第18話 魔法使いの宣誓
威圧的な気配が周囲を支配し、その空気が物理的な力を伴って辺りを圧迫していた。
ゴロゴロと、扉の向こうから音が聞こえる、窓から外を見れば月すら見えていたはずの天候はいつのまにやら星の光一つ通さぬほど厚い雲で覆われ、その中に稲光が輝いていた。
そして、伊織を含めたすべての魔法使いには見えている。
彼の怒りに反応して天頂で輝く『最も強大なるザザラバーム』がひときわ強く輝き、其れを起点にした魔法をすでに汲み上げていることを。
彼がほんの一声かければ、天頂にかかった厚い雲が神々がかつてはなっていた頃のような、光よりも風よりも早く、あらゆるものの中で最も固く強靭だったころの稲妻がこの建物にあらゆる障害を乗り越えて落ち、この場所を蹂躙することを。
そしてその唯一の引き金を引けるのが目の前の小さくひ弱な人であることも知っていた。
だから誰も動かない。動いて、彼の意識やあるいは魔法よりも遅ければ何が起こるか想像できるから。
そんな緊張感で人が死にかねない均衡を破ったのは意外にも怒り狂っていたはずの伊織本人だった。
「――やめよう、やっても誰も得なんぞせん。」
深く息を吐いてそう口を開いたかと思えば、握っていた手をほどき、体に満ちた力と折り重なる魔法を解いた。
表で今にも泣き出しそうにしていた空の雲が急激に薄れる。月がうっすらと顔を出し始めた。
「……よろしいのですか?」
「いい、ここにいる連中全員と揉めるのはだるい。それに――」
目頭を揉みながら彼が言った。
「師匠から『善人であり続けるために必要なのは寛容さ』だと習った、そうできるように努めてはいる。」
「申し訳ない。」と言いながら頭を下げた魔法使いに女主人であるニンフは深く息を吐きながら。
「……そうですか、こちらも無礼な物言いでした。」
と、返した。それがやっとだった――とも言える。
「ですが、魔法使い殿。こちらとしても、何一つ理由がわからずに引き下がれないのです、せめて理由の説明程度はしていただきたいのですが……」
そう言って愁いを帯びた顔をするアヴドーラを世の男に見せたら、きっと自分はそいつらに袋たたきにされるのだろうな。と、伊織に思わせるほど、その表情は苦悩に満ちているように見えた――本当はどの程度の悩みかは彼にはわからないが。
「――別にあんたらと事を構えるつもりなんてない。僕はただ、ダンジョンで起きてる殺人もどきを調べてるだけだ。」
「ダン……?ああ、神秘の漏出点ですか。あれの中で人が死ののうが別段何の損失にもならないでしょう?」
首をかしげる。
当然だろう、神秘の側にある彼女に文明の側にいる人の機微は分からない。
「だからと言って無視はできん。それに分かってるだろう?あの中で人が死に続ければ――」
――いつか人でなくなることぐらい。
そう言葉を続けた伊織にアヴドーラは当然だと言いたげに
「――ええ、存じておりますとも魔法使い殿。ですがそれはひどく低い確率でしょう?」
と聞き返した、その顔には何を危惧しているのかわからないと言いたげな色がありありと刻まれている。
「まあ、そうだ。今存在している一番深いダンジョンの底で三万と二十八回死ななきゃならん」
「でしたら考慮に値しないのでは?」
不思議なものを見る目を向ける超自然的存在に伊織は決然とした響きを持たせて否定する。
「いや、する。」
その響きにひるんだのか、再び伊織の機嫌を損ねるのを警戒したのか動きの止まる上座の者達にさらに言葉を続けた。
「人だったことのない君らにはわからんだろうが人は「きみら」になるためならなんだってするぞ。」
周囲を見る。そこにいるのはおぞましきものから美麗なものまでさまざまだが――いずれも人知を超えている者達だ。
「永遠に潰えぬ若さ、岩をも砕く力、あらゆるものを虜にする美貌、不可能すら可能にする魔力!」
まるでショーの司会の様に大げさな動作で腕を振り上げる、少々熱が入っているのを感じていた。
「これが手に入るなら、人間は三万と二十八回死ぬ程度なんともないさ。もっと多くたってやるだろう。」
鼻で笑う。伊織の顔は心の底からそうだと信じている者の顔をしていた。
「だから僕ら魔法使いは誰にもあそこの秘密を漏らせない、あまりにも危険が過ぎる。」
