第9話あわてても何も手には入らない
梅は、キューポラ光学に着いた。地上20階建ての自社ビルである。それだけでもすごいが、実はキューポラ光学は都市部のこの本社ビルだけではなくて、国内のいたるところに、データセンターや研究所というような大きな施設を持っている。それは地震などの災害リスクに備えてという公的な説明がなされているが、実はもっと別の意図があって分散させているのだと、噂されていた。そしてその意図は正確には外部の人間には知らされていない。
そしてまた、今や、キューポラ光学の工場は世界のいたるところにある。世界的な大企業なのだ。それは、キューポラの神話として、本にもなり、ドキュメンタリー番組にもなって、テレビ放送もされた。そういう流れは、どんどん加速していき、日本国内には、製造工場は、今やない。
一階ロビーのこの広さと、高さといったら、何度来ても圧倒される。実に空間が贅沢に使用されているのだ。いわゆる一般のビジネスオフィスとは、あきらかに一線を画している。
しかも、今時では珍しくなったが、受付カウンターが、そのスぺースの一角に配置されていた。もちろん受付嬢もいる。
梅は、システム開発部の千頭寺課長にお会いしたいと申し入れた。
当然のことだが、アポは取ってあるかと聞かれた。もちろんそんなものは取ってない。アポがないと取り次ぎができないという流れになるのも分かっていた。
だがここに立った人間は、防犯カメラによって、映しだされている顔が、キューポラ光学のデータベースに画像登録がある人物かどうかを瞬時に検索するシステムを使っている。
そしてなにより、ここの受付嬢たちは、梅とは顔見知りでもある。わたしが何者かをちゃんと知っているのだ。
それでもなんら打ち解けることもなく、取り次げないと、規則に沿った対応が続く。
だから、そんなことぁー、わかってんのよ。急ぎの用だから、アポも取らずに飛び込んできたんじゃない。取り次げよ、バカ。
梅が心の中でいくら悪態をついても、状況は何も変わらなかった。
キューポラ光学の千頭寺にアポを申し入れるには、キューポラ側が設定した時間に、指定された番号に電話をかけるしかない。それは直接千頭寺に繋がるわけではなくて、オペレーターを通してのやりとりによって、面会の約束の日時が決められるという仕組みとなっている。それ以外では連絡の取りようもなかった。仕事での緊急のやり取りがしたくても、その原則は破られることはない。ましてや、今回のような、梅が一方的におしかけての、面会の要請は、キューポラ光学としては、何もなかった、との認識となる。
次にその手続きが取れるのは、明日の午前10時からだ。
唯一、連絡が取れる可能性があるとすれば、キューポラ光学のサイトに設置されている、お客様センターの、AIチャットを試してみることくらいだろう。チャット内容をAIが判定し、重要との結論に至れば、折り返し連絡がもらえる可能性はゼロではない。
AIチャットを試してみようか。そう思ったが、一度試みたときのことを思い出す。最初の内は、テンポよく進むが、AIとのやり取りが肝心な部分に達すると、AIが認識できなくなって、他の表現でお聞き直しくださいとのメッセージに変わる。何度表現を変えても、そこから先には進まなかった。そこを突破するには、AIが非常事態と認識するワードが必要だ。だが、そのワードがなんであるのか、今の梅にはわからない。
キューポラ光学のビルを出る。明るい日差しが降り注いでいる。いつもと変わらない街があるだけだ。
少し考えてから、梅は会社に電話を入れた。開出に替わって欲しいと告げると、すぐに開出に取り次がれた。
「キューポラ光学の千頭寺さんとは、お会いできませんでした」
「そうか。何か、いつもと変わった雰囲気はなかったか?」
スマホの向こうの開出が不思議なことを訊く。何が聞きたいのだろうか。いつもと変わらず、門前払いされただけだ。他には何もない。
「いつものようにセキュリティーは万全でした」
「そうか。そうならいい。で、これからどうする?」
これからどうするって、何? 何かやらなければならないことがあったけ? しばらく考えた。
「なんだ、やはり何かあったんじゃないのか。何かあったのなら、説明しろ。いや、すぐにこっちへ帰ってこい」
梅が黙ったままであったからだろう。そう開出が聞き直してきた。
「あっ、すみません。本当に何もありません」
「おいおい。動揺が全身に現れてる状態で、無防備に街を歩くなよ。で、こっちに帰って仕事の続きをするのか? それともサッカー部の方に行くのか?」
ああ、開出が聞きたかったことは、そういうことか。なんだが頭が妄想モードに入っていて、変な感じになっている。
「少し早いですが、サッカーに回ってもいいですか?」
「わかった。気をつけてな」
そう言った、開出の声が、なんだか、ほっとしたときのもののように感じられた。妄想。妄想。ちょっと変だぞ、わたし。
サッカー部のグラウンドに着くと、いつもに増して、にぎやかだった。
「おう、梅。やっときたか」
渡良監督が、いかにもご機嫌な声で迎えてくれた。
「やっとって、いつもより、間違いなく、早いです。わたし、他の仕事も持ってるんですよ」
「わかった。わかった。そんなことは、どうでもいい。ほら見てみろ、すげぇだろ」
そんなこと? そんなことって何よ。どうでもいい、なんて、よくも言ってくださいましたね。このクソオヤジが。まったく人の気もしらないで、のんきな発言してんじゃねぇよ。
梅はグラウンドを改めて見回した。
何、これ? いったいぜんたい、どうしちゃったの?
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