインで管理され、目的の階層以外には行くことが叶わないらしい。徹底している物だとここに移動する傍らスマートフォン片手に唸ったものだ。
なるほど、鉄壁だ――相手が魔法使いでなければ。
深呼吸をした伊織は腰に結び付けた袋から無色透明の液体の入った小瓶――
天王璃珠の尾行用に作ったこれだがなんだかんだ言って一日で事が済んでしまったために余っていた。
鼻をつまんでなお、気の抜けたコーラにセミの抜け殻を浸したような味のする薬品をしかめっ面で飲んだ伊織は自分の体から色が抜けていくのを感じた。
急がねばならない。薬の効き目は十分に続くだろうが自分の体が持たない、先だって襲ってきたグリムにしたたかに打ち据えられてできた打ち身が気の抜けたせいで存在を主張し始めていた。
足早に玄関に向かう、自動ドアが開いた。人ならぬ機械はそれが『何者か?』が分からなくとも『誰かいる』という事実だけで扉を開けてくれる。
開かれた自動ドアに一瞬内部で常勤している警備員だろう人物が反応して――すぐに興味をなくした。薬が効果を示しているのが実感できた。
まるで一流のホテルのように整ったエントランスを足早に抜ける、ここには用がないのだ。
『こういうとこって家賃いくらなんじゃろ……』
セキュリティゲートを〈鎖錠破り/catena ruptor〉で越えながら彼はそんなことを考えていた。
九階の一番端にある901号室、道にせり出した一室がグリムと呼ばれた男の部屋だった。
扉を開けて部屋に入った少年に最初に感じたのは密度の濃い魔法の残り香だった。
『……魔法?』
頭の中で警鐘がなり始めた、自分が想定していない何かが起きている。
そっと腰に巻いた袋から自分のためにあつらえた魔法の杖を引っ張り出し、右手に握った。
矯めつ眇めつ前を睨む、今のところ何かしらの魔法がこちらを襲ってくる気配はなさそうだった。
のたうつように胎動する魔法の力を数秒見つめた伊織は、意を決して事件現場である部屋に足を踏み入れた。
人が二人分、優に通れるだろう妙に広い廊下は右側にクローゼットだろう扉を二つ、左側にも――たぶんTOILETだ、そう書いてある――扉が一つあった。
突き当りにも扉があり、どうやらそこは主寝室らしく、やたらでかい――五人ぐらいで寝るのだろうか?――ベットが鎮座していた。
ゆっくりと歩を進める彼は玄関からつながる廊下を超えて、おそらくリビングに当たるだろう場所に到達した。
死人の部屋には何もなかった。
ドラマで見るようなキープアウトのテープも、動き回る警官もあるいは死体そのものも。
残っているのは主をなくし、住まれることもなくなった哀しみの満ちる部屋だけだ。
『――待て、何で――』
――血の跡すら残っていない?――
頭に冷水を流し個あれるような感覚が魔法使いを襲った。
そもそも、この家はおかしいことだらけだ、なぜか警察の現場保全は去れておら🅂図、その姿すらない。
――まるで突然それができない理由ができたかのようだ。
「――来た!」
その声を拾ったのはその発想に至った瞬間だった。
伊織の中にあった確かな直観がひらめき、とっさにはね上げた魔法の杖の中に入っていた神秘の力が突撃してきた何かにぶつかって誰にも見えない火花と確かな衝撃音を上げた。
「――グッ!?」
その勢いたるや小型の隆盛でもぶつかったかのようだ、伊織はたまらずにたたらを踏み、部屋にあった机に危うく足を取られるところだった。
今日出来立ての打ち身が痛んで生理的反射が起きる、涙で滲んだ視界をぬぐうこともせず膝から崩れ落ちるのを耐えながら胸中で愚痴る――
『――何だ今日は厄日か!?』
――否定してくれる者はここにはいなかった。
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