これが彼が自分のこともダンジョンのことも誰にも言わずに一人で動く理由だ。
「もし、もし一人でも「他人の人生を台無しにしよう」と思うものが「あんたたち」になったらどうする?エクスプローラーがどうにかするか?当代において最高のエクスプローラーすら最深部まで行けてないのに?それともほかの連中も変えて対処するか?」
無駄だ、と嗤う。
「あんたたちはダンジョンに呼ばれるモンスター連中よりも強い。それに対処できない連中ではあんたたちの相手にはならない。」
これが彼の結論だった。
「ここまでじゃなかったとしても、おそらく世の中に不満があるものや今の人生そのものに不満がある人間は君らになりたがるだろう、生き方を変えるために。」
一瞬言葉を切る、最後の疑問をほどく言葉を声を出さない女主人に向けて続ける。
「そしてそういった連中は往々にして力に溺れる、人心を惑わし、天地を乱す。そうなったらもう、誰も世の中が壊れるのを止められない。」
そして――と苦々しい顔の魔法使いは続ける。
「善人は善良さをなくし、欲深いものはその欲すらなくして――世界は終わるだろう、生まれついて君らでないものに君らのその力は少々強力すぎる。」
頭を沈ませて深く息を吐く。少々、話過ぎたのを自覚していた。
「僕らは――少なくとも僕は人の魔法使いだ、この世界の正常性を守らなきゃならん。」
毅然と顔を上げる。その視線は貫くように前を見定め、その視線だけでここにいる超自然の者どもを警戒させる鋭さだった。
「だから、あの場所――ダンジョンで何かが起これば僕が対処しなきゃならん、ほかの誰にもできないのだから僕がやる。」
それは決然とした宣誓だった、誰にも知られることがなくともやり遂げる決意に満ちていた――まあ愚痴は口をついて出るが。
「もちろん、あんたがたの生活に差し障るようなことは極力控える、人を襲うだとかその手の『樫の木の下で行われた制約』に反さない限りはね、僕の師匠に誓おう。」
そう言って、アヴドーラに視線を向ける。交わった視線が何を語ったのかは誰にもわからない。
女主人は一言。
「――そうですか、では結構。」
と答えるのみだ、水の精霊だけあって凪いだ海の様に表情が読めない。
「――合意は取れたってことでいいかな?」
「ええ、結構です。お見送りは?」
「いらんよ、僕なんて見たくもなかろう?」
「あら、そうでもありませんわ。」
「よく言うよ。」
笑う、ここで自分が歓迎されていないことなど考えるまでもない。
アヴドーラの発言を鼻で笑ってそう言って歩き去ろとした彼は、しかし、その途中で足を止めて。
「ああ、それと一つ。」
「はい?」
「僕は寛容であるべきだと習ったと言ったし、そう務めているつもりだ、ただ――」
一度萎えてしまった怒りの残火を拾い集めて、周囲に流れる未だ消え損ねている力に放った。
怒りは彼の願う通りに、稲妻を巻き起こし周囲にあった調度品を砕いて見せた。
「――あらゆる行いを許せとは言われてない。一度許してなお、繰り返すものを許せともだ。」
「……しかるようにお伝えします。」
「どうも。」
笑顔で会釈、手を一振りして請われた調度品を復活させて振り返り、もう一度退席しようとして――ふと思い当たったように「――もう一つだけ聞いても?」と、女主人に声をかけた。
「あら、なんでしょう?」
「――あんたが死なない生き物を殺すならどんな理由だ?」
「あら、疑われているのでしょうか?」
「違う違う、あんたを疑ってるのならあんた本人になんて聞かんよ。単純にあんたならどう考えるのかが知りたい。」
正直今日一日色々調べたが、彼にはいまだ持ってこの事件が何を狙いでやっているのかがわからないのだ。
彼自身に分からないなら他の者に聞くしかないが普通の人には聞けないだけにここで聞けるのは渡りに船だった。
「――そうですね――」
ダンジョンへ向かう道すがら――どうも歓迎されない客に送り分の車は出ないらしい――アスファルトを歩く伊織はサロンの女主人のセリフを思い返していた。
「――私ならはく製にでもするでしょうか。」
『剥製……遺体を、利用……』
――いやなひらめきが頭に宿ったのを感じた。
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